50話 昔と今 前編
ずっと他人を避けていた。
物心が付いたのは四歳の頃だっただろうか。
覚えているのは俺が両親に嫌われていたと言うこと。
一つ上の兄と同じように何かをねだると、決まって苛立った罵倒と暴言が返ってきた。
幼い頃はまだ暴力こそ振るわれなかったが、四歳の子供が人格を否定されるような罵倒と暴言に耐えられる訳もなかった。小さい頃からよく泣いていた。そして、外の世界、知らない人を異常に怖がるような、内気な子供だった。
小学校に入った俺は、口が悪い、どこにでもいるような、男女問わずイタズラする男子だった。
親に否定され続けてきたせいか、俺は誰に対しても警戒心が高かった。
だからだろうか。積極的に人に話しかけに行くタイプじゃなかったから、入学したばかりの時期は友達が一人もいなかったし、先生に当てられる度答えは分かってるのに話すのが苦手で、恥ずかしくて、まともに答えられなかった。
転機が訪れたのはとある昼休み。
グループを作った少年達がグラウンドで遊んでいるのを端っこで眺めていた時、一人の少年が声をかけてきたのだ。
「な、てめーもいっしょにあそぼうぜ」
今にして思えば相手を「てめー」などと言う悪ガキだったが、俺は誘いに乗った。
そこからがキッカケで、少年たちのグループとつるむ様になったんだと思う。
徐々にクラスに馴染んでいった俺は、学年を上がる頃には大分まともに喋れる様になっていた。
「はあ? いやいや」
「ばーか、合ってるって」
「うっせ、くそ」
二年の頃には、学校内ではそこそこ有名な悪ガキになっていた。
クラスの中心にいる様なグループで、女子も男子も分け隔てなく揶揄う様な連中の一味だった。
「んじゃあな」
手を振って彼らと別れる。
平凡な一軒家に入った瞬間、ヘラヘラとした表情が消えた。
怒声が廊下に響き渡る。
五つ上の姉が苛立った様子で自分の部屋へと戻っていくのが玄関から見えた。顔が腫れていて、すぐに叩かれたのだと分かった。彼女はチラッと俺を見たが、特に気に留めることもなくドアを大きな音でバタンとしめる。
俺は無表情のままリビングへと向かうと、ソファーにふんぞり返りテレビを注視している兄が見えた。それから視線をテーブル付近に向けると、息を切らしながら酷く表情に怒気を宿らせた母親が立っていた。
「……ただいま」
か細い声で、そう言う。
言えば喋るなと怒られるが、言わなければ誰のおかげで生きてられるんだともっと怒られる。
パンッ。
だから仕方なくそう言ったのだが、返ってきたのは平手だった。
殴ってきた手がグーじゃくて良かったと、痛みから目尻に涙を滲ませながらぼんやりと思う。
この時の暴力がまだマシな方だったんだと気づくのは、もっと先のことだ。
「話しかけんなって言ってんでしょ!? 本当に酷い記憶力ね。まるで私達の子供じゃないみたい。ったく、揃いも揃ってあんたも、飛鳥も! クソガキ二人が!」
痛みに滲んだ視界のまま、チラッと横目で兄の遼馬を見る。
こちらを見ることもなく、ただただテレビを聞いていた。
……いつもの光景だった。
自分とは違う制服の兄を見る。
公立の学校に通う俺と姉と違い、兄は学費も高い私立に通っている。
悔しかった。
優秀な兄と、いつしか勉強をめんどくさがって、仲間と連んでバカをやっている自分を比較してしまったから。
事実だから。
何よりも否定できなかったから。
だから本当に悔しくて。
「……うるせぇババァ」
口から漏れ出たその言葉に強い後悔と後先を考えず、どう転んでも最悪の展開にしかならない選択肢を選んでしまった自分を、言ってからひたすらに愚かだと思った。
「何ですって!?」
パアァッン!
強い破裂音が耳に劈く。
叩かれ続け、怯え泣きながら必死に逃げた。
強い力でドアを閉めようとする母を拒むように、しっかりと鍵を閉める。
バン、バン、と木製のドアが壊れそうなほど叩かれ、耳を塞いで壁にもたれ掛かる。
恐怖と痛みで、座り込んだ足が震えていた。
息がうまく吸えない。
ドアが軋む。
殺されるのだろうか。
嫌だ、死にたくない。
でも、反撃なんて、できるわけない。
ああ、神様。
もう二度と、悪い子になりません。
だから、生かさせてください。
||
母の怒りが収まるまでに二日かかった。
途中様子を覗き込んだ時、拳から血を流すほど興奮した母を見ていた。
頭がおかしいのは母だろうか、それとも俺だろうか。
幸運な事に部屋から出た時、二回殴られはしたが怒りはもう消えていたようだった。ひたすらにごめんなさいと言っていると、興味を失ったようで離れていった。
母がリビングから消えると、ようやく顔を上げた。
そこでようやく気づく。むすっとした顔で頬に氷袋を当てている姉が同じリビングにいた。
俺は今の今まで、姉に気付かなかったらしい。
「……」
姉が俺を注視していた。
中学生の彼女に似合わぬ鋭くキツイ視線だ。
そういえば、姉の話し声が聞こえていた。
ふとそんな事を思い出し、もしや彼女が母を宥めてくれたのでは無いかと思い至った。
そんな妄想が過って、途端にどうすれば良いのか分からなくなる。
ずっと姉が苦手だった。
多分向こうも俺のことなんて嫌いなんだと思っていた。
兄が嫌いだったから、姉も同じようなものだと思っていた。
多分、姉も長男が嫌いだったから、次男も同じ様なものだと思っていたのかもしれない。
……もし彼女が助けてくれたのだとしたら。
そう考えると、踏み出してみたい気持ちになった。
でも、どう話しかければ良い。
俺は無愛想で、可愛げのないガキだ。
自分をどう変えられる?
俺は……恥ずかしくて、怖くて、人に対する警戒心が強くて。
いつも無愛想だったんだろう?
そんな奴捨ててしまえ。相手のことを信じるって、自分に嘘でもついて。
笑顔の一つくらい、見せろよ馬鹿。
「姉さん」
「……何」
初めて彼女を「姉さん」と呼ぶ。
元々話すことも少ない上、姉さんという呼び方は距離感が近くそうで嫌だった。だからごく稀に彼女を呼ぶ時は『飛鳥』とそう名前で呼んでいた。
表情を動かす。
まるで演技をしている様だった。
心に鏡を出して、自分の表情を調整する。
「ごめんなさい」
悲しそうな、申し訳なさそうな。
そんな顔をする。
「はぁ……」
彼女は一つ、ため息を吐いた。
そこに今まで感じてきたような敵対心や、苛立ちは込められていなかった。
「それと」
「?」
「ありがとう、姉さん」
その時、俺は笑顔で彼女にそういった。
姉さんは驚いたような顔を一瞬だけ見せて、それから消え入りそうな声で静かに目を閉じた。
「……うん」
ああ。
姉さん。
俺と同じで、要らない子で無能な姉さん。
ねえ、姉さん。
助けてよ。
俺の事は嫌いかもしれないけど。
でも今日からはちゃんと姉さんと話してあげられるから。
だから。
………助けてよ。
「颯真」
「何?」
彼女は席を降りて、身長差のある俺を力一杯に抱きしめた。
それを抵抗せずに受け入れる。
彼女がきっとそれを望んでいるから。
彼女に助けてもらえるような人でいないといけないから。
悪ガキで友達とバカをやる自分も好きだったけど、家だけで良いなら自分を隠して「良い子」でいられるから。
だから。
「ねえ颯真、………助けて」
彼女は。
か細くて消えそうな、嗚咽混じりの声で。
彼女が。
助けてといった。
「………うん」
何も考えられず、ただ頷く。
待ってよ、姉さん。
俺が姉さんを助けるんじゃなくてさ。
姉さんが、俺を助けてよ。
ねえ。
姉さん。
姉さん。
誰か。
神様。
誰でも良いから。
誰でも助けてあげるから。
だから。
俺を。
助けて。




