4話 相棒
俺は急いで雪男が倒れた地点に数歩移動する。
そこには死体の代わりに、光の粒子が宙に漂っていて、弱々しい光を放っていた。
俺は首元のネックレスを握り、呪文を唱える。
今から借りるのはスピネル、第一の福音。解放の呪文だ。
彼女の言葉を、一時的に我が物として使わせてもらう。
「ーー貴方と道を共にする」
そう切り出す。反応はない。
福音とは、良い知らせを意味する。
そして知見をこよなく愛するスピネルは、知得を良い知らせとする。
「案外、私も貴方も矮小な存在だ。我々は手を取り合い、願う」
ナナの息を呑む声が聞こえた。
福音を唱えているのに、光の漂う方向は安定しない。
神、曰く。
他者へ理解を示すことは、救いに等しいと。
それが彼女の教説だ。
そして俺は最後の言葉を口にする。
「嗚呼どうか、貴方が私の脳裏を見透かして、と」
俺は。
雪男、君を理解りたい。
その瞬間、闇に飲まれるように光は消えた。
そしてドサッ、と何か石ころ程度の大きさのものが雪の上に落ちる音が聞こえた。
「ーー失敗ですね」
無情にもそう告げるリリィに、俺は頷くしかない。
倒した時に雪男を浄化しきれば使徒として呼び出せる聖遺書に変わる。だが、期待とは裏腹に、地面に落ちていたのは魔石であった。
あの雪男の魂は異空から解放出来なかった、という事だろう。
その証拠に俺の首元に掛けられた紅水晶は発光せず、とても静かだった。
まあ……仕方がない。
「マジかぁ、命の危険を感じたんだけどな」
「ほんとそうだよ! 痛かったもん!」
「……はいはい、ナナもスゲー活躍してたよ」
「だよね! もっと褒めてくれても良いんだよ?」
そうドヤるナナは我儘なお姫様のようで、天真爛漫な笑顔だった。
収穫がないのは残念だが、その疲れが吹き飛んだ気がした。
「新しい仲間はお預けだね」
「こんな私たちの仲間になっても苦労するでしょうけどね」
「それは間違いないな」
多分困惑するだろう。
これほど自由気ままな使徒達などそうそうお目に掛からないだろうし。
「そういえばさ、マスターって私の態度直さなくてよかったの?」
「何で?」
「だって他のマスターは、私がこんな態度を取っちゃった時点で止めるし」
「んー。まあ俺が変人だったってことで」
「自覚あったんですね」
ちょっと皮肉気味に言った俺に、リリィも乗っかってくる。
そこをナナが慌ててフォローした。
「んー、でもマスターは良いマスターだよ! 前のマスターの記憶は無いけど、私の知識ではこのゾンビっていう使徒は誰にも認めてもらえなかった。だからさ! 結構嬉しかったんだよ?」
「……良いマスター、ね。やっぱり、俺は全然そんな風には思えないんだけどな……」
褒められ、俺は思わず最初に否定の言葉がくる。
やっぱり褒められるのに慣れていないせいだろう。
「はあ……もうまたマスターはそうやって卑屈に……」
そう呆れたような声色のナナが聞こえる。
いつの間にか目を逸らしていたらしい。彼女に視線を戻した。
ナナはやはり可愛らしい容姿をしていた。吸い込まれそうな魅力を持つ彼女に、心が何処までも引き込まれそうになる。
「ちょちょっ……あんまりジロジロ見られると照れくさいよ、マスター。もしかしてわたしに見惚れちゃってた?」
「……え、……」
「あはは! ごめん、冗談だよ!」
ぼーっとしていたらしい。羞恥に、頬が軽く熱を帯びる。
掴みどころのない感情が胸の中で渦を巻く。
どう反応して良いか分からず、あちこちに視線を逸らして挙動不審になっていると、不意にナナが言った。
「……マスターの目って綺麗だよね」
突然そう言って、ナナは俺に向かって両腕を伸ばして優しく頬に触れる。
俺の琥珀の瞳を覗き込むように、顔を近づける彼女に心臓が飛び出そうになった。
「!」
左腕に関しては肘近くから先がない。それ故、垂れ下がった白衣の裾だけが伸ばされた。けれど右手はしっかりと俺の左頬を優しく捉えて。
好意的な感情が冷たい手の感触を通して伝わる。
俺に近寄る彼女の可憐な顔に心音が煩くなる。使徒でしかない筈の彼女が、途端に人間の異性のように見えてくる。
「……照れてくれるんだ。触られるの、嫌じゃないの?」
「え、あ、別に……嫌じゃ……」
言葉に詰まる。
訳が分からないが、ただどうしてか心が張り裂けそうなほど痛む。
やっぱり彼女は異常だ。
まるで何か不思議な力が彼女を中心に渦巻いているかの如く、俺は彼女に魅力を感じてしまう。
「ね、マスターの身体には体温があるんだよね?」
「……あ」
状況を飲み込めないまま、ナナは俺の背中に空洞の左腕を回す。
抱きしめる為か、俺に近づいたナナの顔が目に写る。慈愛に満ちたその顔に邪気はない。笑顔でほんのり照れくさそうに頬を赤く染めた、とても人間的な顔だった。
「良いなぁ……」
彼女が呟きながら、俺に触れていたその右手が、ゆっくりと頬を撫でる。
その冷たくも柔らかい感触が、心臓にまで届きそうなくらい突き刺さった。
とくっ、と血が流れる音が聞こえて。
その甘さに溺れたら、戻れない気がした。
ーー使徒と交わることは禁忌である
それは禁忌への恐怖か。
はたまたは、彼女に触れてしまっている汚れた自分への嫌悪か。
俺の心の中を、何か黒い感情が渦のようにぐるぐると暴れ回る。
「ッーー!」
「あっ」
気づけば俺は彼女の肩を突き飛ばして、数歩後退していた。
それから冷静になって自分の行動に後悔を覚えた。いつも嘘ばかりついて自分を偽るせいで、俺はいつだって本心を遠ざける。この距離のように。
「ご、ごめ……!」
自分で思ったより強い力で押してしまったのを自覚するが、使徒である彼女はびくともせず、不思議そうな顔で立ったままだ。
「……マスターって可愛いよねー」
リリィへと目を逸らすと、彼女は俺の歪んだ表情に呆気に取られていたが、ナナは気にした様子もなく再び歩み寄って、俺の頭を抱きしめた。
「え、かわっ……?」
可愛い、だなんて初めて言われる言葉に頬が熱を帯びる。
変だとは分かりながらも、身体が制御出来ない。
両親にすら言って貰えなかった言葉が、どうしてか酷く胸を打った。
可愛がられたかっただけの、哀れな自分がこっそり乞うた言葉。
母と父の顔が浮かび、トラウマから動機が激しくなりかけて……。
直後彼女に引っ張られ、俺の頭は彼女の胸元へくっつく。
「逃げないで」
そう小さく呟いたナナに、俺は抵抗をやめた。
両親の顔はもう見えない。脈も落ち着きを取り戻す。
「本当さ、マスターって不思議だよね。他のマスターなら、自分が嫌だからって顔じゃなくて、私が嫌だって顔をするよ?」
「……」
その問いに俺は言葉を返せない。
「マスターは、本当に特別だと思うよ」
彼女の胸に額をくっつけながら、俺は頭を撫でられるのをただ、無抵抗に受け入れる。
「俺は普通の人だよ。普通に学校に行って、友達がいて、なのに孤立感が癒えなくて。授業を受けて、帰って、食べて、寝て。なんにも、特別じゃない」
「そんなことないと思うけどなぁ……。こんなに使徒に優しくして、認めてくれてさ」
俺は。単に、冷たくして嫌われるのが怖いから。息を吐くように人を適当に褒めて、お世辞ばかりが染み付いただけだ。
でも、彼女達に対しては。
やけに良いところばかり見つかるせいで。お世辞じゃなくて、本心に近いことを話している気がする。
「わたし恩は返す主義なんだ。だから……マスターにもっと自信を持って欲しいな」
最初は凄く怖くて仕方がなかったのに。
俺が硬く目を閉じていると、彼女は俺の頭を撫で始めた。
体温は酷く冷たい筈なのに、暖かい。
ーー初めてだ。
苦しい事がある度、俺は誰かの胸の中で泣きたいと思っていた。でもそんな恋人も親もいなくてずっと、遠い夢だった。
俺はなぜ生きているのだろう。
そのことに悩み、懊悩しない日はなかった。
「マスターは良いマスターです! 私の言ってること、正しい?」
ーー受け入れて良いのだろうか。
毎日、涙を我慢してきた。
親にお前なんていらないと言われた日も、姉さんに使役師を諦めて欲しいと言われた日も泣いた記憶がない。
きっとその時が来たら、俺は貯めていた涙を全部吐き出してスッキリして幸せになれるのだと思っていた。
目尻を指先で確認するように触った。
酷く乾いていた。涙は一滴も出ていない。
「……うん」
「ちゃんと認められたね、偉い偉い」
胸に縋るように、俺はナナの腰に手を回して人肌を感じようとした。
初めて鮮明に感じる人肌は柔らかくてーー酷く冷たかった。
彼女の胸に耳を近づけても。
……心音は聞こえない。
「悪い……俺こそ、ありがとう」
「え?」
「……俺も、俺の使徒が、二人で良かったよ」
彼女に感謝を告げた。
少しだけ。ほんの少しだけ、自分が生きる理由を見つけられたような気がする。
全部を解き明かしたいとは思わない。
スピネル様も、きっと悩み続けろというだろう。
それなら俺は自分ができる限りのことをしたい。
「うん」
表情は見えない筈なのに、優しいその声色からナナは微笑んでいるような気がした。
そこで俺は彼女に抱きしめられたまま、改めて自分の状況を客観視する。
小さくも肉付きの良い胸部の、柔らかな感触が感じられた。
今更ながら実感して頬が赤みを帯びる。
「ところで、その、そろそろ離してくれないか?」
「……? 何で?」
「いや、何でも良いから……」
相手はただの使徒である筈なのに、この状況が落ち着かず俺は無理やり離れた。ナナは不審に思ったのか、俺の顔を覗き込む。
俺は赤く染まった自分の頬を見られたくなくて、片手で不器用に顔を隠そうとする。
それでも尚、彼女が近づいてくるので俺はじわじわと後退していた。
そんな俺たちを、リリィは茶番でも見ていたかのような呆れ顔だった。
「で、話は終わりましたか?」
「はい……」
彼女の疑問に俺は曖昧に誤魔化すことしかできない。
「話を戻しますが……マスター、これからどうするんですか? 五等級異空の異空主となれば、恐らく六等級の穢者ですよ?」
そうなのだ。
昇格異空のせいで、俺の脳裏には撤退の二文字がチラついている。
それも確かに選択肢のうちの一つだろう。と言うより、普通であれば、昇格異空を引き当てた時点で大抵の人間は撤退の判断を選ぶ。
だが。
「こんな所で止まるわけにも行かないしな……」
俺の心は続行に傾いていた。
出現する穢者のレベルは上がっている。
だが、無理ではない。それはさっきの闘いぶりを見て分かった。
エリアが吹雪とかの不可能状態ならともかく、一等級上がる程度なら少々無理を出来る筈だ。
「悪いけど、ついて来てくれるか?」
「わたしは良いよ。でも、あんまり役に立てなかったらごめんね」
「……なら早いうちに、ナナを昇華させて腕を直すよ」
「うん、約束!」
俺の宣言に、不安を述べたナナに素早く答える。
次いで、リリィにも視線を向ける。
「……本当にやるんですか? 死んじゃえば意味はないでしょう?」
「大丈夫さ、俺は誰よりもリリィを信頼してる。死ぬつもりはない」
「わたしも信頼してるよ!」
俺たちの発言に、彼女はやはり呆れた顔で言葉を返す。
「……信頼ですか。私に信頼を置くなんて、全く本当に……随分と変わった人です」
「それでも信頼してる」
「……はいはい」
照れながら頷くリリィに、俺は少し頬を緩める。
「よし、目的は決まったな。一先ず、俺たちの目標はこの初の異空探索を無事終えることだ。みんな、大丈夫か?」
「うん、了解!」
ナナが元気良く返事をする。そして俺たちの視線はリリィに向かい、彼女の言葉を待った。
自分に視線が集まったのを感じたのか、彼女は落ち着いた声で再び口を開く。
「……引き返すのも選択肢だと思いますが。マスターは何か無茶をする理由でもあるんですか?」
「理由……か。そうだな………なんていうか、憧れなんだよ」
きっかけは多分あの日。俺が小鳥遊 優彩という使役師に憧れた日。
当時の『最強』だった彼女に。渦巻く熱を心が覚えた。
命知らずな行動だと分かっている。
死にたいわけじゃ無い。
ただ、何もしないで死ぬより………俺は何者かになろうとして死にたい。
だから、憧れたんだ。
何者かを追い求めて、何万人もの人から愛される……。
「ーー最強の使役師が」
俺は彼女を見る。
彼女はジッと俺の話を聞いていただけだった。
続けるように、告げる。
「リリィ、ナナ。約束するよ。夢が叶ったら、二人の願いも必ず叶えてみせる。だからついて来てくれないか?」
月並みで、俺が考えた末に出せた一番の条件だった。
俺の我儘を、きっと彼女は許してくれると思いながら。
口先だけの対価を約束した。
そして彼女はゆっくりと口を開く。
「そうですか。……まあ構いません。願いと言われても、分からないので保留でお願いします」
リリィはそれだけ言うと、にこやかに微笑んだ。
「わたしは……」
そこへ、ナナの声が割り込む。
前方にいる彼女の顔は、体が前を向いているせいか見えない。
彼女はこちらを振り返る事なく、続けて言う。
「わたしは、あるよ。お願い……」
そして突然、彼女は振り返り、誰に視線を向けるでもなく言った。
「わたし、死にたくないんだ。例え生き返れるとしても」
そう言い放つ死者の顔は、隠しきれない感情を、薄く、露わにしていた。
恐怖、不安、切なさ。
言葉を放つ彼女は、そのどれもが混じった表情を顔に宿している。
会話の意図を理解できないまま、彼女の話が一言一言耳に入り込む。
……彼女は記憶を持たない。
使徒が死んだ時、その使徒は異空へと吸い込まれる。そして、新たに異空のどこかで穢者に戻り、新たな人間に倒され、次のマスターとするまで待ち続けるのだ。
肉体と性格は同じだが、自身を形作る記憶は消える。
穢者の死は、人間の死とは異なる。故に、人は使徒を使い捨てに殺す事も厭わない。
だが。
使徒だって、死にたくないと、自分を失いたくないと、思う事だってある。
もしかしたら、彼女も……。
俺は固唾を飲み込んで、問いかける。
「ナナーー君の願いを教えてくれ」
明日も十八時と十九時に二本投稿します。
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