38話 先輩風
柔らかな唇から伝わる感触と、確かな熱。それは確かに俺がこの十五年間の人生の中で初めて感じる感覚だった。
呪縛していた欲望からの解放感と、腕の中の自分だけの愛おしい存在。初めて身近に感じる誰かの優しい愛情。
湿った唇の後に残された、暖かな温もり。
目の前の彼女は、確かに自分の幸福と俺の幸福の両方に包まれて、嬉しそうなのに。
何故か俺だけが視界に映る景色に、ピントが合わなくて。
俺だけが、とても独りよがりに。誰とも分かち合えない、自分だけの幸福感の中にいた。
でも、きっと。他人を介して自分だけに叶えてあげた幸せが、この人生で一番大切な瞬間だったんだ。
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シャネル・メイソン
彼女はセール国の首都、フェン州で生まれた女の子だった。
「はぁ」
ため息を吐いた彼女は、自分が乗っている船から外の景色を見ていた。
しかし窓の外には海が広がるばかりで、彼女は窓にもたれかかって、不安と緊張を隠すように顔を手で覆った。
暗闇に意識が沈み、彼女は自身の半生を振り返る。
彼女の母親はナーヴィ人だった。が、二〇〇七年の内部紛争により新ナーヴィ王国に組み込まれた際に西ナーヴィに帰省中取り残された彼女の母とは離れ離れとなった為、彼女が2歳の頃から親と呼べる人は父親だけだった。
セール国の正式名称である、グレート・セールおよび西ナーヴィ連合王国が使われなくなったのもこの頃だ。
生まれたフェン州から移住し、トーイという都市で育った彼女は、すくすくと育った。そして多くの若者と同じように、彼女は軍人としての教育を受けた。
セール国は世界に異空が現れて以降、戦争が活発になった影響に巻き込まれ内紛や、外部との戦争が多くなっていた。
……むしろ、今の時代に情勢が安定しているのは日本くらいで、各国で戦争が起きているの中でも続いているネット上での日本人のSNSを見れば、平和ボケしていると呆れ返るだろう。
しかし、他国は他国。
遥か遠い国であり、言語も違う日本の事など気にする余裕もなく、多くの国民は自国のことで手一杯だった。
「困ったなぁ……」
シャネル・メイソンは軍人として育てられた。
純血派が増えたセール軍の中では、ナーヴィ人である母親の血が流れる彼女は、出世が難しい存在だった。それでも今の不安定な平和を守る為に、軍人になるという崇高な志を持っていた。
……けれど、今、彼女は日本へと荷物を運ぶ貨物船の中に、他の亡命者と一緒にいる。
「大変よね、馬鹿みたい……なんで日本なのかしら」
同じ部屋で寝る中であり、同じくナーヴィ人の血が流れるエマがそうぼやいた。彼女はシャネルと同じで士官学校の出身者だったが、今日初めて顔を合わせた仲だ。
亡命先は日本の東京なので、大阪に住所を作ってもらったシャネルとは今後会うことはないだろう。
……きっかけは、ナーヴィが他国と手を組み独立の動きを見せたことだった。
当然、最初は誰もがフェイクニュースだと思っていた。
セール国の内部には、かなり複雑な事情が絡み合っており、また純血派が増えて来たとはいえ、そんな突飛な話は信じがたかった。
内部紛争以来の出来事であり、実に十二年ぶりに戦争が再び起きたということで、シャネルの父親は彼女を亡命させることにした。
「昔は考えもしなかったのかな、こんな事」
「……おじいちゃんが言ってたわ。昔は凄く平和だったらしいって」
きっと、誰も考えなかったのだろう。
こんなに、世界情勢に変化が起きるなんて。
世界が、戦争に包まれるなんて。
勿論、彼女が亡命することになった理由はたくさんあった。
その一つとして軍人であり、そこそこの立場である彼女の父親がナーヴとの和解に動いて失敗し、暗殺される危険性が出てきたことが、主な理由だった。
……十四歳の少女には、何もかもが急だっただろう。
しかし、事態は進む。
時は彼女を待ってくれはしない。
シャネルは抗えないまま、平和であり、また繋がりもあった日本の元で保護を受けることになった。
目立たない為、と彼女の父親が用意してくれた容姿を変える魔道具や、日本語を理解できるようになる魔道具は、決して安いものじゃない。
彼女の父が、彼女を守るために必死だったのは、誰の目から見ても明らかだった。
「いつか……祖国に、帰れるのかな?」
「さあ……無理なんじゃないかしら」
シャネルの問いかけに、エマは淡々と答えた。
「じゃあ、誰が日本の情報を持ち帰るの……?」
「シャネル。私たちはスパイに行くんじゃないの。日本で暮らすことになるのよ……。日本は同盟国だし、きっと安全よ」
「セールには……私たちの国には帰れないって言いたいの!?」
シャネルの嘆くような悲痛な叫びに、彼女よりも二つ年上で十六歳のエマは落ち着いた声で、しかし確かな怒りと悲しみを声に孕んで言い返した。
「そうよ」
静かで、それでいてハッキリとしたエマの声に沈黙が流れる。
やがて、全ての感情を飲み込んだような声で、シャネルは言った。
「知らなかった。私たちって、無力なんだ……」
「……ええ、そうね」
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「美香……」
「ね、颯真。どうするの? もう結構噂になってるっぽいけど」
人目のない場所で落ち合った俺と美香は、こそこそと身を寄せ合って内緒話をしていた。
話題は俺たちの交際が周りにバレ始めている件についてであった。
誰にも話した覚えはないのだが……。
まあ二人で帰ったりしてるし、完全に隠し通すのは無理だとは最初から薄々感じ取っていた。
「公言したらそれはそれで結構揶揄われそうな気がするしなぁ……」
「私は颯真が隠したいなら、それでも良いけどね。でも、もう中学三年生なんだし別にオープンにしても揶揄われないと思うよ?」
「うーん……まあそうなんだろうけど、小学生の頃は酷い目にあったからなぁ」
「……ふーん。加奈との噂の話? まあ、みんな実際は信じてなかったと思うけどね」
尚、この距離感が周りが見た時に、付き合ってるんじゃないかと疑われる原因なのだが、当人たちは気づいていない。
「一応、今のまま何も言わないっていう方針でいいかな? 」
「いずれにせよ、バレると思うけど……」
俺の提案に彼女が言葉を返す。
彼女のいう通り、正直かなりバレつつはあるし、そうなると徐々に隠すメリットよりも公表していないデメリットの方が目立つようになってきた。
「どうするの?」
「……一旦保留かなぁ」
しかし話し合いを重ねても結局結論は出ず、俺たちは保留という形を取る事にした。
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「んあ?」
「……げっ」
俺は美香と別れた後、廊下を歩いていると武藤に会った。
人気のない廊下のせいか、俺と武藤しかおらず、自然と互いの視線がぶつかった。
俺が、げっ、と思わず呟いてしまったのを拾ったのか、武藤が渋面をしている。
どう切り抜けるべきだろう、と考えていると、突然武藤に話しかけられた。
「待てよ、相沢」
「……ああ」
武藤の問いかけに俺は相槌を返す。
最近になって名前を覚えられてしまった。
俺は目を逸らしてから、踵を返して去ろうとする。
「んじゃ」
「……なあそろそろ選抜式だよな」
その質問に、俺は思わずポカンとする。
武藤のことはハッキリいうと気に食わないが、それはそれとして学校内で一番の使役師という地位を確立している存在である。
つまりは、俺の目標でもあった。
が、向こうからすれば俺は気に留めないような有象無象でしかないはずだ。
「はぁ?」
「だから、そろそろだって言ってんだよ。使役師の県別予選選抜式がよぉ」
「……どういう意味だ? 俺には関係ない」
俺が慎重に聞き返すと、武藤はすぐに答えた。
「テメェ、使役師やってんだろ」
その言葉にぐるぐると疑問が廻る。
なぜ知っているのか、どう言う意図なのか。それを掴みかねながらも、確信を持った武藤の顔に否定する気が出ない。
俺はとりあえず事実を肯定するように答える。
「……ああ、そうだが」
「もっと隠した方がいいぜ? 特にあの首飾りはな」
俺は言葉を返さない。
いつの間にか聖具を見られていたらしく、使役師である事を知られたようだ。
「オレは来年、大阪対異空高校に進学するぞ。テメェはどうするんだ?」
武藤は、試すような言葉を投げかける。
普通の人はそんな事なんて考えてないし、こんな質問を投げられた時の答えなんて用意されてない。
「俺は京都対異空高校に入るよ」
けれど俺はハッキリとそう告げた。
京都対異空高校は、一般的に大阪対異空高校よりもレベルが高いと言われている。日本で一番エリートな道を辿るなら、京都対異空高校に進学することになるだろう。
そして同時に、これは大阪対異空高校に行くと発言している武藤に対する宣言でもあった。
「入れると思ってんのかァ?」
「目指すだけならタダだろ」
その問いかけを真正面から短く肯定する。
「……テメェ、オレと同じ顔してるなァ」
俺の言葉に満足したように、彼は不適な笑みを浮かべた。
「……」
「あぶれ者の顔だ。ハッ、気に入った。せっかくならオレの下につけ。丁度俺の考えを伝授する奴が欲しかったトコだ」
武藤がその端正な顔立ちを武器に、右手を差し出して手を取れと言わんばかりに、俺に勧誘の言葉を投げかけて来た。
「……そんな気はない」
けれどごめんだ、と言わんばかりに俺ははっきりと拒絶を示した。
やはり自分の中で、武藤に対しては尊敬よりも嫌悪の感情が勝る。
「はっ。そうかァ、しゃあねェな。テメェ、選抜式に出るんだろ? 見る限り、経済的には推薦枠が欲しいだろうしな。本戦まで行かないと京都の一流高校には推薦されねェ。楽しみにしてるぜ」
「……武藤は出ないのか?」
「オレはアカデミー生だからな。出るメリットがねェんだ」
「そうか」
短く返答した後、俺は用は終わったと話を切り上げようとするが、武藤に続けられた。
「なあ、オマエの世界の主人公は誰だァ?」
恐らく、彼が求めている答えが分かった。
だからこ、俺は堂々と答える。
「……俺だ」
「ハッ、そうかよ」
そう言うと、武藤はその顔立ちに似合った笑みを浮かべたまま、くるりと背を向けて去っていった。
「んじゃあな、楽しみにしてるぜェ」
そう言った彼に、俺はどう返せばいいのか分からなかった。




