3話 始動
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第一章、開幕します
体長は三メートルほどだろうか。けむくじゃらの大男は、雪を踏み付けるたびに鳴るその足音の大きさから相当な重量である事が推察出来た。
そして何より。『穢者』と『使徒』を分ける証、穢者特有の朱色の鎖が首に巻きついており、その事実に身体が硬くなる。
生で見る穢者。
四十年前、人類を破滅にまで追い込んだ化け物。
ーーまずい
四等級異空という事で、緑鬼程度の同程度の相手を想定していた。
だが、雪男は五等級に分類される穢者だ。想定外の一言で済めばいいが、最悪は戦力差で返り討ちに合う事だろう。
「想定より敵が強いな……」
……逃げるべきか?
異空では偶に運悪く難易度が上がった異空に放り込まれる事がある。異常の一種で、昇格異空と言うやつだ。非常に低確率なのだが、遭遇した場合は非常に運が悪い。
「マスター、下がって!」
ナナの背後に隠され、俺は頬に汗を一筋垂らした。
こういう場合、使役師証明書を取得する時に聞いた講義でも、戦わずして逃げるべきだと言っていた。
だが……。もう近づきすぎている。
「撤退しますか?!」
リリィの言葉が聞こえ、俺は素早く状況を見渡しながら思考する。
「……いや、そんな余裕はない」
「な、なら、戦いますか?!」
隣にいるリリィが俺に判断を仰ぐ。
最早撤退を考えるような距離ではないだろう。逃げている間に背中をやられたら死ぬ。
等級自体は一つ上がってはいるものの、勝てない敵では無いことに間違いない。
一か八かの勝負だ。
それほど高くない壁を、しかし安全綱無しで登るような、そんな感覚。
相手を見る。
三メートルほどの巨体。
けむくじゃらの肌。
ゴツゴツとして筋骨悠々とも言える張り裂けそうな体格。
俺のような細身がまともに殴り合えば吹き飛ばされるだろう。
一歩間違えれば死んでしまう。
そんな緊張と恐怖の狭間に揺れながら、俺はそれでも口を開いた。
「悩んでる時間はない……! 戦うぞ! リリィ、お前にかかってる!」
「っ、はい、勿論です!!」
力強い返事は、虚栄かどうかの判別が付かない。
手にしたナイフが微かに震えて安定しないのは、恐怖か武者震いか。
でも妙な頼もしさがあって、武器を構える彼女は実に様になっていた。
安物の剣を特に型なども分からず、一応の護身のために構えているような俺とは違うのだと分かる。
その姿に、心が楽になった。
俺は首元にかけられた紅色の水晶を下げた金色の鉄鎖を強く握りしめながら、不安を掻き消す。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。
そう自分に念じながら、頭を回す。
ーー落ち着け。賢くあれ。
使役師として大事なこと。一瞬の閃きを絶対に見逃してはならない。こいつを倒すアイデアを空っぽまで絞り出せ。
息を吐き、考え続ける。
幸い、相手は拳で戦うタイプの雪男。
一撃くらいなら喰らっても死にはしないだろうから、序盤で相手の体力を削るまでは俺も戦いに参加すべきだろう。
初の実戦で足を引っ張るのは間違いなく俺のほうだ。
それでも指揮棒を握る。
だって俺は使役師だ。
例えこれが初めての戦いで。
命のやり取りでも。
それでも、援護をしない訳には行かない。
回復薬も持ってるんだ。
大丈夫。
気を引き締め、俺は口を開いて精一杯の声で己と相棒を鼓舞しながら言い放つ。
「ーー行くぞ!!」
「はいっ!!」
『感電』ッーー!!
先手必勝。
事前に伝えた作戦通り、遠距離からリリィの魔法が打ち込まれる。
ーー愚ォア!?
電撃に膝を突く雪男。感電により相当な痛みが襲ったのだろう。無理に立て直そうとして、逆に体勢を崩していた。
「リリィ、行けッ!」
今の隙に、と俺はリリィに伝えるが、彼女は足が竦んでいるのか顔を真っ青にしていて動けない。
「ッ、す、すみま……」
命令を使っても、きっとまともに動けはしないだろう。
これも彼女に感情を出させてしまったせいだ。
なら、せめてその尻拭いは俺が……!
「良いから! 付いてこい、リリィーー!」
俺は先行するように、すぐさま走り出して体重を乗せた剣を両手で振るう。
ブスッと、その皮をすり抜け真っ二つに切ろうかと思われた剣だったが、骨に阻まれる。
……硬いッ!!
無理だ、そう判断したと同時に俺は剣を引っこ抜いた。
距離を取って離れた後に振り返って様子を見た雪男は痛がってはいたが、俺の中には悔しさがあった。
「マスター、いけてるよ!!」
離れたところからナナの声が聞こえるが、自分では今の攻撃が浅かったと分かる。
ダメだった。
それでも目の前の戦闘へ思考を沈め、集中を深める。
ーーgぁ阿
ボーッとする暇など一切なく、俺は迫る来る雪男の腕を構え直した剣で迎え撃った。
「ぐっ、重っ!」
「ッ、す、すみません……! すぐ助けに入ります、マスター!」
「ーーいや、踏ん張れる! リリィ、お前は攻撃に回れ!」
「は、はい!」
接触と共に大きな衝撃が剣に伝わっている。
雪が足場のせいか、踏ん張りが弱い。
それでも俺は、後退しながら受け流すように切りつける。
馬鹿げた重さだ。
膝をついた状態で腕を振り下ろしたと言うことは、恐らく肩だけの力であの馬鹿力を出したのだろうか。
剣を使いながら押し返そうとしているが、完全に力負けしている。
このままではまずい。
そう思いながらもどんどん、体勢が崩されていくのを感じる。
「マスター!!」
リリィの声が聞こえた。
同時に赤い血飛沫が舞い、リリィのナイフで腕をざっくりと切り付けられた雪男の、悶絶の声が響き渡る。
雪男は剣と競り合っていた拳を離して、その隙に俺は後ろへと下がる。
「助かった!」
「いえ、気を抜かな──」
彼女が気を抜くな、と言いかけた瞬間、すぐに雪男が下がった俺に距離を詰め、痛めている右腕とは反対の左腕で俺へと殴りかかってきた。
リリィがすぐに迫る左腕を斬りつけて、雪男の正面に立つ。
「守ります!!」
使徒は、マスターを最優先に守る事が普通だ。
それでも、今彼女が俺を庇うため雪男と正面で斬り合うのは悪手だった。
まず俺を庇う為に重い一撃を受けると、体勢を崩した隙に腕に一発打ち込まれる。
それを耐え、反撃に出る為、両拳にナイフで立ち向かうリリィは素早い攻撃を繰り出す。しかし一撃一撃が重い雪男に完全に押されていた。
そもそも雪男は五等級。
四等級の……ましてや耐久性とパワーが低い悪魔ではどう足掻いても正面から勝てる相手じゃない。
「ぐっ」
雪男が足でリリィを蹴ると、かなり後退していた俺やナナの元まで吹っ飛ばされる。
「リリィ!」
素早く吹き飛ばされたリリィを受け止めたナナは、彼女が無事そうなのをみて、雪男を睨んだ。
雪男が俺へと距離を詰める。呆気なく間合いに入られ、俺は防御が間に合わないのを悟った。
「しまっ」
「マスター、伏せて!」
その間に立ち塞がったナナを見て、俺は焦りながら叫んだ。
「待て、危ない!」
片腕が使えない彼女を、戦闘に参加させないというのは最初に決めたことだ。
「大丈夫、マスターはわたしが守るから……!」
焦る俺をよそに、ナナは素早く動いて雪男の懐に潜り込み、蹴りを浴びせた。
片腕しかないと舐めていた雪男の巨体がよろめく。が、所詮ゾンビ程度のキックで倒れる事はなく、雪男はナナに拳を打ち込んだ。
ナナは右腕のみで受け止めるが、あっけなく吹き飛ばされて、雪の上を転がる。
「ぐぇえ」
「ナナ!?」
「だ、大丈夫ぅ゛……痛ぁ」
駆け寄る俺は、情けない声を出しながら雪の中に顔を沈めたナナを心配する。が、彼女はすぐに立ち上がって、近寄る俺を片手で制した。そして再び俺の前に立って拳を構える。
「マスター、わたしだって役に立つんだから!」
ジリジリと距離感を測りながら睨み合うナナと雪男。
「……っ。任せた!」
そんな二人にハッとし、俺はナナが時間を稼いで対峙している合間に、リリィの安否を確認する為動き出す。
リリィの方へと急ぐと、雪男はマスターである俺にターゲットを変えようとするが、寸前のところでナナが気を引きながら時間を稼ぐ。
「リリィ! おい、大丈夫か!?」
「……だ、大丈夫です!すみません……」
後ろに飛ぶ事で威力を殺していた筈なので、吹き飛ばされた見た目のインパクトほど大きなダメージは負っていないだろう。
現に、リリィは膝を付きながらも何とか立ち上がった。
だが無視できない程度の傷が蓄積されている筈だ。
リリィは賢い。なのに自分で動こうとするのを躊躇っている。
……俺だけ、守られてばかりだ。
なら。
今、踏み出さなくてどうする……!!
覚悟を決め、俺は深く息を吸い込んだ。
「ッーー聞け、リリィ! 俺の命令なんて待つな! 俺は囮になるくらい、いくらでもやってやる! お前が一人で勝てないのなら、いつだって側にいて助けるって約束する!」
ありったけの言葉で叫ぶと、リリィは思わず俺の方をみた。
「何をーー」
彼女の呟きをかき消すように叫ぶ。
「自由に動け! お前なら、絶対に出来る!! その翼で、飛んで見せろッーー!! 」
その時、心が通じ合った気がした。
彼女は不安を宿した表情でこちらを見る。
「っ、良いんですかーー?」
「ああ!!」
怒鳴り返すように、俺は指示を下した。
普通、マスターが使徒を好きに動かせることはない。
何故なら使徒は自分で動くのが苦手だから。
でも彼女なら大丈夫だと思った。彼女が、自分で動きたがっている様に感じた。
「……任せましたよ、マスター!」
「ああ。任せろ」
そう言うと、俺はナナと交戦している雪男の注意が引けるようワザと足音を出しながら突っ込んだ。
「……オラァ、来いよデカブツ!」
声を張り上げて威嚇する。
雪男は一瞬の内に、標的をナナから俺に変えて拳を振り上げた。
ーーガァ!
「ヤバい、容赦なさすぎる……」
「マスター、ナイス! 耐えて!」
俺の援護に向かってくるナナの声援を武器に、俺は雪男と真正面からぶつかり合った。たった一撃の拳を全力で受け止める。幸いにも相手の踏み込みが浅かったのか、威力は抑えられている。
それでも尚、その一撃は重い。
けど。片腕分の筋力しかないナナでは、雪男と真正面から力比べはできない。
だが俺にはこの剣がある。だから、この役目は俺のものだ。
殴りかかってきた相手を恐怖に耐えながら虚栄で睨み返した。
剣が折れてしまわないことを祈りながら、とんでもない馬鹿力に負けじと耐え切る。
すると雪男が苛立ちながら、拳を引いてもう片方の腕で拳を振り上げた。
俺と雪男の間に、俺を庇うため割り込んでくるナナを見ながら、頬に汗が伝う。
二撃目が来れば終わる。
そんな思考が脳を過ぎった中、助けは来た。
「行きます!!」
──戦場の中、高く美しい音色が奏でられた。
それは救いにも等しい、彼女の声だった。
タッ、と雪を駆け抜け背後から猛スピードで向かってくるのは、コートを脱ぎ捨てコウモリの羽を曝け出したリリィだ。
雪男の正面で急停止し、リリィは跳躍する。
彼女の右手の先にあるナイフが素早く振るわれ、すれ違いざまに雪男の顔が切りつけられた。
攻撃は的確に目を損傷させている。
雪男は悲鳴を上げ、血を流す片目を抑え、もう片方の目で己の敵を睨みつけた。
そして雪男は手を伸ばす。
「待て、危ないーー避けろ!!」
俺の叫びと共に、止まっていたかのような時が動き出し、重力が彼女を降ろす。
途端、彼女は顔を踏み付け再び跳躍する。怒り狂った雪男の我武者羅に振り回された腕を軽々と跳んで躱わし、受け流す。自由に。空を舞う蝶のように。
獰猛な悦びを浮かべる彼女は、他の誰よりもカッコ良く。
なんでもないかのように、ふわりと着地するリリィは、
ーー美しく、誰をも魅了する悪魔に見えた。
目を奪われる。
だが、思考とは裏腹に体は足を蹴り出していた。
(最高だ、相棒ッ──!!)
吐き出した白い息を置き去りにして、冷たい風が頬を撫でる。雪を駆け抜け雪男の背後へと回った俺は、落ち着いて狙いを定めて、そして無防備な首へ向けて剣を突き立てた。
しかし。
ガンッ、と骨に弾かれる感触が手に伝わる。
「ッ──」
大きな負傷は与えられなかっただろう。
すぐに気づく。失策だ。
ヒットアンドアウェイで行くつもりだったのに。
無理をしすぎて、懐に飛び込みすぎた。
そこか、と言わんばかりに、振り向き手を伸ばして来る雪男に、まずい、と構え、
「助かりました、マスター。おかげで、隙だらけです」
ザシュッ。
死角から現れたリリィによって、雪男は首にざっくりとナイフを突き刺され大量の血を流す。
そして内部から首を切断された雪男は間違いなく絶命したと言ってよかった。
その光景に目を取られ、危なかったと考えるのも束の間。
雪男は力尽きたのか俺の方へ倒れ込んで来た。
倒れ込む雪男に身構えるも、その重量はやって来ない。
光を放ち、倒れる前に消えた雪男は光の粒子となって宙に漂うだけだった。
凄いな、リリィは……。
呆然としながらそう思っていると、リリィは俺の安否を確認する為か近づいて来た。
「ふぅ。……お疲れ様ですマスター」
声を掛けられる。
「死ぬかと思った。ほんと凄かったよ、リリィ。ていうかこれ、俺必要だったか?」
「当たり前でしょう? 戦闘してくれる人は多ければ多いほど良いに決まってます」
「……でも、全然ダメで、改めて自分の平凡さを思い知らされたよ」
自嘲で自分の不甲斐なさを呪う。しかし彼女はなんでも無いのようにふふっ、と純粋に笑い飛ばした。
「え?」
「いえ。何か勘違いしているようですが……貴方だって特別ですよ。私のような使徒に感情を見せろとか言ったり、命令なんて待たなくて良いとか言ったり。中々の変人です」
「そうだよ、マスター! ていうか、わたしも頑張ったんだから褒めてよ!」
リリィはさも当然かのように言う。
それでも。特別な人間だと言われたのは、初めてだったと思う。
「そっか……」
「え、なんで喜んでるんですか。褒めてませんからね?」
そう皮肉を飛ばしてくるリリィをスルーし、俺はナナに向き合う。
「ナナもありがとう。助かった」
「ふふっ、どういたしまして!」
笑顔で笑うナナは、嬉しそうだ。
「何なんですか、もう」
リリィは俺にスルーされ、呆れながらも笑ったような顔だ。
俺は彼女の機嫌を損ねない為にも素早く感謝を述べた。
「ありがとう、リリィ」
「気にしないでください。それと聞いておきたいことがあって。あの……マスターは何故使役師に?」
その問いかけが俺の心を小さく揺らした。
少し間をおいて、語る。
「……生きる理由みたいなのが、良く分からないんだよ。このまま大人になっても、一人で生きていける気がしなくて……。まあ、後はお金とかを持って安心感が欲しかったんだ。……それで子供の頃憧れてた使役師をやることにした」
「……そうだったんですね」
「まあ。無事にライセンスを取れて使役師になった今でも不安だよ。俺はちゃんとこの世界を生きてけるのかなって」
そう吐露する俺に、リリィはため息をついてから俺に宣言するように言う。
「マスターなら大丈夫だと思いますよ。あの指揮は見事でした。そもそも普通の使役師は四等級の使徒二体だけで五等級の穢者を倒すなんて出来ません。それこそ才能を持たない限り」
「そうかな……?」
「はい。ですから、勝てたのはマスターのお陰です。私に自信を持てって言うなら、自分にも自信を持ってください」
彼女の言葉は、どうしてか、俺に酷く響いていて。
とても嬉しかった。
「ああ、……ありがとう」
俺の返しに彼女は微笑んで、倒れたままの俺にリリィは手を貸そうとする。
「あっ」
しかし血濡れていたことに気付いたのか、彼女は手を引こうとした。
俺は直ぐに察知して、逃すものか、と彼女の手を取って抜けた腰を立ち上がらせる。
「手を貸してくれてありがとう」
「……仕方ありませんね」
リリィは諦めたような表情で、立ち上がった俺から手を離した。
「なんかさー、マスターってリリィに構いすぎじゃない?」
「悪いな。今度はナナが手を貸してくれ」
ナナも俺に向かって手を伸ばそうとしてくれていたらしい。彼女は自身の手の行き場を失ったことに不満な様子だった。
彼女の膨れた顔を、思わず可愛らしいと思う。
「その!」
「ん?」
リリィが呼び止め、聞き返した俺にゆっくりと笑いかける。
「……ありがとうございます。マスター。嬉しかったです……演技じゃなく」
「そっか……良かったよ」
その顔は、ナナのように自然で綺麗で。
正面から見つめ返せず、目を逸らしながら俺は落ち着かない手を聖具に添える。
キラキラと琥珀色に色をつけるガラスの水晶が、手の中で転がった。
それから少し落ち着いた俺は、気を取り直すように二人に言った。
「……急いで解放作業に入ろう。雪男の魂を回収するぞ」
||
私は、違和感を覚えていた。
変だ。
ナナとは違う。私の感情には、ちゃんとスピネル様に封じられている筈だ。
だが、今日はやけに心臓が熱い。
心を縛っていたはずの鎖の数が、いつもより何本か少ない気がして、緩くて。
いつもなら、嬉しいとか悲しいとか、そういう感情はすぐに浮かんでは消される。なのに今日はやけにその感情の波が長い。
私は己の演じる『心ある使徒』が、徐々に嘘じゃなくなっていることに気づいた。
どうしてか分からなくて、その熱の原因を探るように二人を見る。
視界に映るナナとマスター。
瞬間、心がグンと熱くなる。燃えるような心臓がジンジンと体内を灼く。
「本当、変な人たちですね……」
私はただそう呟いた。




