11話 過去
第一章 最終話
その女性は真っ白な巫女服を着ていた。整った顔立ちに良く似合った冷徹な眼は、彼女が座る台座から、月夜が照らした水面に浮かぶその対象を見下ろす為に開かれていた。
粘着生物。ぷよぷよとという擬音がピッタリ似合うそのゼリー状の半透明な体は地に伏しており、ただ動くこともなくそこにいるだけだった。
「貴方は……第十二異空へと送られるそうです。手続きも普段通りですね」
女性は宙に浮かぶ半透明なスクリーンを見ながらそう言い放った。どこか近未来的に見えるその物体は、和を全身で表すような彼女にひどく似合わない。
彼女が手を振ると一瞬でそこにいたスライムは姿を消した。
「無事、送れましたか。次は……」
先ほどスライムがいた場所に突如として現れたのは、一人……否、一匹の少女だった。ブカブカの白衣を纏う片腕の死者。
「なるほど。ここに彼女がいるのは貴方の仕業ですか? ねえ、ーー神様」
「……そういうことさ、ヨミ」
彼女が小さくそう呟くと、背後のどこからともなく声が響いた。『神』というクソダサいTシャツを着た、濁りつつも美しい目をした少女ーースピネルがそこにいた。
女性の名前を呼びながら、スピネルと呼ばれた少女は宙を踊るように踏みつけながら近寄り、ヨミの肩に腕をかける。
「近いですスピネル様」
「今日も可愛いね。流石だ」
「……自画自賛ですか? 貴方が作ったんですから、自然とそうなるでしょうに」
頬を寄せる妖しげな少女に、ヨミは動じずに答えた。
「そうとも言うね。私は美しいものが好きだからさ。ねえヨミーー神に斎く君はとても綺麗だよ」
「……っ」
凡そ少女には見えないほど艶やかな顔だ。その姿にヨミは本能的に跪いてしまった。
その行動は酷く身体に馴染み、まるでスピネルに傅く事が彼女の使命であるかのような感覚さえ覚える。
「ーーさて、薄々分かってるかもしれないけど。この死者が以前伝えた十一人目の『神柱』だよ」
スピネルは呼び出されたゾンビをチラッと見下ろしてから、ヨミに向かって語りかける。
紅水晶に似た淡い桜色を、透明に滲ませたかのような美しい色をした瞳。それは見る者全てを魅了するに違いない。
事実、ヨミはスピネルと目が合って息を飲みかけ、寸前で堪えた。
「知っています。私もモニターで見ていましたから」
平静を装ってそう言うが、内心ではスピネルの『宝石』としか喩えようもない瞳をもう一度見たく仕方が無い。まさにあれはーー美しさのみで人を支配する境地に有る。
正しく、あれは神だ。
最早生物と呼べるのかすら怪しい。
「彼女はね。運命を引いた以上、私が彼女を殺したようなものと言っていい」
スピネルは口角を釣り上げた。
その表情は心底楽しんでいるような顔だ。
「良いかい、ヨミ。これから、少しずつ全ての使徒の感情を縛っていた鎖が解けるだろう。そしてもし鎖が消えた時、果たして使徒がこれまで通り人間の味方をするのか。私には分からない」
「……」
顔を寄せ、覗き込むように悪い笑顔でスピネルはヨミに笑いかける。
「世界はこれからどうなるんだろうね?」
その悪どい笑顔に本能的な恐怖を感じたヨミは、さっとスピネルから距離を取った。
しかし頬を摘まれ、グイッと少女の元へ引き寄せられたヨミは耳まで赤くなる。
「ダメ。君も共犯者さ」
絶世の顔に囁かれ、ヨミはドキドキと心を鳴らす。
しかしすぐに我に帰り、弱々しくだが目の前の婀娜な少女を睨みながら言い放った。
「っ、て、手を離してください」
ヨミは顔が真っ赤になるのを自覚しながらスピネルの拘束から逃れた。
可憐すぎるこの少女に、いつも心を乱される。
荒らぐ息を抑えながら、ヨミは焦ったように言葉を捲し立てた。
「大体! スピネル様はいつも無茶苦茶しすぎです。あのマスターに対しても偶然を重ねすぎました。運命を無理に操作すればその辻褄合わせに訝しむべき点が現れるなんて、承知でしょうに!」
「まあ良いじゃないか。英雄の誕生とは偶然という奇跡の連続の上に成り立つものだろう?」
ヨミの非難に、スピネルは涼し気な顔で返す。
異空昇格に異空主の昇格。偶然としてはあまりにも出来すぎている。彼にとっては不運でしか無い為気づかれていないが、こちら側からすれば幸運な事この上ないのだ。
当然、この少女が仕組んだ出来事である。
「神柱になれば、彼女は使徒には戻れません。彼女が己のマスターと交わした、再び仲間になるという約束は叶わない。それどころか、敵としてこのゾンビはいずれあのマスターと敵対するでしょう。そんなの酷ではありませんか」
「でもこれは必要なことなんだ」
即答するスピネルにそれ以上、ヨミは聞けなくなる。
「大丈夫、いつか彼が私を殺しに来てくれるよ。その時がこの世界にとってのハッピーエンドになる。それまで私は異空災害を作り続けるだけさ」
それは穏やかな声だった。しかし身の毛が身の毛がよだつような感覚がした。
スピネルは悪だ。純然たる悪だ。四十年前世界を滅ぼしかけた『異空災害』は他ならぬ彼女が生み出したものである。あれは純然たるマッチポンプだった。
彼女はその運命をなぞる手で、あらゆる不幸を作った。ヨミはスピネルの中に渦巻く狂気を目の当たりにし、震える口でも抵抗するように言葉を述べる。
「……スピネル様。貴方は、何故神を名乗るのですか……?」
「それは……私が、そういう使命を持ちたかったからだろうね。私は叶えたいんだ。神として、人類の母としてーー全ての人間を救済する理想を」
それからスピネルが『やれ』と促すように顎をクイッとさせるのを見て、ヨミは指示を理解し、そして頷いた。スピネルはすぐにその場を去る。
「ナナ、……哀れな子です。次に目が覚めた時、名前も以前の姿も種族も、何もかもが奪われているでしょう。それでも貴方なら大丈夫である事を祈ります」
そしてヨミは、無抵抗のまま瞳に光を映さないゾンビに術をかける。それを見届けながらスピネルは満足気に頷き、ゾンビを鎖で縛り上げた。
リンと風鈴の音が鳴る。
「では、おやすみなさい」
紅葉が水面に落ち、神力を纏った香が薫り、黄金の鎖が彼女をきつく締め上げた時。
そのゾンビは、一滴の涙を零した。
||
「今日も助かったよ、相沢さん。疲れてるみたいだし、しっかり休んでね」
「ありがとうございます」
とある女性が、店長らしき格好をした中年の男性と会話し店を出る。
「颯真は……何してるかなぁ」
彼女ーー相沢飛鳥は自身の弟とのメッセージ画面をスマホで開いていた。街を歩きながら、電灯や車のヘッドライト、道に並ぶ未だ賑やかな店舗達の明かりに照らされる。
けれど多少画面に反射する光の色が淡く美しくなる程度で、彼女はスマホに目線を囚われたまま灯の様子など気にせずに歩いていた。
目立たないようにメイクで誤魔化しているクマもそうだが、彼女の足取りは少しふらついている。立ち寄ったコンビニで買った安いコーヒーをレジ袋から取り出し、ぐっ、と飲み干した。
落ちかける瞼を寸前の中で耐えながら、彼女は最寄り駅まで向かう。
「ふふっ、今日も頑張れた」
弟の健気なメッセージを見て、飛鳥は自然と笑みが溢れる。
その慈しみを含んだ顔は誰がどう見ても、誰かを大切に思っている顔であった。中々弟に伝わらないが、彼女はいつだって相沢 颯真を愛している。
そしてその愛する家族の元へ帰る為、彼女は今日も少し駆け足で駅へと走るのだ。
||
俺はようやく帰宅した玄関先で、倒れ込むように壁にもたれ掛かった。酸素の薄い、息の詰まるような部屋の中、体にのしかかるのは酷い絶望感と孤独感だ。
ーー戻って来てしまった。
不意にそう思う。
危険に満ちた異空内が好きだった訳ではないが、このコンクリートの硬くひんやりとした感触に触れるのすら久しいように感じてしまう。
その程度には、あの異空内に心を置いてきてしまったのだろう。
あれほど深く人と関わったのはいつぶりだっただろう。
ほんの短い付き合いだ。それでも俺は確かに、彼女をあの瞬間大切に思っていた。
愛。物語の中でしか知らない。
それは甘美で幸せなものらしい。でもそれが具体的にどれほど甘いのか、俺は知らない。
あの時まで、ナナとずっと一緒にいられると思っていた。このまま一緒にいつづけたら。いつかはきっと、その甘味を舌に乗せられるかもしれない。そう期待していた。
喪失感だろうか。この胸に空いた穴の名前の正体が自分でもよく分からない。
ーー姉さんは俺に愛を向けてくれているのだろうか。
普通の人は、最低でも家族から愛情を向けられるのだろう。でも俺は親からは家族愛を与えられなかった。
確定的な事は分からなけど、俺を引き取った時の彼女の申し訳なさそうな表情。
それは多分あの家に俺を取り残した罪悪感だと思う。俺を引き取る時、残していってごめんなさい、と狂ったように泣いて謝っていた。
彼女が俺を世話してくれているのは、愛情からだろうか。
それとも罪悪感からだろうか。
どうしてかその答えがいつまで経っても分からない。
ーー愛情が欲しい。
この寂しさの全てを埋めてくれるような、愛が。
愛着に障害を持って生きてきた。
これは我儘な願いなんだろうか。
ナナならこの願いを叶えてくれたのだろうか。
分からない。
いつか。
俺も人間らしい何かを、手に入れられるのだろうか。
||
激戦の後、俺たちは直ぐに異空から戻った。
アンナはリリィと同じで俺とナナの会話に割り込まず、静かにやるせない顔で彼女の死を看取った。
アンナに初級ポーションを飲ませると、大抵の傷は癒えてくれた。使徒は人間よりもポーションの効きが悪いそうなので、心配していたのだが杞憂だったらしい。飲み終わった彼女を見て大丈夫だろうと判断した。
それから二人を聖遺書に戻して休んでもらう事にした。
初探索で七等級の穢者を倒した。
それはきっと世界広しといえど、中々そんな経験を持ったものはいないだろう。
けれど。
……ナナを失った。
棚の奥に長らく放置されていたとはいえ、元は姉さんの所有物である。
失ったものは取り戻せない。いずれにせよ、これで弁明が必要なのは確定した。
そもそもあそこでリリィの助けが無ければ十中八九お陀仏だった。少なくとも軽傷で帰れる可能性は低かっただろう。
この際イレギュラーに遭遇してしまった運の悪さは仕方がない。
脱出経路も把握していて、指示も間違いは無かった……と思う。
後悔が襲う。
もっと上手くやれたのではないか、ナナを救えたのではないか。
そんな考えがグルグルと身体の内側を廻る。
いつの間にか滲んでいた視界を拭い、それから漏れ出てしまった嗚咽を抑えた。
しばらくそうしていたが、疲れ果てると共に俺はベッドに倒れ込む。
「眠い……」
どうしようもない後悔に脳が疲れたのか、瞼が重くなってきた。
時刻は十時。
同居している姉はまだ帰って来ないようだ。
いつかは、きっと使役師になったことがバレるだろう。それでも自分から打ち明けるのが怖いのは、俺の臆病さが原因だった。
俺は十二の時に、腐り切った家から五つ年上の姉に引き取られた。その為、現在は二人暮らしだ。
学費を負担してくれている姉は、毎日のように金を稼ぎに仕事に出かけている。
姉さんにこれ以上の迷惑はかけられない。
そんな想いが日々自分の中で積もり続けている。
姉の相沢飛鳥は一年前、親との不仲が原因で家を飛び出した。
何処となくあの酷い家庭に嫌気が刺したのだろう。
けれど姉が出て行った事に対しても、親は使役師として稼いでいた姉が家に金を入れて貰えなくなる事を心配していたくらいだった。
むしろ好きでも無い子供の養育費を出さなくて良くなった、とほざくほどである。
何の問題もない親元で過ごした人には到底信じられないだろう。今でも誰かに話したって信じてもらえるとは思ってない。
中には自分の方が酷い家庭にいた、と主張する人もいるだろう。
けれどこの家庭が俺にとっての現実だった。
嫌な記憶だ。
姉がいなくなってから一番被害を被ったのは、俺だった。
俺の上には一つ上の兄がいて、彼は親からの愛情を一身に受けて育っていた。
俺は違った。
生まれた時から愛着なんて湧かなかった、と母や父に言われた時の事が今でも頭から離れない。
昔は心のどこかで嘘だ、そんな筈ないと思っていたがどうやらそういう親もいるらしい。
罵倒、贔屓、暴力。
愛されている子供がされない事を経験して来た。
罵倒は本心で。
贔屓は純粋な愛情の優劣で。
暴力は親のストレスの捌け口で。
子供の頃は純粋だった。
父に殴られた後も、うんざりした顔で「あれは教育の為だ」と言われれば、無理に自分を納得させる事が出来た。俺が悪い。彼に責任はない。だから、耐えないと。……耐えないと。
でも中学になった辺りから、その言葉は酷くなった。
お前なんて産みたくなかった。
お前に期待はしていない。
金を使わせるな。
日常会話ですら、心を抉られる言葉の数々だった。幼い俺にはあまりにも重くのしかかった。否定され続けた。
……どこで嫌われてしまったのだろう。
俺はどこで失敗したのだろう。
機嫌が悪い時は殴られ、蹴られ、叩かれた。昔は暴力に参加することのなかった母も、姉がいなくなった辺りからすっかり無抵抗になった俺を殴ったり、蹴ったりするようになった。その時言われる罵倒は聞かないふりをした。聞いてしまえば耐えられなくなるから。
裕福な家庭に生まれて、英才教育を受けて、高い学校に通わせてもらって。
結果を残して。親に褒めて貰いたい気持ちを隠して。
どんな事をしても。
どんなに頑張っても。
まるで他人事のように、興味がないように。
愛着のない子供の褒めて貰いたい言動なんて、五月蝿い雑音にしか過ぎないのだと知った。
どうしてこうなったのだろう。
俺は何の為に生まれた?
……分かっている。本当は俺がダメだったんだろう。俺がもっと可愛げがあって、マトモな子だったら。そうしたら、ちゃんと愛せてもらえたのに。
地獄が終わったのは、姉が迎えに来てくれたからだろう。
姉は、遅くなってごめんと、痣だらけの自分を見て泣きながら謝っていた。
俺は子供の頃から姉を誰よりも尊敬していた。
聞けば姉も、兄が生まれる前はそれなりに大切に扱われていたらしい。
だが、四年経って兄が、男児が生まれてから姉の環境は変わったのだと言う。
姉を差し置いた、明らかな兄への贔屓。
撫でられる事も
褒められる事も
気にかけてくれる事も
笑いかけてくれる事も
全部無くなったそうだ。
両親が血走った目で兄という完璧な作品を作るのに没頭し始めた日から、彼女は一人になった。
それでも十分な環境は与えて貰っていたそうだ。
文句を言えるはずがない。
ある程度育つまで放置していたそうだが、中学に入ったあたりから両親も彼女の事を視界に捉え始めたらしい。優秀だし嫁がせるだとか、良いところに就職させて働かせるだとか、そう言う事を常々話し合っていたらしい。
姉さんはまだ子供で色んな夢を持っていた。
だからこそ縛られるのが、何よりも嫌だったそうだ。
俺自身の姉の印象は、とても優しい人、だった。
甘える相手はいつも姉で、それなりに気が合っていたのだと思う。
お小遣いを貰えなかった俺に、いつも少しばかりのお金を内密に渡してくれていた。そのお金で、今まで断るしかなかった友人との遊びに行けた。
子供ながら、単純にも姉に一生着いていくと約束した物だ。
俺への暴言も、度々姉が仲裁に入ってくれていた。
俺の家庭内の状況を、姉は誰よりも理解してくれていた。
だけれども、姉が本気で使役師になりたいと言ってから、全てが変わり出したと思う。
親にいつも従順で大人かった姉が、親と激しい言い争いを何度も繰り返した。
そしてある日、姉が一人暮らしをすると衝動的に言って家を飛び出した。
その後帰ってくる事はなく、姉のいなくなった俺は初めて暴力を振るわれ始めた。
所々青痣が出来た。これまでは知らなかったが、青痣は曲げたり動かす度にずきりと痛んで、見た目も傷口を中心に醜い茶色の傷跡を中心に、緑のような青のような色で腫れて目立つ跡が出来る。
長袖長ズボンで人に見られないよう隠しながら過ごす日常にも慣れ始めた時。
一年間と少しの空白の後、姉が姿を見せた。
想像以上の俺の現状に、久しぶりに話した彼女は、最後に見た彼女と変わらない様子で無鉄砲にも俺を引き取ると言って見せた。
俺は案外、あっさりと引きとられた。
姉は働き詰めになり家に帰る時間が遅くなってしまったが、それでも姉との暮らしは幸せそのものだった。
別に自分が世界で一番不幸だなんて思わないけど。
それなりに苦しんで泣いたりした。
そこから救ってくれた姉は、当時は良く自覚してなかったけど、振り返って見ると彼女は間違いなく恩人だ。
姉にはずっと、感謝の気持ちばかりだ。
家族というものが本来どういうものなのか、彼女のお陰で今なら理解できる。
使役師への強い憧れと興味を抱き始めたのも、彼女がきっかけだった。
「ただいま〜。あ、颯真。ケーキ食べた?」
姉さんがスーツ姿で帰ってくる。
彼女は俺が使役師になった事を知らない。
十五歳の誕生日に、死にかけた事も知らない。
いつか。
姉に返しきれないほどの恩を返し、罪を償えるような人間になる日が来るのだろうか。
「お帰り、姉さん」
俺は使役師の証である首飾りーー聖具を背後に隠しながら、愛おしそうに微笑み、そう答えた。
作者にとって一番嬉しいのは、様々な人に作品を知って頂く事です。
より多くの方に知って頂くために、『日間ランキング入り』という目標を立てました。
是非ともブクマ高評価をよろしくお願いします。