枯れ木に愛を
樹木が沢山植えられた、何処かの場所のお話です。
それはそれは多くの種類の木が、所狭しと並んでいました。
桜の木、桃の木、イチョウの木、柳に松…どの季節にも必ずいずれかの木が美しい姿になるものですから、人々は時にそこを訪れ、彼等を鑑賞しては褒めたたえるのでした。
春、木には花が咲き誇ります。春はもっとも多くの人間が集まる時期です。木々は自分を見てもらおうと、一生懸命にアピールします。
「見て頂戴、ほら、私の花は綺麗でしょう」
「鼻孔を擽るこの甘い匂いは、僕のものさ」
「今日だけは特別に、花吹雪を披露するわ」
やはり、花を持つ木は有利です。人は昔から花を愛おしむ種族ですから、彼等は春を好むようでした。
開花時期が春ではない、もしくはあまり目立たない花を咲かせる木は、こそこそと枝を寄せて話しています。
「春はあいつらの季節だよな。あぁ、あんなにチヤホヤされて、たいそう気分がいいことだろう」
「夏や秋には、俺たちだって輝けるだろう。今だけの辛抱だよ」
「まぁ、違いないな。でも、春にあいつらが輝けるのだって、そう長くはないかもしれねぇぞ」
「あぁ、なにせ春にはアイツがいるんだから」
彼等が同時に目を馳せた場所は、時間が経つにつれ次々と人を集めていました。
広く枝を広げ、その先々に溢れんばかりの花弁を乗せた、桜の木でした。
「やはり、桜はいいものだ」
「お母さん、綺麗だねえ」
薄桃色の花は咲いても散っても美しく、そこにあるだけで場を明るくするものですから、人間は皆桜を好いていました。
桜の花弁はくすくすと可愛らしく笑いながら、自らを支える枝に話しかけます。
「ねぇ、みんな、他の木より私たちを見ているわ。きっと私が綺麗だからね…ねぇ、綺麗でしょう?」
「あぁ、とっても綺麗だよ」
美しさを自覚した花は自身の魅せ方もよく理解しています。風に揺られ可憐な佇まいで首を傾げれば、大勢が感嘆の息を漏らしました。
「この木が一番綺麗だよ、お母さん…でも、隣にある木は同じじゃないんだね。だって、裸ん坊だ」
「あら、本当ね。春なのに花も葉も生えていないわ」
満開の桜の隣には、桜の影に隠れながらも確かに木が生えていました。しかし枝には何も付いておらず、侘しい風貌をした枯れ木でした。
枯れ木は指をさされる度に息を潜め、自分に視線が向かないよう黙りこくってぴくりとも動きませんでした。
「まぁ、そう塞ぎこむなよ。お前もいつか花を咲かせて、立派な木になるさ」
桜の木は彼に親しげに話しかけます。桜の花は対照的に、彼を嘲り笑いました。
「この木には無理よ。きっと、ずっとこうやって、縮こまったまま生きていくんだわ。なんとまぁ、哀れなこと!」
「おい、やめないか。そんなに酷いことを言わなくたって…」
「いや、その子が言っていることは事実だよ。僕が何一つ枝に付けること無く、幾度も季節が巡ったんだ。もう期待なんて抱いていないさ」
枯れ木は悲観的に呟き、下を向きました。自分の元には誰もやってこない現実を目の当たりにし、更に気持ちが落ち込んでいきます。
来年こそは、来年こそはと自らが輝ける日を待てども、芽すら生まれない身体は、彼を悲観的にするには十分でした。毎日が劣等感と隣り合わせで、いつしか彼は随分と卑屈になってしまいました。
「こんな木に構ってないで、私達は魅せなきゃならないじゃないの。何も咲かせられないならせめて、私達の輝きを邪魔しないようにして頂戴…」
枯れ木は返事をすることなく、ただ静かに身を潜めました。桜はよく目立ち、その後誰も枯れ木に気づくことはありませんでした。
夏がやって来ました。活力の漲った緑の葉が大きく広がり、地面に木漏れ日を揺らしています。
「君は色が変わっても、姿が変わっても綺麗だね」
「当たり前じゃない。それより、さっきからゆらゆら不安定で気が気じゃないわ。もう少ししっかり支えてくれない?」
「はは、善処するよ」
桜の木も花を散らし、葉に生え変わりました。溢れんばかりの葉は花弁より重く、細い枝は今にも折れてしまいそうです。
「これならまだ、隣で太い枝ばかり伸ばすあの枯れ木の方がマシだわ…あら、でも生憎何も実らせていないみたいね!」
相変わらず小馬鹿にするように笑う桜の花…今は桜の葉を、咎めることも出来ず、桜の木は枝を踏ん張り重みに耐えています。いつの間にか上下関係がはっきりと付いていた葉と木を見て、枯れ木は少しだけ桜の木を気の毒に思いました。
元来温暖なこの地域は、夏になるとさらに暑さに拍車がかかり、茹だるような熱に人々は皆疲れ果ててしまいます。木陰に微かな涼感を求めて、人々は木の下に集まるのでした。
しかし枯れ木には生める影など自らの枝の分以外に無く、誰一人として彼の下には集まりません。またしても孤独を味わいながら、枯れ木は眩しい日差しから顔を背けるように俯いていました。
「やぁ、失礼。すまないが、しばらく君の下で休ませては貰えないだろうか」
落ち着いた男の声が、まさか自分に向いているとは気づかずに、枯れ木はぼんやりとしていました。男が幹にそっと掌で触れて、ようやっと話しかけられていることに気づいたようです。
「勿論構わないけれど、僕の身体じゃあ君を涼ませることはできないよ。隣の木の方が、ずっと大きくていいんじゃないかい」
「はは、僕は決して涼みたい訳ではないんだ。君のその見事な枝が、地面に落とす影の形を、よく見てみたいだけさ」
枯れ木は丸裸の枝を貶されることはあれど、褒められたのは初めてでした。驚き戸惑うと同時に、この人間は相当変わっているのだと思いました。
静謐な声と雰囲気に反して、彼の風貌は若く、成人したばかりの青年に見えます。ツバの広い大きなハットを被り、薄い灰色の羽織を纏う青年は、何やら懸命に地面を見つめていました。
「遠くで一目見た時から、面白い形をしていると思ったんだ。やっぱり期待通り、これは良いアイディアが浮かびそうだよ」
「不快にならないといいんだけど、君は随分と…他の人とは違うんだね。影で涼む人間はいても、影を穴が空くほど見つめ続ける人間はそう多くないよ」
「他と違う、それは褒め言葉として受け取っておくよ。僕は詩人なんだ。創作者はいつだって、独創的でなければいけない」
「詩人、って何?」
「自然の美しさを言葉で表現し、伝える仕事さ」
美しさ、と聞いて、尚更自分とは縁遠く感じ、ますます彼が何故自分に着目したのかと枯れ木は考えましたが、分からないままでした。
青年は暫く影の形を眺めた後、満足そうに頷きました。
「うん、おかげで素晴らしい詩が書けそうだ」
「詩というものが何かも知らないけれど、僕から素敵な着想が得られるとは到底思えないな」
「また完成したら読んでみせるから、待っていてよ。きっと気に入るさ…それじゃ、またいつか」
青年が軽やかに手を振って去るのを呆然と眺めている内に、幹には蝉が張り付き忙しなく鳴いているのでした。
道行く人達の袖が少しづつ長くなり、上昇し続けていた気温も徐々に低くなりつつあります。早いもので、もう秋です。
真紅や黄、橙の、遠目で見れば色鮮やかなカーペットにも見えるそれらは、紅葉を迎えた葉が敷き積もった様でした。
イチョウやモミジは美しく葉を変色させ、ひらひらと葉を地面に落としていきます。より綺麗な葉を見つけた者が勝ち、とルールを作り、幼い子供達が遊んでいました。
「しばらくのお別れだね」
「どうせ冬が明ければすぐ会うじゃない。あぁ、早く春が来てくれないかしら…いえ、ずっと春だったらいいのに…」
葉も萎みはじめ軽くなり、やっと楽になったのか、桜の木はどこか安堵しているようでした。
冬に向けて多くの木が葉を落とす準備を始めています。葉は地面に分解され、根から吸い上げられることで、もう一度木の一部となるのです。
葉を踏みしめ枯れ木の方へ真っ直ぐと歩いてくる人影は、よく目立つ帽子のおかげかすぐに誰か判別がつきました。加えて枯れ木にわざわざ近付く者など、彼以外にはいないのです。
「久しぶりだね。中々会いに来る機会がなくて」
「寧ろ、もう一度僕に話しかけてきたことが驚きだよ。数瞬の気まぐれだとばかり」
「君のおかげで良い作品が書けたんだ。君には大きな恩があるんだから、挨拶に伺わないと失礼に当たるだろう?」
「書いたのは君だ、僕の功績じゃない。僕自身には何も無いんだ、何一つとして」
青年は何か抱え込んだ様子の枯れ木に寄り添うように、幹に凭れかかり腰を下ろしました。
「話なら聞くよ。気持ちが楽になるかもしれない」
「けれど、問題は解決しない。どうにもならないよ」
「それはどうかな。なにか解決策を思いつくかもしれないじゃないか。僕も一緒に考えよう。自然とは僕なりに深く関わってきたつもりだ、きっと少しは役に立てるよ」
青年は微笑みそう言いましたが、枯れ木にはとても解決策が生まれるとは思えませんでした。それでも、抱え続けることにも彼は疲弊していました。
「僕は他の木のように、誇れるものが無いんだ。目を引く可憐な花も咲かなければ、生い茂る緑の葉も、燃えるような紅葉とも縁遠い。冬になれば皆等しく僕と同じ姿になって…つまり僕は、どの季節にも輝けやしない。僕だけの良さを持ち得ない。未来永劫、チャンスは失われていると知りながら過ごす年月は、耐え難い苦しみに包まれているんだよ」
枯れ木の悲痛な嘆きを遮ることなく、青年は耳を傾け、頷きました。硬い表情で、顎に指を添えながら俯き、かける言葉を探しているようでした。
「誇れるものは無い、と言ったけれど。僕はどうにも、そこが引っかかるね」
青年に、すぐさま枯れ木は異議を唱えます。
「事実さ。僕は他と比べて何もかも劣っている」
「君は自分の姿、それも全身を見た事があるかい?太くて逞しい枝には生命力が溢れている。他の木が葉を落としたとして、その造形美には追いつけない」
「枝がどれだけ太くたって、誰も見てくれやしないよ。美しいと認められるのはいつも、僕の隣の桜のような木達なんだ!」
枯れ木はつい、感情に任せて叫んでしまいました。青年を驚かせてしまったのではないかと顔色を伺いましたが、青年は特に気にとめず、それよりも何かに気がついたようでした。
「君はつまるところ、誰かに認めて貰いたいんだね?」
「でも、それは叶わない」
「叶うかどうかじゃない、君が何を悩んでいるかが大切なんだ。君は素晴らしい木になりたいというより、素晴らしい木になることで、人間達に見て貰って評価されたいんじゃないかい」
確かに、彼は人から口々に褒められる木に憧れ、自分もそうなりたいと強く願っていました。自身の悩みに深く踏み込むことをしなかった彼は、その根底を長らく見つめようとしなかったのです。
「なら君の悩みは、案外すぐに解決するかもしれない」
「これまで一度たりとも解決しなかったこの問題がかい?」
「あぁ。もうすぐこの地域には、数百年に一度の規模の大寒波が来る。冬でも比較的温暖なここでは、随分珍しいことなんだ」
「それと何か関係が?」
「詳しいことは冬になれば分かるはずさ。だから君も、それまで希望を捨てちゃいけない。俯いたままでは始まらない、まずはそうだな、空を見ることだ。広い広い空を見ると、心にゆとりができるものさ」
青年は立ち上がり、そろそろ時間だ、と言って、また手を振り去って行きました。
枯れ木にとって冬に転機が訪れるなど、信じ難い話でした。多くの植物が萎れ、生命が薄れる冬には、人間もあまり木を見ようとしません。ですからほとんどの木が、冬を嫌い春を待つ程なのです。
しかし自分に初めて話しかけ、相談に応じた青年のことを、信用したいという気持ちもありました。冬が明け何も起こらなければ、諦めてしまえばいいだけのことです。枯れ木はあと少しの間だけ、期待を抱く決心をしました。
青年が言った通りに、寒い寒い冬がやって来ました。
草には霜が降り、早朝出歩く人の息は白く、薄い水溜まりは固く凍りつきました。
野ざらしにされた木達は震え上がり、枯れ木もまた厳しい寒さを耐え忍んでいました。一縷の希望に賭けて生きる彼でしたが、それさえもこの寒波の中では砕け散ってしまいそうでした。
空は見上げずとも、暗雲に包まれ灰色に染っていることは容易に想像できます。辺りの空気がどんよりと重い為でした。青年は空を見るよう言いましたが、寧ろ更に暗い気持ちになってしまうように思えました。
それでも、枯れ木にとってこの冬は最後のチャンスでした。自分も輝けるという事実が、どうしても欲しかったのです。覚悟を決めようと、ついに彼は枝を強く張り空を見上げました。
空はやはり曇っていました。しかし、枯れ木は気づきました。何かが此方へゆっくりと、降りてきたのです。
それは透き通るように白い、非常に小さな粒でした。
今にも崩れてしまいそうな儚げな佇まいで、ゆっくりと地上へ降りていきます。
その身体がやがて枝元にやってきて、枯れ木は慌てて、自身の広く太い枝でそれを抱きかかえました。触れたことすら気づけないほど軽く、柔らかで、ほんのりと冷たいそれは、枯れ木にとって初めて見る存在でした。
「…ここは、どこでしょうか。地面に落ちてしまったのかしら」
「こ、ここは枝の上だよ。居心地が悪かったらごめん、僕はただの枯れ木で…」
枯れ木は思わず抱きとめてしまったことに焦り、必要ない気遣いだった、と謗られてしまうかもしれないと考えました。
「ありがとう。私のこと、落ちないように支えてくれたんでしょう。優しいんですね」
想像に反して、かけられた言葉は暖かいものでした。穢れを知らないまっさらな純白に、此方の心まで洗われるようでした。
「貴方が名乗ってくれたんだもの、私も名前を教えましょう。私は雪。冬の寒い時期、天から降りてくるのです。いつかは溶けてしまうけれど、それまでの間、ここにいても良いでしょうか?」
雪、と名乗る彼女がそう問います。枯れ木は震える声で勿論、と返しました。寒さに震えていたのではありません。彼は雪の美しい姿に、一目見た瞬間から心底見惚れていたのでした。
「ふふ、嬉しい。よろしくお願いします」
彼女が積もった部分はひんやりと冷たいのに、枯れ木の心は春を思い出すほど温もりに溢れていました。
それから枯れ木と雪は、他愛ない話をしました。
雪は空の上の話をしました。神様がこの地域に降り注ぐよう雲を作り出し、他の仲間と共に一斉に落ちたこと。どこに落ちるか分からず、孤独に宙を漂う間は不安で仕方なかったこと。
代わりに枯れ木は地上の話をします。長い間季節の巡りを見守ってきた彼は、沢山の語り種を持て余していました。人間の話などをすれば、雪は楽しげに笑います。彼女を喜ばせようと、枯れ木はこれまでに無いほど熱弁を振るいました。
聞き上手な雪の前に夢中になっていれば、遠くで朝日が昇り始めたのが見えました。すっかり夜も過ぎ、一日中話し続けてしまったようです。
「えぇと、僕、ずっと話してしまったね」
「いいの、貴方の話を聞くのはとても楽しいわ。もっともっとお話ししたい。貴方はどう?」
「僕も、君と話していたいよ」
「嬉しい…地上に降りて、出会いが待ち受けてるなんて思ってもみなかった。私は幸せ者だわ」
「僕だって同じさ。冬に、本当に希望が訪れるなんて…こんなに楽しいお話は初めてなんだ。僕は幸せ者だ」
言葉を交わすにつれ、二人は思いを通わせ、互いに親愛の情を抱くようになりました。枯れ木は自らの強い劣等感を、雪と話している間は忘れることが出来ました。
仕事や通学に、朝早くから人々が道を歩いていきます。しきりに両手へ暖かい息を吹きかける人や、身をかがめて凍える風に耐える人など様々でした。
彼等は志気を上げたい時、決まって自然から力を貰ってきました。自然に恵まれたこの地域では、人間と自然はいつでも共生してきたのです。それでも、冬になれば草木も花もほとんどが枯れてしまいます。美しい姿をしばらくは眺めることができない、と皆が落胆していました。
しかし枯れ木ばかりの木群れの中、花を咲かせている一本がありました。白い花弁が枝に多く実るその様子は、桜によく似ていました。
日光に反射しきらきらと輝くその木を近くで見ようと、多くの人が集まりました。
勿論、冬に桜は咲きません。それどころか、木が咲かせていたのは花ですらありませんでした。
太く長い枯れ木の枝が、沢山の雪を、その身体に携えていたのです。
他の細い枝を持つ木々は、ただでさえ小さく脆い雪を支えることができませんでした。枯れ木は自らの形を、雪を積もらせることで美しく魅せることに成功したのです。
「細かい粒が煌めいて、まるで宝石のようだ」
「雪は初めて見たけれど、これは中々美しい」
「いや、雪も見事だが、この木もどうだ。立派な出で立ちじゃないか」
枯れ木にとって、自分の下に人が集まることも、感嘆の声を向けられることも、生まれて初めてのことでした。
人波が引きしばらくしてから、青年が姿を現しました。灰色の羽織は茶のトレンチコートに変わっていましたが、帽子は同じままでした。
「凄い人だかりが出来ていたよ。当然さ、今の君はまごうことなく素晴らしい木だからね。良かったじゃないか、君は長年の願いをついに叶えたんだよ」
青年からも賞賛を受けた枯れ木ですが、何やら言葉に詰まっているようでした。
「どうしたんだい?もしかして、嬉しくないのかい」
「いや、嬉しいよ。まさか自分があれほどの人に見て貰える日が来るなんて、幸せだ。だけど、それよりもっと幸せなことがあって、戸惑っているんだ。あれほど渇望してきた賞賛より、もっと大切なものに出会ってしまった」
枯れ木は自分の枝に光る雪を見つめました。
「僕が本当に悩んでいたのは、誰かからの評価じゃなかったんだ。僕は誰かからの愛情が欲しかったんだ…ずっと孤独に苛まれていたんだ」
青年は驚くでもなく、神妙な顔つきで頷きました。
「彼女と出会えて、ようやく分かった。今彼女と一緒に、一つの自然として立つことで、僕自身も少し自分を認められた気がするよ。僕だけの力で輝こうと必死になる必要はなかったんだ。時には誰かと支え合うことで、生まれる美しさもあるんだね」
「それだけ多くのことに気づけたなら、君はもう何も恐れる必要はない。そうだね?今の君の美しさは、雪…彼女が君を信頼したこと、君が彼女を支えたこと、どちらも欠けては成立しないんだ。僕達人間はそれを、愛と呼ぶんだけれど、どうだろうか」
雪は良い響きですね、と青年に微笑みかけます。小さな粒である雪の声は、彼女を支える枯れ木にだけ聞こえました。
「私と貴方の関係が愛と呼ばれるなら、これほど嬉しいことは無いとさえ思います」
「僕も、同じ気持ちだよ。けれど僕ら、まだ出会ったばかりじゃないかい」
「あら、貴方との時間があまりに満たされているものだから、もう随分一緒にいたものかと…」
「はは、愛は時間の長さより、時間の濃度が大事だよ」
青年の言葉に、枯れ木と雪は恥じらうようにして、それでも身を寄せ合うことを辞めませんでした。青年も、彼等が暖かな時間を過ごしたということをよく分かっていました。
「それじゃあ、お幸せに。…あぁ、一つだけ言っておかないと…」
青年は少し両眉を下げ、小さく呟きました。
「もし深い悲しみが君を襲っても、必ず今の愛を忘れないで。決して諦めてはいけないよ。そうすればきっと何度でも、愛は戻ってくる」
そう言い残して青年は去りました。青年の言葉はいつも難しく、やはり彼は変わった人間なのでした。
ただ、彼の言葉にはいつも、枯れ木にとって何か大切な意味があるのです。
その日の夕方頃になって、枯れ木は自分の身体が重くなっていることに気づきました。触れていた雪の身体が少しづつ固くなりつつあったのです。
「なんだか君の姿が、時間が経つにつれ変わって見えるんだけれど。気の所為だろうか」
枯れ木の言葉に、雪は水滴を一粒零して、悲しげに言いました。
「実は、私の身体は氷でできているんです」
「氷って?」
「冷たい場所でしか形を保てない、固くなった水のことです。それが細かい粒になったのが、私なのです」
「冷たい場所でしか…つまり、この寒波が終わったら、君は」
「はい。私の身体は溶けて、水に還るでしょう」
「そんな!」
既に枝からは数滴水が滴り落ちていました。既に雪は降り止み、晴れ始めていたのです。早ければ明日の朝にでも、彼女の身体は全て水と化してしまいそうでした。
「どうして、教えてくれなかったんだ」
「貴方が私を大切にしてくれているから、悲しませてしまうと思ったんです」
「僕達はもっと、長い時間を共にするべきなのに…」
次々と音をたて落ちる水は、まるで二人の涙のようでした。
「せめて、私がまだ形を保っている間は、昨日や今日と同じように話をしてくれませんか。最後まで貴方と共にいたいんです」
枯れ木は今すぐにでも、悲しみに打ちひしがれ、全てに躍起になってしまいたい思いに駆られました。しかし、青年の言葉をすんでのところで思い出しました。
残された彼女との時間を尊重することが、愛を諦めずにいることに繋がると考えたのです。
「分かった。時間が許す限り、僕達は一緒だ」
二人は言葉を紡ぎ続けました。どちらかが別れを惜しみ口を噤めば、もう片方が別の明るい話題を作りました。交互にそうして休む間もなく話しているうちに日は昇り、もう固体として残る雪も僅かになりました。
「本当に、本当にありがとう。僕と出会ってくれて。君と話す時間はとても幸せだった」
「私も、貴方と出会えて本当に嬉しかった。ありがとうございました」
「あぁ…もう、会うことはできないのかな」
「いいえ。私はこれから、貴方と一つになります。貴方の枝に染み込んで、貴方の糧になって生きていくの。姿が見えなくなっても、私はずっと貴方の傍に居ますよ」
雪はそう言い残すと、日光に照らされながら、透明の水になって枝に消えていきました。冷たい感触は、確かに彼女のものです。彼女は自分の中にいてくれる、その事実が、再び裸になった枯れ木を力付けました。
「季節が巡るように、きっと彼女ともまた再び会えるさ。僕が愛を諦めない限り、愛は戻ってくる…」
孤独はもう既に、彼を蝕みません。枯れ木は苦しみをも乗り越える愛を、その身にしかと抱いたのです。
生命が眠りから覚め、輝きを取り戻す春がやってきました。
丸い蕾がゆっくりと開き、美しい花が開きます。
「やっと、やっと目覚めの時が来たわ。今年の春も勿論、私が一番綺麗に決まってる。ね、そうでしょ?」
薄桃の花弁を、早朝から待ちきれないというように開花し、桜は木に話しかけました。しかし、返事がありません。
「ちょっと、貴方が誰より私を待ってたんじゃあないの。こっちを見なさいよ…」
桜はふと、辺りを見回しました。変わり映えの無い景色の中、隣にたった一つ、異質なものを見つけたのです。
「な、なんなのよ、この木…こんなところに、こんな花が咲いた木がある訳ないじゃない!だってここにはあの哀れな枯れ木が…」
桜の木の隣に、今日も聳えている筈の枯れ木は、もうそこにはいませんでした。
そこにいたのは、それはそれは美しい、小さな白い花を枝いっぱいに纏った、立派な樹木でした。
「ほんの一瞬、君かどうか分からなかったよ。春だけは帽子を外すのかい?」
「分からなかったのは僕も同じさ。まさかこんなにも早く、君の元に愛が戻ってくるなんてね」
「あぁ、信じられないような話だけど…この花が彼女ってこと、君も分かるんだね」
「言っただろう、自然とは深く関わってきたって。君達が幸せそうに寄り添ってるのがよく伝わってくるよ」
まだ人が集まらない時間、たった一人、真っ先に木を見つけ近付いてきた男がいました。トレードマークの帽子を取った、あの青年でした。
枯れ木は冬が明けてから、自分の枝に無数の蕾が芽生えていたことに気づきました。それは春が近付くにつれ膨らみ、今日ついに花開いたのでした。
蕾から現れたのは、見たこともない花でした。しかし枯れ木には、彼女の正体がすぐに分かりました。
「また、会えたね」
「えぇ…ずっと、会いたかったです」
青年の言葉通り、枯れ木の元に愛は戻ってきたのです。
「今日帽子を取っているのは、春だからという訳じゃないんだ。実は、人と会う予定があって」
短い髪を綺麗に整え、どこか引き締まった顔をする青年の方に、遠くから女性が向かってきます。ロングスカートをたなびかせ、真っ直ぐに歩いてきました。
「一番美しい木の下で待ってる、って言ったんだけど、どうやらすぐに気づいてくれたみたいだ」
青年は片手に小さな箱を持っています。女性に隠すように、背中に腕を回していました。
「僕も、愛を伝えることにしたんだ。よかったら、見守っていてくれないかな」
木は頷くように、枝を揺らしました。花弁が花漏れ日を落とします。今日は素敵な小春日和です。
女性の足がついに、木の影に踏み込みました。