エピローグ=プロローグ
時間を遡るのは、物理学的に不可能とされる。光速度を超える必要があるからだ。しかし、質量を持つ物体が光速度を超えると、その質量が無限大となってしまう。質量無限の物体は存在しない。ゆえに、光速度は超えられない――。かつて、「教授」は『ぼく』にこう言った。「実数空間における時間遡行は確かに不可能だろう。それは厳密には時間の移動ではなく、空間から空間への移行だからだ。しかし、虚数空間における時間遡行は、必ずしもその限りではない」。いわく、時間とは観念上の存在で、本人の頭の中にしかないのだと。「空間が実数だとするなら、時間は虚数。現実に対応する概念のようなもの」。虚数から実数の変換。すなわち、「止揚」。「我々は時間の中を生きるのではなく、むしろその時間を生み出すために存在している」。主体から客体、客体から主体への、絶え間ない移行。「教授」はそれを『投企』と呼んだ。
――時間とは何か。
ある人物は言う。『時間は恒久的な流れであり、いわゆる無限である』。
ある人物は言う。『時間は制限的な流れであり、いわゆる有限である』。
おそらく、どちらも正しく、また、間違いなのだろう。
要するに、こういうことである。
『時間はひとつではない』
彼の理論を借用し、ぼくの理論で補完すれば……。
『時間は多岐に亘って同時的且つ並行的に存在する』
これが事実かどうか、実証を重ねる日々が続く……。
* * *
――存在とは何だろう?
何もない世界。時間の進みさえも感じられない、真っ暗な、あるいは真っ白な(何も見えないという意味では、どちらであっても大差ない)空虚な空間の中で、漠然と思う。
ぼくは常に考えていた。それこそ延々と、永遠とさえ思える長い期間に亘り、問い続けた。本当に自分が存在しているのかどうか。また、存在するというのは、どういうことなのか、を。
例えば、自分の存在を実感する瞬間について、問われたとする。
ある人は『美味しい物を食べている時』と答え、またある人は『楽しく遊んでいる時』と答えるだろう。
なら、『美味しい物を食べている時や、楽しく遊んでいる時以外に自分は存在しないのか』という問いが新たに生まれてくる。
わからないのは、自分の存在に限った話じゃない。どうして存在が存在するのかということについても同様に、疑問は数多くあった。
ぼくがこんなことを考える理由は知らない。ただ、不確実で不確定なことに思いを巡らせることが自分の存在意義だとでも証明するかのように、あたかも息継ぎでもするように、気付けば自然に存在を――自分を意識している。
そう、意識――。
ぼくは意識している。意識がある。だからこうして考えられる。
しかし、意識があるとはどういうことだろう? そもそも意識とは何だ? ぼくは、意識として存在しているのか? 意識がなければぼくは存在しないのか?
ここで大きな疑問が立ちはだかる。意識は、意識として存在しているのか否か? 言いかえるなら、意識とはそれ自体、存在としてみなされるのか?
疑問は抗いがたいうねりとなってぼくを飲み込む。見渡す限り何もない、荒涼とした空間の波間に漂流する意識だけのぼくを容赦なく蝕んでいく。
存在が存在するということの意味。ぼくも、昔は知っていたはずだった。もちろん、ぼく以外のみんなもそうだった。
でも、今となっては、誰も知らない、てんで覚えていない。存在するということについて何もかも忘れてしまい、途方に暮れている。
そして、こんなことを考え続けているぼくが、一体、何者なのかも、ぼくは知らない。かつてはよくわかっていたはずなのに、ぼくが誰かだったのかという一点のみが、すっかり抜け落ちてしまっている。
ぼくは誰だ? なぜぼくはここにいる? ぼくは本当にここにいるのか? こことはどこだ? ぼくはどこにいるのか? 世界も、ぼくも、時間も、実際に存在しているのか?
「――――――」
意識が絡まる、ぐちゃぐちゃにもつれる、寸断寸前にまで追い詰められる。
考えれば考えるほどやぶへびだ。いつだって、答えはまとまらない。思考がこんがらがって、もやもやして、一向に収束する気配がない。
そうして、仕方なく振出しに戻っては、またもや考え始め、ほどなく暗礁に乗り上げる。その繰り返し。
もはや『無』だ。このように、自分についての知識が何も備わっていないぼくなんて、とても存在しているとは言い難い。
ぼくは自分を意識している。それはわかっている。
でも、ぼくがどこの誰で、ここが一体どこなのかは、全く知らない。いつからここにいるのか、いつからこうしているのか、いつまでこんなことを考えていればいいのかも、知らないまま。
それでいて尚、ぼくは、自分を意識せざるを得ない。やはり、そうすることこそが、ぼくを存在ならしめる。意識を意識して、ぼくは初めて世界を、自分という存在を認識できる……。
意識……。
存在……。
存在の意味……。
そうだ、ぼくは、全てを忘れたわけじゃない。かすかに覚えている。
ぼくは、知っていたはずだ。世界があるということ、自分が何者であるのかということ。
確信のない希望を抱いた、その時だった。のっぺりとした、一切の動きのない平坦な世界に、初めて変化の兆しが訪れた。それは一点の光だった。点は線となり、線は新たな点を点在させながら縦と横に広がり、また新たな時間・空間を形成する。
それもやはり、『点』だった。ぼくには、そう見えた。そして、はるか遠くに窺える『点』こそが、ぼくの知っている、覚えている光景そのものだった。
あれは、いつの日の出来事だったろうか……。
遠い昔、あるいは果てなき未来の誰かが言っていた。『存在するものを、存在するものとして、存在させる……、換言すれば、存在するものの存在に関する学問、これこそが哲学である……』と。そして、哲学とは、生きることそのものであるとも、別の誰かが言っていた。
でも、よく思い出せない。言葉自体は、おぼろげながら覚えている、その一方で、彼らがどこの誰であったのか、ぼくは何ひとつとして覚えていない。そればかりか、彼らに関することはおろか、結局、自分がどのような存在だったのかもわからない始末だ。情けないことだが、ぼくが本当に存在していたのかどうかでさえ、曖昧模糊に霞んでいるという体たらくだ……。
ぼくは今も生きているのだろうか?
生きることとは何だろう?
生きることと存在することはイコールなのか?
堂々巡りの問い。幾度と無く同じ質問を自分自身に浴びせかけた気がするが、明確な答えは未だに見出せない。
世界があるということ。
自分があるということ。
生きるということ。
死ぬということ。
存在が存在するということ。
時間があるということ。
永遠があるということ。
有限であるということ。
無であるということ。
それらの意味を、まだ、ぼくは知らない。
だから今も、ぼくはぼくに問い続ける……。
何度も……。
何度も……。
ぼくは……。
かつて存在していた存在に、自らを投企するという試みを繰り返す。
止まっていた時間が、今、動き出す――。