第十三話 並行世界へ
少し前。大学の研究室で、芥川教授と対面していた時の話。『ぼく』は、ある計画を企てていた。それこそ、世界を捻じ曲げ、一回転させるようなような、途方もない計画。「記憶と肉体が同一となったクローンは、オリジナルとまったく同じ行動を取るのか?」。実験の確証はこれから得られる。……じつに楽しみだ。
さて。
他者の概念、知識。そして何より、恐怖と憎悪を植え付けられたぼくは、まるでぼくじゃないみたいに、あくどいことを行ってきた。
本当のぼくは誰か?
冷酷無比に徹するぼくの頭にふと浮かぶ疑問。
だが、そんな問いはナンセンスだ。
ともすれば二の足を踏む、恥ずべき怯懦を理性で打ち消し、酷薄な仮面を被る。
誰も、自分のことなど知らない。誰も何も、考えちゃいない。
だからぼくは、他人に勝つ。簡単に罠に嵌め、出し抜くことができる。
なぜなら、ぼくは様々なことを知り尽くしているからだ。他人の思惑を読み、行動を予測し、何なら、自分の思うままに誘導することも不可能ではない。
かつての養父が、暴力と権力でぼくを服従させ、支配していたように。
ぼくもまた、いずれは人の上に立つ者として、自分と他人をコントロールする必要がある。
ともすれば自分勝手な思考に陥りがちな人間を躾け、理性を育ませる。
養父直伝の信条を胸に秘め、降り掛かる困難に打ち勝ち、不可能を可能にしてきた。
いつしかぼくは、通過儀礼でしかない中学、高校をトップの成績で卒業すると、推薦入試を経て瀬津大学に鳴り物入りで入学、バイオテクノロジーの分野を学ぶため遺伝子工学科を専攻し、大学院では生物理工学部遺伝子工学研究科芥川研究室に配属された。
多忙を極める学生生活を送る傍らで、いろいろなことをやった。
例えば、養父は、普段はビオニクスの開発研究部門主任として真面目に勤務しているが、その裏では病院や研究機関に卸す医薬品を、暴力団などの反社会的組織などに横流ししていた。それも、大麻由来の成分を抽出して構成された薬物である、疑似大麻という禁断の果実を。
もちろん、これは極秘裏の流通である。養父はビオニクス社の権限を使い、瀬津大学の職員として潜り込ませた工作員と、その工作員と通じるブローカーが用意したトンネル会社を使って、附属病院に卸されるはずの医薬品や医療用機器の数を改ざんし、余剰分を不当に入手した後、それらを裏稼業の人間に多額で売りつけていたというわけだ。
ぼくも、また、養父が用意した闇のルートを用いてヤクのブローカーと独自の協定を結び、取引を行い、多額の金を手に入れた。
ぼくの目的のためには、金が必要だった。それは、養父も同じだったに違いない。
だから、わざわざ口にするのもはばかれる犯罪紛い(あるいはそのもの)の行為を平然と行い、ここまでのし上がったわけだ。
多少の悪事を働こうとも、結果として社会に貢献できれば、その罪は清算される。最も愚かなのは、何もしないことだ。
他からの制裁を恐れていては、何も行動できない。
重要なのは、自らの頭で考え、判断した上で動くということ。要するに、他に原因性を求めるような他律ではなく、自らを始動因とする自律が何よりも大事なのだ。
邪魔者は排除する。例外はない。
ぼくは、養父から、そう学んだ。
そこには、もう、弱虫で、守りたいものを守れなかった、かつての無力な小僧はいない。
ただ、胸の奥底で燻る野心のままに突き動かされて生きる、時に『理性の怪物』と揶揄されるぼくがいるだけだった。
それは、同じ通り名を持つ芥川教授の後継者であることを意味し、同時に、彼の教えを忠実に受け継ぐのと同義でもあった。
全ては、あの計画を成就させるため。
すでに布石は打ってある。
あとは、いかにして、ぼくがあの事実を思い出すかどうか……。
さて。
機は熟しつつあった。
あの『研究』、『理論』を基にした壮大な『計画』。
養父よ。
ついにぼくはここまで辿り着きました。
あなたの作り出した因果律を、ぼくが超越してみせましょう。
もう、あなたの影に怯え、こびへつらう、哀れな飼い犬ではありません。
全ては、養父からぼくに流れ込む因果律の渦から脱するため。
全ては、まだ、始まったばかりなのだ――。
「……研究の方はどうですか、教授」
研究室の一角で佇む、神主のような風貌の芥川教授に尋ねる。
ぼくは彼の右腕として機能している。
要は、大学で一番の信頼を置かれているというわけだ。
彼の主導のもと、様々な生体実験を行ってきた。例えば、ある遺伝子を人為的に破壊、欠損させた遺伝子ノックアウトや、逆に、本来存在しない遺伝子を生体に組み込む遺伝子ノックインなどの技法を駆使し、多種多様な遺伝子組み換え生物を生成した。
狭間家における計六年間の『義務』を終え、養父からの手を離れたぼくを指導、教育してきた芥川教授は、先の質問に対して鷹揚に頷く。
「ええ、研究はとても順調ですよ。それこそ、恐ろしいほどに」
「ぼくたちに恐れるものはありませんよ」
「はは、違いありません」
「クローン……、人体の複製。神の御業。人がおよそ足を踏み入れてはならないとされる禁足地。ぼくたちはその向こう側に到達する必要があります。人間を超越するために」
「まさか、あなたのような若者がこのようなことを企むとは思いもしませんでしたよ、透一郎くん」
手放しで褒めそやす教授に、ぼくは薄く笑って応える。
「なに、露木教授の二番煎じみたいなものですよ。そこまで特別なものではありません」
「いや、彼の計画とはまた違った角度からのアプローチには、いささか驚きを隠せません。何せ、前例がないものでして」
「相変わらずお世辞が上手ですね、ぼくを褒めたところで何にもなりませんよ」
「いえいえ、私は、ただ、事実を述べているまでです」
「なるほど、これは失礼致しました」
「ところで、残り二週間の期限で、本当に大丈夫ですか?」
「心配はご無用です、教授。理論的にはあと二週間きっかりで成果が出るはずです。それも、限りなく完璧に近い形で」
「なら、いいのですがねえ」
「ぼくに失敗はありえませんよ」
「しかし、万が一ということもありえますからね。慢心は禁物ですよ」
「……確かに、ぼくの計画が成功するか否かは、彼の働き次第ですからね」
「その通り。実験の成否が被験者に依存するのであれば、思わぬ結果が生じることも視野に入れなければなりますまい」
「それでも、計画の方に揺るぎはありませんよ」
「自信家ですね、あなたは」
「露木教授には負けますけどね」
ぼくは完璧主義者だ。
「それで、いつ、始動するのですか?」
「……早ければ、今夜にでも」
今日、一九九九年十一月二十九日。それが計画の開始日だ。
「予定通り、記憶を消すおつもりですか?」
「無論です」
そうしなければ、ぼくの理論の正しさは証明されない。
ヒトがその同一性を失った時、果たして、どうなるのか?
自己から他者への移行、もしくはその逆、その過程と結果。それがぼくの研究テーマのひとつだった。
「例えばですよ、教授」
「はい?」
「クローンには、記憶がない。設計図とも言える塩基配列は同じでも、その同一性を証明するための識別子とも言うべき記憶が欠落している。だからこそ、ヒトの双子と同様、その差異を第三者の観点から確認するには、当人の証言を除けば不可能に近かった。では、記憶さえも複製可能だとしたら、どうか?」
「……完全体とも言えるヒトクローンの生成です、か」
「仰る通りです」
露木教授が推し進めるようなヒトクローン生成では、物足りない。記憶の複製及び書き換え。遺伝子組み換えと同じように、人間の内実を操作してみたい。それがぼくの今後の展望であり――野望だ。
「極めて画期的な実験ですが、どう転ぶでしょうかね」
「わかりません。理論値的には可能ですが、現実的に考えれば未知数ですからね」
記憶の定着は本当に行われるのか? 細胞の移植と同様、拒否反応は出るのか?
「その前段階として、ぼくは彼を実験台として用います」
「例の、彼ですか」
「ええ、そのための許可は貰いました。交渉は難航しましたけど、狭間の名を出したら相手はついに折れました。こういう時に家柄や肩書というのは便利ですね。まったく、使い勝手が良い」
「なかなかの悪党ですね、あなたは」
「前衛的と言って欲しいですね。保守的な日和見主義では何も変わりませんから」
ぼくは勝つ。
そのために、他者をねじ伏せる。
「計画は是が非でも成功させてみせますよ。ぼくには協力者もいますからね」
ぼくの研究を後押しする頼もしい教授が、ね。
「何より、ぼくにはコネがあります。厚生省から天下ったビオニクス代表取締役の義兄や、開発室長である養父を擁する、狭間のビッグネームが」
だからこそ、容赦はしない。
数多の弱者の屍を積み上げた先、そこにぼくは立つ。
「それに……」
「はい?」
「ぼくには、もうひとつ検証したいことがあります」
「それは、何です?」
「意識の流れですよ」
「ほう……」
「全ては、いずれ、明らかになるでしょう」
「ほっほ、じつに頼もしい限りです」
芥川教授はヤギのように蓄えた顎髭を撫で、薄く笑う。
「最後に……、教授にひとつ質問があります」
「なんでしょう?」
「教授は神を信じますか?」
「おかしなことを聞きますねえ、きみも。私が虚無主義者と知っていて、そのような質問をするとは」
「それで、どうなんです?」
「もちろん、私は神など信じていませんが、きみは?」
「ぼくも神を信じていません」
「その理由は、なぜでしょう?」
「自由意志が、あるからですよ」
ぼくは自分のこめかみの辺りをコンコンと小突く。
神の存在を認めるということは、自分の存在理由を環境に依存するということであり、自我の否定に他ならない。神が万物の生みの親であり、全ての行動の指針だと、暗黙のうちに了解しているのと同じだ。それは人間が神の奴隷であることを意味する。
では、ぼくの思考の源泉は何か?
「――我、思う。ゆえに、我在り」
あの人からの教え。今もずっと、ぼくの心にとどまり続けている。
教授は皮相的な笑みをさらに深めた。
「きみは、その実証主義的な姿勢に似合わず、なかなか哲学的なことを言いますね」
「愚かに詩的で耽美的な露木教授には劣りますがね」
自由意志の肯定は、そのまま、神の否定を意味する。
「罪の反対は無罪ではなく、栄光です。そして栄光とは、神の注ぐ恩寵の光に包まれることであり、要するに神に付き従うことに他なりません」
それは奴隷だ。自我による労働ではない、外部に強いられた隷従。哀れにも自然に置き去りにされ、そのまま同化してしまった、足元に転がる石くれ。あるいは踏み付けるべき大地。醜いうじ虫の這う、忌まわしい地上との一体化。
「ぼくはですね、教授、このまま何もせず、ただ神の用意した箱庭の中で惰性に過ごすより、激しい悪事を働く悪魔になりたいと、そう考えてさえいるんですよ。行動が罪に繋がり、停止が栄光に結びつくというのなら、尚更ね」
「マキャベリが見た夢と似ていますね。彼は、ある時、ぼろきれを纏い、腰が曲がった、いかにもひもじそうな老人が、自分に向かって手招きしている夢を目にしました。どうしたものかと反対側に目をやると、派手な鎧に身を固めた屈強な男たちが、しきりに談義している様子が目に入りました。その軍人の輪の中心にいたのは、あのカエサルであり、アレクサンダーであり、今も歴史に名を残す傑物たちでした。彼は思いました。あの老人が佇むところが天国で、軍人の集う場所が地獄なのだと。ならば自分は、萎びた知恵者と天国で退屈に過ごすより、地獄に落ちてあの豪快な軍人たちに混ざり、互いに軍事について議論してみたいと。今のきみがまさしくそうです」
「なるほど、教授の言う通りかもしれませんね」
とすれば、やはり、ぼくは神を否定するだろう。それがぼくの存在証明ならば。
ぼくには自分の意志がある。ゆえに神は存在しない。
いずれにせよ、もう、ぼくにあまり時間は残されていない。
ぼくがぼくでなくなる前に、計画を実行しなければ……。
今度こそ、ぼくは因果律を歪めてやる。
無論、ぼくがぼくである限りは無理だろう。それは百も承知だ。通俗的時間は不可逆である。当然、分岐などしない。自然法則性に飲み込まれているぼくでは、時間遡行ないしは並行世界生成など、到底、不可能だ。
しかし、あの人から託された、この機械さえあれば……。
ぼくはポケットの中のそれを握りしめる。『時間転送試作装置』、すなわち、正式名称『波動関数発生装置』を。
――絶対に、ぼくは……。
あいつを殺す。
そうすれば、この忌まわしい因縁からようやく解放される。
「ぼくは奴隷ではない……」
唇を噛む。
口の中に鉄の味が広がる。
痛みは、とうに感じなくなっていた。
* * *
ぼくは見ていた。ずっと昔に封じ込めたはずの記憶の風景を。
それは忌まわしい過去の傷跡。
今まで傷を覆っていたカサブタは剥がれ落ち、赤黒い色をした中身があらわとなる。
これが……、これが、ぼくの記憶なのか?
だとすれば、なんという悪夢だ。こんなことが現実にあったとは思えない。
愕然とする。
こんなもの、思い出すべきではなかった。
思い出さなければ、ぼくは、こんな痛みを受けずに済んだ。何も知らずにいられた方が幸せだった。
なぜ、そんなことすら許されない?
なぜ、ぼくの心は、こんなにも冷え切っている?
ぼくは……。
ぼくは……。
本当は、誰なんだ?
「――さん」
誰だ。
「――ろうさん」
ぼくを呼ぶのは誰だ。
「――透一郎さん!」
その名でぼくを呼ぶのは、誰なんだ!
「あ、よかった……、気がついたんですね」
脳裏に響く声に堪らず、目を開けると、かえで看護婦がぼくの顔を覗き込んでいた。
険しい顔から一転して、ホッと胸を撫で下ろした安堵の表情を浮かべた姿は、何か、ただならぬ出来事があったことを、そこはかとなく匂わせる。
「ついさっき、昼食を届けに来たのですが……」
ちらっと、机の上に置かれた、病院食が載ったトレーを見る。
「そしたら、透一郎さんが物凄い形相でうなされていたものですから……」
「……そうです、か」
彼女が切羽詰まっていた事情を耳に入れるも、すでにそこに関心はなかった。
どうやらここは病室らしい。
とすると、有馬医師の診察から戻ったあとだろうか。
それにしても、胸の中がむかむかする。
ぼくは、思い出していた。
思い出してしまった。
ぼくが本当はどんな人間なのか、たとえ一部に過ぎないとはいえ、知ってしまった。
それなのに、彼女と、かえで看護婦と、どんな顔して話せばいいというのか。
「……心配しなくても構いません」
それは、誰に対して言った言葉なのか。
「ぼくは大丈夫です。どうか、お気になさらず」
ぼくがいつもそうしていたように、薄っぺらな微笑を貼り付ける。
「え、でも……」
それが単なる強がりだと見抜けない彼女ではない。
「わたしで、なにか力になれることは……」
だから、彼女は、ぼくを元気づけようとする。
「どうして……」
ぼくには、もう、わからない。
「どうして、ぼくなんかに、そこまで気を遣うんですか……」
わけもわからず、説明を求める。
意味不明だから。
ぼくが、ぼくを含めた全てが、その何もかもが、わからないから。
「だって……」
ぼくの錯乱ぶりを物ともせず、かえで看護婦は、いつものように、にこりと微笑む。
「わたしは、透一郎さんに助けてもらいましたから」
すとん、と腑に落ちる感覚。
そこで、察した。彼女が、ぼくに恩を感じているということに。
そして、思い出す。ちょっと前までのぼくが、かえで看護婦との間で、色々――そう、色々――と、あったことに。
「看護婦とか、患者とか、立場は関係ありません。人同士が助け合うのは、自然なことです。そうですよね、透一郎さん?」
自然。
確かに自然だ。
彼女は、かえで看護婦は、極めて自然な存在だ。
だが、ぼくは不自然だ。不自然な存在なのだ。昨日までのぼくと、今のぼくでは、まったく違うのだ。それはまさしく自己から他者への移行と称して差し支えなく、幼虫から成虫への遷移のごとき変容は、完全に過去のぼくと現在のぼくを分離させていた。
断絶。そこには乗り越えがたい障壁がある。時間が戻せないように、その流れは不可逆的なのだ。
ぼくは、もう、あの時の無垢な狭間透一郎ではない。あの忌々しい記憶を包含した、人を人とも思わない、残虐非道の唾棄すべき人間である狭間透一郎なのだ……。
今のぼくに、優しくされる資格はない。
だから、かえで看護婦から与えられる厚意は、今のぼくにとって、鬱陶しい、善意の押し売りに過ぎなかった。
そして、ぼくが彼女の殊勝な態度に苛立ちを覚えていることを自覚し、自己嫌悪する。
見事なまでの悪循環だった。
「もう……」
自分の中で渦巻く鬱屈とした感情に耐え切れず、顔を逸らし、渋面を作る。
「今は……放っておいてください」
「え、でも……」
かえで看護婦は食い下がる。
「わたし、透一郎さんにお世話になりっぱなしなので、せめて、何かお手伝いすることがあれば……」
「今は! 誰とも話したくない気分なんですよ!!」
「っ……」
叫んでから、自分の犯した過ちに気が付いた。
驚いたように目を見開き、声を失うかえで看護婦。ぼくに向けられたその眼差しには、驚愕に勝る悲しみの色が見え隠れしていた。
なんという失態を演じたのか!
気まずい静寂の中に放り込まれ、痛切に思い知る。ぼくは、ここで、選択を誤ったのだと。
なぜか、そんな後悔が脳裏に飛来した。
しかし、もう遅い。
そうだ……全ては、遅すぎた
何もかも手遅れだ。もう、取り返しがつかない。
「そうですよね……、ごめんなさい」
今にも泣き出しそうな表情を浮かべ、すごすごと引き下がる。
「わたしったら、ほんと、なにやってるんでしょうね……。透一郎さんがうなされていて、それで、気が動転していました……。患者さんに、こんな、無理強いしちゃって……」
「いえ、ぼくは……」
――どうした?
ぼくは、何をやっている?
言葉が出ない。
言わなきゃいけない、伝えなきゃいけない本当の気持ちが、喉に詰まり、声にならない。
なぜだ。
どうして、ぼくは――!
なんのために、記憶を取り戻したというのだ!!
「……じつは、今朝、ちょっと、悲しい出来事があって……、それで、いつもより動揺していて……。今さら、言い訳みたいになっちゃいますけど……」
「……悲しい出来事?」
「……わたしの担当する患者さんのひとりが、今朝、お亡くなりになられたんです」
ドクン、と心臓が跳ねる。
「それって……」
なぜか、動悸が激しくなる。
なんだ?
どうしてぼくは……動揺している?
「だ、誰が……」
どういうわけか息苦しい。
「誰が……亡くなったんですか?」
緊張で口内が渇く。
「それは……」
胸の前に手を置いたかえで看護婦は、悲しそうに愁眉を下げた面持ちで言った。
「竹岡さんって言うんですけど……、凄く優しい人で、未熟なわたしにもいろいろと気遣ってくださって……」
「え……」
竹岡?! 竹岡だって!?
脳裏に、彼の姿が浮かぶ。昨日、道に迷ったぼくに声を掛け、にこやかに院内薬局まで案内してくれた彼の顔が蘇る……。
まさか……彼が……。
「いつ……、彼は、いつ、亡くなったんですか……?」
無性に気になった。
かえで看護婦も、そこまでぼくが踏み込んでくるとは思わなかったのだろう。目を丸く見開いたあと、視線を伏せて答える。
「お医者様が言うには……午前四時から五時の間で……、病院の裏庭で倒れていたって……」
午前、四時。
ぼくには、その時間帯に心当たりがあった。
そして、病院の裏庭という場所にも、覚えがあった。
(……いや、そんなはずは……)
しかし、すぐさま否定する。
ぼくはずっと眠っていたはずだ。病室の外には一歩も出ていない。
――しかし、誰がそれを証明する?
ぼくは、知っていた。いや、思い出した。そう、なぜか、記憶していた。――午前四時十分、病院の裏庭。その時、何があったのかを。
あれは……あれは……。
まさか……。
「ごめんなさい、また、変なこと話しちゃいましたね……」
彼女の声は、もう届かない。
「えっと、お昼御飯、ここに置いておきますので……」
全身を駆け巡る戦慄に背筋を震わせていると、かえで看護婦は机の上に病院食を置いた。
カチャリ、と耳障りな食器の音で、ふと我に返る。
ぼくは彼女を見る。映ったのは笑顔。しかし、それは満面の笑みとは程遠い、痛々しいまでの泣き笑いだった。
そんな彼女の、飛来する悲しみを覆い隠さんとする気丈な立ち振る舞いが、ぼくの胸を――とうに消したはずの良心とやらを――責め苛む。
患者の死。守りたかったものが守れなかったという底知れない失意。
今朝、かえで看護婦の元気がなかったことの真意が、初めてわかった。
やはり、遅すぎた。
「それでは、また、あとで……」
消え入りそうな声で、彼女はぼくのもとから立ち去る。
ふと窺えた横顔は、深い悲しみの色に沈んでいた。
待ってくれ! 行かないでくれ!!
本当は、ぼくは……。
ぼくは……!!
心の中で響くぼくの叫びは、しかし、声になることはない。
扉が閉まる。彼女が消える。
――ダメだ!!
思わず叫びそうになった。
いや、実際、叫んでいたのかもしれない。
ぼくはぼくがわからない。自分が何をしているのか、何をすべきなのか、何も決められない。
頭が痛い。側頭部がハンマーで思い切り叩かれているみたいに激痛を発する。
蟹や蛇が成長に応じて脱皮するように、まるで、ぼくの中から別のぼくが生まれ落ちようとしている、そんな倒錯した錯覚さえ覚える始末だった。
……狭間家での六年間……、黒い顔……、計画……、クローン……、午前四時十分……、竹岡さんの死……。
ぼくは誰だ……。
ぼくは誰だ……。
頭がこんがらがる。情報密度が凄まじい。今にも破裂しそうだ。この圧力には耐えられない……。
(狭間透一郎……、狭間、透一郎……、は・ざ・ま・と・う・い・ち・ろ・う……)
ぼくは、ぼく自身を疑う。ぼくは狭間透一郎のはずなのに、もう、自分が信じられない。
(なぜ……こんなことに……)
激しい後悔が襲う。
なぜか、ぼくは、自分自身に対する怒りに支配される。
なんという失態だ。ぼくはミスを犯したのだ。せっかく、ここまでこぎつけたというのに……!
自分が何に執念を燃やしているのかもわからないまま、制御できない憎悪に身をやつす。
この時点で、ぼくは、もう、ぼくではなかった。記憶を失う以前のぼくでも、狭間透一郎としての記憶を取り戻したぼくでもない、もっと別の、何かだった。
ダメだ、ダメだ……。
これでは、ダメなんだ!
くそっ、くそっ!
ベッドの上でのたうちまわる。まな板の上に乗せられた魚さながらに、惨めで無意味な抵抗を試みる。それを何度も繰り返す。
繰り返す……。
繰り返す……。
そうだ……。
時間……。
時間を…。
時間を、この手で……。
もう一度、繰り返せたら……。
そう、ぼくが思った時だった。
枕元に置いていた、例の『時間転送試作装置』が、まぶしい光を発したのは。
「――――っ」
ぼくの身体が、病室が、いや、世界全体が、まばゆいばかりの光線に包まれる。
身体はほとんど動かせない。鉛のように重く、自分の意志とは無関係な挙動を繰り返す。
意識が分離しかけていた。
いや、すでに、遊離していたのかもしれない。
世界が白い光に包まれる中、ぼくは、『彼』を見下ろす。
ぼくの目には『彼』だけが映っていた。
大海原を揺蕩うように、真っ白な光の中で浮かぶ『彼』は、目を大きく見開き、口を半開きにさせ、全身をがくがくと痙攣させている。
だらりと緩んだ口角からよだれを垂れ流すぼくを見るぼくは、すでにぼくではない。
自己から他者への緩やかな移行。ぼくは狭間透一郎ではなくなる。
つまり、『彼』は、失敗したのだ。またしても、ミスを犯したのだ。因果律を、覆せなかったのだ。
まったく、何のためにこの計画を実行したのか、わかったものじゃない。
記憶の複製と捏造。そして、あの計画。全て、因果律の流れを変えるために行われたというのに。
しかし、『彼』は以前の歴史と同じ歴史を辿った。数十年掛けたこの計画の顛末は、単なる事象の再現に終わったというわけだ。
因果律の生成と分岐。『彼』と『彼ら』はそれに全てを費やしてきた。
因果律の流れを変えるには、それと等しい因果律エネルギーが必要となる。因果律は時間・空間、すなわちそれらを形成する事象質量と等価だからだ。ひとつの世界である因果に、別の因果を衝突させることで、延々と循環を繰り返す輪廻の渦に波が形成され、分岐点が生じる。つまり、選択肢が発生する。これがいわゆる可能性というものだ。人間には、因果律の流れを認識し、それを一瞬ながら食い止める意志の力がある。これは事象ポテンシャルと同等の質量――この場合、反物質としての等価という意味だが――を保有する場合がある。なぜなら、人間の意識――つまり、『ぼく』――とは、それ自体、ひとつの時間・空間でもあるからだ。そのゆえに、意識と時間はぶつかり、僅かだが歪みができる。その歪みこそが新たな因果――並行世界――の起点となり得る。
だが、『彼』はその可能性――分岐した世界の道――を選び取ることができなかった。元から存在する時間の渦に飲み込まれてしまったというわけだ。
これではダメだ! 『彼』が自分を取り戻した意味がない!
もう限界だった。この世界は、意識は、まもなく崩壊するだろう。
正しくは、異なる位相空間に移されると言うべきか。
せっかく、全てを思い出したというのに、また、全てを忘れてしまう。
しかし、それはやむを得ない。このまま同じ時間軸に残留したとしても、望まぬ結末に行き着くだけだ。
今回の試みは失敗したが、次こそは――。
何度、そうやって意気込み、何度、繰り返したことか。
しかし、今度こそは――。
ぼくはあの言葉を思い浮かべる。
『世界・内・存在――』
世界の中に存在する、世界としてのぼく。
『考えるんだ。きみの存在の意味を。そうして初めて、きみは、今、まさに、『現』に、『実際』に『存在』することになる』
ぼくの存在の意味。
それは――。
(……あの少女との約束を、果たすために……)
意識が混ざり合う。
ぼくは、景色と、空間と、時間と、一体化する。
この感覚には覚えがある。もう、何度繰り返したことか。
世界から世界へ、存在から存在への投企――『超越』。
あの機械が、時間転送試作装置が、世界間移動と並行世界生成を可能とする。
また始まる――。
夢の続きが――。
別の因果の世界が、目の前に――。