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並列世界生成原理~いかにしてぼくは過去の自分を殺したか~  作者: 河西ケン
第一章 自己の探究
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第十二話 屋敷にて

 椿の花が咲き誇る庭に、よく磨かれた大理石の敷石。翼竜のモチーフをあしらった扉の取っ手が光り輝く大きな門戸をくぐれば、そこはシャンデリアの下がる大広間。チリひとつないフローリングの床に敷かれたレッド・カーペットが象徴的な、豪勢な屋敷。――少年時代。無知無力だったぼくを拾いあげた狭間呂久郎と言う偉大な男に、ぼくは震えあがる。

 ――それは一九八九年、ぼくが中学生の頃の出来事だった。

 郊外に建てられた大きな屋敷の中。大広間と一体化した玄関には金粉をまぶしたレッド・カーペットが敷かれ、左右に設置された昇り階段まで伸びている。

 高い天井にぶらさがる三灯のシャンデリアが、瀟洒(しょうしゃ)な屋敷の内装を過剰に照らしつけていた。

 目もくらむほどの光景は、しかし、ぼくにはとても見慣れたものだった。

 それも、うんざりするくらいに。

 狭間家が誇る全三階建ての屋敷は、大正モダニズムを象徴する古式ゆかしい建築様式で、いわゆる和洋(わよう)折衷(せっちゅう)の豪華な造りだと言える。風情溢れる煉瓦(れんが)造りの外観は荘厳(そうごん)としか形容しようがなく、森閑(しんかん)とした林の谷間に突如として洋風の佇まいを現す様は圧巻だ。

 列強諸国の文化をふんだんに取り入れた屋敷の中に、ぼくはいた。

 バロック様式の内観が特徴的な他と違い、赤煉瓦の温かな色合いで構築された欧風の応接室は、見る者を萎縮させてしまう大広間の装いに対して生活感に溢れ、どちらかと言えば庶民的だ。広さは十二畳で、焦げ茶色のフローリングの上に敷かれた、金糸の刺繍(ししゅう)が施されたディープ・レッドの絨毯が目を引き付ける。

 でも、人間味に溢れる応接室の内装と相反し、漂う空気は不穏そのもの。

 なぜなら、ぼくの全身を緊張で震わせ、心の底から恐怖させる元凶が、今、目の前にいたからだ。

 革張りの椅子に座った、背丈の高い、ひとりの男。

 一糸乱れぬオールバックに整えられた銀髪が彼の機械的な性格を象徴し、眼鏡の下から覗く切れ長の瞳がぼくを冷たく見下ろす。

()()()

 父――狭間(はざま)呂久郎(ろくろう)

 どっしりとした風格を漂わせる彼が、静かにぼくの名を告げる。

 悪魔の外套を思わせる特注のダーク・スーツに身を固めた彼は、玄関の両脇に飾られた騎士の彫像みたいに微動だにしない。

 テーブルの上に両肘をついてぼくを睨みつける姿は、さながら尋問官のよう。

 そして、その表現はあながち間違いではない。

 なぜなら――。

「貴様、いつもの日課――『義務』はどうした?」

 マホガニー材を用いたイギリス製のテーブル越しに対面する()()は、今が仕事帰りにもかかわらず、疲労の色を一切見せない。

 まるで機械のような冷淡さで、息子のぼくと向かい合う。

「まさか、課せられたノルマをこなしていない、と言うわけではあるまい?」

 養父の放つ威圧感に圧倒され、頭の中が真っ白になる。

 息苦しい。

 一刻も早く、この場から逃げ出したい。

「どうなんだ、透一郎」

「……ぅ」

 地鳴りのような低い声音で問い詰められ、声にならない悲鳴が漏れる。

 ぼくは、一日十五時間は勉強しなくちゃいけない。そういう『義務』が課せられている。彼に、この狭間家に拾われた時から、ずっと。

「申し訳ありませんでした……」

 テーブルに額を擦りつけるぐらいの勢いで深々と頭を下げながら、思う。

()()()()()()、と。

 父の言いつけを守らなければ、折檻(せっかん)される。

 ルールに従わないものが絶対悪なのだから、それは当然の帰結だと、ぼくは、養父にそう教わった。

 養父は暴力こそ振るわないが、逆に精神的に圧力をかける。自由時間の削減、夕飯抜き、などは序の口で、もっと酷いものになると、徹夜で追加の課題をやらされるほどだ。

 養父がぼくに体罰を与えたのは、最初に言いつけを守らなかった一度――本当に、たったの一度――だけだったけど、逆に、その一撃があったからこそ、次にいつ殴られるのだろうかという潜在的な恐怖が常に根付き、ぼくを強迫観念へと駆らす。

「もういい。顔を上げろ、透一郎」

 霜が降りるような声色に、背筋が凍る。

 恐る恐る顔を上げ、養父の方に目を向けた。

「形だけの謝罪など結構だ」

 冷酷に告げた。

「次はないと、前もって警告していたはずだが?」

 眼鏡の位置を正しながら、容赦なく責め立てる。

 返事ができない。

 冷厳な養父の追及に圧迫され、口が渇く。

「――まったく、あまり私の手を煩わせないで欲しいものだな」

 これ見よがしに溜め息を吐き、抵抗できずに立ち尽くすしかないぼくにさらなる圧力を加える。

「この私を失望させるなよ、透一郎」

 ぼくを押し潰そうとする、とどめの一撃。

「……はい」

 そう答えるしかない。

 ぼくは期待されている。わかっている。そんなことは百も承知だ。

 それでも、どうしようもないのだ。

 机に向かい続けていると、意識が朦朧(もうろう)とする。頭が痛くなる。気が遠くなる。身体が言うことを聞かなくなる。こればかりは、ぼくには、どうしようもない。

 だけど、養父は、そのような甘えを絶対に許さない。

 狭間に貰われた最初の頃、慣れない勉強漬けの日々に疲れ、弱音を吐くや否や、即座にぶたれた。

 一瞬、何が起こったかわからなかった。

 床に倒れ、焼けるような痛みを放つ頬を手で押さえているぼくを、養父はゴミでも見るような侮蔑の視線で冷たく見下ろす。

『死にたくなければ、努力しろ。ここではお前は物事を記憶するだけの道具に過ぎない』

 そこから、地獄のような最悪の日々が始まった。

 そして今も、ぼくは現在進行形で地獄の王と対面している。感情の起伏に乏しい、冷酷非道な養父と向かい合っている。

「透一郎、貴様、何を余計なことを考えている?」

 怜悧(れいり)な養父は、簡単にぼくの思考を見透かす。

 心臓が、縮み上がる。

「お前は、今のように、何か困難なことに直面すると、無意識のうちに内向的になり、自分の殻に閉じこもろうとする癖がある。そして、その時は、決まってお前の表情は締まりのないものに変わる。私が気付かないとでも思ったか?」

 養父は、ぼくのことなど何でもお見通しだと言う。

「現実から目を逸らし、気を紛らわせようとしたところで、無駄だ。私は、常にお前を監視している。どこにいようと、何をしようと、全ては筒抜けだ」

 養父の言うとおりだった。

 昔、苦し紛れの嘘をついたことがあったが、即座に看破(かんぱ)され、途端、烈火のごとく勢いで叱られた。

 以来、ぼくは嘘をつかなくなった。

 仮に嘘をつくとしても、絶対にばれない嘘をつくように訓練された。

 要するに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 嘘を嘘と見抜けなければ、それは得てして真実となる。

 だからぼくは、自分を騙し続けなければならない。

 でも……、厳格な養父の前では、そんなぼくの努力はむなしく霧散する。

「さて、腑抜けなお前を克己(こっき)させるために、私から幾つか質問してやろう」

 養父はいつだってぼくを試す。

「理性的存在である人間には、ある種の義務が課せられている」

 養父は口癖のように言う。“人間には、生まれつき義務が課せられている”、と。

「まず、第一に、人間に課せられた義務とは何だ?」

 ぼくがここに来た時、最初に植え付けられた概念。

「それは、幸福になろうとする義務です」

 要するに、それは生きることと同義であり、生きるとは保存と安寧(あんねい)を意味する。

 ゆえに、人間は幸福に生きねばならない。そうでなければ、人間は、容易く破滅の一途を辿るからだ。

 なぜなら、人間は、動物的な本能に従う以上、節制よりも快楽を、保存よりも破壊を好む生き物だからである。

 単に生きるだけでは、人は幸福にはなれない。そこには絶え間ない忍耐と苦悩が付き物なのだ。有事に備えて食料を蓄え、健康を維持し、労働につとめる。社会の一員として経済を回し、国に貢献する。自分勝手に生きていては、幸福の義務を遂行することは不可能だろう。

 つまり、幸福に生きる義務とは、善意志と呼ばれる理性の最高原理――道徳的法則――に則ることである。

 一番初めに養父から学んだことは、一種の形而上学とも言える道徳的価値観、倫理学だ。

 いかにして人間は生きるべきかを、両親を亡くし、途方に暮れていたぼくに対して、養父は常に問い続ける。

「よろしい。では、お前が言う幸福とは、どのような状態を指すのか、わかるか?」

 考えるまでもない。

「徳である状態を選択することです」

「では、徳とは何だ?」

中庸(ちゅうよう)のことです」

「中庸とは何だ?」

「過不足に陥らず、常に己を律することです」

 そこまで言って、自分の胸が痛むのを自覚した。

「ほう、今にも哀れに泣き出しそうな間抜けな面構えの割には、倫理学についての初歩的な部分は記憶しているようだな」

 忘れるはずがない。

「そうだ、お前の言うように、過不足というのは、しばしば人間を悪に(おとし)める。すなわち怠惰(たいだ)と貪欲。それは自らの意志で選び取ったものではなく、おのれ自らの欲望に流された結果というのが余計に性質が悪い。自分で自分の過ちに気付かないからだ」

 養父は常に、ぼくにこう強要する。『格律(かくりつ)で生きるな。自らの格律を法則性に当てはめ、善意志に適っているかどうか思考せよ』と。

 格律というのはいわゆる主観的原則で、要するに、自分の観点だけで物事を判断するなと、養父はそう言っている。

「にもかかわらず――」

 切っ先鋭い眼光に、どす黒い感情を宿らせる。

「お前は、義務を遂行することを怠ったわけだ」

 わかっている。

「徳である状態を選択せず、義務を犯した」

 だから養父は、回りくどく、このように答弁を繰り返す。自らの非を、自認させるために。

「何か、弁明はあるか?」

「……ありません」

 狡知(こうち)に長けた養父は、お得意の弁証論を武器に、徹底的なまでに自己批判させる。自らの意志で自分を責めるよう、巧妙に促す。

「なぜ、逃げた?」

 止めどない責苦。

 ぼくは何も答えられない。ただ、ギュッと手のひらを握り、耐えるのみ。

「人間というものは難儀な生物だ。絶対に、自分が自分であることから逃れられない。()()()()()()()()()()()()()()()()()。そのことを知っていて、尚、お前は逃避した。卑劣にも、自分自身を騙した。ただし、それは、到底、真実になりえないような、姑息(こそく)な欺き。弱い自分自身を超えようという否定的な自己欺瞞(じこぎまん)ですらない。ゆえに、こうして即座に見抜かれる」

 しつこく糾弾(きゅうだん)され、冷や汗が背筋に滲む。

「幸福の絶対条件である徳を怠るなど、最低最悪の選択。生きることを放棄するのと何ら変わりはない。お前は自ら死を選んだのだ」

 養父はぼくに死ねと言っている。

「だが、お前はまだ死んでいない。なぜだかわかるか?」

「……自由な意志があるから、です」

 絶え絶えにつぶやく。

 理性の原理、自由意志。既存の自然法則性とは別に自立した法則性を生み出す、人間だけに許された特権――認識の可能性。

「その通りだ。お前は生も死も自分の意志で選べる。私の命令に従うか否か、その選択に応じて。だからこそ、私は不思議でたまらない。どうして自ら不幸になる道を選ぶのか」

「…………」

 何も、言い返せない。

 全て、養父の言う通りだった。

 自由と聞くと、『何でも自分の好きなことをしてもよい』と捉えがちだけど、実際はそうじゃなくて、むしろその反対だ。

 なぜなら、ここで言う自由とは、『己に規律を設ける』という否定性の意味での自由だからだ。単にやりたいことをやるだけでは、それは自由とは呼べない。そこに行動を制限する不自由性がなければ、何をもって自由とみなせるだろうか。

 ――養父は、ともすれば辛い『義務』から逃げようとするぼくをこのように縛り付け、鉛よりも重たい規則でがんじがらめにする。

 自由という可能性の剥奪。

 しかし、それもまた、自分の意志で行ったことなら、やはり、自由なのだ。可能性と不可能性もまた、共に互いを切り離せないから。

 ぼくは自由に選ぶことができる。生きるか死ぬか。すなわち、課せられた義務を果たすか否か。

 だけど、ぼくは、義務を果たすことができなかった。

 いや、()()()()()()()()()()()()()()()()。他ならぬ自分の意志で……選び取ったのだ。養父がさきほど言ったように、ぼくは規則を守って生きることより、規律を破って死ぬことを選択したのだ。

 それは例えば、法律の一切を無視して生活するのと同じだ。法治国家である日本で法律を守らず、好き勝手に生きるということは不可能であり、文字通り死を意味する。警察に捕まり、法廷で裁かれ、暗い牢獄に入れられる。場合によっては極刑すらもあり得るだろう。そこには、もはや、最初に自分が求めたような自由はない。無味乾燥で絶対的な死だけが待ち受けているばかりだ。

 養父がぼくに教えていることは、まさにそれだった。

 養父は偉大だった。憎たらしいほどに完全無欠で、つけ入る隙がない。

 だから、ぼくは疑問に思っていた。()()()()()()()()()()()。特に最近は、自分に向けられたその謎が膨れ上がるばかりだった。

 果たして、ぼくなんかが養父を超えられるのかと、不安でたまらなかった。

 ぼくが養父に貰われてからすぐの頃は、それこそ彼に家族の一員だと認めてもらうためにがむしゃらに勉強した。どんな辛い仕打ちにも耐えた。

 しかし、今は逆に、当初に抱いた養父に対する恐怖とは別の恐ろしさが生じている。

 それは、養父の言いなりになるだけで、肝心の養父の意に沿えるのかという根本的な疑念だった。狭間の跡継ぎとして養子縁組を組んだ以上、ぼくはどうしても、養父と言う絶対的な壁を乗り越えなければならない。

 そう思うと恐ろしくて、まったく勉学に身が入らない。養父に従い、やがてその大きな背中に追いつき、出し抜く、その目標、課せられた義務こそが、ぼくに生きる気力を、目的を見失わせる。()()()()()()()()。ぼくの苦悩の根幹は、それに尽きる。

「どうした、透一郎――」

 彼は、勉学に不要なことは一切考えるなと釘を刺すが、必要なことは逐一考えろと無理難題を強いる。

 ぼくは、強引に、養父の掲げる教条を徹底的に叩き込まれる……。

「私の目を見ろと言うのが、わからないのか?」

 声の調子が一層強くなり、思わず、ビクッと震える。

 そんな、狭間の人間にあるまじき情けない反応を目に入れた養父は、やれやれと言わんばかりに冷笑を漏らす。

「その様子だと、まだまだ自覚が――薬学屈指の名家たる狭間の屋号を継ぐ覚悟が――足りないと見える」

「……っ」

 容赦を知らない養父の凄味に恐れおののき、思わず喉が鳴る。

 がくがくと全身が震える、恐怖に飲み込まれそうになる……。

「お待ちください」

 押し寄せる絶望に負けまいと歯を食い縛り、膝に揃えた両手を痛みで感覚がなくなるくらいに握り締めていると、背後で動きがあった。ぼくと養父しか居合わせない応接室に、聞こえるはずのない声が耳に届く。

 意識が、全て、その一点に注がれた。

「……(ゆう)閑寺(かんじ)……」

 全身にのしかかる圧迫感を裂き、助け舟を出したのは、使用人の祐閑寺なつきだった。ノックもなしに応接室を開け、ぼくと養父の間に割って入る。

 普段は作り物みたいに表情の変化に乏しい彼女が、その陶磁器みたいに綺麗な顔を歪め、明らかに怒りをあらわにしている。

 驚くと同時に、嬉しさが込み上がった。

「今は取り込み中だ。用件なら後にして貰おう」

 思いがけない来客にもかかわらず、養父は驚いた素振りを一切見せずに淡々と告げる。

 だが、彼女も怯まなかった。

僭越(せんえつ)ながら申し上げますが、坊ちゃまはまだ子供です。僅か十四の(よわい)に過ぎない坊ちゃまに、旦那様の教育方針は、いささか荷が重すぎるかと」

 黒と白のエプロンドレスを羽織った祐閑寺が養父に意見するたび、亜麻(あま)(いろ)のお下げ髪が揺れる。

 ただし、養父は一歩も譲らない。

 険しい顔つきの祐閑寺を悠然と見下ろし、静かに口を開く。

「滅多なことを言うな、祐閑寺。年齢など関係ない。要は、覚悟があるか否かだ。狭間家の看板を背負って立つほどの器量など、後から幾らでもついてくる。だからこそ、聞き分けのない子供には(しつけ)が必要不可欠なのだ。自己を律する能力が未熟である以上、我々のような大人が将来的な指針を示さなければならない。それの何が間違いだというのだ?」

「それは……、そうかもしれませんが」

 有無を言わさぬ正論に、さしもの祐閑寺も唇を噛み、押し黙る。

「しかし、たかが使用人の分際で、主人である私に意見するとは、どういう了見だ? まさか、透一郎に同情の念が湧いたわけではあるまい?」

「…………」

 彼女は答えない。

 傲然と佇む養父を真っ直ぐに見据えながら、無言の抵抗を続ける。

「……ふ」

 このままでは(らち)が明かないと判断したのか、養父は、鉄格子のごとく固く閉ざされた口を重々しく開いた。

「私は、透一郎を我が狭間家の跡取りに仕立て上げるつもりで生かしている。薬学の名門として恥じない人材に育成しようと、御覧の通り心血を注いでいるわけだ。まさしく父親の義務とも言うべき愛の鞭に対し、如何様(いかよう)な文句があるというのか?」

「…………」

 やはり、彼女は何も言わない。

 養父と祐閑寺は、立場が真逆だ。二人は主人と給仕という主従関係にあり、絶対に覆せず、また、埋められない隔たりがある。

 それなのに、祐閑寺は養父と対等に渡り合おうと、息の詰まるつばぜり合いを繰り広げている。

 でも、ぼくにはわかっていた。初めから、祐閑寺に勝機はないことに。

 一見すると彼女は健闘しているように映るが、実際はその反対だ。じつのところ、最初から勝負にすらなっていない。同じ土俵に立てていないのだ。

 そのことをわかっているから、養父も下手に口出しせず、あくまでも出方を窺うだけにとどめている。それこそ、捕食者である猫が、エサのネズミを痛めつけてから食らうように、余裕の態度で弱者の抵抗を眺めているわけだ。

 無言の圧を加えているふうを装う祐閑寺も、厳密には、何も言い返せないだけ。ここで使用人の枠を超えて過剰に抗議しては、自らの役職を外されかねない。そのことを、祐閑寺が一番良く理解している。

 ぼくも、祐閑寺も、主人である養父に口答えすることは許されない。

 なら、どうして彼女は我が身を顧みずに、単身、父の前に躍り出たのか?

 ……わからない。

 息子であるぼくでさえ養父を恐れ、言いなりになるしかないのに、単なる使用人のひとりでしかない彼女は、しかし、こうして果敢に立ち向かう。

 まったくの無意味どころか、むしろ逆効果でしかない無謀な行為を、どうして、祐閑寺は……。

「……ふ」

 そこで、鉄仮面を装着したかのごとく仏頂面だった養父が、初めて表情を緩めた。

 ……この人も、こんなふうに笑うのか。

 祖母と接する時などに見られる、愛想の好い作り笑顔ではない自然な微笑は、とてつもなく不気味で、底知れない恐怖を感じさせる。

 ふと窺えた養父の冷笑に、ぼくの背筋は震え上がった。

「いいだろう。確かに、透一郎の教育係は、祐閑寺、貴様に一任してある。よって、透一郎がノルマを達成出来なかった責任の一端は、貴様にもあるということだ」

 それって……。

「貴様に罰を与える、祐閑寺」

 冷酷に告げられ、心臓がぐさりと痛む。

 ……祐閑寺が、ぼくの失態の尻拭いをする。

 悔しかった。

 でも、ぼくは声を上げない。異議を唱えない。

 ……唱えられる、はずがない。

「覚悟しております」

 絶望に(すく)み上がるぼくとは対照的に、祐閑寺は、きっぱりと、迷いのない口調で断言する。

 決して物怖じしない毅然とした態度に、養父は面白いとばかりに口角を吊り上げる。

 ぼくはただ、問題の当事者なのに、二人のやり取りを傍観するだけ。

 ――居たたまれない。

 でも、今は、口出しする時じゃない。いたずらに刺激を与える時じゃない。

 今は耐えろ。

 耐えるんだ。

 自分に言い聞かせる。心を凍り付かせる。

 今は、まだ――。

「なるほど」

 脳裏に飛来する屈辱を耐え忍ぶしかないぼくを一瞥して、養父は不気味に笑う。

 それはまさしく、死神の笑顔だった。

「今日のところは、透一郎に非がないとみなそう。今日だけは、な」

 酷薄な微笑を浮かべた養父の顔を視界に入れる、ただそれだけで、心臓が縮み上がる。

「だが、祐閑寺。さきほども述べた通り、お前は別だ」

 安堵する猶予も与えず、冷徹な声が耳に届く。

「透一郎が義務を放棄し、恥ずべき安逸(あんいつ)(ふけ)ったのは、ひとえに、お前の教育が悪い――」

 さきほどまでの薄笑いとは一変した、ゴミでも見るような凄まじい形相で、辛辣につぶやく。

「そのような判断を下しても、一向に構わないと、貴様はそう言うのだな?」

 また、養父はぼくを見る。憎悪と悪意に満ちた苛烈な視線で、ぼくを責め立てる。

 だが、ぼくは何も言わない。今にも反論したくなる衝動をこらえ、じっと、耐え忍ぶ。

「もういい、下がれ」

 付き合ってられないとばかりに、冷酷に吐き捨てる。

義母(かあ)(さま)に、じっくりと、お(きゅう)を据えて貰うことだ」

 養父は立ち上がる。

 その貫録は、一国の主を彷彿とさせるほどの威厳に満ち溢れており、一介の小僧でしかないぼくなんかでは到底敵う相手ではないということをいやが上に思い知らせる。

 養父は、祐閑寺の目の前に立つ。

 彼よりも頭ひとつぶん背の低い祐閑寺は、養父を見上げるしかない。

 ――居たたまれない。

 一触即発の張り詰めた空気の中で睨み合う二人を見守るしかないぼくの方が、今にも卒倒しそうだった。

「……」

 その時、養父が祐閑寺の耳元で何かを囁くのを、ぼくは見逃さなかった。

 祐閑寺の目の色が変わり、頬が引きつる。

「……せいぜい、自らに課せられた役割を演じ切ることだな」

 おぞましい微笑を携えた養父は、そのまま席に戻る。

 それを合図に、祐閑寺は深々と一礼して後ずさると、扉に手を掛ける。

「失礼します」

 飛ぶ鳥跡を濁さず、静かに部屋から去る。

 頼れる人は、もういない。

 冷血漢である養父とぼくの二人だけが取り残される。

 ぼくは――無力だ。

 ギリリと歯ぎしりする。

 育ての親である養父にだって、何も言い返せない。

 いや、言い返すべきではないのはわかっている。いくら養父に反抗しても、何の解決にもならない。そんなことは百も承知だ。特に、今回に至っては、祐閑寺の厚意を無駄にすることと同じ――。

 そんなの、ただの我がままだから。

 だから、心を凍りつかせる。

 今は、非情な仕打ちに耐える。

 耐えるんだ。

 いつの日か、彼らを見返すために。

 今だけは、身の上の安全を図る卑怯者となるんだ。

 その覚悟が、ぼくには必要不可欠なんだ。

 祐閑寺が、自らの身を挺して養父に進言したように。

 自ら、苦しみの渦中に飛び込む覚悟が、ここで、生き残るためには、どうしても――。

 唇を噛む。

 痛みも何も、感じない。

 心は、ひどく、冷え切っていた。

「――透一郎」

 むせ返るような静寂を裂く、無機質な言葉。

 全てを透過する冷たい瞳で、目の前の男はぼくを射抜く。

「悔しさに涙を滲ませているな? 私の目は誤魔化せないぞ」

 弱味を悟られまいと必死に感情を押し殺すも、それを難なく言い当てる。

 やはり、養父には敵いそうもない。

 観念したぼくは、敵意を剥き出しにした目つきで養父を見据えるが、肝心の養父はその抵抗を嘲笑するように小さく鼻を鳴らすと、猛禽類(もうきんるい)を思わせる鋭い眼光を向け、対峙するぼくを逆に射竦(いすく)める。

「この私が非情だと思ったか? 理不尽だと(ほぞ)を噛んだか? 今すぐに(くび)り殺したいほど、憎くて憎くて仕方ないか?」

 問いに答えず、黙って、威圧的な冷笑を浮かべる養父を睨む。

 すると、養父は満足げに息を吐いた。

「そうだ、それでいい。お前が私を憎く思うのは当然だ。なぜなら、それは、お前が私を敵視するよう、あえて私が仕向けた結果であり、言うなれば因果律の成立に過ぎないのだから」

 因果律……?

「いいぞ、透一郎、その目つきだ。本心では(はらわた)が煮えくり返るほどに激昂(げきこう)しているが、理性で感情を押し込む。利口だよ、賢い選択だ」

 養父は肝要なことを言わない。主語を濁し、ほのめかすだけで、あとはぼくにとことん考えさせる。

「そうとも、これが現実だ。実力の足らない者は、心ではどう思おうとも、身動き出来ない。身体は――本能は正直だ。脳が発した電気信号、四肢を支配する恐怖と言う名の呪縛にがんじがらめにされ、自分の肉体すら自由に出来ない。まったく、呆れるほどに哀れだな。力がなければ、惨めな奴隷でしかない。だからお前は、成す術もなく踏み散らされる。抗うことすら、許されない」

 あなたは……。

「これだけは覚えておけ、透一郎。弱い因果は、強い因果に易々と飲まれるということを。自分という因果にすら、抗えないということを。これは別に、弱肉強食という意味ではない。如何な百獣の王も、嵐や日照り等といった天災などには無力であるように、単なる能力の差では埋められない間隙はどこにでもある。これが『流れ』というものだ。そして、万物はこの流れのうちにある。つまり、小さい流れは大きな流れに一方的に食い尽くされる。『二足す二』は、『四』だ。それが世の中の絶対的な形式だ。因果律とはそういうものだ」

 どうして、そんなに冷たいことが言える……?

「しかし、人間は違う。どのような因果律も捻じ曲げることが出来る。自由意志の力で、な。『二足す二』は、『四』ではなく、『三』にも『五』にもなる。奴隷が主人を打ち倒すことも不可能ではない。今回だってそうだ。お前が、私の言いつけを――義務を守れば、こんな事態にはならなかった。違うか?」

 口元に酷薄な笑みを浮かべながら……。

「お前は選択を誤った。無様にも本能に従った。そのゆえに、弱い因果が消える。私と言う強い因果に飲まれて。一人、また一人、お前が弱いから、目の前で別の因果が流れに飲まれては、消えていく」

 心底、愉快そうに、冷めきった持論を言えるんだ……?

 改めて、養父の恐ろしさを実感する。

 ――魔王(サタン)だ。突然、目の前の男が、コウモリのような翼を持った恐ろしい化け物に見えた。

 この人は、もはや人間じゃない。息子が苦しんでいる姿を見ながら冷たい笑みを口元に浮かべる――怪物だ。

 まさしく魔王。養父は魔王だ。精読することを義務付けられた聖書に登場する魔王そのものだ。魔王と同じく、ぼくを試す。欺く。手玉に取る……。

「わかったか透一郎。お前は弱い。だが、理性がある。そこが獣と違う点だ。必ずしも感情に流されるのではない、()()()

 凶悪な魔王はその魔眼を光らせ、眼下のぼくを睥睨(へいげい)する。

「人間は考える(あし)だ。今は小さな萌芽(ほうが)も、やがては大きな幹となり、大輪の花を咲かせる。芽生えた怒りを、悔しさを、屈辱を、最大限に活用しろ。何にでも利用価値がある。今回の件も、逆手に取れ。常に視点を切り替えろ。自分の観点だけで物事を判断するな」

 まるで、神によって造られた人間に、禁じられていた知恵の実を食べさせる魔王のごとく。

「理性だ。まとまりのない感情を統一させ、自ら選択しろ。流されるのではない。自らに抗いながら、社会の流れに身を投じろ。しかし、間違っても、他人にとって都合の良い、使い勝手の良いだけの道具に成り下がるな。よしんばそうなったとしても、あくまでも、お前の意志で選び取れ。さもなければ、永久に流されているがいい」

 養父は、言葉巧みに、無知で無力なぼくに向かって叱咤(しった)激励(げきれい)し、啓蒙(けいもう)する。

「透一郎、お前には理性がある。何事も選択する自由が。ゆえに、お前は私の言いなりになる。今はそれが一番正しいからだ。極めて論理的だ、理に適っている。だから、祐閑寺が私に口答えした際も、お前は声を上げなかった。そして、それは正しい」

 無垢な素材に色を染み込ませるように、一切の妥協を許さず、凄絶(せいぜつ)なまでに独自の理論を叩きこむ。

「その点に関しては見事だ、我が息子よ。この程度で音を上げるなら、『特別試験』も視野に入れていたが、なるほど、伊達に奴らの血を引いているわけではないと、そういうことか」

 悪魔めいた毒々しい微笑で意味深に頷く。

「せいぜい、今は無力感に打ちひしがれるがいい。絶望もまた、義務なのだ。ただし、その無力感を忘れるな。たとえ一時的に忘却したとしても、必ず思い出せ」

 ――絶対に忘れるものか。

「今のお前では誰も救えない。誰の肩代わりにもなる資格すらない」

 だからぼくは強くなる。

「それを胸に刻み付け、頭に、脳に、記憶に叩き込め。憎しみを、怒りを、絶対に、手放すな」

 この記憶は、ぼくの物だ。

「しかし、それらに利用されるな。感情を律し、理性で扱え。自分の考えすら疑うのだ。本当に法則に適っているかどうか、常に斟酌(しんしゃく)しろ」

 考えてやる。

 今は考えずに勉学に没頭することを義務付けられているが、いずれ必ず、考えて、考えて、考え抜いてやる

「この私のように――」

 未来のぼくを信じて。

「全ては格律だ。私もお前も、自分の考えからは絶対に逃れられない。だからこそ、普遍(ふへん)妥当性(だとうせい)に適っていれば、如何な強引なやり方だろうと免責される。子の幸せを願う親が罰せられる国があるか? 勉学を推奨するのを良しとしない政治が、どうして立ち行き、秩序を保てる? 全ては望まれるがゆえに歓迎され、熱烈に求められるがゆえに存続する」

 自己投影に近い養父の願望は、社会の願望と一致し、ともすれば同一視される。

 だから養父は、平気でぼくを苦しめる。自分の思考を正当化する。

「透一郎。お前の基準を普遍妥当性に当てはめろ。自分の枠に囚われるな。固定観念に縛られた時、お前は本当の意味で道具と化す」

 そして、ぼくは養父が間違っているのかどうかを判断することもできない。比較対象が、ほとんどないからだ。

「今までのような生温い生き方では、社会では生き残れないぞ。現時点では甘やかされていても何ら不都合はないだろうがな。温室を出たあとの冷たい牢獄暮らしは、さぞかし堪えるだろう。しかし、一度、社会の枠組みに組み込まれたら最後、すでに手遅れだ」

 冷たい牢獄とは、刑務所や留置所の直喩(ちょくゆ)ではない。現実社会を揶揄やゆした形容だ。

「惨めな思いをしたくなければ、這いつくばってでもペンを走らせろ。是が非でも机にかじりつけ。弱音を吐く暇があったら単語のひとつでも復唱しろ。死ぬまで頭を使え。ただし、今は何も意味など考えるな。単に記憶だけしていればいい。機械のように、Aと入力されたら、Aと出力する。それを徹底しろ」

 よく養父は、現実社会は巨大な檻だと皮肉っていた。自由なようでいて自由はなく、金と欲で稼働する歯車で形成された、出るに出られぬ監獄だと。

「お前は道具だ。社会にとっての部品、代替(だいたい)可能(かのう)な歯車に過ぎん。今の時点では、所詮、使われる側だ。弱者というのは、いつの時代でもそうだ。無慈悲にも踏まれる側の立場、経済の土台、生活圏の埒外(らちがい)に置かれたしらみか蛆虫(うじむし)か、ともかく、悲鳴を上げることさえも許されざる存在なのだ。なにせ、初めから存在することを認められていないのだからな」

 では、今のぼくはどこにいる?

「私のように、道具を使う側に立つには――今は何も考えるな。ただ、頭を動かせ。この痛みと屈辱と共に刻み付けろ、ありあらゆる知識を、方程式を叩き込め。いずれそれは貴様の武器となり、ゆくゆくはお前自身となる」

 ぼくは、考えない。

「何も考えずに、記憶だけしていろ。感情を排せ。記憶こそがお前自身であり、知識こそがお前の得物なのだ」

 それが、両親を亡くしたぼくが養父に貰われてから最初の四年間――十二歳から十六歳まで――の記憶だった。

 ぼくは知恵を与えられた。禁じられた悪徳と言う知識を、養父から学び取った。

 二十四時間三百六十五日、勉学に埋没する日々。何があったかなんて、いちいち覚えちゃいない。

 覚えているのは、知識のみ。そして、養父や祖母から受けた壮絶なしごきと、痛みぐらいのものだ。

 勉強するのは苦じゃない。苦しいのは、自分の肉体が限界を超え、音を立てて軋み始め、精神が悲鳴を上げる時だ。いくら精神力があっても、身体が言うことを聞かない時はどうしたってある。

 その際、彼らは躊躇(ちゅうちょ)なくクスリを注射する。精神を高揚させる作用がある薬品を、投与する。医学博士であり、自らも製薬会社で研究員を務める父にとって、心身ともにボロボロのぼくにクスリを与え、あまつさえ酷使させるよう仕向けるのは造作もないことだったに違いない。きっと、マウスやモルモットなどのモデル生物に試薬を投薬するのと大差ないのだ。そうでなければ、血が繋っていないとはいえ、あのように非道徳的な措置を取る説明がつかない。

 誰も、ぼくの苦しみはわからない。世間では、名家に拾われた運の良い野良犬と噂されるぼくの苦悩など、他人はついぞ興味がないのだ。

 いくらぼくが、陰で血反吐を撒き散らし、地べたを醜く這いつくばっていたとしても、結果的に成功を収め、社会に貢献すれば、養父の冷酷なやり口も法則に則ったことになり、得てして()()()()()()()。実力主義のこの社会なら尚のこと、養父はいよいよ正しくなるのだ。

 自分が良い、悪いと思ったことも、その時点では単なる主観でしかない。全てを客観と照らし合わせた上で判断しなければ、それはそもそもナンセンスなのだ。


『道徳には三原則がある』


 はじめて養父と会った時、彼は、緊張に委縮するぼくの前で極めて冷酷に言い放った。


『第一に、自分の頭で考える』


 ぼくに考えることは許されない。


『第二に、論理的に考える』


 何も、考えられない。


『第三に、相手の立場で考える』


 考えるなと言われているのに、考えろと言う。

 明らかな矛盾。

 ぼくには意味などわかるはずもなかったし、そもそも、理解したくもなかった。

 だから養父は、ぼくに義務を課す。ぼくが独り立ちするまでの期間は養父の言いなりになること。言いつけを遵守すること。それこそが、社会が望んだ人材を育成するための最適、最短の選択であり、養父のような非人道的なやり口を社会が容認する最たる理由だ。

 養父が語るには、人間には予め義務が課せられていると言う。それは幸福の義務であり、善を成す義務だと言う。

 ぼくにはよくわからない。ぼくが何を望んでいるのか、よくわからない。

 何が幸福で、何が善なのか。

 なにも、わからない。

 人が幸福になるために生きているなら、ぼくの味わっている苦しみは何なのか? この苦しみこそが、幸福の条件だとでも言うのか?

 やはり、わからない。

 自由とは、理性とは、なんなのか――。

 この時のぼくには、わからなかった。

 確実に言えることは、ぼくに自由はないということ。ゆえに、ぼくは存在しないということ。ぼくは、自分のことなど、自由に考えたことがないから。

 ただ、決まった道を、決まった手順に沿って進む。それだけ。

 今はまだ――。

 ……いつの間にか養父は消えていた。応接室にはぼくだけが取り残される。

 随分と長い間、考えごとをしていた気がする。

 結局、罰は祐閑寺の方に全て向く形となった。

 ぼくはどうすればいいのか。

 養父がいなくなった途端、緊張の糸が解け、疲れがドッと押し寄せる。

 まるで、身体の芯から中身が溶けていくようだ。なぜ、ぼくがここにいるのか。そんな簡単な理由すらもドロドロと溶解し、あやふやになる。

 何もかもがどうでもいい。

 ぼくはこの世界が嫌いだ。弱者を平気でなじるこの社会が、そういった図式を迎合する大人たちが大嫌いだ。

 そして何より、卑怯で卑劣な大人に従うしかないぼく自身が大嫌いだった。

「踏み潰してやる……」

 それは、果たして、誰に向けられた言葉か。

「いつの日か、絶対に……」

 目の前がぐにゃりと歪む。

 灰色に染まる視界。


『いつか、殺してやる』


 床の下から現れた黒い顔が、ふと、にたりと白い歯を覗かせたような気がした。


 養父が去ってからも、ぼくは応接室で呆然と立ち尽くしていた。

 怒り、悲しみ、憎悪……、そういった負の感情が取りとめもなく渦巻く。


 ――コンコン


 ひとり、途方に暮れていると、応接室の扉を叩く音が静寂の室内に響く。

 そこで、ぼくは感知した。

「どうぞ……」

 ぶっきらぼうに告げる。

「入っていいよ」

 ややして、遠慮がちに扉が開かれる。

 ぼくの立つ場所から見て、右側。

 彼女が、そこに立っていた。黒白のエプロンドレスを身に纏った、ぼくにとってかけがえのない、唯一無二の心の支えが。

「祐閑寺……」

 弱々しく、彼女の名を呼ぶ。

「坊ちゃま」

 静かに告げると、ゆっくりとした足取りでぼくのそばまで歩み寄る。

 うっすらと目を細めた、神妙な面差し。

「祐閑寺、ぼくは……」

「よろしいのです、坊ちゃま」

 思慮深い彼女は、ぼくの言わんとするところをいち早く察したのか、にこりと柔和に微笑む。

「わたしの力が至らないばかりに、坊ちゃまにお辛い思いをさせてしまいましたね」

「それは――」

 それは、ぼくの方だ。

 ぼくが無力だから、祐閑寺が代わりに罰を受けることになってしまった。

 謝るのは、ぼくの方なんだ。

 でも、この思いを吐き出すことは叶わなかった。

 祐閑寺が人差し指を口に当て、ぼくの行動を制したのだ。

 向けられた瞳は柔らかな光に包まれ、優しい熱を帯びている。

「……今日はもう遅いですから、自室に戻りましょう」

「……うん」

 その目に魅入られ、素直に従う。

 心身ともに疲弊しきった今のぼくには、少しばかりの異議もなかった。

「さあ、坊ちゃま」

 彼女が手を差し出す。白い、綺麗な手だ。傷ひとつないきめ細やかな肌は彫刻みたいに美しく、しなやかな細い指先はまるで柳の枝のよう。

 ぼくは彼女の手を取る。柔らかくて温かなその手を、そっと握り締める。

「……行こう」

「はい」

 ぼくたちは並んで応接室をあとにする。

 彼女には頭が上がらない。学も、気品も、器の大きさも、何ひとつとして一歩も及ばない。

 祐閑寺に支えられる形で自室に戻ったぼくは、ぐったりと壁にもたれ掛かる。

 ぼくには、なんの力も取り得もない。いくら名家の跡取りだからといって、必然的に実力が付随するわけではない。形式的な看板を背負うのみで、中身は空に近いのだ。

 だから、父は、ぼくにこんなことを言う。

『透一郎。お前はお前ではない(・・・・・・・・・)。私の――強者の命令を受けてでしか行動できない、哀れな傀儡(くぐつ)――飼い犬だ』

 養父の跡を追うしかできないぼくを知っていて、あえて無慈悲に釘を刺す。

『悔しいか? なら、這い上がってみせろ』

 そうして、刷り込んでいく。

『地獄から天国に至る道は険しく、また、果てしない』

 完膚なきまでに、ぼく独自の考えを消し、塗り替えていく。

『私は、ついに成し遂げられなかった。地獄から天国に至るという願いを叶えられなかった。だからお前には、惨めな虜囚(りょしゅう)としての陰惨な境涯(きょうがい)を送って欲しくはない。大国に(かしず)く今の日本のようには、な』

 ぼくは、ぼくではない。

『そうなりたくなければ、努力しろ。お前には選択の自由が与えられている。自らを地獄の業火で焼き焦がし、絶望の淵に身を(やつ)し、天国に至る跳躍の(いしずえ)とする自由が』

 首輪を繋がれ、無理矢理リードで引っ張られ、進むべき道を矯正し続けられる。

『奴隷の奴隷たるな。自らの奴隷たるな。自ら進んで選択して奴隷とならない限り、お前は奴隷の奴隷で居続けるからだ。自覚なしに権力に屈服し、隷従(れいじゅう)することほど、愚鈍(ぐどん)なことはないと知れ』

 神か魔王か、ともかく、ぼくを支配する養父の似姿を創造でもするかのように。

『ゆえに、お前もまた――』

 ぼくの全ては、養父の教条(ドグマ)で埋め尽くされていく。

『天国で奴隷として仕えるより、地獄の魔王として君臨するのも、また、一興かもしれないが――』

 この時の養父の言葉が、ぼくの今後の生き方を決定付けた。

 ぼくは努力する。養父を、そして、無力な自分を踏み越えるため。

「……ぶっ壊してやる」

 意識は、そこで白んだ。


     *    *    *


 ……これが、ぼくの記憶の一部だ。

 思い出すべき内容は、まだまだ、こんなものじゃない。

 次は――。


     *    *    *


()()()ちゃんはお利口さんね」

 ――祖母のサク。染料で黒く染めた白髪を後ろの方で束髪し、古めかしい和服に全身を包んだ、小柄な婆さん。

 こいつもまた、悪魔の権化だ。

 この老婆は、ぼくがひたすら勉学に励むしかない陰惨な事実を(あざけ)ってか、いつも見え透いたお世辞を並べ立てる。

 多忙な養父に代わって、日中、ぼくを監視するのは祖母の役目で、いわばお目付け役だ。

 教育係と世話係は使用人の祐閑寺に一任されているが、総合的な決定権と発言権は祖母にある。

 祖母の進言次第で、ぼくの勉強の結果は一にも百にもなる。

 魔王の化身。

 祖母を的確に表現するのに、これ以外の形容をぼくは知らない。

「トオルちゃんは、今に立派な学者様になるでしょうね。お祖母ちゃんが保証するわ」

 課せられた『義務』を淡々とこなすしかないぼくを小馬鹿にするように、祖母は怖気立つ猫撫で声でしきりに褒めちぎる。()()()とかいう、気に食わない愛称を用いて、薄気味悪いほどに馴れ馴れしく接してくるのだ。

 このように、祖母の機嫌が良い時は大した損害はないのだが、ぼくが失態を犯した時や、何らかの理由が原因で虫の居所が悪い場合は話が別だ。その時は容赦なく、ストレス発散とばかりに強烈な折檻(せっかん)を問答無用に行うか、あるいは、祐閑寺に怒りの矛先が向けられ、代わりに彼女が罰せられる。

 祖母に逆らうことは、事実上、養父に逆らうことと同じだ。

 ぼくは、そう、最初に教わっていたから、特に口答えもしない。嵐が去るのを待つように、辛抱強く、体罰を含む苛烈な折檻を耐えるのみ。

「トオルちゃん、あなたに失敗は許されないの。いいこと? 失敗は負けよ。敗北者は、この狭間には必要ないわ。ええ、そうよ、その通りよ。これ以上の敗北は、私たちに許されないのよ……!」

 祖母は『敗北』とか『失敗』とかいう言葉に過剰に反応する。敗戦国の生き残りという苦々しい経験が、この醜悪な婆さんにトラウマを植え付け、せめて近親者を勝利者に仕立て上げようと、そう駆り立てるに違いない。

 このサクという老婆は、今は惨めに落魄(らくはく)した狭間家の覇権復活に固執(こしつ)する、執念深い亡霊のようなものだ。常に頭髪を小綺麗に束髪し、時代錯誤(じだいさくご)の和服に身を包むのも、過去に固着しているゆえんだろう。

 金に意地汚く、傲慢で、自らの非を絶対に認めたがらない、独善的な女狐。そのくせ、目上の者には徹底的にへりくだり、追従しては、目敏くおこぼれに与ろうとする卑劣な太鼓持ちでもある。

 やはり、惨めな敗戦を経験した身であるからか、このように狡猾でひん曲がった性根の持ち主となってしまったのだと、そう邪推(じゃすい)させずにはいられない。生き残るためなら、それこそ、何でもやったのだろう。追い剥ぎ、闇市、暴力団との交際、劇薬の取引。叩けば叩くほど(ほこり)が出て来るのは明らかだ。

 敗戦直後の焼野原から死に物狂いで這い上がり、戦前から名を馳せていた旧狭間製薬を守った功績に酔いしれているが、じつは、その過去が深い悔恨(かいこん)となっていることに、本人は気付いていない。もしくは、見て見ぬふりをしている。だから他人に強く当たる。かつての自分ができなかった――他者に対して高慢に威張り散らし、侮蔑し、罵る――ことを無意識のうちにする、(したた)かだが哀れな婆さん。

「トオルちゃんには、ぜひとも、狭間を代表する――いえ、憎き『春日井』を遥か下に見るような――知識と、相応しい人材になって貰わないとね……」

 気が(たかぶ)った婆さんは、決まって呪詛めいた言葉を口走る。その内容には、例外なく『春日井』の名が含まれていた。

 そう、ぼくに手厳しく指導する養父や祖母ですら、この社会では負け犬。

 なぜなら、狭間家は、今は昔の栄えある華族(かぞく)から没落しそうなところを、外部からの介入によってようやく押し止められている、青息吐息の状態だからだ。

 巨大複合企業(コングロマリット)『KSGIグループ』を全国に展開する、春日井一族。狭間家は彼らに隷属する、矮小なコバンザメに過ぎない。戦前から続く由緒正しき旧狭間製薬、現株式会社ビオニクスも、KSGIが保有するグループ企業、その一傘下に甘んじているくらいなのだ。

 養父は、ビオニクス開発研究部門主任としての要職に就くものの、それ以上の地位は見込めない。主だった役職に、春日井の者が居座っているからだ。

 だから養父は、ぼくに刷り込む。『天国にて神に仕えるよりは、地獄にて統治者となれ』と。

「坊ちゃま……」

 薬学の名門たる狭間家の跡取りとして、日夜、苛烈を極めた教育を施されるぼくが、外部と内部から寄せられる壮絶なプレッシャーに耐えていられるのは、彼女の存在があまりにも大きい。

 祐閑寺なつき。狭間家の使用人のひとりで、ぼくの教育係でもある。

 黒と白の素朴なエプロンドレスに身を包んだ彼女は、常に礼儀正しく、慎ましやかで、口元に添えられた柔らかな微笑に象徴される、温厚な人柄の持ち主だ。

 自然的で飾らない姿が、ぎらついた虚飾と虚栄心にまみれた狭間家にあって、一種独特の雰囲気を醸し出していた。

 それは例えば、固く冷たいアスファルトの上を走る、有害な排気ガスをまき散らす車の往来激しい繁華街の傍らにひっそりと咲く、名もなき一輪の花のように。都会に見られる外面だけを取り繕ったわざとらしい華やかさと違って、普段の何気ない所作から滲み出る気品と気高さに裏打ちされる芯の強さと言うか、しっかりと地固めされた基盤の頼もしさと言うか、無駄に規模が大きいこの屋敷みたいに下手に装飾しないがゆえに、かえってそれが朴訥(ぼくとつ)な彼女の魅力を引き立て、豪奢な屋敷の内装や狭間家の一族を、逆説的に、見掛け倒しの単なる舞台装置の役割に転じさせる、異彩の輝きを放っていた。

 彼女は、ぼくに優しく接してくれる。それも、祖母のような機嫌取りじゃない。勉強に没頭し、席を外せないぼくのために軽食や夜食を持って来てくれたり、勉強の合間のわずか数十分ほどだけど、庭園に散歩に連れて行ったりもしてくれる。それこそ、母親を思わせるような、人間味のある温かさだ。

 彼女は花に詳しい。庭園に咲き誇る椿の花について色々と教えてくれたりもした。椿がいつ頃に咲くのか、これまで人間とどんなふうに関わってきたのか、その性質や歴史を詳しく話してくれた。

「花は、花だから美しいのではなく、わたしたちが花を美しいと知っているから、美しいのです」

 祐閑寺は、庭に咲いた椿の花びらうっとりと見つめながら、そう微笑んだ。

 ぼくは、うっすらと赤く色付いた彼女の横顔を眺め、確かにそうだな、と頷いた。

 人が、何かを美しいと感じる時、すでに美しいものが何かを知っている。

 だから、ぼくもまた、祐閑寺を美しいと感じるのだろう。

 ぼくは、祐閑寺に、亡くなった母親の面影を見ているのかもしれない……。

 いつからか、そんなことを考えるようになっていた。

 記憶の中の母親は、いつも笑っていた。

 穏やかに微笑む祐閑寺のように、とても優しい性格の持ち主だった。

 どうして、死んでしまったのか。

 どうして、ぼくひとりを残して……。

 みんな……いなくなってしまうのか。

 親に対する絶大なる信頼。それは言うまでもなく、子供を守ってくれるという安心感だ。

 しかし、その期待は呆気なく裏切られた。

 両親は死んだ。

 それは裏切りだった。

 祐閑寺は……。

 祐閑寺は、ぼくを、裏切らないだろうか?

 不安に揺れる自分に問う。

 大丈夫。

 彼女はきっと、ぼくを裏切らない。

 いつまでも、いつまでも。

 ぼくの理想の女性像であり続ける。

 根拠もなく、そう、願っていた。

 しかし、そんなぼくの子供じみた願望は、汚い大人たちに容赦なく踏みにじられる。

 忘れもしない。

 あれは、ぼくが『義務』を果たせなかった日の夜の話だ。

 もう、日付が変わろうかという遅い時間。

 ぼくは、どうにかその日の予習・復習を終わらせ、就寝前に用を足そうと、部屋を出た。

 半分寝ている頭と体で薄暗い廊下をとぼとぼと歩いていると、ぼくの部屋とは対極の場所に位置する祖母の部屋から、突然、怒声が聞こえて来たのだ。

 完全に眠気が覚めたぼくは、一体、何があったのかと、こっそり祖母の部屋の様子を見に行くことに決めた。

 いま思えば、それは予感めいた行動だった。まるで、見えないなにかに突き動かされるように、ほとんど本能的に足が動いていた。

「――祐閑寺、あなたにはほとほと呆れ果てました」

 閉ざされた扉に耳をぴったりと当て、中の気配を探ると、まず、祖母のヒステリックな怒鳴り声が鼓膜を震わせた。

 背筋に芋虫が這い回るかのような悪寒が走る。

 まさか……。

 心臓がバクバクと跳ね上がる。

 ぼくは全身を耳にして、続く言葉を待った。

「トオルちゃんの『義務』を完遂させるよう見張るべきはずの立場に居ながら、その役割を放棄するなど。職務怠慢にもほどがあります」

 音程の狂った管楽器を思わせる、高い調子が耳をつんざく。

 緊張に、手足が震えた。

「しかもその上、我が子を思う呂久郎さんの教育方針にも異議を唱えるとは、まったくもって笑止千万、使用人の風上にも置けません。あなたのような育ちも品格も悪い小汚い給仕を雇っているのは誰だとお思い? 自分が仕える側の人間だという自覚はあるのかしら?」

 嫌なくらいによく通る祖母の声と違い、祐閑寺の声はまったくと言っていいほど聞こえない。

 ただ、顔を真っ赤にして怒り狂う祖母を前に、おすまし顔の彼女が諾々と頭を垂れ、平伏している姿が、容易に想像できた。

 それが、多分、祖母のさらなる怒りを買った。

「本当、気に食わないわ。何がって、あなたのその涼しげな顔色が、よ。反省の色の欠片も感じられないわ。まるで人形を相手にしているみたいに手応えがない。祐閑寺、本当に謝罪の気持ちがあると言うのなら、それ相応の態度というものがあるんじゃないかしら?」

 性格のねじ曲がった祖母は、好き勝手に罵倒されても表情ひとつ変えない祐閑寺の器量の大きさにご立腹のようだった。

 なんて心の狭い女だ。

 許せない。

 この時点で、ぼくのはらわたはすでに煮えくり返りそうだったが、祖母の次の発言を耳にして、頭にのぼった血の気が一気に引いた。

「床に指をつきなさい」

 恐ろしいほどに低い声。

「膝を二つに折り曲げて、額を床につけなさい」

 この指示が何を意味しているのか、理解したくないのに想像できた。

 そして、祐閑寺が、理不尽とも言える祖母の命令に従うしかないのも、即座に直感した。

 背筋が凍りつく。

 めまいがするようだった。

 事実、ぼくの身体はふらつき、腰は砕け、膝はがくがくと笑っていた。

 頭がくらくらする。

 居ても立ってもいられず、ぼくは震える手で扉を少しだけ開け、そっと部屋を覗き見る。

 鼻につく香水のニオイ。祖母が好んで全身に吹きかけるコロンが、こもった空気と共に流れ出す。

 腐った果実にも似た芳香に辟易(へきえき)していると、光に白んだ室内の光景が視界に映し出された。

 まぶしい光源に目が慣れ始めた頃、ぼくはグッと息を飲み込んだ。

 信じられなかった。

 というより、信じたくなかった。

 ピカピカのフローリングに敷かれた真っ赤な絨毯。

 その上にひざまずくように、祐閑寺は土下座していた。

 そして、痛ましい格好の祐閑寺からたまらず目を逸らすと見えるのは、勝ち誇ったように祐閑寺を見下ろす悪魔の姿。しわだらけの口元を三日月型に歪ませ、魔女のように吊り上がった目つきをぎらつかせている醜い老婆が、そこにいた。

「ほっほ、良い姿ね、壮観だわ。やはり薄汚い雌犬はそうして地面に這いつくばっているのがお似合いよ」

 舌なめずりして、せせら笑う。

「さあ、許しを乞いなさい。部外者の身でありながら狭間家の家訓に逆らった罰として、私の気の済むまで謝罪の言葉を言い続けなさい。……さあ!」

「……申し訳ありませんでした、サク様」

「……!!」

 黙って祖母の言いなりになる祐閑寺。抵抗も反抗もすることなく、許しを懇願する。

 この時、ぼくの中で何かが大きな音を立てて崩れ落ちるのがわかった。

 祐閑寺が祖母に土下座する。

 それは、野に咲く可憐な花が無残にも踏み散らされる様子にも似ていた。

 ありえなかった――あってはならない現実が、今、まさにぼくの目の前で巻き起こされている。

 絶望に、視界が歪んだ。

 聖域の破壊。ぼくの心の拠り所である安全地帯は、祖母という悪魔によって容易く蹂躙される。人間の尊厳は本来の意味を成さず、高い位置からの落下を巧みに表現する一種の形容詞に過ぎなくなる。転覆(てんぷく)だ。祐閑寺に置いた信頼は軽蔑に置換され、ぼくの胸を憎しみで燃え上がらせる。

「無様ね祐閑寺。けれども、いい格好だわ。だけど私は許してあげない。だって、気に食わないんですもの。あなたのような、容姿も内面も男受けするような女が憎くて憎くて仕方がないの。嫉妬かしらねえ? いいえ、違うわ。だって、今のあなたは、世界で一番惨めで情けない姿を惜しげもなくさらけ出しているんですもの。権威に媚びへつらうみっともない雌犬には嫌悪感こそすれ、嫉妬を抱く道理はないわ」

 愉悦の表情でせせら笑う祖母は、歓喜に歪んだ口角をさらにつり上げる。

「でもね、祐閑寺。私はあなたを見捨てないであげる。これは躾よ。どうしようもない駄犬を一人前にするための立派な調教。そうでしょう、祐閑寺? さあ、私に謝辞を述べなさい。尻尾ばっかり振って主人の機嫌を窺う、どうしようもない家畜を見限るのではなく教育し直す、この私の深い愛情に心の底から感謝することね」

「ありがとうございます、サク様」

「そうよ、そうよ。あなたもだいぶ物分かりが良くなってきたわね。これも私の教育の賜物かしらねえ。ほっほっほ」

(どうして……)

 わなわなと手が震える。

 恐怖ではない。ましてや、悲しみでもない。

 これは怒りだ。

 ぼくは、怒っていた。

 行き場のない激情の矛先は、どういうわけか祖母ではなく、祐閑寺に向けられていた。

 祖母に諾々と従う祐閑寺に、ぼくは失望していた。

(どうして、そんな女の言いなりになるんだ?!)

 彼女に対する尊敬の念は、たちまち嫌悪感に反転する。

 陰険かつ醜悪な祖母に服従するという、にべもない事実。養父に反抗した時とは真逆の対応。それは強さではなく弱さだ。目上の者に追従するしかない弱者。信条に対する盲目な信仰。要するに、祐閑寺はぼくより強いのではなく、その逆で、()()()()()()()()()()()()()()

(そうか、そうか)

 権威に傅く奴隷のごとく、目の前にはっきりと浮かび上がった残酷な図式は、ぼくを絶望させると同時に、まったく別の感情をもたらす。

(そうか、祐閑寺は、ぼくよりも弱いのか。そうか、そうか)

 得も言われぬ感情がぼくを支配していた。

 怒りはもちろんある。今すぐにでも祖母をくびり殺してやりたいぐらいだ。

 ただし、同時に、葛藤があった。どういうわけか、祖母にいいようになじられている祐閑寺に対して、異様な劣情を催していた。価値観が反転するというめくるめく脅威を、どうやらぼくは倒錯(とうさく)した混乱と解釈したらしい。

 混乱とは、すなわち『もつれ』だ。愛情が裏返って憎悪に変わるように、美と醜が一枚岩であるように、体裁を保つ表面を剥がされたその瞬間、密かに抱いていた祐閑寺への慕情(ぼじょう)は、屈折したそれに変容を遂げたわけだ。

 みずみずしい果実が地面に落ちて潰れ、その中身が飛び散るように。

 形あるものが別の何かに変容する時、もっと直接的に言うなら、生から死への移行のように、本来あるべきものがその輝きを失う時――。

 その瞬間が、一番、美しい、と思った。

 できることなら、この手で奪ってやりたいと思った。祐閑寺を屈服させるのがぼくではなく、祖母ではないのが、無性に悔しかった。


 ――ひどい頭痛が、襲ってきた。


 記憶は、ここで途切れた。

 あれから、どうやって自分の部屋に戻ったのか、何も覚えていない。

 確実なのは、あの日以降、ぼくの中で、ぼくの知らない得体の知れない『何か』が生まれたことだ。

 言うなればそれは『怪物』みたいなもので、胎児のようにぼくの内側で眠っている。誰にも知られることなく、しかし、脈々と息づいている。

『怪物』は日増しに勢力を増しているように思えた。

 度重なる勉学によって抑圧された獣性を開放するかのように、ぼくという名の檻から飛び出した『怪物』は、まさしく獣のごとき力強さで地を蹴り、庭を駆け、その溢れんばかりの生命を躍動させていた。

 だからだろうか、時々、ぼくは、ぼくがぼくじゃないような違和感を覚えるのだ。離人感と言うのだろうか、窓越しに外の景色を見つめるように、ぼくはぼくを他人と捉えることが多くなった。

 あれだけ好きだった庭園の花を踏み付け、蹴散らし、愉悦に口元を歪ませている自分がいるのだ。地を這う蟻や、ひらひらと空を飛ぶ蝶々を捕まえては解体し、生命をもてあそぶかのようにいたぶって悦んでいるぼくが居るのだ――。

 もしも、もしもだ。

 あの、自らの力を誇示せんと弱者を蹂躙するぼくが、『狭間透一郎』だと言うなら……。

 今、こうして、『彼』を見つめている『ぼく』は、一体、誰なんだろう?

 それとも、ぼくこそが『狭間透一郎』で、『彼』は別の誰かなのか?

 わからなかった。

 わからなくてもいいと、思った。

 結局のところ、ぼくは、養父や祖母を超えなければならない。

 そのために、ぼくは、自分を殺さなければならない。認識を捨てなきゃならない。意識をしないということを義務付けなければならない。


 ぼくは――ぼくじゃなくなる。


 ぼくは、自らを存在させないことで、存在を保つ。

 あの『怪物』に、ぼくの役割を一任させる。

 今は、そうするしかなかった。生き残るためには、それだけしか方法がない。


『お前はおれなんだよ』


 黒い顔の怪物は、そう言った。


『おれこそが本当のお前だ。弱者をいたぶり、なじり、平然と踏みにじるおれこそが、本当のお前自身だ』


 白い歯を覗かせ、にたりと笑う。


『憎め。憎め、憎め』


 地面に横たわるイモ虫か何かを、靴底でグリグリとすり潰しながら。


『自分を含めた全てを憎め。憎悪しろ。おれがお前であることを受け入れろ』


 ケタケタと哄笑(こうしょう)する。


『そうすれば、お前は奴隷じゃなくなる。弱者を従える主人となれる。おれのように、簡単に命をもてあそぶことができる』


 そう言って、ぐしゃりと、思い切りイモ虫を踏みつけた。


『もし、お前が、奴隷を蹂躙する主人のようになりたかったら――』


 グッと、その不定形な顔を目の前まで近付ける。


『その時は、やつらを殺してやれ』


 剥き出しとなった白い歯が、醜悪に歪んだ。

 

『やつらを殺した時に初めて、お前は自らを縛り付ける鎖から解放される』


 それは悪魔の甘い誘惑。


教授(せんせい)が言ったように、な』


 耳元で囁く。


 視界が、真っ黒に染まる。


 意識は、闇の向こう側に――。

「お前はお前ではない。そう常に自分に言い聞かせろ。お前が自らを殺すのだ」。それは義務。ぼくがぼくでなくなるための儀式。「私がお前を立派な社会の一員としてやろう。まず、従順な歯車としての生き方を学べ。お前は奴隷だ。意志なき奴隷。そのゆえに、お前はお前でなくなるのだ」。容赦なく、養父はぼくを踏み付ける。圧倒的な恐怖をこの身に植え付け、萎縮する脳裏に絶大な権力を刻み付けるように。「そして、いずれ奴隷は主人となる」。苛烈を極めた養父の教育。ぼくの意識は掠れて消えた。


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