幕間
時間になったので診察室を出た。
また明日、ぼくは彼の問診を受ける。
薬は、昨日の時点で一週間分貰ってあるので、そのまま病室に戻る。
診察室を出る直前、有馬医師はぼくにこう尋ねた。「薬はきちんと飲んでいるか?」と。
この問いに「はい」と答えると、彼は満足げに頷いた。
「一日三回、用法用量を守って飲むように」
笑顔で言って、彼はぼくを見送った。
昼食後、ぼくは薬を服用する。
記憶を、取り戻すために。
(でも、焦る必要はない)
ぼくは、どうあっても、ぼくだ。道元老人と有馬医師の話を総合すると、どうやらそういうことらしい。
(ぼくの記憶……)
未だに白く霞んで見えないそれに思いを馳せる。
確かに、ぼくは忘れてしまった。かつて、自分が、どのような人物だったのか。その記憶を、経験を生かして、一体、どんなことをしていたのか、その軌跡を、何ひとつとして覚えていない。
焦らなくてもいい。そのことを、ぼくは充分に理解している。
それでも、ぼくは知りたい。ぼく自身に関係することを。これまで以上に、そう、強く思っている。
かつてのぼくは何を考え、何をしようとしていたのか。どうして、記憶を失ってしまったのか。
全ての経緯を、原因を、是非とも突き止めなければならないと思った。
(そういえば……)
結局、あの少女は現れなかった。
黒いウサギのぬいぐるみを抱き、頭に大きなリボンを巻いた女の子。
タロットカードを使って、ぼくが記憶喪失だということをピタリと言い当てた。
あの子は、ぼくのことを知っていた。
だからこそ、もう一度、会ってみたかった。
(道元老人との関係性とか、色々と聞きたいことがあったのにな……)
若干の失意を抱きながらも、ぼくは歩を進めた。
* * *
・一九九九年 十二月三日 午前十時十九分 瀬津大学附属病院A棟十三号室
(ぼくの記憶……)
病室のベッドで横になりながら、ぼんやりと考える。
(記憶がなくても、ぼくはぼくだ……)
かえで看護婦も、道元老人も、有馬医師も、皆、そう言っている。
なら……。
もしも、ぼくの記憶が戻ったら……。
果たして、ぼくは、記憶のなかったぼくと同一的存在と言えるのだろうか?
(記憶のないぼくと、記憶が戻ったぼく……)
ぼくには、それぞれ別人のように思える。
(他人の目から見たら、どう映るんだろう?)
直前まで記憶のなかったぼくが、いきなり、記憶を取り戻したとして……。
(その人にとって、ぼくは、今までのぼくと、まったく同じように映るんだろうか?)
それに……。
(ぼくが記憶を取り戻したら、今の、記憶がないぼくは……どうなるんだ?)
ふと、疑問に思った。
ぼくは、自分が自分に飲み込まれるという倒錯した図式を想像する。
まるで、入れ子構造のように。
ぼくの姿をしたそいつは、ぼくという外皮を破って外に出る。
戻る場所は、無論、ぼくの中。
マトリョーシカみたいだ、と思った。
ぼくという存在は無数に存在している。
記憶がないぼくも、記憶があるぼくも、皆、ぼくなのだ――。
『そうだな』
突然、頭の中で響く声。
あの黒い顔が床の下からニョキッと現れ、にたりと白い歯を覗かせた。
ひどい頭痛があった。
気付けば、黒い顔は消えていた。
病室の中、ぼくはひとり。
(やっぱり、記憶を取り戻さないと……)
そう思った。
そんなぼくの願いが、自分の潜在意識に届いたのか。
強烈な睡魔に襲われ、ベッドの上でうたた寝をしていると、突然、目の前が混濁とし始める。
ここではない、どこか別の世界が、おぼろげに映し出される……。
* * *
ここは、どこだ?
ぼくは、どこにいる?
「…………」
耳を済ませる。
「…………」
声が聞こえる。
誰かの声が、白と黒の合間、灰色の空間の中に反響する。
――この子は、よその子よ。
女の声だ。凛然とした態度を思わせるそれは、他者を全く寄せ付けない厳しさを多分に含んでいる。
――品評会の前座を盛り上げるしか能のない、薄汚い珍獣。
忌々しげに舌打ちしながら、にべもなく断言した。
――よそから来た、よその子が、宗家を超えられるはずがない。
次に聞こえるのは、冷酷な男の声。背筋が粟立つほどの、一切の感情が感じられない、恐ろしい声色だ。
――せいぜい、従順に振る舞うことだ。そうしていれば、まず、殺されはしない。希望もないがね。
男もまた、ひどくつまらなさそうに吐き捨てる。
――可哀そうに。生きることも死ぬことも自由にならないなんて。
また、別の声。女の子の声だ。
さきほどの声と比べ、ひどく悲しげな、同情的なものだった。
――あなたも、あたしと同じ、愛玩動物なのね。
――違う? じゃあ、なに?
……実験動物? 金網に閉じ込められ、死ぬことを前提として産みだされた、ノックアウトマウス――?
ようやく視界がはっきりした。
白い部屋、白い三人、白い目線、白い声……。
ぼくは檻の中にいる。冷たい鉄格子の内側に囚われている。身動きできないぼくをみて、彼らは嘲りの視線を送る。
キィイ、キィ、キイィィイイ……。
ぼくは――。
ぼくは――。
* * *
また意識が絡まる。見える空間は渦となり、ぼくを巻き込んで肥大化していく。
渦の流動が収束した時、次に見たのは――。