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並列世界生成原理~いかにしてぼくは過去の自分を殺したか~  作者: 河西ケン
第一章 自己の探究
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第十一話 意識と存在

 

 ・一九九九年 十二月三日 午前十時四分 瀬津大学附属病院B棟三階心療内科第三診察室


 心療内科の診察室は窓がない。

 鬱屈とした牢獄を思わせる狭さも相まって、異常とも言える閉鎖的な空間を作り出す。

 そのため、医者と患者は必然的に向かい合う形となる。

「おはよう、透一郎くん」

 回転椅子に座った有馬医師は、にこりと笑顔で出迎える。

「昨日はよく眠れたかい?」

 青白い光を宿した眼球の下には、墨のように真っ黒なクマ。

「そう言う有馬さんは、なんだかすごく眠そうですね」

「こらこら、質問に質問で返すんじゃない」

「あ、すみません」

「それに、私のことは『アリーマー』と呼んでくれと言っただろう?」

「あれ? そうでしたっけ?」

 ちょっと首を傾げてみせると、彼はガックリ肩を落とす。

 仕事に疲れきったような仕草。

 健康そうに日焼けした頬は不健康そうにやつれ、どことなくガイコツを連想させる。

「まあ、いい」

 すっくと背筋を正し、エヘンとひとつ咳払い。

「それで、昨日はよく眠れた?」

 仕切り直しの質問に、ぼくは小さく頷く。

「ええ、熟睡とまではいきませんが、別に不眠というわけでもないです」

「なんだかはっきりしないなあ」

「丁度いいと言ってくださいよ」

「医者の立場からすると、中途半端な状態が一番困るんだよ」

「それ、わざわざ患者に言うことですか?」

「おっと、失敬。私はこう見えてウソがつけない性格でね。気に障ったのなら申し訳ない」

(ウソがつけないって……)

 それこそ、真っ赤なウソだ。

 悪びれなく笑う有馬医師を前に、心底、そう思った。

 何気ない日常会話。

 簡単な言葉を組み合わせただけの当たり障りのない答弁は、どこにでもあるようなありふれた光景を演出する一方、どこか作為的で、よそよそしい。

「でも、強いて言うなら……」

「うん?」

 有馬医師は机の上の書類から視線を離すと、ヘビのような切れ長の瞳をきらりと光らせ、ぼくの目をジッと見据える。

「ちょっと、夢見が悪いようです」

 声を潜めてつぶやくと、有馬医師はグッと顔を突き出した。

「夢見、というと?」

 眉間にしわを寄せ、細長い下あごに指を置く。

「これは当直の看護婦さんの話なんですが、どうも、夜中、ぼくがうなされていたらしくて」

「ほう」

「結局、ぼく自身はどんな夢を見たかまったく覚えていないんですけど、確かに寝覚めが良いとは言えない感じでしたね」

「ふむふむ、なるほどね」

 ぼくの話に耳を傾け、紙面にペンを走らせる。

 すでに、問診は始まっていた。

「ひとつ、尋ねてもいいかな?」

「はい」

「きみが寝ている間、うなされていたとの話だけど、途中で目を覚ましたりはしなかった?」

「……そうですね、はい」

「ふむ」

 目を細め、小さく唸る。

 意味深な仕草に、気が気でなかった。

「なにか、気になることでも?」

「いや、大したことじゃないんだが」

 そう前置きして、有馬医師は、一旦、ペンを休める。

 そして、神妙な顔つきでぼくを見た。

「中途覚醒なんかが見られるようなら、処方している薬に加えて睡眠薬も追加した方がいいと思ってね」

「ああ、なるほど」

「でも、ひとまずその心配はしなくてもよさそうだ」

 そう言って、再び、紙面に視線を向ける。

「ところで、話は変わるが」

「はい」

「当直の看護婦さんがきみの病室を訪れた時刻は、わかるかな?」

「……いえ、詳しい時間については、何も……」

「わからない?」

「……はい」

「それが深夜か早朝かだけでもわかればいいんだけど、ダメかな?」

「……おそらくですが、ぼくの様子を見に来たのは『夜』、という話でしたので、大体、ぼくが床に就いた夜中の十時からニ時くらいの間かと」

「じゃあ、朝の四時とか、五時とか、そんな時間帯ではない感じかな?」

「……断言はできませんが……」

「なるほど、わかった、ありがとう」

 すらすらとペンを走らせる。

 有馬医師の質問に答えていくうち、ぼくは不安を覚えていた。あのメモの存在を、唐突に思い出したからだ。


『十二月三日午前四時十分 瀬津大学附属病院A棟裏庭に行け』


 結局、これは何だったのか?

 ぼくは、その時間に病室から出た記憶がない。

 つまり、このメモが意味するところのことを、ぼくは知らない。

 でも……。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ――夢遊病。

 意識がない状態で身体が勝手に動き、行為する、恐ろしい現象。

 昨日、有馬医師が話していた小説、『ドグラ・マグラ』の一節が、強烈に脳裏から蘇る。

 小説の登場人物、呉一郎は、心神喪失の無意識状態で殺人を犯した。

 だからこそ、彼には犯行当時の記憶がない……。

(ぼくは、どうだ?)

 強く、そう思った。

 いつしか、ぼくは、小説の呉一郎と自分自身を重ね合わせて考えていた。

 記憶……。

 記憶がないということ……。

 それは、行為の不可能性を確証する物ではなく、その不可能性を単に可能にするだけに過ぎない。

 ぼくは……。

(まさか……)

「透一郎くん」

 有馬医師がぼくを呼んでいることに気付いたのは、目の前がくすんだ灰色に染まりかけた時だった。

「昨日の話では、不思議な夢を見ると言っていたね」

 少し青白い顔を斜めに傾け、ぬっと顔を覗き込む。

「……はい、その通りです」

 有馬医師の視線から逃れるように顔を俯かせる。

(もしも、夢こそがぼくの記憶の反映だとしたら……)

 ちょっと考えて、ぶるっと背筋を震わせる。

(ぼくの記憶は、意識は、ぼくの知らないところで動き、機能し、そして、保管されている……)

 あたかも、ぼくとは別人であるかのように。

(それは、まるで……)

 まるで……。

「透一郎くん」

 また、有馬医師がぼくを呼ぶ。

 彼の呼びかけがなければ、ぼくはこうして我に返ることができなかっただろう。

 それくらい、ぼくは深い思索の鎖に囚われていた。

「その反応からして、どうやら、いろいろと究明する必要がありそうだね」

 有馬医師は困ったように笑う。

「やっぱり、私の見解通り、透一郎くんの記憶は前意識(ぜんいしき)に囚われているのか……、ふむ……」

(……前意識?)

 聞き慣れない言葉に顔を上げると、ぶつぶつと独り言をつぶやく有馬医師の姿が目に入った。指で顎をなぞり、フクロウのように小首を傾げる。その様子からして、彼が自分の頭の中で様々な資料を参照し、今のぼくの状態と照らし合わせていることがわかった。

 ……どうしても、確かめなければならないと思った。

「有馬先生。ひとつ、お聞きしたいのですが」

 思い切って尋ねる。

 どうしても、気になることがあった。

 有馬医師はぼくの疑問に応えるように目線を合わせると、その表情を和らげる。

「なんだい、改まって。別に遠慮はいらないよ。なんでも気兼ねなく私に聞いてくれたまえ。もっとも、私が声を大にして話せるのは、テレビゲームの裏技くらいだけどね。上、上、下、下、左、右――」

「その、有馬先生の言う『前意識』というのは、一体、どんなものなんですか?」

「……私のジョークは軽くスルーか。さすがの冷静さだね。いや、無駄を好まない理系ならではの冷酷さと言うべきか」

 渇いた笑い。

 しかし、それはすぐに真剣な表情に上書きされる。

「よし、いいだろう、他ならないきみ自身のことだ、知っておいて損はないはず」

 自分を納得させるように重々しく息を吐くと、続いて、ぼくを静かに見据える。

 刃物のように鋭い眼差し。

 緊張に、グッと息を飲み込む。

「本題に入る前に、まずは意識について説明しよう」

「はい」

「一般的に言うと、人間の心理的構造は、『意識』と『無意識』の二つに大別できる。意識は、まあ、ざっくり言うと、自分が、今、認識している状態。今、きみが診察室にいて、私の診察を受けていると自覚しているなら、それは意識していることと同等だ。んで、無意識の方は、まあ、本能的なものと説明した方が理解しやすいかな。要するに、様々な欲求がない交ぜとなって押し込まれている領域ってことだ。過去の経験とかも、無意識の領域に収納されているとも言うね。それで、それらを総括するのが、『自我』と呼ばれている」

「自我……」

「そ、自我だ。意識と無意識を、自我が統制している。そうそう、昨日、私が言っていることを憶えているかな? 防衛機制の働きについてだけど。あれも、自我が無意識的に行っているとされている。脳に掛かる負担を、少しでも和らげるためにね」

「…………」

 ぼく自身が、ぼくを護るために、自ら記憶を封印した。()()()()()

 納得はできないけど、そうやって理解するしかない。

「ぼくが記憶を失った理由は、なんとなくわかりました」

「うん」

「では、先生、その、失われた記憶というのは、一体、どうすれば蘇るんでしょうか……?」

「待て待て、結論を急いではいけないよ。今から私が前意識について説明するから、その時にまとめて答えよう」

「……はい」

 (はや)る気持ちを抑え、引き続き、有馬医師の説明に耳を傾ける。

「それで、肝心の前意識の件だけど、これは深層心理学では無意識と同一視されていてね」

「……そうなんですか?」

「もちろん、厳密には区別されているんだけどね」

 口元を緩め、苦笑する。

 ただし、目だけは笑わない。爬虫類を思わせるような、異様にぎらついた光を放っている。

「それというのも、前意識は、意識と無意識の両方に属しているからなんだ」

「両方?」

「ああ、前意識それ自体は本来的には意識に昇ることはないものの、当人の努力次第で想起、すなわち内容を思い出すことができる。例えば、過去に習得したはずの知識などがそうだ。ゆえに、()()()()()()()()()()。言ってしまえば、両者の橋渡し役のようなものだ」

「……なるほど」

「意識と言うのは、一種の流れのようなものだ。脳は逐一、情報を――それも、膨大な量の情報を――入手する。断続的に、止めどなく、ね。だから、物理的に遮断でもされない限り、延々と意識は続いていく。眠っている間にも、大脳の機能は停止しないのだから、当然だけどね。もっとも、意識を意識しなければ、意識は存在しないも同然なのは留意する必要がある。そういうわけで、何かが思い出せなかったり、時たま忘れたりしてしまうのは、記憶が完全になくなった、ないしは取り除かれたからじゃない。それは、失われたわけじゃない。意識の流れが弱かったり、そこだけ流れが遅かったりするだけの話。だから、人間は、無意識的には、全ての情報を保管しているとか、そんな説もあったりする」

「……それはまた、壮大な話ですね」

「そう思うだろう? でも、意外や意外、これが大真面目に議論されていてね。彼らが言うところによれば、脳は、経験的に得た長期記憶などの他に、普遍的なものも記憶している。いわゆる先験的(ア・プリオリ)な、産まれる前の記憶とも言うべき情報だ。さる哲学者いわく、例えば言語が、脳の先験的記憶――普遍的無意識の領域――に保存されていると。ほら、有名なあの聖書にも、『始めに言葉があった』なんて記述があるぐらいだからね。まあ、聖書のあの部分での言葉というのはロゴス的な意味で、つまり――」

「……はあ……」

「おっと、話が脱線してしまったね」

 えへんと咳を払い、自ら逸らした話の矛先を元に戻す。

「前意識についての大体の説明は以上だ。何か質問は?」

「いえ……、特にありません。わかりやすい説明、ありがとうございました」

 頭を下げながら、さすがは専門家だ、と舌を巻く。

 どこか飄々とした、掴みどころのない、ふざけた言動も見られる有馬医師だけど、この時ばかりは素直に感心した。道化を装う彼のことだ、会話の折々で放り込まれる冗談も、意図的の物なのだろう。これにどう反応するかで患者の人柄を見極めているとすれば、合理的な説明がつく。

「このように、人間は意識することによって周囲を、ひいては自分を認識する。いくら脳が、外部から入手した情報を処理、符号化して伝達しても、それを扱えなければ意味がない。ヒトの脳は高度なコンピュータだと、どこかの学者が称したが、言い得て妙だよ。道具でもなんでも、正しく理解し、使いこなさなければ、ガラクタ同然――。全ては、把握しなければ始まらない。それは自分自身の存在さえ例外じゃない。むしろ、そこからようやく出発する」

「理解して……扱う」

 それは、道元老人が教えてくれたことと一致する。

 全ては、意識して始まる。自分と世界を認識して、初めて、存在は存在する。

 ぼくが記憶を封じた理由。そこに、どんな意味が隠されているのか。

 記憶のないぼくは、誰なのか。


『意識することで、全ては存在する』


 存在とは何か。


『存在とは意味であり、全ての存在には意味が隠されている』


 その意味とは何か。


「以上、非常に退屈で長ったらしい、義務的説明事項でした」

「有馬先生」

「ん、なにかな」

 いきなりこの場を茶化し始める有馬医師をよそに、ぼくは尚も真剣に彼と向き合う。

 有馬医師は、ぼくの意志の強さに今さら気が付いたとでも言うように、少しの間を置いて応じる。

「人間は、意識することで、初めて存在できる。それはわかりました」

「うん」

「では、ぼくが、仮に、記憶を取り戻したとして――」

「うん?」

「それは、今のぼくと、同じ存在であると、言えるんでしょうか?」

「……」

 彼は目を点にする。まるで、予想だにしていなかった質問だとでも言うように、狐につままれたような、気の抜けた表情でぼくを見る。

 でも、それは一瞬だった。

「……きみは、きみさ」

 そう言って、薄く笑う。

「きみが自分をどう思おうかなんて、そんなことは関係ない。要するに、きみが自分のことについて考えている限りは、きみはきみのままだよ、透一郎くん。きみが自分の存在に疑いを抱いたとしても、きみは、きみだ。それだけは確実であり、真実だよ」

「……」

 緑風を思わせる笑顔。

 ぼくを安心させようとして浮かべられた笑みは、シニカルで冷めた印象の有馬医師とは対照的に、どこかセンチメンタルな、拭い切れない憂いを帯びている。

 相変わらず、彼の目だけが、暗闇で光る猛禽類のように、ぎらついた鋭い輝きを放っていた。


    *    *    *


 時間になったので診察室を出た。

 また明日、ぼくは彼の問診を受ける。

 薬は、昨日の時点で一週間分貰ってあるので、そのまま病室に戻る。

 ぼくは、どうあっても、ぼくだ。道元老人と有馬医師の話を総合すると、どうやらそういうことらしい。

 だが、ぼくは忘れてしまった。ぼくがかつて、どのようなことを考えていたのか。その記憶を、経験を生かして、一体、どんなことをしていたのか、その軌跡を、何ひとつとして覚えていない。

 ぼくは知りたい。ぼく自身に関係することを。これまで以上に、そう、強く思っている。

 かつてのぼくは何を考え、何をしようとしていたのか。何のゆえに、記憶を失うまでに至ったのか。

 全ての経緯を、原因を、是非とも突き止めなければならないと思った。

 ……結局、少女は現れなかった。

(道元老人との関係性とか、色々と聞きたいことがあったのにな……)

 若干の失意を抱きながらも、ぼくは待合室をあとにした。

「記憶は潜在意識の奥に眠っている」。狭苦しい心療内科の診察室で、有馬医師が淡々と説明する。「意識と言うのは、一種の流れのようなものだ。意識を意識しなければ、意識は存在しないも同然。記憶は完全には失われない。人が記憶を忘れてしまうのは、意識の流れが弱かったり、そこだけ流れが遅かったりするだけの話。だから、人間は、無意識的には、全ての情報を保管しているとされる」。……記憶は、ぼくの中に? 生じる疑問。なら、夜ごとに見る夢、あれもまた、記憶の一部なのだろうか……? 大学の研究室。そして、白衣を着た五人の男女。何が正しいのか。存在とは何か……? 道元老人の問いかけが頭によぎる。真実は……もうすぐ。

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