第八十九話 渇望
・一九八六年 七月二十九日 午後四時三十分 認識力研究所一階リビングスペース第五号室
「…………」
ぼくは日記を閉じた。
思わず、天を仰ぐ。
もう、見ていられなかった。
記憶を失う前のぼくが経験した、認識力研究所で過ごした日々。不安と絶望に彩られた、悪夢のような現実。それが事細かに、何ページにも渡ってつづられている。
直視するのを、ためらわれた。
喉が、カラカラに渇いていた。
「み、水……」
うわごとのようにつぶやいた。
さきほどから、喉が渇いて仕方なかった。舌が上顎に貼り付き、口内はガサガサ。唾液の一滴も染み出さないほどに水分が枯渇している。
口一杯に広がる、苦い味。
日記の内容が壮絶を極めていたことも、喉の渇きを覚える理由のひとつではあった。ページをめくり、日記を読み進めるたびに増していく焦燥感と緊張感に身体は異様な熱を帯び、急速に水気を失わせる。
それに何より、室内の環境が劣悪だった。
窓ひとつない小部屋。
衣服が汗で肌に貼り付くほどの暑さ。
逃げ場のない熱が充満している部屋の中は、蒸し風呂も同然と言えた。
ぼくは、高温の蒸気で熱されて調理される、鉄鍋に入れられた鶏肉を想像した。
今のぼくが置かれた状況も、それとほとんど変わらない。
肉が簡単にほぐれるまでに蒸しあがったら調理完了。どうぞ召し上がれ、というわけだ。
真っ白な皿に盛られ、ホクホクと湯気をあげる鶏肉。
ぼくも、いずれ、研究員たちの手によって手術台の上に乗せられる。
食肉と、実験台。
ナイフと、メス。
サク。
ブスリ。
裂かれる肉。
覗く筋組織。
(……ダメだ)
蜃気楼のように浮かび上がる、せん妄の数々。
とても不快で、いい加減、耐えられそうもない。
とにかく、水だ。
水を、飲まないと。
(うう……)
ぐるぐると、視界が回っているような気がする。
洗濯機の中にでも放り込まれた気分。
(水、水……)
すがるように室内を見渡す。
でも、この部屋に飲み水はない。
強いて言うなら、洋式便器のタンクに張ってある不衛生な水だけが、唯一の水源だった。
「く、くそ……」
視界が白く霞む。
目の前がぐにゃりと歪み、室内の様子が二重に映る。
(ドアが、ドアが……二つ?)
意識が朦朧とする。
まずい。
ひどい頭痛だ。
身体が、だるい。
(熱射病、か……?)
脳が危険信号を発している。
限界は、近かった。
これでは、日記を読み進めることはおろか、このまま倒れてしまいかねない。
それだけは、何としてでも避けなくては。
こんな密室で脱水症状なんて起こった日には、命がいくつあっても足りないだろう。
今、ここで、死ぬわけにはいかない。
(水、水を……)
痛む頭を押さえ、辺りを見回す。
白壁に、内線電話が取り付けられているのが目に入った。
思い出されるのは、今から数時間前、ぼくが記憶喪失の状態で目覚めた時のこと。
(……確か、No.3は、この電話を使って職員の人間に連絡したんだったか……)
そして、部屋にやって来た職員によって、ぼくは医務室に運ばれた。
(電話で彼らに水がないことを伝えれば、部屋に持って来てくれるのだろうか……?)
よろけながら椅子を降りて立ち上がり、ふらふらとした足取りで電話のところまで向かう。
震える手で受話器を取ったところで、ハッとした。
(……馬鹿か、ぼくは……)
唇をギュッと噛んで、力なく立ち尽くす。
肝心の内線番号。
それを、ぼくは知らない。
どの番号を押せば外に繋がるのか、まったくわからなかった。
(……ダメだ)
やみくもに番号を押すほどの気力も、すでに残ってない。
内線は使えない。
(くそ……っ)
叩きつけるようにして受話器を戻す。
ガチャンと激しい音。
続いて、セキュリティドアを見る。
当たり前のことだけど、ドアは固く閉ざされている。
ロックを解除するためのカードキーは手元になく、パスワードも知らない。
外部との連絡手段は、事実上、絶たれていた。
(……どうする?)
焦りが募っていく。
(No.3に、助けを求めるか……?)
彼女は、おそらく、隣にあるという自室で待機しているはず。
思い切り声を出せば、異変に気付いて駆けつけてくるかもしれない。
(……でも、それでいいのか?)
ここで、なけなしの理性が嫌な方向に働いた。
抵抗がないと言えば嘘になる。
彼女に、No.3に弱みを見せ、浅ましく助けを求める。これ以上、苦しみたくないがために、嫌いな相手に媚を売り、おこぼれを授かろうと平身低頭する。
それは、やつらの卑劣な権力に屈したのも同然ではないのか?
気持ちが揺れ動く。右に、左に、天秤が傾くように、ぐらぐらとふらつき、安定しない。
No.3は、研究所の人間の手先だ。ぼくを周囲から隔離し、物心両面の意味で孤立させ、不安を煽り、心身共に衰弱させたところに甘い言葉で誘惑し、一気に囲い込む、いわば一種の洗脳術を用いてぼくを従順な実験動物に仕立て上げようと企む研究所の非道なやり口に賛成するような、そんな人間なのだ。
ぼくを死の淵まで苦しめる連中に諾々と従う少女に、情けと救いを求める。
矛盾していた。
でも、そんなことは、生と死の境目にあっては些細な問題に思えた。
ぼくの体力は限界だ。
もう、持ちそうもない。
生か、死か。
今のぼくに残されているのは、その選択肢だけだ。
閉ざされたドアの前に立ち、口を大きく開け、ぐっと息を吸い込む。
そして、喉から声を絞り出した。
(お、おい……! No.3……!)
が、ぼくの意に反して、言葉はほとんど声にならなかった。
ぜいぜいと喉が鳴り、開いた口からひゅーひゅーと小さく空気が漏れる。
「うっ、ゲホッ、ゴホッ!」
喉の奥が詰まり、思わず咳き込む。
じんわりと、口内に血の味が広がった。
唇は乾燥して破れ、喉の奥は焼け付くような痛みを放っている。
外に向けて力いっぱい叫ぶだけの体力は、今のぼくには全然残されていなかった。
「はぁ、はぁ……」
立ちくらみのように目の前が暗転する。
(ど、どうすれば……)
ぼやける視界をさまよわせ、窮地を脱する手段はないものかと模索する。
目にとまったのは、部屋の隅に設置された、洋式便器……。
ぼくの脳裏に、これまた嫌な考えが浮かんだ。
確かに、水は、この部屋にないわけじゃない。
逆円錐形をした漏斗状の便器の底には透明な水が湛えられ、白熱灯の光を反射してキラキラと輝いている。
ごくりと、喉が鳴った。
自分が卑しい存在になったと、自覚する余裕さえなかった。
(……でも、本当に、いいのか?)
額に汗を滲ませ、ぼくは自分に問いかけた。
余裕はないが、躊躇はあった。
(あんな、菌の温床みたいな不潔な場所にある水なんて口に入れたら、どうなるかわからないぞ?)
便器に貯められた汚水を、口に入れる。
想像して、身震いした。
それは、究極の選択のように思えた。
まだ、踏みとどまるだけの理性があった。
人間の理性というものが、これほど邪魔に感じたこともなかった。
(しかし……)
理性の鎖に繋がれて身動きが取れないぼくを尻目に、生存本能という名の獣が暴れはじめる。
(さすがに……もう……)
夕食が運ばれるまでの数時間を、このままの状態で耐えられるとは思えなかった。
もしかしたら、このまま、死んでしまうんじゃないか?
そんな最悪の予感まで脳裏をちらつき、執拗にぼくを急かす。
また、不安が襲ってきた。
心音が馬鹿みたいに高まる。
正常な意識を保てない。
限界だった。
(だ、だめだ……)
まるで、砂漠地帯をさまよい歩く旅人のように。
よたよたと身体を左右に大きく揺らしながら、便器まで向かう。
今のぼくの目には、黄ばんだ便器に貯まったわずかな水が、瑞々しい緑の広がるオアシスのように思えた。
「はあ、はあ、水……」
明滅する視界に便器が映り込む。
皮肉なことに、まるでスポットライトが当たっているかのように、便器と、その周囲だけが切り取られ、くっきりとした輪郭を描いて見えた。
本来なら、人体に詰まった排泄物を垂れ流すための場所。
当然、用を足すために便器の前に立ったわけじゃない。
それが目的であれば、どれだけよかったことか。
「う、うぅう……」
よろけながら便器の前まで来ると、ぼくは本能のままに便座に手をかけ、膝をつき、顔を便器の中に突っ込んだ。
「はあ、はあ……!」
汚物が付着しているような生ぬるい水に口を付け、がぶがぶと音を立てて飲み込む。
「……んぐ、んぐ、んぐ!」
背に腹は代えられないとはよく言うけれど、今がまさにその状況だった。
人間の身体の約六割は水分で構成されている。
水を飲まなければ、死ぬ。
極限状態に追い込まれて鋭く研ぎ澄まされた本能が、高らかに警告していた。
無我夢中だった。
ぼくは水面ギリギリまで鼻先を近付け、便器に貯まった生臭い水を一心不乱に口へと運び、乾燥しきった喉を潤す。
けだものよろしく四つん這いの姿勢になって、だらりと舌を伸ばし、便器に貯まった飲み水とは言い難い汚水を飲み下す。
本当にぼくは、鎖に繋がれた家畜か何かなのか――。
そんな卑屈なことを考えていられる場合じゃなかった。
「……はあ、はあ……」
ひとしきり水を飲み、激しく息をつく。
生命の危機を辛くも脱したからだろうか、少し、頭が冷静になった。
床の上に腰を下ろし、肩で息をしながら、呆然と便器を見つめる。
よく磨かれた便器の縁に、青白い顔をしたぼくの顔が映り込む。
――やってしまったと、遅れて後悔の波が押し寄せた。
顔から血の気が引いていく。
自分のプライドというか、矜持というか、これまでに築き上げたはずの、なけなしの人生観や倫理観といった、本来なら形を持たないような概念的な性質の何かが、ガラガラと激しく音を立てて崩れ落ち、粉々に砕け散ったのがわかった。
人としての越えてはならない一線を、越えてしまったような気がした。
実際、超えてしまったのだろう。便器に映るぼくの顔は恐ろしくやつれ果て、目つきが鋭く、その目はひどく血走り、およそ人間のものとは思えない。
まさに、飢えた獣そのものだ。
「ぼ、ぼくは……」
――取り返しのつかないことを、してしまった。
我に返ったところで、もう、遅い。
全て、遅すぎた。
初めて、生きているよりも死んだほうがマシだと、本気でそう思えた。
そして、さっきの行為を平気で裏切ろうとする自分の卑怯な浅はかさに、ますます自己嫌悪する。
情けなくて、涙が溢れそうだった。
自分が、ひどく惨めに思えた。
なにか、とても大事なものを喪失したような、恐ろしい虚無感が襲った。
「くっ、う……っ」
漏れ出る屈辱の声を必死に押し殺す。
なけなしのプライドが、自然とそうさせた。
日記の中の自分と、現在の自分を照らし合わせることで、どうにか平静を保つ。
過去を参照することで、ぼくは、ようやく、生を実感できる。過去と現在は繋がっているからだ。
(たとえ記憶がなくても、過去のぼくは今もこうして生き続けている……)
日記という媒体を通じて、過去のぼくと現在のぼくはひとつになる。
ぼくは、生きている。
生きているんだ。
生きるためには、こうするしかなかったんだ。
生きなければ、昔のぼく自身に申し訳が立たないんだ。
生きていなければ、みんなに、合わせる顔がないんだ。
(生きるんだ……)
何度も、何度も、自分に言い聞かせる。
(生きるんだ……)
しつこいくらいに。
(生きるんだ……)
壊れたレコードのように。
(生きるんだ……)
ボロボロに崩れ去った自分自身を手のひらで掻き集め、確かめるように。
しばらくのあいだ、ぼくは、自分に「生きろ」と言い聞かせていた。
いつしか、汗ではない水分が、頬を伝って流れ落ちていた。