第八話 殺人
深遠な闇に染まった空が白み始める頃。当直の人間だけが眠気とあくびを噛み殺して起きているような午前四時十分。あらかじめ指定された時間。今か今かと、その時が来るのを待ち焦がれる。さあ、もうすぐだ。もうすぐで、真の自由が手に入る。計画の始まりだ。復讐と言う名の計画が、もうすぐ――。
・一九九九年 十二月二日 午後六時四十九分 瀬津大学附属病院十三号室
かえで看護婦に連れられ、ぼくは病室に戻ってきていた。
時刻は夕刻を回り、日中はさほど気にならなかった肌寒さが増している。
昼と同様、夕食は軽め(流動食)で済ませた。目が覚める前はずっと点滴だったので、当然の措置だろう。
食べた気のしない食事のあと、有馬医師に処方された薬を飲み、ようやくひと息つく。
明日からは晴れて病院食だと聞いたが、それよりも気になることがあった。
ぼくはメモ帳を手に取る。ぼくが倒れている時に所持していたもののひとつだ。
緊張にグッと息を飲みこんでから、そっと、中を開く。
しかし、手の動きはすぐに止まる。
『時間転送試作装置』――。
例のメモ書きが、嫌でも目を引く。意識から離れない。
ぼくの所持品だというこのメモ帳には、これ以外にも不可解な記述がなされていた。
ページをめくる。
ぼくの行動を予期したと思われる日時指定の覚え書き。それが数ページに渡っていくつも書き連ねられている。
現に、ぼくは、そのメモに書かれていた通りに行動していた。心療内科での診察に、資料室での一幕……。
ただの偶然だと片付けるには、あまりにも一致点が多い。
なぜ、こんなことが可能なのか?
やはり、この、『時間転送試作装置』とやらが関係しているのか?
ぼくはポケットの中のいびつな形をした機器を取り出す。
鈍色の輝きを放つ、美的感覚の狂った前衛芸術みたいな形状の機械は、蛍光灯の光を吸い込むかのような不気味な沈黙を保つのみ。
メモには、次のように書かれている。『これを用いれば、使用者は任意の時間に移行することが可能であり、並行世界を生成することが可能である』と。
これも、また、ぼくの正体を解く鍵なのだろうか?
(……まだまだ、わからないことだらけだ)
ぼくの記憶のこと、あの夢のこと、この機械と、メモ書きのこと……。その全てが、ぼくを押し潰す重責となって肩にのしかかる。
とても、背負いきれそうになかった。
「はあ……」
遅れて疲労感が全身に広がる。
まるで身体が石になってしまったみたいだ。
手足の動きを阻害する鈍重さは、やがて倦怠感となってぼくを包み、眠気となって牙を剥く。
(眠るには、少し早いな……)
気分を変えてメモの記述に着手する。
完全に意識が抵抗できなくなる前に、記憶の限り、今日の出来事を思い返す。
かえで看護婦に剣持医師、心療内科の有馬医師や、謎の少女、竹岡さんに薬剤師のはるかさんとの出会いなど、今日だけで色々なことがあった。自分の過去について思い出せたことも、少なからずある。
それにしても、あの小町とか言う看護婦の態度には驚いた。怒りや悲しみを通り越して、もはや呆れて物も言えない。
あんなひどい人間がいるなんて、ぼくは知らなかった。
かつての――記憶を失う前のぼくは――どんな感じの人間だったのだろうか?
まさか、あのように尊大で、利己的で、人を見下したようなヒドイ人間ではないだろう。
でも……。
記憶を失う前のぼくと、今のぼく。どっちが、本当のぼくなんだろう?
わからなかった。
どっちも、本当のぼくなのか? それとも……。
本当に、ぼくは……。
(なにもの、なんだ……)
それに、それに……。
(この機械は……)
猛烈な睡魔が襲う。頼りなくまぶたが落ち、意識が飛びかける。
直前、真っ暗になったぼくの視界に、メモに記された内容が浮かび上がった。
『十二月三日午前四時十分 瀬津大学附属病院A棟裏庭に行け』
あれには、一体、どんな意味が含まれているんだろう……。
ぷつんと、今にも糸が切れそうな意識の中、そんなことを考える。
(そういえば……)
有馬医師は、あまり脳に負担が掛かり過ぎると、記憶が分裂することもあると言っていた……。多重人格は、そういった経緯で発症するとも……。
もしも、もしもだ……。
あのメモを、ぼくではないぼくが書いたのだとしたら……。
それでは、まるで……。
ぼくが、二重人格……。
………………。
…………。
……。
* * *
十二月三日午前四時。
朝焼けもまだの薄暗い時間帯を、おれは、一種の高揚感をもって迎えていた。
十二月三日午前四時十分。それが指定された時刻であり、教授から指示された、目的の時間だ。
息の詰まるような鬱屈とした空気が充満する病室を抜け出し、すでに消灯されている病棟の廊下を抜け、当直の医師や警備員に見つからないよう、慎重かつ足早に、ロビーに続く正面玄関ではなく、裏庭と繋がる非常口を使って外に出る。
そのまま壁伝いに歩き、足元に絡みつく雑草を踏みしめ、左右に蹴散らしながら、目的の場所まで急ぐ。
白い息が弾む。
わき腹が鈍い痛みを放つ。
しかし、それは単なる苦痛ではなく、さしずめ生の実感をもたらす契機と言ったところか。神経各位に伝達する電気信号が刺激となっておれの頭を活性化させ、こうして野性的な部分を目覚めさせる。
おれはおれの役目を果たすことができる。
徐々に高鳴る心音はおれを鼓舞するお囃子となって骨身を震わせ、頭蓋の内側に響き渡る。
気分が良い。すこぶる良好だ。
天気は生憎の曇り空だが、おれの心はそれとは対照的に澄み渡っている。
身体を突き刺す寒風も何のその。
もうすぐ。
もうすぐだ。
街灯に照らされた染みっぽい病棟の外壁を回り、周囲の気配を探りながら歩を進める。
丁度、角を曲がったところだ。
さあ、いたぞ。
街灯に照らされた、ひとつの影。
『コ』の字を書いた壁を背にして立つのは、青っぽい患者衣を羽織った、ひとりの男。
あまりにも無防備な姿。寒さに身を震わせながら、しきりに辺りを見回し、用心深く視線をさまよわせる。
だが、無意味。
その視線はおれを捉えることはできない。
いや……、その表現は語弊があるな。
自分で自分を否定する。否定と言うよりかは修正だが。
眼差し。
視線。
確かにその両の眼は、おれの姿自体を把握することはできる。考えずとも自明だ。ただし、凡人の映すそれは、外面的な、極めて浅薄な部分であり、単に上辺だけをなぞっているに過ぎない。
鏡。
それは鏡だ。
ただの反射。反転した偽りの姿。おれの本当の正体を、つまり、今にも弾け出しそうなほどぎゅうぎゅうに詰まった内実を見通すことができない。
悪意。
害意。
敵意。
そして、殺意。
おれがどのような意図を持ってやつに近付こうとしているのか、それはやつには知れないことだ。
視線でおれを捉えることはできない。
距離にして、約三メートル。おれとやつとの身体的懸隔は、ざっと見積もってそれくらい。
だが、精神的な距離感は、すでにゼロにも等しかった。少なくとも、やつに熱い視線を送るおれにとっては。
駆け寄ることも、身を隠すこともせず、おれは堂々と背を正し、地面を力強く蹴って、やつのもとに歩み寄る。
ゆっくりと。
まるで、戦場から帰還した将軍が市街を凱旋するように。
堂々と。
一歩一歩、地面を力一杯、踏み締める。
距離を一メートルほど詰めたところで、やつはおれの姿に気付き、警戒したように身構えるが、すぐに全身の力を緩めたような姿勢になる。
なぜなら、やつの視線はおれの外見だけをなぞっているから。
やつにとって、おれは、そういう間柄の人間。少なくとも、見かけ上は。
もっとも、おれにとっては、そんなことはどうでも良かった。
教授から渡された資料には、こう書いてあった。こいつがおれとどういった関係にあり、そして、なぜ殺さなければならないのか。
距離はおよそ一メートル。
やつがおれの正体に気が付く。
街灯にぼんやりと照らされる緊張に強張った表情が、わずかに緩んだように見えた。
距離はおよそ五十センチ。
街灯のせいか、はたまた、やつ自身の体調のせいか、妙に生気のない青白い顔が、おれの視界に映し出される。
紫色に近いやつの唇が、わずかに動く。
何かをしきりに訴えかけている。
だが、おれの耳には届かない。
なぜなら――。
射程圏内に入る。
ジリ、と詰め寄る。
一歩、また一歩。
周りには誰もいない。ここは人目につかない場所だ。
それに、この時間。
良い塩梅だ。
にやりと薄笑いが漏れる。
このおれの様子から、やつは何かを察したか。
警戒を緩めた青白い表情が再び強張り、追って、戦慄の色合いに変わっていく。
まるでムンクの叫びのように。
それを合図として、おれはやつに向かって飛び掛かった。
どうっ、という鈍い衝撃。
膝が雑草の生い茂る地面と衝突し、膝小僧がわずかな痛みを放つ。
構わず、おれはやつの背中に馬乗りとなり、その動きを奪う。
丁度、暴漢を取り押さえるのと同じ要領。
違いがあるとすれば、こうして手首を掴んで動きを封じたそいつは、暴漢よりもはるかに非力で、その抵抗の芽を無力化するのが非常に容易いところか。
ひっくり返った甲虫か何かのように手足を必死にばたつかせるやつだが、長い入院生活で体力が落ちているのか、それは決死の反抗と言うよりも、むしろ子犬かなんかのじゃれつきに近かった。
必死の形相。真っ赤に充血した目を、今にも飛び出さんばかりにひん剥きながら、おれを睨み付ける。
いや、睨むというのはこの場合おかしい。鈍い輝きを宿したやつの目つき、それは懇願だ。やめてくれ、殺さないでくれ、命だけは助けてくれと、目で、視線で、その眼差しで訴えかけているのだ。
エサを求める魚類のようにパクパクと口を開閉させる。唾液まじりの悲鳴はくぐもり、もはや声の役割を呈していない。
すぐには殺さない。それではつまらない。情緒も何もないというものだ。
命が尽きるその直前、あの夏の羽虫が最後の力を振り絞って体躯を弱々しく震わせて生命を表現するのにも似た、最後の脈動。おれはそれを見たいのだ。全身で感じ取りたいのだ。
外面を覆い尽くす虚飾がポロポロと剥がれ落ち、汚濁した内容物がパンパンに詰まった肉袋が破れ、その中身がヘドロのようにどろりと溶け出し、鼻をつく異臭を漂わせながら周囲に溢れ出したピンク色の筋組織やら臓器やらが温かな湯気を放ってぴくぴくと全体を痙攣させる。嗚咽まじりの断末魔と共に白日の下にさらされるのは、普段は巧妙に姿を隠した命の輝きそのもの。背景に擬態するように空間と一体化したそれは、死の間際のほんの一瞬、此岸と彼岸の垣根を超えようとする一時、その欄干に足を掛けた瞬間、そこに全世界の重力が集まり、全てが凝縮される。石炭に過ぎない石くれが、圧力によって金剛石に変わるように。生命はこの世の美醜を抱きかかえた芸術へと昇華され、儚くもむなしく散っていく。
外部から与えられる衝撃を押し戻すような力強い流動性はあえなく淀み、沈み、命は凝固する。それは完成の合図だ。完全なものはこれ以上変化する必要がない。そのゆえに、動きがない。
不動。それは停止であり、死であり、要するに無だ。動きも変化もない無こそが唯一無二の完成形。生という不完全性を否定する死=無こそが、絶対的な概念なのだ。それは可能性という不確定で曖昧な摩擦による振動を、一本の線のごとき一直線の不可能性に変えてしまうからだ。
だが、流れが停止に至る過程はじつに美しい。つぼみが徐々に花開き、一分咲きから二分咲き、五分咲き、そして満開になるように、そこには確かな息遣いが、脈々たる胎動が存在する。
そしておれは、満を持して満開となった花を摘むように、命の芽を摘み取る行為をこよなく愛好していた。
命をこの手で終わらせること。すなわち、命を奪うということ。それは文字通り、他者を我が物にするということだ。
おれは他者を殺すことで世界を手に入れる。この手中に収めてみせる。
生物が死に至る過程。まさに陶酔。脳が芯から震えるような官能さえ覚える。
とても美しい、と思った。
だからこそ、死ね。
この美しさをおれのものにするために、死ね。
かすかな灯火が消えかけた眼下の生命をひねりつぶすようにして、おれは用意していた注射器を手に取り、その細い首筋めがけて思い切り突き刺した。
――さようなら、竹岡大輔。
ぷすりと、確かな手ごたえがあった。
恐怖と絶望に歪んだ眼球が、視線が、眼差しが、おれをうつろに捉えていた。