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並列世界生成原理~いかにしてぼくは過去の自分を殺したか~  作者: 河西ケン
第一章 自己の探究
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記憶喪失

 ベッドの上で目覚めた『ぼく』には、記憶がなかった。

 テーブルの上には、一冊のメモ帳と謎の機械が置いてある。

『時間転送試作装置』

『これを用いれば、使用者は設定した任意の時間に移行することが可能であり、並行世界を生成することが可能である』

 そう書かれた一枚のメモ用紙が、いびつな形をした機械に付随していた。

 それ以外は、何もわからなかった。

 正直な話、未だにぼくは理解せずにいた。

 自分の身に何が起こったのか、まったくもってわからない。

 最初に目覚めた直後は、まだ寝ぼけていたこともあって、特に疑問など覚えようもなかったのだけど、今のぼくの頭の中は数えきれないほどの謎で埋め尽くされている。窓枠にびっしりと張り付いた小さな羽虫の大群のように、大挙して押しよせた疑問符の数々は、減数分裂(げんすうぶんれつ)よろしく加速度的に増殖し続ける。

 ぼくはいつものように目覚めたはずだった。地球が自転しているように、眠りに就けば目が覚める。それが自然であり、法則であり、誰にも変えることのできない日常の連続的な形式だった。

 そう思っていた。

 真っ先に感じたのは違和感だった。

 もちろん、身体中を駆け巡る不快感とか、倦怠感(けんたいかん)とか、そういったものもあるにはあったけど、何より、全身に加えられる内外からの圧力を受け止められなかった。

 ぼくという凝固した有機的存在は外圧によって容易く融解され、どろどろに溶け出し、やがて気化して、千々(ちぢ)散逸(さんいつ)する。

 夢の中にいるような感じ。地に足がつかず、どこか浮遊感がある。自分で自分を自由に制御できないのだ。それはもはや、ぼくがぼく自身であると確実には言えない状況だった。

 鏡越しに自分を見ている状態とよく似ている、と思った。鏡に映るぼくは、ぼくではあるけど、ぼくではない。そこには光の屈折による反射がある。その鏡像体は、ぼくのありのままの姿ではない。反転した世界の住人で、逆さまの自分自身だからだ。

 ぼくは、ぼくであると同時に、ぼくではない。

 今のぼくは、そんな、矛盾した転倒の状況に直面していた。

 だからだろうか、ぼくは、どうにか視認できる周辺環境から情報をかき集めようと画策していた。

 真っ白な天井。真っ白な部屋。同じく真っ白いベッドに身を横たえているぼくは、何もせずとも視界に映る変化のない光景を一心に捉える。

 真っ白、と言ったのは、何も比喩(ひゆ)ではなく、本当にその通りだからそう表現しているに過ぎない。壁、床、天井、ベッド、テーブル、椅子、棚、窓を覆い隠すレースのカーテン、その何もかもが白い。

 この目に映るのが白の内装なら、この耳(そう、ぼくには視覚だけではなく、聴覚もそなわっていた)に届くのも、また、透明感のある白の印象を植え付ける、まったくの静寂だ。ぼくのかすかな心音や息遣いを除き、他人が立てるような生活音や環境音が一切存在しない。

 ――他人。

 ……他人?

 他人、だって?

 何気なく用いた名詞に、強い疑問が生じる。根無し草のように浮動し続けるぼくの意識は、嵐の前の静けさにも似た偽りの平穏を見せかける思考の海に突沸(とっぷつ)したそれに向かって一挙に集約された。

 周囲に映る室内の状況を確認し終えた今、次なる認識工程はいよいよ外側から内側に向かうわけだけど、まさにその移行段階の漸次的(ぜんじてき)過程(かてい)で気が付いた。

 ここには誰もいない。より正確に言うなら、ぼくを除いて他に誰もいない。

 だけど、問題はそこにはなく、もっと根本的な部分にあった。

 ぼくの他には誰もいないが、それは同時に、ぼくが本当に存在しているのかさえ疑わしくさせる。

 自己と他者の境界線。現在のぼくは完全にそれを失していた

 そもそもの話、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 まるで、ぼくこそが他人だとでも言わんばかりに……。

 連続性と同一性の喪失。寝ているあいだにこっそりと無人島に連れられたかのように、文脈の前後関係が失われてしまっている。

 ぼくは自分がわからない。名前、年齢、容姿、職業。……性別だけは辛うじてわかったけど、それ以外の自己の構成要素がまったくもって不明だ。

 自己ばかりではなく、今が西暦何年で、何月何日何曜日なのか。また、今が何時何分なのか、ここがどこなのか、いつからぼくがここにいるのか、なにひとつ知らないし、わからない。

 一瞬、ぼくの脳裏に、全生活史(ぜんせいかつし)健忘(けんぼう)という複雑な病名が浮かんだけど、そんな疑念はすぐに別の疑問に上書きされた。

 ここはどこだ? ぼくは誰だ?

 疑問の沸点が最高潮に達し、加過熱よろしく勢いよく噴出する。

 ぼくは自分の両手を広げ、それを眺めてみる。五本の指。右と左で合わせ計十本。妙に白くて細い両手が、ぼくの視界に映し出される。

 ふと、左手首に透明な管が繋がれていることに気が付いた。

 その管は、ベッドの左脇に置かれた、鉄製の棒のような物の天辺(てっぺん)にぶら下がる乳白色の液体が詰まった袋に繋がっている。

 嫌な予感がした。

 頭をかすめたひとつの可能性から逃げるように、意識を再び外部から内部に向け直す。

 見えるのはぼくの両手。『動け』と頭で念じると、その通りに指が動く。時間差もない。ぼくは自由に手と指を、そして、この身体全体を操ることができる。

 しかし、自分の意志で動かしたはずの両手が本当にぼくのものなのか、どうにも判断しかねた。

 活動写真を見ているような感じがした。あらかじめ記録された映像を、網膜(もうまく)に直接、焼き付けている。それは主観ではあるけど、当人の経験ではない。ちょうど、他人の私生活を覗き見ているのと同じだ。(ただし、視点は一人称で固定されているが)。

 ぼくは、ぼくが他人であるような、倒錯(とうさく)した印象を持っていた。ぼくをぼくだと紐づける記憶と言う同一性が丸ごと欠落しているのだから当然だ。

 比較対象の不在は、そのまま、自己の否定に繋がる。否定と言うよりはむしろ断絶か。そこには大きな空洞がある。ぽっかりと空いた穴――空白。これが常人であるならば、たとえば、他に誰もいなくとも、今の自分と過去の自分とを比較して、現在に置かれた状況に至る過程と結果を逆算して割り出すことができるだろう。『QだからPである』。……だけど、今のぼくにはそれができない。なぜか記憶がないぼくには、自分が何者かを斟酌(しんしゃく)する尺度がないのだ。外にも、内にも。それはぼくという存在を著しく希薄化させた。

 異常。

 ぼくは自分が異常だと自覚している。

 いや、じつはその逆で、この異常性こそが通常の状態なのかもしれない。

 ぼくは、自分がこうなる以前の自分を知らない。それこそ一夜城のように、突然、今の自分が現れたようなものだ。そのゆえに、何が正しくて、何が間違いなのか、白黒はっきり区別できない。現時点では、まだ……何とも言えない。

 視線を周りに移す。白い部屋。相変わらず、それがぼくの視界を埋め尽くす。


 変化はないが、発見があった。

 部屋の天井はそれほど高くない。取り付けられた二灯の蛍光灯が下がり、夜間はこの部屋を儚く照らしつけることがわかる。

 間取りは至ってシンプルで、いわゆる六畳一間のワンルーム。木製の小さな丸いテーブルと、白い、プラスチック製と思しき棚、そして、点滴みたいな生命維持装置が、ぼくが今まで横になっていた、薄くて硬いベッドの脇に設置してある以外は、物という物がない。

 この部屋には、機能性や利便性といった、そういった付加価値的なものが徹底的に省かれている。

 ひとつ、例外があるとすれば、脇に置かれたテーブルの中央に、何か、手のひらサイズの機械のようなものが、ポツンと放置されていることぐらいか。

 円形とも四角形とも取れない、幾何学(きかがく)に反した妙に無骨な機械は、その冒涜的(ぼうとくてき)な見た目以上に異物感が凄まじく、一切の無駄がないこの部屋に対して、ひどく不釣り合いだった。

 もっとも、ぼくはこの白い部屋に対して、格別な好印象を覚えているわけではない。

 そこには滑らかな流動性がない。本来なら動的でしかるべきの自然風景、すなわち室内環境は、一枚の絵画よろしく固形に切り取られ、生き生きとした躍動性のほとんどを失している。

 綺麗すぎるのだ。普通、生物が暮らす場所というのは、生活痕というか、一定の汚さというか、多かれ少なかれ何らかの足跡があるものだけど、ここではそれがごっそり取り除かれている。完成された一種の芸術品か何かのように、思わず顔をしかめたくなるような不純物が意図的に排除されている。

 不断の生命の永遠の停止。

 白に塗りたくられた閉鎖的な室内の様相を前に、ぼくは、そう思った。

 まるで、ぼくを中心として、ここだけ時が止まっているみたいだった。

 事実、ぼくの中に時間はない。

 あるのは、あたかも無から生じたかのように突然湧き出た正方形に切り取られた空間と、同じく無から生じたのにも似た、ぼくという不確定な存在のみ。

 だからだろうか、ぼくがこうして見聞きしている世界が確固たる現実だと信じ込めなかった。

 水槽の中の魚。

 (かご)に囚われた鳥。

 肉体に繋がれた精神。

 今のぼくの状況は、総括すると、そういうことになる。視界のすべては邪魔ったらしい外皮に覆われ、判断材料のことごとくを奪い去る。何が真実で、何が虚偽なのか、明確な基準がない。

 視覚と聴覚が感じ取るのは、現実味と人間味に乏しい果てしなく白い世界なのだけれど、残された五感のうちのひとつである嗅覚は、周囲の異変、あるいはその名残を過敏に察知していた。

 顔をしかめるほどのツンとした強いニオイが、思い出したように鼻をつく。

 室内に充満する、甘味と酸味が不愉快に混ざったようなこのニオイを、ぼくは、消毒液であるエタノール溶液の発するものだと、なぜか理解していた。

 同時に、ここが、どこかの病院か、研究所か、それに連なる公的機関に設けられた一室であろうことが、即座に連想できていた。

(とすると、ぼくは入院患者か、あるいは何かの実験台か?)

 そう考えると納得がいく。ぼくの左手に繋がれた管は、おそらく点滴なのだろう。

 おぼろげに抽象化され、バラバラに分解されていたそれぞれの要素が、五感を媒介として次第に関連付けられ、あやふやな概念ではない、確かな形ある物として組み上がる。

 それを契機として、周囲をより注意深く観察し始める。

 しかし、その試みは叶わなかった。

「うっ……」

 世界が左右に揺れる。頭の内部が強く振動する。目の前が激しく明滅(めいめつ)する。

 天地無用の(いまし)めを容易く反故(ほご)する上下反転。

 全身からふっと力が抜け、ぼくはそのまま、ドッ、と仰向けに倒れた。

 ここがベッドの上なのが幸いだった。これが固い床だったら、ぼくは脳震盪(のうしんとう)でも起こしていただろう。

 しかし、ひどい耳鳴りだ。キーンと、耳元で飛行機でも滑空しているのかというぐらい大きな騒音が鳴り響く。

 意識が薄れていく。目の前が白から黒に染まっていく。

 気になったのは、倒れる直前に垣間見た、テーブルの上に置かれた機械のそばに寄り添うメモ帳の存在だ。

 もしも、それがぼくの見間違いでなければ、そこにはこう書かれていた。

 ――『時間転送試作装置』

『これを用いれば、使用者は任意の時間に移行することが可能であり、並行世界を生成することが可能である』、と。

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