第1章 3節 差し込む光
時刻は十二時五分。四時間目の授業が終わり昼休みに入ってから三十分が経過したときのことだった。「伸也、お前進路どうすんのよ?」お弁当のご飯をがっついている一紀は一旦箸を置く。昼ごはんを早く食べ終わり下を向いている伸也は目の前の青い水筒に入っているお茶を一口飲んだ後、水筒を持ったまま顔を上げ口を開く。「俺さ、将来やりたい事とか全然わかんなくてさ、進路もどうすればいいかわかんないんだよ。」伸也は水筒の蓋を閉めそれをゆっくりと机に置く。「お前、大学行くの?」「いやー、理学療法士になりたいから専門行くかな、大学金かかるしさ」「私は、小さい頃から看護士になりたいから看護学校を考えてる!」周りのクラスメイトの会話に耳を傾けてみると大半は行きたい学校があって、大半は将来の夢がある。伸也はなんだか周りに置いてけぼりにされてるような気がした。「一紀はどうするの?」益々と焦り始めてきた伸也は恐る恐る一紀の方を見る。「あぁ、俺は警察官になる!小学生の時からさ警察官になってみんなを守りたいって気持ちがあるからさ」「警察官か、お前らしいな!」伸也はどこか顔が引きつっており背中は少量の汗で、薄っすらと滲んでいた。外は雲ひとつない青空で驚くほどに天気が良かった。
伸也はトイレに行こうとし席を立ち、教室を出て人で溢れている廊下を歩いている時だった。「佐々木〜、佐々木〜」声を聞いただけでわかった。そして、なぜ自分の名前が呼ばれているのかもわかった。進路相談か。伸也は行きたくないという気持ちと逃げたいという気持ちでいっぱいだった。軽く舌打ちをし後ろを振り返ると案の定担任の中田がこっちに来いと言わんばかりに手を仰いでいる。伸也は中田のところに行くと「佐々木、進路相談するぞ」「あ、はい」言われなくてもわかっている。そう心の中で叫んだ伸也は中田に連れられてひとつ上の階の三階にいき、社会科準備室に案内される。「よし、入れ。ちょっと散らかってるけど気にするな」中田は笑いながら古びた椅子に腰をおろす。「失礼します。」後に続き伸也も部屋に入り、椅子に座ると「いきなりなんだけど、佐々木は進路どこを考えてる?」中田は席から立ち額の汗をハンカチでふきながら窓を開けている。「先生、俺将来やりたい事ないんです。将来の夢がないんです。どこ行きたいかも全然わかんないんです。」伸也は正直に今の心境を口にした。「そうか...野球は続ける気でいるのか?」開けた窓の前で涼んでいる中田は伸也の目を真っ直ぐ見ながら真剣な眼差しで聞いている。「野球は肩の調子があまり良くならないので高校で辞める予定です。」実は伸也は高校二年生の春に肩を怪我していて、病院に行ったところインピンジメント症候群と診断されていた。インピンジメント症候群とは肩にある腱が炎症を起こし、ある角度で痛みや引っかかりを感じそれ以上肩を上げることができなくなってしまう非常に厄介な怪我である。病院の先生からは手術をした方がいいと言われていたが手術をすればリハビリなどに時間を要してしまい、なんの活躍もできないまま引退してしまうと思っていた伸也はリハビリを途中でやめ騙し騙し練習をし試合に出ていたが、そのせいなのか肩は上がらないほど悪化してしまい、引退した今でも痛む。そんな事もあってか野球は高校で引退すると決めていた。「そうか。大学とかは考えているのか?」中田は再び椅子に座り腕を組む。「何したいのかわかんないし、やりたい事もわかんないけど、大学だけは行かないってことは決まってます。」伸也は大学だけは絶対に行かないと決めたいた。伸也は幼い頃に父親を病気で亡くしており、母親のいずみが女手一つで三つ歳の離れた兄の和也と伸也を育ててきた。いずみは看護師だったのでそこまで裕福な家庭でもなく貧乏でもなかった。ただ、兄の和也が放射線技師の医療大学に行っていて、金銭面的にも自分が大学に行くのはきついと思っていた伸也は就職するか専門学校に行くという選択肢しか頭の中にはなかった。やりたい事もなく、専門学校に行ってもお金の無駄ではないのかというのが頭の片隅にはあった。「佐々木、お前さんは小さい頃から野球をやっていたんだろ?体力には自信あるか?」小学校低学年から野球をやっていた伸也はきついトレーニングなどもしていて体力には自信があった。「はい、それなりにはあります」と頷くと、中田は手を伸ばし所々錆びている金属の古い机の引き出しを開け、一枚のパンフレットを出した。「これ、太田専門学校のパンフレットなんだけど名前くらいは聞いたことはあるだろ?」「はい、あります」正直聞いた事なかったが一刻も早く進路相談が終わって欲しかった伸也は適当に返事をし、わかっているフリをした。「ここは、公務員を目指す人たちが行く専門学校なんだけど、佐々木、やりたい事ないなら消防士とかはどうだ?」「消防士ですか?」中田の思いもよらぬ発言に思わず聞き返した。消防士になるなんて考えた事もなかった。チラッと腕時計を見た中田は続けて話す。「佐々木は野球をやってきて体力もある。それに先生は責任感もあると思ってる。やりがいあると思うぞ。どうだ?」「でも俺、頭悪いし勉強できないから無理なんじゃないですか?頭いいと消防士はなれないんじゃないですか?」消防士は勉強できないとなれないってことくらいはわかっていた。「だから専門学校行って勉強するんじゃないか。いいか、世の中にはやってみなきゃわかんない事だってあるんだぞ。最初から無理だと諦めているうちは絶対無理なんじゃないのか?」中田の言葉に伸也は思わず目線を逸らした。正直今までずっと辛いことから逃げてきたんじゃないのか?勉強からも進路からも今までずっと逃げてきたんじゃないのか?伸也の頭の中には真っ暗な暗闇を永遠と走る自分の姿が映し出されている。それでいいのか?それでいいのか?変わるなら今じゃないのか?その暗闇からはほんのわずかだが明るい光が差し込んできた。「おお、もうこんな時間か。とりあえずこのパンフレットはあげるから。家帰ってゆっくり考えなさい。」中田ゆっくりと立ち上がり「今日はこの辺で終わるから、授業には遅れるなよ」と言い優しく笑った。「はい、ありがとうございました。失礼します」席を立ち社会科準備室を出た伸也はパンフレットをまじまじと見ながら階段を降り、教室に戻った。「おつかれ!どうだった?」音楽を聴きながら携帯をいじっている一紀はイヤホンを外した。「まぁ、うん。なんかパンフレット貰ったよ」一紀にパンフレットを見せると「おぉ!太田専門学校か!俺が行こうと考えているところじゃん」そう言って目をキラキラさせながらパンフレットを眺めている。「伸也!消防士目指すんだろ、俺にはわかるぞ」と顔をニヤニヤさせながら伸也を指で突っつく。
「まだ決まったわけじゃないけれど」そう言って少し元気になり、はにかんだ笑顔で一紀を見た。今まで全く進路の事を考えずに過ごしてきた伸也は焦っていたが、中田の言葉で心の疲れが一気に吹き飛んだような気がした。