ゆめゆめ
2011年初出作品。
戦国時代。武家の妻のもとに、桜の頃にやってきた美しい商人は、十数年後に再び姿を現した。あの時とまったく同じ笑顔のままで。
それは、儚く移ろう季節の、ほんの一瞬にすぎぬ。
あの者は、永遠を知りながら、永遠を与えはしない。
夫との間に子を設けぬ妻が冷遇されるのは、戦国の倣い。仕方のないこととは知れど、心が晴れることもない。好んで、嫁いできたわけではない。などと口にすれば、武家の女子が何を言うかと父母に言われるであろう。そして夫も、好きで娶ったわけではないと、言うかもしれない。幼くして政略結婚した律は、まだ若い身でありながら、遣る方のない思いを抱えて過ごしていた。
部屋にこもってばかりの冬は一層気が滅入る。春になり風もぬるくなり、花が咲き始めると、侍女が気晴らしにと外へ出ることを勧めた。重い心を抱えたままではそれも億劫で、律は何とはなしに外を眺める。
城内の桜の木も色付き始めたのだろう、庭木の向こうに薄紅の雲が見えた。不意に、そちらのほうから笛の音が聞こえた。冴えわたる澄んだ音色に、思わず耳を傾ける。これほどに見事な笛を奏でる者を、この城内では知らない。誘われるように庭に降り、桜のほうへ足を向けた。
薄紅に染まる桜の木の下で、一人の青年が笛を吹いていた。見覚えのない、そして今まで見たこともないほどの美しい男。低い位置で髪を一つにまとめて、衣服の様子から商人のようだ。
笛の音が止み、男が律へ眼を向けた。
「これは奥方様、お耳汚しでございました」
「かまわぬ、続けておくれ。これほど美しい笛を聞いたのは初めてじゃ」
謙遜する男に、律は演奏を続けるよう促した。ずっと聞いていたいと思うほど演奏は素晴らしく、そしてずっと見つめていたいほど、男は美しかった。
男は律の求めに応じて、再び笛を奏でた。男の隣に立って、律はその音色に酔いしれた。桜の下の男は、まるで桜の精のようだと律は思った。
「そなた、名は何と申す?」
笛を懐にしまった男に名を尋ねた。
「冷泉 理人と申します。京からご城主様に荷を持って参りました商人にございます」
夫の元へ来たという商人は、夫の求めにより、しばらくこの城へ逗留しているとのことだった。
「京の都より素晴らしい品々をお持ちいたしました。奥方様もご覧になりますか?」
「ええ、是非に」
律が頷くよりも先に、侍女の一人が答えた。珍しい京の品を見れば、律の気も晴れるかもしれないと気遣ったのだろう。
理人は女子の喜びそうな品々を揃えて律の部屋へ持ってきた。京で評判の干菓子。色とりどりのきらびやかな京織物や、繊細な装飾の施された櫛。質の良いおしろいや紅、それに香油など。それらはすべて律の心を浮き立たせた。
「まあ、なんと素晴らしい…」
うっとりと品々を眺める律に、理人は微笑んだ。
「奥方様には、こちらをお勧めいたします」
美しく装飾された二枚貝の容器を理人が手に取った。貝を開けると、上質で鮮やかな紅が見えた。けれどそれよりも、律の目は理人の長い指を追う。
「奥方様の美しいお顔に良く映える色だと思いますよ」
理人の薬指が紅を取り、その手が近付いたかと思うと、律の唇に触れた。薬指が唇をなぞり、紅が塗られる。
侍女が上げた驚きの声に、はっと律は我に返った。
「…ぶ、無礼者!」
顔を赤く染め上げて怒る律に、理人は動じることなく美しい笑みを向ける。
「これは失礼」
懐紙で自分の薬指に付いた紅を拭き取るその所作さえ美しいのだから、性質が悪い。
「ですが、私がここにこうしているのは、奥方様が望んだことなのですよ?」
己の心の内を覗かれたような言葉に、律はますます顔を赤くする。
「なっ…何を、そなたを部屋へ招いたは侍女じゃ」
「ええ、ですが、私を求められたのは、あなたです」
冴えわたる笛の音のように美しい微笑が律に近付き、その瞳にすべてを見透かされるような気がして、律は恐れた。けれど、目を逸らす術もなく、頬に触れた手を受け入れるほかなかった。
「まるで、紅のようにお顔が赤く染まっておいでですよ、律様」
耳元で囁かれる自分の名に律は身を硬くした。理人の指が頬をなぞり、離れて行った。その温もりを名残惜しく思いながら、律は目を開ける。
すぐ近くに座っていたはずの理人の姿はなく、既に戸の近くに立っていた。
「そろそろご城主様に茶の湯をお点てする時間ですので、失礼。続きはまた今宵」
戸を開ける寸前、艶やかな微笑を閃かせて、理人は何事もなかったかのように部屋を後にした。
乱れ咲く桜の花々を冴え冴えと照らす月の光は、灯りを消した部屋の中まで仄明るく射しこんでいた。青白い光に浮かぶ背中に、律は手を伸ばした。滑らかな肌に触れると、隣に起き上がっていた理人が顔だけを振り向かせた。
「起こしてしまいましたか?」
月の明かりで陰影が濃く映し出される理人の顔は、より一層美しく見える。
「…何処へ?」
褥を出て衣服を整える理人の背中に小さく声を掛ける。
「ご城主様のところへ参ります。今頃、酒の相手をお探しでしょうから」
「…こんな時間に?」
もう夜も深い。こんな時間に、ましてやこの状況で夫の元へ向かうと言う理人に、律は怪訝な表情を浮かべる。
「毎夜のようにご城主様は遅くまでお仕事をなさっておいでです。こんな時間にもなれば、酒の相手をするのは、私くらいしかおりません」
夫が一介の商人である理人をこの城に留めているのは、もしかしたら、そういう事情もあるのかもしれない、と律はふと思った。あまり人と心を交わらせぬ夫が、この美しい商人とは笑顔で酒を酌み交わすのかもしれぬ。
理人が戸を開けると、そこから月の光が差し込んで、美しく理人を照らした。
「…理人…」
思わず声を掛けると、理人が振り向いた。
「ご案じなさいますな。余計なことは申しませんので」
口の端に笑みを乗せて理人は戸を閉めた。その微笑は月の光のように美しく、どこか冴え冴えと冷たかった。閨にはもう理人の温もりは残っておらず、月が雲に隠れるように、あっという間に理人の名残は消えていた。
しばらくして、夫の部屋のほうから笛の音が聞こえて来た。夫の求めに応じて理人が奏でているのだろう。澄み渡るその音色が、今はどこか物悲しく聞こえる。
着物を羽織って律は褥を出て、そっと窓を開けた。月はまだ空に掛かったままで、理人の笛の音と共に、薄紅の花々を見下ろしていた。
夫とは、しばらく閨を共にしていない。仕事が忙しい夫は居室にこもりがちで、同じ部屋で寝ることもなくなっていた。そのせいか、理人に言われるまで、夫がこんな夜遅くまで仕事をしていることすら知らなかった。
自分は、我が身の境遇を嘆くばかりで、夫のことなど何も見ていなかったのではないかと、律は月に照らされる桜を見ながら思った。
それから、理人が律を訪れることはなかった。侍女が城の者から聞いてきたところによると、律に会った翌日には城を出立したとのことだった。もともと、夫に荷を届けにきただけの商人だ。長居する予定もなかったのだという。
理人が律に残したものは、律が理人から買い上げたいくつかの品と、理人が律に贈った二枚貝に入った紅だけだった。貝の蓋を開け、律は鏡を覗いて薬指で紅を引く。理人の指が唇に触れた時のことを思い出して、律はそっと目を閉じた。
そこへ、物音がして戸が開いた。振り向けば夫が入って来るところだった。夜着に身を包んだ夫が褥に座る。「どうしてここへ?」と問いかけそうになり、夫が妻の所へ来るのに理由など要らぬこと思い出して口をつぐむ。
夫の前に座った律の手を取り、おもむろに夫は頭を下げた。
「寂しい思いをさせて済まぬ」
突然の謝罪に律は戸惑った。何も言わぬ律に、夫は急務としていた河川の護岸工事が一段落した旨を話した。それで多忙だった夫は、時間が出来て律の元に来たというわけだ。
「理人とは会ったか?」
「えっ? ええ、はい…」
理人から品を買ったことを隠して知らぬというのも変なので、曖昧に頷く。
「あやつめが申しておった。おぬしが寂しそうにしていたと。わしが放っておくなら、奪って行ってもよいのだと」
余計なことは言わないと言っていた理人が、夫にそんな話をしたのかと驚いた。
「おぬしはわしの妻じゃ。奪われては困ると、むろん断った」
夫の手が頬に触れる。理人の手とは違う、武人らしい骨ばった大きな手だ。
「…紅を引いたのだな」
「…お気づきになられましたか?」
夫は自分の容貌など気にも留めていないと思っていた。意外ながらも嬉しくて、それと同時に、夫に背いた罪悪感が胸の奥で疼いた。
「良く似合う」
夫の太い指が、律の唇に触れた。
それから十数年が経ち、律は女子一人と、男児二人の母となった。
桜の花が咲き乱れる頃、年頃になった娘の千桜に、夫が縁談を持ち込んだ。とはいえ、それは決定事項で、武家では珍しくない政略結婚だ。自分も同じように夫に嫁いで来たのだから仕方がないとは思ったが、娘が恋の一つも知らぬまま、よく知りもせぬ男に嫁がねばならないのかと思うとやるせない気持ちにもなった。せめて、あの時理人に触れられた自分のように、切ないながらも甘い思いを得られるのなら…。
「御方様、千桜様へお祝いの品が届いてございます」
城に仕える男が伝えに来たので、律は持ってくるように指示した。すると、間もなく律と千桜のもとに婚儀を祝う品々が運び込まれた。
「千桜姫様、この度はおめでとうございます。秦野様よりのお祝いの品でございます」
家臣の名を口にして、祝いの品を運んできたと思われる商人が頭を下げた。顔を上げたその商人に、律も千桜も息を呑んだ。千桜はその男のあまりの美しさに、律は、その男の変わらぬ美しさに。
優雅に微笑む目の前の男は、見紛うはずがない、確かに理人だ。あの頃と変わらぬ美しさで千桜と律に微笑みかける。
桜の季節と共に去った男が、時を経て再び桜と共に律の前に現れた。
祝いの品を置いた理人はすぐに去ったが、事は、その数日後に起きた。千桜が、結婚が嫌だと言い出したのだ。困惑する夫は律に理由を聞き出すように命じた。律が千桜に問い質すと、千桜は涙ながらに訴えた。
「わたくし、理人様を好いているのです。あの方と一緒になりたいのです。知りもしない他の男に嫁ぐなんて嫌です」
律は青ざめた。時折城を抜け出す千桜を、結婚前のわずかな自由と見逃していたのだが、それはきっと理人との逢瀬のためだったのだろう。理人は秦野の家に滞在していると聞いた。
居ても立てもいられなくなった律は、すぐさま秦野の家に向かった。驚く秦野を一喝して、理人に会わせるよう迫った。
「そろそろおいでになる頃だと思っていましたよ」
例の理人は、悠然と茶室で律を迎えた。
「そなた、どういうつもりじゃ? わたくしだけでなく、千桜まで…!」
「私は、求めに応じたまでのこと」
理人は微笑をたたえたまま、慣れた手つきで茶を点てる。
「…そなたっ、己のしていることがわかっているのか!? 千桜は、そなたの子…」
「──いいえ、千桜姫様はご城主様のお子。人ならぬ身である私が子をなすことはありません」
素早く動かしていた茶筅を最後にゆっくりと回し、理人は手を止めて顔を上げた。
「……人ならぬ…身……?」
「久しぶりに私をご覧になって、驚かれたでしょう? あの頃と何も変わっていない」
何も変わらぬ理人の姿に、驚き疑念を抱かなかったと言えば嘘になる。あの頃より老いた我が身に対して、若いままの理人に恐れを抱いたのも事実だ。
「私は時の流れの外に生きる者」
理人は律に茶を差し出し、あの頃と変わらぬ美しい微笑を向けた。
「あなたも千桜様も、退屈しのぎにはなりましたよ」
城に帰った律は、千桜に理人はもう既にこの国を出立したと告げた。嘆き悲しむ千桜に、律は務めて冷静な声を出す。
「あの者は、所詮商人。我ら武家とは異なる世界に生きる者。早く忘れるがよい」
「いいえ、いいえ、母上。忘れるなんて出来るはずがありません。わたくし、あの方を愛しているのです。あの方も、わたくしが望むようにしてくださるとおっしゃいました」
それなのに、どうしてわたくしを置いていってしまわれたのだろう、と千桜は涙をこぼす。
「…千桜、あの者は鬼ぞ」
律の厳しい声に、千桜はビクリと母を見上げる。
「人の心を惑わせ喰らう鬼じゃ。心を奪われてはならぬ」
理人は、“退屈しのぎ”と言った。それが本心であるかどうかは、律にはわからない。だが、理人が本気で千桜を奪う気などないことは明白だ。
「そなたは武家の娘。己の心のままに生きるよりも、民のことを思うて生きよ。それが武家に生まれた女子の務め。それをゆめゆめ忘れるでない」
夫と結婚する時、確か同じことを母に言われたと律は思い出した。幸い夫とは、少々時間が掛かったが、心を通わせることができた。夫を理解し支えるのが武家の妻の務めと悟ってからのことだが。
どうか娘にも、いつかそのことを知る時が来るといい。
理人が与えてくれた時間は、確かに夢のように幸せであったかもしれぬ。だが、それはひとときの儚い夢に過ぎぬ。桜の花が散れば、消えてしまうような薄紅の雲だ。
あの男が、桜の精であったのか、まことに鬼であったのかはわからぬ。ただ、あの男と共に生きることはできぬ。一緒にいても幸せにはなれぬと、ゆめゆめ肝に銘じなくては。




