世界はまだ、終わらない 3
自然と足はそこへと向かっていた。他に行くところを思いつかなかった。ドアを開けたら、丁度カザキがフロアからカウンターへ戻るところだった。「いらっしゃい」と声を掛けるカザキの顔を見た瞬間、我慢していた涙が零れた。
「何で俺の顔見て泣くんだよ?」
困ったようにカザキは私の顔を覗き込んだ。
「あー、カザキが女の子泣かせてる」
通りかかったハトリくんがカザキをからかい、カザキのトレーを受け取って持っていった。
「おい~、泣くなよ~。まるで俺が泣かせたみたいだろ」
フロアの隅のソファでリヒトさんが貸してくれたタオルで涙を拭いた。私の隣に座るカザキが困ったように様子を窺っていた。
「…私、どうしたらいいのかわからなくて」
何が?と問うカザキの声は優しい。
「今日ね、真麻ちゃんに健人くんとのことを相談されたの」
二人は自己主張が強い上に意地っ張りだから、喧嘩はしょっちゅうだ。その度に私が間に入って話を聞いている。
今日は真麻ちゃんから健人くんとの喧嘩の話を聞かされた。だけど、私にとって二人の喧嘩は二人が仲のいいことの証明で、それはいいことなんだけど、辛いことでもあった。そして、とうとう我慢しきれなくなって、言ってしまったのだ。
「いい加減にしてよ。どうして毎度毎度二人の喧嘩の話を私が聞かなきゃならないの? 二人とも、私に頼りすぎだよ。二人のことなんだから、自分たちで解決してよ」と。
「真麻ちゃん、驚いた顔してた。どうしよう、私の気持ち、バレちゃったかもしれない」
健人くんを好きなことは、真麻ちゃんには、絶対に秘密だ。
「いいんじゃねえの、バレたって」
無責任にカザキは言った。
「今まであんたはずいぶん我慢してきたんだ。その友達だって、あんたの気持ちを考えるくらいのこと、したってバチはあたらないだろ」
「でも、真麻ちゃんは大切な友達なの。失いたくない。健人くんとも、友達でいたいの。二人と友達でいられなくなるなんて、嫌だよ…」
私の気持ちがバレたら、気まずくなって友達でいられなくなる。それが嫌で気持ちを隠してきたのだ。
「…まあ、心配すんなよ」
うつむく私の頭をカザキの大きな手が撫でた。
「あの女は、たぶん、気付いてねえよ。気付くくらいなら、とっくに気付いてる」
ほんとに?と尋ねると、俺の勘はよく当たる、とカザキは自信満々に頷いた。そして、ハトリくんが持ってきてくれたオレンジジュースを私に差し出した。お礼を言って受け取り、ストローを吸い込んだ。甘酸っぱいオレンジが喉を通る。
翌日、学校で真麻ちゃんと健人くんが揃って私に頭を下げた。
「美森、今までごめんね」
「俺たち、考えなさ過ぎたよな」
突然謝られて戸惑っていると、彼らは続けた。
「喧嘩するたびに美森に取り持ってもらうなんて、甘えすぎてたよね、ごめん」
「ごめんね、美森が嫌な気分になるのも当然だよね」
昨日、あれから真麻ちゃんが健人くんに相談して、二人で謝ろうと決めたのだと真麻ちゃんが言った。
「いいよ、そんなの。昨日は、ちょっと疲れてたから、あんなこと言っちゃって、私のほうこそごめんね」
真麻ちゃんに謝ると、そんなの謝らないでと真麻ちゃんは首を横に振った。
「私は、いつでも二人を応援してるから」
「ありがとう」
安堵したように二人が微笑んで、それを見て私も安心した。やっぱり、大好きな二人には、仲良くしてもらいたい。私は彼らの友達なのだから。
コンコン、と教室の窓が叩かれた。外を見遣るとガラス越しにカザキの顔が見えた。
「どうしたの?」
慌てて窓を開ける。
「時間あるなら、ちょっと付き合えよ」
戸惑っていると、「すぐに行きまーす」と真麻ちゃんが勝手に返事をした。ほら早く、と気を回したらしい真麻ちゃんは私の背を押して教室から出した。カザキの言った通りだったと安心して、カザキの元へ向かった。
カザキに渡されたものを見下ろして、「あの、これは?」と尋ねる。見てわからないか?と呆れるカザキに「そうじゃなくて」と反論したのに、全然相手にされなかった。
「まあ、乗れよ」
カザキはヘルメットを着けてさっさとバイクに跨った。仕方なく受け取ったヘルメットをかぶって後ろに乗る。
「しっかり掴まってないと落ちるぞ」
言うや否や、バイクは発進した。バイクのスピードや揺れや、吹き付ける風の恐怖に、思わず目をつぶってカザキの背中にしがみついた。
しばらく走ってから、カザキは高台でバイクを止めた。私を降ろしてヘルメットを外してくれた。吹き抜ける風に髪がさらわれる。そして、頭上には、一面に広がる青空。
ああ、空が目に染みる。涙が溢れてきた。
「よかったのか、自分の気持ちを言わないままで」
「もういいの。もう忘れちゃった」
きっと、バイクが早すぎてそんな気持ち置いてきてしまった。風が強すぎて、そんな想いどこかへ飛んでいってしまった。
「このキーホルダー、二人が私にくれたものなの」
二度カザキに拾ってもらって、直してもらったイチゴのキーホルダーを指差した。バッグに着いたイチゴが揺れる。
「二人でデートに行った時に見つけて、私にあげたいって二人同時に選んだんだって。二人が私のこと大切に思ってくれるの、嬉しかった。だから私も、二人を大切にしたい」
そうか、とカザキは私の頭を撫でた。
涙が零れないようにと見上げた空は、絵に描けないほどに美しかった。
学内展のメイン会場であるロビーには今年の受賞作が飾られていた。学内外の人でロビーは賑わっている。
そこへ、ざわめきが起きる。人々の視線の先には、長身に黒い髪の超が付くくらい目立つ男。しかも、一緒にいる二人も見惚れるほどの美しさだ。
「カザキさん、来てくれたの。リヒトさんとハトリくんも」
片手を挙げて挨拶した相手に、私は駆け寄った。
「へえ、これが受賞作?」
大賞のリボンがついた絵をカザキが見遣る。キャンバスの中には、彼と同じ黒髪で長身の男が青空に咲き誇る桜とともに佇む。タイトルは、『この世の春』。
僕たちは先に回ってきますね、とリヒトさんがハトリくんを連れて離れた。残されたカザキが私を見下ろして微笑む。
「良かったな」
「ありがとう」
本当に、カザキには感謝している。
世界はまだ終わらないと、この世はまだ美しいと、教えてくれた。
桜並木には薄紅色の嵐のように花びらが降っていた。満開を過ぎた桜は、それでも美しさを保っていた。そこを三人はゆっくりと歩く。
「カザキの爽やか好青年っぷりに違和感ありまくりなんだけど」
「爽やかだろ、俺は」
からかいを含んだ口調の羽鳥に、風生は平然と返した。
「絵もずいぶん素敵に描いてくれてありましたね」
「ありのままの俺だろ」
「…そういうことにしておきましょうか」
風が吹いて花びらを舞い上げる。風が三人の髪をもてあそび、薄紅の花弁とともに去って行く。
「桜って散るのも綺麗だよな」
羽鳥が桜を眩しそうに見上げた。
頷いた理人が差し出した掌に桜の花びらが舞い降りる。はらはらと舞い散る桜を眺めていた理人がぽつりと呟いた。
「…咲耶…」
「え?」
「此花咲耶比売。桜の精だという女神の名前ですよ」
ふうん、と頷いた二人は理人とともに帰路に着いた。
まるで薄紅の雨のように降り続ける桜が、三人を見送っていた。




