世界はまだ、終わらない 2
桜が咲き出すと、街は一気に色づく。薄紅色の絵の具をこぼしたように、街は染め上げられて、華やかな空気をまとう。
見上げれば、薄紅の雲のように空を覆う桜。
「私、桜のない街には住めないかも」
「俺も」
突然の声に驚いて振り向いた。
「本当にボーッとした女だな。しかも、でけぇ独り言」
「カ…カザキ…さん」
呆れ顔でそこに立っていたのは、間違いなくあの彼だった。この間と同じように、ぼうっと桜を見上げているのを見られていたなんて。しかも独り言を聞かれて、恥ずかしくてうつむいた。
「おい、それ、ちゃんと直した?」
カザキが私のバッグについているイチゴのキーホルダーを指差した。
「…え、と。自分でやってみたけど、どうかな?」
実はあまり自信がない。カザキに言われて、金具を見たら確かに緩んでいるみたいだったけど、どうしたらいいのかわからなくて、ちょっと締めただけだ。
「貸してみ」
言われるがままキーホルダーを差し出されたカザキの手に乗せた。カザキは緩んだ金具をつまんで力を込めている。
「はい」とキーホルダーを返された。見るときちんと直っている。「すごい、どうやったの?」と訊いたら「力づく」と答えられた。
「相当気に入ってんだな、それ」
「大事なものなんです」
ふうん、とカザキは相槌を打った。
「あの、カザキさん、今暇ですか?」
視線を向けられて、自分が何を言い出したのかと慌てた。
「ご、ごめんなさい。暇じゃないですよね」
「まあ、忙しいってわけでもない」
慌てる私に呆れた顔でカザキは答えた。
「あの、じゃあ、お願いがあるんですけど」
普段だったら考えられない行動に出た自分に、自分が一番驚いていた。でも、偶然に再会して、もうこんなチャンスはないと思ったら、口が勝手に動き出していた。
「カザキさんは、どうしてここに?」
「この近くにいい酒屋があるんだよ。店で使う酒の注文に行って来いってリヒトに言われて」
向かいに座るカザキの視線に緊張して、質問攻めにする。
「お酒の注文はカザキさんの仕事なの?」
「そう。リヒトはあんまり外に出ないし、ハトリには酒売りにくいだろうから」
ハトリくんの十代みたいな可愛い顔を思い出して、確かに、と納得した。
「なあ、動いてもいい?」
「うん、ちょっとなら」
手元に視線を落とした。スケッチブックの中のカザキが強い視線を私に向けている。顔を上げてもう一度カザキを見る。少しポーズを変えたカザキがこちらを向いて座っている。
大胆にも、私はカザキを学校まで連れてきてデッサンのモデルになってもらっていた。人見知りする私にしては、かなり思い切った行動だ。
「見てもいい?」
近くに置かれたイーゼルを指差してカザキが訊いた。頷くと、掛けられた布をカザキが外した。
「まだ完成してないし、あんまり上手くないけど」
先生にダメ出しされた学内展用の絵だ。
「ふうん、桜か。綺麗だな」
私の絵を見てカザキが感想を呟く。キャンバスいっぱいに広がる薄紅の花は、大好きな桜をイメージした。
「でも、先生にはインパクトが足りないって言われちゃって」
「まあ、確かに店には飾らないな」
あっさりとカザキは認めた。
「飾るなら、寝室だな。俺の目だけ楽しませればいい」
視線を向けられて、ドキリとする。この人の目は、どうしてこんなに強い力を放つのだろう。惹き寄せられて、逃れられない。まるで、呪縛にでもかかったかのように、私は手を止めてカザキに視線を返した。
そこへ、突然ドアが開いた。
「あれ、美森まだいたの?」
健人くんが驚いたように言う。
「あっ! 美森が男連れ込んでる! しかも、なに、この超イイ男!」
健人くんの後ろから、真麻ちゃんが更に驚いた様子で叫んだ。
「初めまして。私、美森の親友の大橋 真麻です~」
健人くんを押しやって教室に入った真麻ちゃんが自己紹介した。「どうも」とカザキは微笑した。
「…カザキ? え、二人、いつの間に知り合ったの?」
健人くんが私とカザキの顔を交互に見やった。健人くんは、私とカザキがあの日店で会ったのが初対面だと思っているのだろう。
「あ…えーと、そこで会って、モデルを頼んだの」
学校の前の桜並木の方向を指差して説明した。それを聞いて健人くんは「あ!」と声をあげた。
「この間の美森のデッサン、カザキがモデルだったんだ」
何やら納得したように健人くんは頷いて、じゃあ、と教室を出て行こうとした。「ちょっと、健人」と不満そうに呼び止める真麻ちゃんに「行くよ」と促す。
「何でよ?」
「邪魔したら悪いだろ」
不服そうな真麻ちゃんを、健人くんは大きな誤解で宥めた。
「け、健人くん! 邪魔なんかじゃないよ、全然。変な気遣わないで」
慌てて否定するのに、健人くんは誤解したままで手を振って教室を出て行った。真麻ちゃんも出て行ってしまい、ドアを閉められると再び教室にはカザキと二人きりになった。
男女が二人きりでいるからって、何かあるってわけじゃないのは、健人くんだってよく知っているはずなのに…。
あらぬ誤解をされて落ち込んでいたら、イーゼルに布を戻したカザキが私の近くの椅子に座った。
「あいつが好きなんだ?」
「ち、違っ…」
「嘘つくの下手だな、あんた」
カザキは笑った。
「盗っちゃえば?」
「なに言ってるの? そんなんじゃないって言ってるでしょ」
彼を好きなことは、誰にも秘密だ。彼女に悪くて、悟られることさえもしてはいけないと心に決めているのに。
「じゃあ、何でそんな顔してんだよ?」
「どんな顔よ?」
精一杯の虚勢を張っても、この人の前では無意味だ。
「この世の終わり、みたいな顔」




