サクラサク
2008年初出作品。
「サクラチル」の幼馴染たちの1年後。恋人同士になったばかり。そして男が転勤直前。
秀明が転勤の報告を私の両親にすると言うので一緒に実家に行った。迎えに来てくれた秀明の車に乗って実家へ向かう。
実家に着くと、お母さんが玄関で出迎えてくれた。お父さんが居間から顔を出す。
「ご無沙汰してます」
秀明がお母さんに手土産のプリンを渡す。
「いらっしゃい、待ってたわ」
お母さんは嬉しそうに、いそいそとキッチンへお茶を淹れに行った。お父さんは読んでいた新聞をたたみ、秀明をソファへ座らせた。
「秀明、転勤だって?」
お父さんが切り出した。転勤の話は私からもしてあるし、秀明も電話で言ってあるようだった。
「うん、四月の異動で本社に」
「東京本社に引き抜きか。栄転てやつだな。そうか、バリバリ働けよ~」
まるで自分の子どものことのようにお父さんは嬉しそうだ。
「秀明くん、引越しはもう終わったの?」
キッチンから戻ってきたお母さんが訊いた。
「だいたいの荷物はもう移動したよ」
秀明は自分の住んでいたマンションはもう引き払っていて、殆どの荷物は東京のマンションに送っている。今は実家から会社に通っている。
「部屋探すの大変だった? 東京じゃ、家賃高いでしょ?」
お茶を置いて、ねえ、とお母さんがお父さんに同意を求め、お父さんが頷いた。
「会社が借り上げてくれた部屋があって、そこを安く借りられるから。住むところには苦労しないで済んだよ」
秀明は転勤が決まってから、東京とこっちを行き来して準備を進めていた。
「どのくらい行くんだ?」
「短くて一年。長ければ三年か、それ以上」
お父さんの問いに秀明が答える。私は既に聞いて知っていた。もうこっちに戻らないこともあり得るということも。
「寂しくなるわね、秀明くんがいなくなると」
お母さんが残念そうに息を吐き出した。
「そうだな。えみるに説明するのに苦労しそうだ」
お父さんも苦笑して頷く。えみるには、まだ秀明の転勤のことは言っていない。転勤がどういうことなのか知れば、えみるは泣くに決まっている。暫くは黙っていようと兄と相談して決めた。折を見て兄から話すことになっている。
「おばさんも寂しいわ、秀明くんがいないと」
「長期の休みには帰ってくるよ」
秀明の言葉にお母さんは「また遊びに来てね」と嬉しそうだ。
「よく茉里絵が泣かなかったよなぁ」
感心したようにお父さんが言う。
「泣くわけないでしょ。子どもじゃあるまいし」
いくら私が我儘だからといって、秀明の仕事のことで駄々をこねたりはしない。
「でも、茉里絵、大丈夫? 秀明くんがいなくて」
まったく、うちの両親は、自分の子どもを何だと思っているのか。それじゃ、まるで私は秀明がいないと駄目みたいじゃない。…概ね間違ってはいないけど、でも、そんなに子どもじゃない。
「おじさん、おばさん、お願いがあります」
お母さんに反論しようと口を開いたら、秀明の声の方が早かった。秀明を見遣ると、姿勢を正している。
「茉里絵さんと、結婚を前提にお付き合いさせてください」
お父さんが口に含んだお茶を噴き出しそうな勢いで咳き込んだ。お母さんが「まあまあまあ」と両頬に手を当てて嬉しそうに呟く。
あの、私も初耳なんですけど?
「茉里絵、やったじゃない。お母さん、秀明くんみたいな息子が出来るなら大歓迎よ」
お母さんが浮かれた調子で言った。
お父さんが咳払いを一つする。
「秀明、茉里絵を頼むよ」
ちょっと、ちょっと! 私の意志はまる無視ですか!?
文句を言おうと秀明の顔を見たら、嬉しそうに微笑まれて、喉まで出掛かっていた言葉を飲み込んでしまった。
ゆっくりしていきなさいとお父さんは言ったけど、どうやって秀明くんをモノにしたのよ~、などとお母さんが友達のノリで訊いてきて恥ずかしいので、早々に実家を出た。
「まったく、信じられない。お父さんたちにあんなこと言うなんて」
運転席の秀明に、さっき飲み込んだ言葉を投げつける。
「私、そんなこと聞いてなかったんだけど?」
「うん。だって言ってない」
ハンドルを操作しながら秀明はしれっと言う。その横顔を睨みつけた。
「お前、おじさんたちに俺たちのこと言ってなかっただろ」
「う…は、恥ずかしくて」
言えば、お母さんが今日みたいな反応をするだろうと想像はついたし。
「だろうと思った」
「で、でも、折を見て言おうと思ってたのよ」
別に隠そうと思ってたわけじゃない。
「そう言う秀明は、おばさんたちに言ったの?」
「うん。全然驚かれなかった」
秀明がその時のことを説明した。
「俺、茉里絵と付き合うことにしたから」って言ったら、父さんも母さんも「ふうん」「あ、そう」って。あまりのリアクションの薄さに、「それだけ?」って訊いたら「だって、いつかそうなると思ってたから。ちょっと遅すぎるくらいよねぇ」って母さんが言って、父さんも頷いてた。「いつかそうなったらいいね、ってのんちゃんと言ってたのよ」だって。
「だから、おばさん、あんまり驚いてなかっただろ」
のんちゃん、というのは、私の母の愛称だ。秀明のお母さんは母をそう呼んでいた。
「花見でも行くか」
唐突に話題を変えて秀明がウィンカーを左に出した。近くの山の桜がもう咲いているだろうと秀明は車を向けた。
程なく車は目的地に着いた。山の上の公園は、もう桜が満開になろうとしていた。地元の人でも一部にしか知られていない穴場だ。
「わあ、綺麗!」
車を降りて、桜へ駆け寄る。日当たりのいい場所の桜はもう満開だ。
「さっきの話だけど」
後ろから歩いてきた秀明が言った。振り向いたら真剣な顔をした秀明が立っていた。
「俺は、茉里絵と付き合うって決めた時から考えてたよ」
風が吹いて、桜の枝がさわさわと音を立てる。
「茉里絵は嫌? 俺とは考えられない?」
私と秀明の間に薄紅色の花びらが舞った。
「…違うの。嫌とか、そういんじゃなくて。突然で、ちょっとびっくりしただけで…」
秀明がお父さんたちにああ言った時、びっくりしたけど、嫌じゃなかった。私が怒ったのは、秀明が私にまた何も相談しなかったことだ。
「今すぐにってことじゃないんだ。俺まだそんな甲斐性ないし、一年は離れることになる。でも、考えてみて」
「…うん」
頷くと、安堵したように秀明が微笑んだ。
「茉里絵、左手出して」
こう?と掌を上にして差し出した。「いや、反対」と秀明が手を掴んで掌を下に向けた。ジャケットのポケットに手を入れて何かを出す。左手で私の手を支えたまま、それを私の薬指にはめた。
「まだ、プロポーズってわけじゃないんだけど。こういうの、渡したことなかったから」
春の日差しを受けて、キラキラと輝く指輪。
「…よく、わかったね、サイズ」
「伊東に聞いた」
まだ離されない手をギュッと握る。
「…嬉しい。ありがとう」
素直にお礼を言ったら、掴んだ手を引っ張られて抱き寄せられた。
「…まるで恋人同士みたい」
「違うのかよ」
「違わない」
背中に手を回してギュウと抱きついた。秀明の体温や匂いを忘れないように胸に頬を寄せる。秀明が髪を撫でる。
寂しい。行かないで。お願い、傍にいて。
口を開けば、そんな秀明を困らせる言葉ばかりが出てしまいそうで、口を堅く閉ざした。反対に、目を閉じれば涙が出そうだったから、桜を眺めるふりをして視線を上に向けた。秀明が私につられるように桜の木を見上げた。
満開の桜が風に揺れて薄紅の吹雪を降らす。
秀明が唇に軽く触れた。それを合図にもう一度唇が重ねられる。涙が頬を伝う。秀明の手が頬の涙を拭った。秀明が心配そうな顔をするから、笑顔を作って見上げた。
車に乗り込むと、遅れて運転席に乗った秀明が手を出すように言った。右手の掌を差し出すと秀明がその上で拳を開いた。秀明の手から落ちたのは、薄紅色の花びら五枚。
「願いが叶うんだったよな、確か」
その話をしたのは、去年の春だ。
「ありがとう」
その花びらをそっと握り締めた。それから、失くさないように秀明がくれた指輪のケースに閉じ込めた。
願いごとは、ずっと前から決まっている。




