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桜狂い  作者: 如月 望深
2/11

狂花酔月 弐ー水月

「理人、理人はおるか」

 足早に廊下を進む音に理人が部屋から顔を出すと、尾張は相好を崩した。

「南蛮の宣教師が珍しい品を持って参った。おぬしも共に来るがよい」

 理人は微笑して尾張に従った。

 尾張に連れられて歩く理人の後には、控えめながらも多くの興味が含まれた囁きが付き従った。

「あの方が噂の理人様よ」

 一人がひとつ投げかければ、さざめきが後に続く。

「近ごろ、御館様はどこへ行くにも理人様をお連れになるとか」

「あれほどの美貌ですもの、御館様のお目がねにかなったのかもしれませぬ」

 下世話な邪推に、まあ、と口元を押さえるが、話題は尽きない。

「先日は、あの御館様をお鎮めになったとか」

「まあ、あの御館様を?」

 相槌には称賛の色が含まれていた。

 激しやすい城主のことを、城内の者は恐れていた。武将としては素晴らしい知略と政治力を持っていたが、側近くに仕えるには緊張を強いる男なのだ。何がどのように気に入らぬのか見当がつかず、気に障れば命に関わる。

 その城主の気分を害さず丸めこんだというのだから、只者ただものではない。

「理人様の前では、御館様も常にご機嫌麗しいそうよ」

「御館様は理人様を家臣にとお考えだとか」

「けれど、敵国のお使者なのでしょう」

「御館様は身分や経歴をお気になさらないお方よ。理人様ならすぐに側近に取り立てられるのではないかしら」

「理人様が御館様のお側にいてくださったなら、ねえ」

 邪推と希望と憶測と期待が入り混じった会話が、さらさらと桜の花を揺らす風のようになされた。



 澄み渡る空に鎮座する月が歌うかの如く、澄んだ音色が夜空に満ちていた。柔らかく緩やかに流れていく笛の調べは、夜桜を彩る月の子守歌のようだ。

 その音に誘われるように尾張は表へ出て満ちた月を見上げた。

 尾張の城には多くの桜が植えられており、理人に与えられた部屋の前にも見事な花をつけた桜が立ち並んでいた。夜空に浮かぶ満月が桜を照らし、かがり火がなくとも桜の美しさを愛でることができた。

 花の盛りは短い。夜風に揺られてはらはらと幾枚いくまいもの花弁が散る様子が月明かりに映えた。

 桜の下に佇み横笛を奏でる理人の目の前にもひらひらと花びらが舞う。笛の音を止めた理人は、ふと桜を見上げ、うたを口ずさんだ。

「うつせみの 人の世にふる 桜花 絶えることなき わが涙かな」

 理人の掌に花びらが舞い降り、そして風に去っていく。

「見事な笛はおぬしであったか」

 不意に背後から声がして、理人は振り向いた。酒を携えた尾張がこちらへやってくる。

「何をそんなに嘆いておる。儚き命か、それとも尽きることなき涙か」

 尾張の問いは、儚く移ろう人の世に降り注ぐ桜のように、私の涙も永遠に絶えることなく降るものだよ、という歌の意味を解してのものだ。

 理人はその問いには答えず、ただ黙って微笑した。

「まあ、よい。付き合え」

 尾張は手にした盃を差し出し、理人を縁側へと誘った。尾張は自分の居室へ理人を招いたり、理人の部屋を訪ねたりして、よく理人を酒に付き合わせた。

 互いに先日のことに遺恨はない。おそらく尾張は冴木の妻子が国を逃れたことを知ってはいるだろうが、理人にくれてやった命の行方など追う気はないだろう。理人のほうでも、尾張の振る舞いにどうこう言う気はなかった。

 尾張と並んで縁側に腰を下ろした理人は、尾張が差し出した盃を受け取って酒を酌み交わした。

「理人、わしに仕えよ」

 突然の申し出ではあったが、尾張の言葉に偽りはない。彼は理人を欲した。だからそれを口にしたまでだ。

「もったいないお言葉、恐悦至極にございます」

 理人の言葉は恭しいが、その微笑は言葉とは裏腹に冷ややかだ。

「ですが、お断りいたします」

 尾張は命じただけで理人に選択権を与えたつもりはないことを知りつつ、理人はそれを無視して拒否を示した。

何故なにゆえじゃ」

「私は他国の使者なれば」

 理人の答えに尾張は動じない。

「はて、おぬしが虎めに心酔しているとは思えぬがな」

「確かに、あのお方はご立派な武将ではございますが、私の主君ではありません」

 理人の微笑に尾張は目を細める。

「では、わしに仕えるのに不都合はあるまい」

「尾張殿は素晴らしき武将。なれど、領民には寛容ですが、身内にはからい」

 理人は平然と続けた。

「他国の使者として、時折お会いするくらいの距離が適当と心得ます」

 尾張はその答えに愉快そうに口元を歪めた。

「それに、私は天下獲りなどに巻き込まれたくはないのです」

 群雄割拠の戦国の世で、尾張は最も天下に近い武将だと言われていた。だが、理人は天下などに興味はない。誰が天下を獲ろうと知ったことではない。

「のう理人よ、わしに天下が獲れると思うか?」

「さあ、いかがでしょう?」

 尾張の問いに理人はご機嫌取りをする気など毛頭なく、正直に首を傾げた。

「あなた様には、足りぬものがございますゆえ」

「わしに足りぬものとは何だ?」

「『迷い』、にございます」

 己の心に正直にすべてを欲する尾張の心には迷いがない。それ故に、意にそぐわぬ者には容赦がない。その迷いのなさが、彼から寛容さを奪う。

 目の前では桜の花びらが風に揺れていた。行き先を迷うように花弁は風に惑う。地に落ちる寸前に風にあおられ、空に舞う。夜空に輝く月を目指すかのように花弁は空高くに舞い上がる。

 はらり、と花弁がひとひら、理人の盃に映る月に舞い降りた。

「この現世うつせよの天下を求めるなど、私に言わせれば、狂気の沙汰ですね」

 理人は盃に口をつけ、小さく笑う。

「違いない」

 尾張は頷き、ク、と喉の奥を鳴らした。これが彼の愉快がる時の笑い方のようだ。

「人の命など、この花のように短い。そのような命で天下を獲ろうなど、酔狂じゃ」

 尾張の視線は舞い散る桜に向けられている。夜叉のようなこの男にも、桜を愛でる心があるのかと思うと、理人は男に一層の興味を覚えた。

「さりとて、さればこそ、酔狂に生きようぞ」

 もともと理人がこの遣いの役を引き受けたのは、天下に近いと噂されるこの男に興味があったからだが、会話を重ねるうち、この男の面白さは増す。

「おぬしは、花ではないな」

 尾張は理人に視線を移し、そう断言する。

「おぬしは月じゃ。今宵の月のように人の世を見下ろしておる。それもまた酔狂じゃて」

 盃の酒をぐいと呑み干した尾張に、理人は新たな酒を注いだ。

「人の世は、みな酔狂よ。人生は短い。せいぜい花に狂い月に酔うのがよかろう」

 この男の命の炎は、烈火の如く激しく煌々と燃える。

 一陣の風が吹き抜け、咲き誇る桜から華やぎを奪い去ろうと花弁を攫って行くが、炎は消えない。この男の命が尽きる時が来るとすれば、それは弱々しく風に吹き消されるのではない。燃え上がる劫火に焼き尽くされる時であろう。

 理人は微笑し、愛用の横笛を手にした。高く澄んだ麗しいその音は、風と共に夜空に舞い上がり、うつせみを眺める月へと手を伸ばす。笛を奏でる理人に目を細め、尾張はその音色に耳を酔わせ、盃を傾けた。

 燃え盛る薄紅の炎は夜空を焦がそうと薄紅の火の粉を舞い上げ、冷やかに地を見下ろす月へと届かんとする。理人の傍らに置かれた盃には、静かに小さな月が飼われ、薄紅の花弁の船が浮かんでいた。

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