わたしは女神(ミューズ)じゃない(三十と一夜の短篇第19回)
白い林檎の花弁が風に乗って舞っている。風とともに女性の歌声が流れてくる。美しい響きに、耳にした者は聞き入らずに入られない。
「また、別荘にお呼ばれしている画家の娘さんが歌っているのかね?」
「この声はそうだろう」
「教会の聖歌隊に入るつもりなのかね?」
「さあね、画家の娘さんだもの、歌手になったっておかしくないよ。それにああいった人たちの嫁入り前の嗜みは、あたしらとは違うんだ。別の暮らしがあるんだよ」
「判っているけどさ。言ってみたくなるのよ」
若い農婦たちが歌を聞き、ふと心情を洩らしながら、林檎の木々の側を歩いていった。
声の主、ゾフィー・グリューンフェルダーは若く、聡明と言われている。髪は栗色で瞳も茶色だったが、決して地味ではなく、品のある物腰や明るい表情で会う人たちに好印象を与えてきた。画家である父は、娘の外見ではなく、秘めている才能や外交的な性格を気に入っていた。娘が音楽に興味を示すので学ばせ、声楽と作曲に見込みがあると知るやそれを伸ばす為の助力を惜しまなかった。
実際、農婦の一人が言ったように、ゾフィーが歌手としてオペラの舞台に立っても不思議はなかった。
だが、ゾフィーは舞台に立たず、歌手として名声を得ることもなかった。ただ、高名な作曲家の妻として、名を残した。
別荘地から維納に戻った頃、新聞社の社長夫人が催した宴にグリューンフェルダー家は招待された。そこには新進の芸術家たちも多く招かれていた。その中に、トーマス・アッシェンバッハという売り出し中の作曲家がいた。
アッシェンバッハはゾフィーを一目見て、魅了された。紹介されて、話をしているうちに、彼の女なら自分の作る曲を理解してくれる、そして支えてくれるだろうと信じた。ゾフィーはその時、自身を売り込むのに熱心な若手の音楽家の一人だとしか思わなかった。
だが、その宴以降、アッシェンバッハはしょっちゅうゾフィーに手紙を送り、合間を見ては、グリューンフェルダー家を訪問した。
熱心な讃美者の出現にゾフィーの心は傾いた。二人の年齢もあり、結婚を考えるようになった。
父は娘に言った。
「アッシェンバッハは有望な作曲家で、これから先成功するだろう。
但し、おまえと結婚すれば、アッシェンバッハは仕合せになれるだろうが、おまえが仕合せになれるとは限らない」
母の考え方は違った。
「音楽の勉強もいいけれど、それで食べていけるかなんて女性にとって甘いものではないわ。音楽家の夫を持って、それを支えながら音楽に関わっていった方がいいと思う」
母は画業には関わりない育ちの女性であったし、当時の「婦女子は家庭の天使たれ」の風潮に忠実な考えをしていた。
ゾフィーは女性の先輩として、母の言い分の方が失敗のない生き方だろうと思った。そしてアッシェンバッハとの結婚を決めた。
アッシェンバッハはゾフィーに告げた。
「一つの家に二人の音楽家はいらない。君には僕を支える良き妻でいて欲しいんだ」
ゾフィーはアッシェンバッハの背後に暗い情念を感じたが、それよりも結婚が大事なはずと、肯いた。
二人は結婚し、新居を構えた。ゾフィーはアッシェンバッハの生活習慣を守り、音楽家仲間や、後援者、楽団の演奏者たちの顔を覚えた。気紛れな面のある夫に代わって、挨拶をして回ることもあった。
そうして過す中、アッシェンバッハは自宅に仲間を招いた。夕食やその後の語らいで、飽きることなく、音楽の話が続いた。ゾフィーは仲間が作曲したという譜面を見せてもらった。何の気なしの行為だったのだろうが、ゾフィーは譜面の曲想を読み取ることができ、そのメロディーを口ずさんだ。
「素晴らしい! 奥様は初見ができるんですね」
じゃあピアノも弾けますかと、その音楽家がピアノの椅子を引くので、ゾフィーはピアノを弾いて聞かせた。五線譜の上に書き込まれたテンポになんとか合わせるように、音符を目で追いながら、楽譜から浮かぶ想を思い浮かべた。弾き終わると拍手が起こった。
「僕の曲を作る時のイメージが再現されていました。奥様、有難うございます!」
作曲者はゾフィーの両手を取って、大喜びしていた。その場に居る者は「アッシェンバッハは素晴らしい妻を持っている」と口々に褒め、そして、作曲者を褒めたたえた。
仲間たちが帰ると、アッシェンバッハは不機嫌に妻に対した。
「君に目立って欲しくない。君は僕だけのインスピレーションを与えてくれる女神で、僕だけを支えて欲しい」
駆けっこで一番になった子どものような気分だったのが、一気に凍り付いた。
女中と一緒に台所でジャガイモの皮を剥き、家族の服を縫い上げて、或いは夫の支援者に卒なく愛想を売り、社交をしていられれば良かったのかも知れないが、自分の頭と心はそれだけでは満足できないようにできているのだと、ゾフィーは知った。だが、夫に何も言えなかった。
アッシェンバッハは新婚当初から作曲の想が浮かぶとピアノでゾフィーに弾いて聞かせて感想を聞いていたが、その出来事以降、積極的に意見を求め、楽譜の清書を手伝わせるようになった。
――これは妻の仕事ではなく、助手のすることではないのかしら?
しかし、ゾフィーは夫の曲を聞かせられれば、黙っていられなかったし、音楽に関われるのは、心の躍る喜びだった。
晴れやかな青空が美しく目に映るのに、一方で空を渡る鳥の孤独を表すのは何故なのだろう。
貯蔵庫の葡萄酒が熟成するとともに澱が溜まっていくのと同様に、アッシェンバッハの名声が高まるとともにゾフィーの心にも変化が訪れ始めた。子どもに恵まれない所為もあったかも知れない。
朝、起きるのが苦痛になった。食事を摂るにも苦労するようになった。挨拶も笑顔も面倒になってきた。
夫が友人に楽譜を見せ、新曲の構想を語っている時に、暗い顔で部屋の隅にいたゾフィーが突然叫んだ。
「それはわたしの作った曲。トーマスはわたしが口ずさんだメロディーを書き留めただけ!」
その頃維納で有名になっていた医師のフロイトの診察を受けてみたらと勧められたが、ゾフィーは頑として拒んだ。
自宅でピアノを弾き、歌を歌うゾフィーは仕合せだった。心に浮かんでくる曲想を即興で弾き、五線譜に書き留めていった。そしてそれをアッシェンバッハから隠そうとした。同じ家に暮らしているだから、夫は容易に妻の作曲を知った。
「ゾフィー、この家に二人の音楽家はいらないと言ったが、君がそこまでこだわるのなら、君の名前で曲を発表してみたら?」
「駄目よ。何をしたってアッシェンバッハの妻の手慰み程度にしか思われないわ」
アッシェンバッハは妻の目の暗さにぞっとした。底深い闇を覗いているようだった。
もうゾフィーはアッシェンバッハの妻として、外に出られる状態になかった。家事は家政婦に任せたまま、食事をろくに摂らず、身繕いを忘れ、やつれ、快活な印象を失った。
或る晩帰宅したアッシェンバッハは、床に破り捨てられた楽譜が散らばり、ピアノに向かって、同じフレーズを繰り返し弾きながら、呟く妻の姿を見た。
「これでは駄目、もっといい曲を……」
アッシェンバッハはゾフィーを後ろから抱き締めた。
「もういいんだ、もう止めるんだ」
しかし、ゾフィーは夫の手を振り払った。
「わたしから取り上げないで!」
もう自分の力で妻を助けられない、アッシェンバッハは医者の診察を拒むゾフィーを慮って、グリューンフェルダー家を頼った。
しばらく親元でゆっくりと甘えていれば好転するだろうと、アッシェンバッハもゾフィーの両親も考えていた。
実家に戻って、娘気分になってくれるかと父も母も明るく接した。ゾフィーはピアノの前に座りこみ、じっとしていた。
「お父さんの言う通りだったかも知れない」
それきり、ゾフィーは何も言わなくなった。
食事を摂ろうとしないゾフィーに母は無理にでもとスープを口元に運び、食べさせようとした。だが、ゾフィーはどこにそんな力が残っていたかというくらい暴れ、また口に入った食べ物を吐いた。
時折、ピアノの鍵盤に手を置くが、何も弾かず、歌わなかった。じっと座って毎日を過した。
骨と皮ばかりになったゾフィーを案じ、アッシェンバッハは楽団員を連れ、グリューンフェルダー家へ赴いた。楽団員はアッシェンバッハの指揮で、ゾフィーが作曲し、アッシェンバッハが編曲した曲を奏でた。
ゾフィーはぽろぽろと涙を零した。涙の意味を良い方に取ろうと誰もが思ったが、願う方向には進まなかった。
ゾフィーは家族の顔も判らぬかのように、表情も感情も見せなくなった。ほとんど寝床にいて、思い出したように立ち上がり、鍵盤に突っ伏して泣いた。相変わらず、食事を拒み続けた。
ゾフィーは沈黙のまま過し、三ヶ月後に亡くなった。
記録上、作曲家で指揮者のトーマス・アッシェンバッハの最初の妻は若くして亡くなったと伝えられている。