同じ話。
アパートの一室。狭い部屋の中で、俺は人の一人も見つけられないでいた。
あいつは全く、隠れるのが好きだ。探すこちらの身にもなってくれ。
「……ったく、どこにいるんだよ……」
悪態を吐いた俺の耳元で、
「窓の傍にいるよ」
そっと風が凪いだ。
「何してんだろ……」
いい加減、探すのも疲れて、俺は四畳半の一間に寝そべる。
「特に何もしてないよ。強いて言うなら、空を見てたかな」
風に乗せて届いた声に俺は失笑とも苦笑ともつかぬ笑みを浮かべて混ぜっ返す。
「んなつまんねぇことしてないで、こっち来いよ」
「今行く」
少し開いた窓から、そよ風が吹き込んで俺の少し伸びた前髪を揺らした。
「何か話でもするか」
「いいよ。じゃあ言い出しっぺの君からね」
困り果てて、俺はふとベランダに目をやった。花がかたりと揺れたような気がした。
「で、結局、どこにいんの?」
「君の傍にいるよ」
「何してんの?」
「今度は君のこと見てるんだよ」
矢継ぎ早に問いを放つ。苦笑のような凪が、頬に触れては消えていく。
「どこに行ったんだよ……」
何度目か知れない問いを放つ。
「どこにも行ってないってば」
俺の問いかけをそうやってすきま風が浚っていく。
「ずっと傍にいるから」
「……そうかよ」
不機嫌に俺は窓を開け放ち、ベランダの花を見た。
ベランダに置くには不自然な、花瓶。そう、植木ではなく、花瓶。
そこに活けられているのは、白と黄色の菊の花。秋風にそよがれる二つの花は、一様に俺を見つめているようだった。
「はぁーあ」
俺は溜め息を一つ、紡ぐ。
「本当、どこにいるんだよ……」
「……隣の部屋にいるんだけど」
雨を孕んだ風が、穏やかに吹き込んでくる。
俺は中に入ることもなく、問いかけ続ける。
「何、やってんだよ……」
「……手紙」
ぴらり、と一枚の紙が部屋の隅にあるちゃぶ台から落ちた。
「おい、こっち来いよ」
また同じ話を繰り返す。
「でも、そろそろ行かなくちゃ」
けれど、現実は──過去は、いくら繰り返したって戻らないんだ。
そんなこと、わかっている。わかっているよ。けれど、俺は、呟かずにはいられないんだ。
「ほら、さ、話でもしようぜ……?」
振り向いた先にいるのは、いつだって泣き顔だ。
あの日だってそう……夕べ、夢にだって見たんだ。忘れやしない。
泣きながら笑って、「見つかっちゃった」なんて呟いたあいつは、ベランダの柵の上に立っていた。
「お前……何やってんの?」
あいつはなんでもない顔で言った。
「私、死ぬの」
なんでだったかわからない。何が彼女を死に至らしめるまで苦しめたか、俺にはわからない。ずっと傍にいるって言って言われて、そう誓い合ったのに、何一つ彼女を理解しちゃいなかった。
俺にとっては最期のあれすらも、昔からやっていたあいつとのかくれんぼの一部でしかなかったんだ。見つけたら、それでおしまい。そんな、いつも同じ、日常だったはずなんだ。
それが、あの日は……
「さよなら」
あいつは横風に浚われるように消えて。
俺は、あれからいつも探しているんだ。
階下に供えられる献花から、白と黄色の菊を抜いて。
それを君の代わりだ、なんて、またいつもと同じように話しかけて。
伝えられなかった言葉を、文字の羅列に並べ替えようとして、結局手紙は白紙のまま、どこからともなく吹く風に揺らめくだけ。
まあ、伝えたかった言葉なんて、簡単なこと。
俺が不謹慎だと思って持って来ない、赤い菊の、花言葉だよ。
でも結局、俺は何も言えない。君の言葉をおうむ返しするだけ。
「さよなら」
いつも俺の傍らで、風のように歌っていた、囁くようなあの声の紡ぐ物語とは、
もうとっくに、さよならしていたんだ。
「いい加減、本当にさよならしないとな」
柔風が花びらについた雫を浚ったのを見て、俺は二つの花を花瓶から解放する。
けれどその二輪にはまた、露が零れていて。
「いい加減、俺も女々しいなぁ」
そんなことを呟きながら、俺は外の長い階段を下って、ちょうど俺の部屋の真下──彼女が落ちた場所に辿り着く。
そこには少ないけれど、献花があった。事件当時から見たら、もう一人二人しか来ていない。そんな悲しい彼女の命日。
「もう、本当に終わりなんだな」
俺はそこに、二輪の菊を供えた。
すると、
「終わらないよ」
旋風が俺に囁いた。
「君はまた新しい日常を始めればいい。今日一歩、進んだんだから」
「……そうだな」
だとしたら、俺の新しい日常は、
この献花を続けることだ。
いつかこの日常も終わることだろう。
そのいつかが来る前にせめて、
献花を赤い菊に変えられるよう、努力しよう。
それができたら、本当に、さよなら、だ。
そんな俺を称えるように、
後ろから風が背中を押した、気がした。