夏の祭り
梓弓 引きみ緩へみ 来ずは来ず
来ば来 其を何ぞ 来ずは来ば其を
教室がざわめいている。級友たちがもたらす熱波は、盛夏の今、特に顕著だ。
梓は机に突っ伏して、椅子と太腿の間にあるスカート生地の感触と合わせて、それらを鬱陶しく思った。
風が時折、さわり、と吹き込んで、そんな彼女を宥めるようだ。
今日の最高気温も35度を超えると聴いた。
友人の中には夏バテしてお昼を残す子もいる中、梓の食欲には変動なく、当然、体重にも変動はなかった。年頃の女子としてはやや落胆するところである。
昼休み、友人たちと喋っていると名を呼ばれた。
「神那岐さん」
振り向くと梨木礼子が立っていた。
重たそうにも見える黒髪を長く伸ばし、病的なほどに青白い顔に眼鏡をかけた彼女だが、顔立ち自体は整っている。
「今度のスーパー銭湯に行く話、私は不参加でよろしくね」
「え~。何で?クラスの皆で行くんだよ?暑気払い!」
礼子が溜息を吐く。
「暑気払いなら肝試しとかが普通じゃないの?まあ、それでも私は行かないけど。神那岐さんも弓道の大会が近いんでしょ?余りはしゃぎ過ぎないがいいんじゃない」
礼子は言うべきことは言ったとばかりに身を翻して自分の席に戻った。文庫本を取り出して読み始める。
「付き合い悪いねー」
「まあ、梨木さんだしね。あんなもんだよ」
「梨木さんって言えば霊感あるとか聴いたことあるよ。肝試しでも行かないってそれでじゃない?」
「じゃあさ、じゃあさ、あの髪もその関係で伸ばしてるとか?」
「うっわー。本格的に電波じゃないの、それって」
友人たちがかしましく喋る中に梓は加わらず、礼子の様子を窺う。
人に何と言われようと超然として自分を貫くスタイルは、ある意味尊敬できる、と梓は密かに思っていた。
そして彼女が言った、弓道の大会が近いのも事実。
だがクラス内での行事は率先して企画したりする。
緩急が大事なのだと梓は思っていた。
「でも名前だけなら、梓も負けてないよね」
「言えてる。神那岐に、梓で弓引いてるし」
こうからかわれるのにももう慣れている。
梓の名前の由来となったのは万葉集の和歌だ。来るか来ないかさえはっきりしない優柔不断な相手を詰っている内容の。
梓弓は枕詞で、梓が弓道をしていれば、古典で学んだ知識で名前は恰好のからかいの的となる。
ただでさえ大袈裟な苗字に、どうしてまたそんな古風な名前を合わせてくれたのだ、と母に苦情を言った時、母は睫毛の長い片目を瞑り、
「ロマンよ、ロマン」
とだけ言った。
梓はアイスカフェオレを飲みながら、黙って友人たちの話題の肴となった。
放課後、弓道場に行くと部長を始めとしてもう何人かの部員たちが弓を引いていた。
梓は先日の昇段試験に受かり、二年生であることも加え次期部長候補に名が挙がっている。尤も三年で部長となると、受験の関係もあり、そう頻繁に弓を引いていられなくなるのが実際のところなのだが。
袴姿に着替え、弓道場の板張りに入る前は軽く一礼する。
それから空いている箇所に静かに歩み寄ると、弓弦を引き絞って放つ。
弓道はその日の精神状態が明らかに反映される。
大抵、心穏やかな時は調子よく、逆の時は、悪い。
四射とも的に当たる皆中を為し得た時の達成感と言ったらない。
無心に弓を引いていると、友人たちも授業も、雑念の全てが遠くなる。
弓道は、梓が自分をリセットする一手段でもあった。
一通り引き終えた梓に、外界が戻ってくる。それと同時に、暑さを思い出す。
袴は暑いのだ。
咽喉の渇きも手伝い、弓道場と校舎を繋ぐ渡り廊下から見える、赤い自動販売機のもとに梓は走った。自動販売機の横には桜の大樹がある。
梓はきょろきょろとあたりを見回し人気のないことを確認すると、ばっさばっさと盛大に袴の内に風を送った。それでようやく少し、人心地つく。
さて、何を飲もうかなと持ってきた小銭入れを弄びながら自動販売機に改めて目を遣り、――――――その隣に立つ笑い顔の男子生徒に目を遣り、固まる。
さっきまで誰もいなかった筈だ。
「何よ、あなた!」
恥ずかしさに、責めるような口調で問い詰める。
礼子とまでは行かないまでも、梓の艶のある長い黒髪に比べ、その男子は柔らかそうな栗色の髪をそよがせていた。
「…ごめん、笑ったりして」
「――――――良いわ、もう。忘れて。て、言うか、どこまで見たの?」
「えーと」
「良いわ、忘れて」
目を泳がせた男子生徒に、梓は繰り返した。
「その代わり、あなたの名前を教えて。ブラックリストに載せるから」
「………樒。木に密と書いて樒透。透は透明の透」
「うん、記憶したわ」
名前が涼やかな風貌に似合っているとは言わない。
「部活中の姿とギャップがあるんだね」
「嫌だ、見たことあるの?部の関係者?」
「うーん。そんなようなものかな」
曖昧な返事が返る。
その日以来、梓は透としばしば立ち話するようになった。
透は梓の同級生の男子と比べると大人びて物静かで、梓の知らない外国の話をよく物語ってくれた。
梓は透に乞われるがまま、他愛ない日常の話、弓道の話などを語った。
二人の話を聴くのは、赤い自動販売機と桜の大樹のみ。
思えば礼子が教室内で、ちらちらと梓を窺うようになったのも、その頃からだった。
「スーパー銭湯?」
「そう、行かない?」
透が苦笑いする。
「クラス内での遊びだろ。僕は邪魔になるよ」
「じゃあ……」
梓は桜の青々とした葉を見ながら、こく、と生唾を呑む。
「どこでも良いから二人で行こうよ。…遊園地とか」
「それ、告白?」
かっ、と梓の頬が熱くなる。
「…念押しするところじゃないんじゃないの」
「だって間違えて浮かれると、僕が莫迦みたいだから」
「――――――一緒にどこか行く?」
透が微笑む。それは名前のごとく、透き通るような微笑で、梓はその儚さにどきりとした。
「うん。良いよ」
栗色の髪が頷いた。
それから、梓は休日には透と待ち合わせて色んなところを出歩いた。
それは最初に言った遊園地であったり、近所の公園であったり。
梓の日常が華やかに彩られ、目に映る全てが瑞々しく感じられた。
友人たちに彼氏ができただろうと問い詰められるのも、幸せの一端だった。
「神那岐さん」
学校の廊下で、礼子に呼びかけられたのはそんな時だった。
どうして教室ではないのだろう、と不思議に思う梓に、礼子が続ける。
「今、会ってる男の子は、やめたほうが良いわ」
「……え?どうして?」
「……きっとあなたが泣くことになるから」
「どういう意味?」
「忠告はしたわよ」
礼子は一方的に会話を打ち切ると、梓から離れていった。
そんなことで、梓が納得できる訳がない。
梓はそれからも透と会い続けた。
違和感を覚えたのは些細なことがきっかけだった。
桜の幹に寄り掛かる透といつものように話していた梓は、喉の渇きを感じて自動販売機て小銭入れから百円玉を取り出そうとした。季節柄、こういうこともあろうかと、透と話す際には小銭入れを持つのが習慣化していた。
その時、つるりと梓の手から逃れた百円玉が地に落ちて転がった。
「あ、あれ?どこに行った?」
「自販機の前だよ、神那岐さん」
そう言って透は百円玉を拾ってくれた。
自動販売機の右側に落ちていた百円玉を。
その日、部活ではOBを招いての講義と実技指導が行われた。
部活のあとには部のアルバムを持ち出して顧問とOBの思い出話になり、梓は透が待ちくたびれているのではないかとやきもきした。
「昨日は来られなくてごめんね」
「良いよ。何か大事な用事があったんだろう?」
「部のOBの人が来てたのよ。先生が浮足立っちゃってアルバムまで持ち出してきて」
「……ふうん」
「ねえ、もうすぐ夏休みでしょう?」
「ああ、そうだね」
「近所のお宮で夏祭りがあるじゃない」
「うん」
「一緒に行かない?」
「いや、僕は―――――」
「無理?」
「無理じゃ…ないけど」
「決まり!六時に、鳥居のところで待ってるからね?」
夏祭りの日、八時まで待っても透は来なかった。
林檎飴や綿菓子を持った子供たち。付き添いの大人。
そして何組もの男女たち。中には揃いで浴衣を着ている人たちもいる。
彼らを見過ごしながら、梓は待ち続けた。
巾着に入れてきたスマホが八時を指して、ようやく諦めがついた。連絡しようにも透は今時、スマホを持っていないのだ。
梓は鼻緒ずれした足を引き摺るようにして、学校に向かった。
濃紺の、朝顔が白く染め抜かれた浴衣に赤い帯。
息切れしながら、暗い夜道を急いだ。
はあ。はあ。
部のアルバムに載っていたある一枚の紙。
梓弓 引きみ緩へみ 来ずは来ず
〝先生、これ……〟
尋ねる声は震えた。
はあ。はあ。
来ば来 其を何ぞ 来ずは来ば其を
空には星が散っている。
まだ残っている職員がいるらしく、学校の裏門は開いていた。
透はいつもと変わらず、桜の幹に物憂く寄り掛かっていた。
梓を見ると悲しそうに微笑した。
「どうして来てくれなかったの」
「ごめん」
「どうして、はっきり断ってくれなかったの」
「ごめん…」
「どうして…」
梓はボロボロ涙を流しながら叫んだ。
「死んでるなら死んでるって言いなさいよっ!!」
透が目を見開いた。
頬の涙を拭いながら梓が言う。
「おかしいなって思ったの。樒君。あなた、弓道はやったことないって言ったよね。それなのに、右に落ちた百円玉を前に落ちたって言ったでしょう。それ、弓道する人の言葉だよ。弓道は、身体の左側を的に向けて立つから、的の右を前、左を後ろって言うの」
「………」
「決定的だったのは部活のアルバムに載っていた…あなたが交通事故で亡くなったという記事の切り抜き。三年も前の。私、百円玉のことがあってから、捜したの。〝樒透〟君。どの学年のどのクラスにもいなかった。―――――その筈よね。だってあなたは、あなたはもう―――――――…」
それ以上は言葉にならなかった。
「…浴衣、よく似合ってるよ。神那岐さん」
顔を両手で覆った梓は首を左右に振った。何に対してかは自分でもよく解っていない。
「君の言う通り、僕は死者だ。生きていた頃は留学して弓道の魅力を海外に伝えることが夢だった。これでも滅多に視られないんだよ。神那岐さんはきっと、神職の家系なんだね。樒は仏事に用いる植物なんだ。何だか皮肉だよね」
「………」
「君に祭りに誘われた時、本当は行きたかったんだ。でも今の僕は、この桜の樹の力を借りて何とか存在している。祭りはお宮で行われるだろう?僕にとっては禁域だ。それで曖昧な返事になってしまった。本当にごめんね」
礼子はこのことを知っていたのだ。
「……この桜の傍でなら、樒君とずっといられるの?」
透が淡く微笑んだ。
「いや。もうそろそろそれも、限界らしい。未練がましくこちらに留まるのも、やめにするよ。決心させてくれたのは、神那岐さん。君だ」
「―――――――嫌」
「ありがとう」
「嫌」
透が、透けてゆく。
「嫌!」
透の腕を掴もうとした梓の手が宙を掻く。
遠くから、祭囃子が場違いに明るく聴こえてくる。
星空に溶けゆく透の輪郭は、もうほとんど見えない。
そこから、透の最期の声が降ってきた。
ねえ、本当に、一緒にお祭りに行きたかったんだよ…………
あとに残ったのは真っ赤な自動販売機と、桜の樹。
ドーンという花火の音が聴こえる。
夏の祭りの終幕だった。