東国の夢~あいの風吹く場所~
女子の朝は、早い。
夜風にあてておいた洗濯物を室内に移動させた後――乾燥機という手段は、最後まで取っておきたい――食材を弁当箱に詰め、そのついでの朝食だか何だか解らないものをつまみ、化粧をして、髪を整えて。
アイロンがけをしたブラウスを纏い、ハンガーに吊るしておいたスーツに着替えて。準備万端。
やっとリビングの椅子に腰を下ろし、冷ましておいたコーヒーを口にする。
「相変わらず、早いね。ナミ」
その頃になって起きだして来たのは、シェアメイトのジェイ。
「おはよう、ジェイ」
座ったばかりだったが、奈美は立ち上がり、ジェイの分のコーヒーを注ぐ。
共有場所であるリビングで、毎朝顔を合わせるのは習慣になっている。朝に弱いジェイも、この習慣を大切にしてくれている。起きて来なければ奈美が心配する事を、ジェイも知っているのだろうが。
奈美がシェアハウスを選んだのは、大学二年の時。同じ大学の友人と二人で住んでいたが、三年前にその友人が転勤になってしまって、解約。新たな入居者を募集することになった。
奈美ひとりでも家賃を払えないわけではなかったが、あくまで「シェアハウス」が大家の意向だから、仕方がない。
今更、学生さんとハウスシェアかと思うと、うんざりしていたのも事実だ。新しい入居者と合わなかったら、奈美が出て行くしかない。
やきもきする中、新たな住居人として現れたのがカナダからの留学生のジェイだった。
祖父母が日本人で、小さな頃から日本の文化を身近に教わり、母国で大学を出て一度は就職を考えたが、どうしても日本で学びたくて、二十三歳で東京の大学を受験したと言う。
行く行くは、日本で起業をしたいという夢を持つ、若者。その時、二十五歳だった奈美は、そんなジェイに強い憧れを抱いた。
この子を応援したいと、心から思った。
それが、三年前。
三年も一緒に居たら、そのひととなりも解りすぎてしまうもので。
「今日もキレイだね、ナミ」
ハグやら、キス(勿論、マウス・トゥ・マウスではない)やら。日本では未だに淘汰されていない習慣にも、慣れてしまうもので。
「ジェイ。時間、大丈夫? まだ、顔も洗ってないでしょ?」
奈美に言われると、ジェイはひょいと肩を竦める。
「そんな事より、大事な話。昨日の答え、まだ聞いていないから」
ああ、だからか、と、奈美は思う。
いつにも増して、眠そうなジェイの顔。昨夜はあまり寝られなかったのだろう。
答えを先延ばしにするのがジェイの為にはならない事は、奈美にも解っている。
「もう少し、考えさせて。出来るだけ、ポジティブに、ね。ただ、それはジェイがもう少し、日本の事を勉強してからだと思うわ。あなたは、学ぶためにこの国に来たんでしょう?」
「でも、チャンスは『その時』? ええと、難しいな。こう、逃がしちゃうのは、勿体ない?」
「時運」と、ジェイは言いたいのだろう。「天の時」とも言う。でも、それを見極めるのは本当に難しくて。少なくとも、時間がない朝にするような会話ではない。
「ジェイ。その話は、夜にでも。私、仕事に行かなくちゃ」
言い残して、奈美はリビングを後にする。背中に、ジェイのため息が聞こえたが、振り返らない。
そう。女子の朝は、忙しいものだから。
オフィスには、既に照明が点いていて、人影が見えた。
おそらくあの人だと、奈美は口元をほころばせる。
缶コーヒーを片手に、パソコンをいじっているのは、赤嶺颯太。建材部の課長で、奈美の上司だ。
すらりと背が高く、顔立ちもすっきりとした、ハンサム。でも、仕事の事になると、まるで抜身の刀のような鋭さやギラつきを垣間見せる事があり、入社早々に赤嶺の下に配属された奈美は、正直怖いと思っていた。
でも、今は。
「相変わらず早いですね」
後ろからの声に振り返った人に、つま先立ちで背伸びをして、不意打ちのキスを仕掛ける。
誰もいない、この時間だから許される、恋人同士のひとときだったのに。
「おい、社内ではNGだって言っただろう」
焦る様子もなく、ただ、正す男。それに、ぺろっと舌を出す。
「いいじゃない。誰も居ないんだから」
くすくすと笑いながら、赤嶺から離れてデスクのパソコンを起ち上げる。
怖いと思っていた赤嶺颯太は、とても魅力的な男性だった。彼の元に配属され、五年になる。総合商社に就職し、建材部に配属されて、もう五年。
その事に対して、奈美は不満に思っているわけではない。新卒の奈美を、ここまでに育ててくれた赤嶺には感謝している。
でも。
(時運)
まだ、勉強不足だ。商社を選んだのは、いつか輸入雑貨を取り扱う会社を起業したかったから。
せめて、その部署に配属されていたらと、何度も思った。その度に、自分に言い聞かせていたものだ。焦る必要はない。いつか、その時が来るまでは、と。
(時運)
機会を失うなと、自分の心が告げている。
夢は、実現させるものだと。
「おはようございまーす」
人の声に、我に返る。
オフィスは、いつの間にか出勤してきた社員たちの喧騒に包まれていた。
その一日、奈美はどこかぼんやりしていたのだろう。
赤嶺に呼び出され、一緒に食事をして、ほどよく酔った後に、ベッドを共にする。
「何かあったのか?」
と、聞かれて。奈美は小さく首を振る。
「輸入雑貨を扱う部署に行きたかったの」
いつか、輸入雑貨を扱う店を経営する。奈美は、夢を赤嶺に語る。
「今の部署でも経験は積めるじゃないか。まあ、そのうち、僕が上に掛け合ってあげるよ」
赤嶺の、そのひとことが逆に奈美の背中を押したのだろう。「そのうち」って、いつなのだろうと。
ジェイは夢を叶える努力をしている。いつも自分の気持ちに真正面で、だから、奈美も正面から受け止めようと決めていた。
「友達から誘われているのよ。一緒に会社を作らないかって」
驚いたように、赤嶺が奈美を見る。
「君はどうしたいの?」
どうしたい?
だって。
風は吹いている。この風を逃したら、もう二度と漕ぎ出せないかも知れない。
そう。これが、時運。
「夢を見てみたい……」
赤嶺颯太は、とても素敵な人だと思う。仕事の厳しさ、プライベートの優しさ。そのアンバランスに惹かれた。
でも、奈美にとってはそれ以上に。
あの時、奈美の心に吹いた、風。心を波立たせた、言葉。
奈美は、夢に、恋をした。
それからは、毎日深夜まで、ジェイと二人で起業に向けての構想に取り掛かる。
ある程度の目途が着いたところで奈美は会社を辞めた。これで、前に進むしかない。いわゆる「背水の陣」というやつだ。もう、引き返せない。
辞表を赤嶺は何も聞かずに受理してくれて、「落ち着いたら飯でも食いに行こう」と言われた。でも、奈美から連絡する事は、無かった。
出来ない事情が、出来てしまった。
そんな時だ。赤嶺がやらかしてしまったのは。
もちろん、赤嶺から聞いたわけではない。電話をくれたのは、元同僚の菅野だった。彼女は、赤嶺と奈美の仲も知っているから、気を利かせてくれたのだろう。
赤嶺は、新建材の開発に、力を入れていた。それが出来る業者への融資を、独断で行ったらしい。赤嶺のやりそうなことだと、奈美は苦笑交じりに聞いていたのだが。
ライバルメーカーが、同等(と思われる)品質の建材を、先に低コストで売り出した為に、赤嶺は窮地に立たされ、辞職を余儀なくされたと。
たったひとりで、全責任を負わされて、会社を追われたのだと。
夢の中で、奈美は言う。
「どうして、課長がひとりで責任を取らなければならないんですか?」
赤嶺が、ちらりと奈美を見てから、眼を逸らす。
「これが、俺のけじめのつけ方だからだ」
「そんなの、間違っていると思います。だって、課長には立場やらプライドやらの前に、それ以上に、守らなければならないものがあるのに」
「それは、何だ?」
問われて、そっとお腹に手をやる。
夢の中ですら、奈美にはそれ以上何も言えなかった。
馬鹿だ。本当に、馬鹿だ。
目を覚ました奈美は、唇を噛みしめる。ジェイが、額の汗を拭ってくれた。
奈美は、夢に恋をしていた。夢を叶える為に退職し、夢を叶える為に、必死で働いて。気づいた時には、手遅れだった。
体調が優れない自覚は、あった。月経不順も、体調不良から来るものだと思っていた。
流産するまで、子を宿している事にすら気が付いていなかった。その事実は、奈美を打ちのめした。
本当に、馬鹿だ。女として、失格だと思った。勿論、そんな事を、父親である筈の赤嶺に告げられる筈もない。
「私、強くなる」
「君は、いつでも強いよ」
ジェイは、いつも奈美の側に居てくれた。倒れた時も、流産が解った時も。赤嶺が去った時も、ただ、そこに居てくれた。
「強くなる。些細な事では、ぶれないで居られるように」
「些細な事じゃないから、ぶれてるんだろ?」
奈美の言葉に眉をひそめる、ジェイ。
「ボクじゃ、ナミの力にはなれない?」
そうではない。でも、解らなくなっていた。
奈美が、ジェイが思うような女ではないのか。それとも奈美にとってジェイの想いが負担なのか。多分、両方なのだろう。
「あなたと私は、ビジネスパートナー。そして、親友。OK?」
奈美の言葉に、ジェイは傷ついたような顔をしたが、あえてそれを見なかった振りをする。
追い風は、まだ吹いている。立ち止まってなどいられない。緊急入院で多少予定が狂ったものの、明後日に予定していた海外出張には間に合う。
「ジェイは、ネットストアに集中して」
先ずは、そこから。この小舟は出港するのだ、と。
五年後。
N&J,LCC。ネットストアから始まった会社は、今では都内で数店舗を運営している。「合同会社」という形態で始めた会社は、奈美とジェイ以外は全員非正規雇用。そろそろ、形態を見直す時期に来ていた。
ジェイは、ネットストアから始まった事業を、今度は外食ビジネスに生かしたいらしい。
個店を展開する事で、顧客も増えた。
ジェイが外食ビジネスに力を注いでいるので、雑貨部門は、奈美が受け持っている。二人は未だに同じ家に住んでいたので――さすがにシェアハウスは卒業しようと思ったが、奈美の流産をきっかけに大家さんたっての願いで大家夫妻と奈美、ジェイは家族のように暮らしていた――朝夕のリビングは、ミーティングルームと化している。
その日、遅くに帰宅した奈美は、開口一番に、社外秘を口にした。
「工房が、契約を断って来たわ」
奈美が、起業当時から口説き続けて来たクライアントからの依頼だった。
相手が目に着けたのは、琉球ガラス。工房にアポイントメントを取り、色よい返事をもらっていたのに、ギリギリになって工房側が断って来た。慌てて別の工房にも当たってみたが、全滅。
有り得ないだろうと、奈美は思う。
「K社が、揺さぶりをかけて来たんだと思う。私たちが、メルロー社との独占契約を撤回しないから」
「じゃあ、撤回する?」
ジェイは、いつもこうだ。
奈美が決めていることを、あえて尋ねる。
「するわけないでしょうが」
「だよね。だったら、K社が手を回せないフリーランスな工房を探すしかないかなぁ。――ボクは日本に知り合いはあまり居ないから、役には立てないけど」
沖縄で、広く伝手を持ちそうな人物。確かに、奈美には心当たりがあった。でも、それは。
選びたくない選択肢が、眼の前に迫る。
「弱い者は、踏みつぶされる? みたいな言葉、あるよね? おとなしく潰されておく?」
「出る杭は打たれる」「長いものに巻かれろ」と、ジェイは言いたいのだろう。奈美を、けしかけているのだ。
「燃えて来た。長いものに巻かれるとか、有り得ない」
きっぱりと、言い切る。
「最高だよ。ナミ」
タブレットのタッチパネルを叩き、ひとつ頷いてからそれをかざして見せる、ジェイ。
「明日の航空便は、ゲットできたよ。ホテルは、お勧めのフランス料理店の近く……」
だが、奈美はもうジェイの言葉を聞いていなかった。スマホを片手に、女子社員と話し込んでいる。
「ありがとう。理紗ちゃん。じゃあ、元カレ落として、商談成立させて来るね」
電話を切り、ジェイの視線に気づいたのだろう。奈美が困ったような笑みを浮かべた。
「あ、前にね。理紗ちゃんが沖縄旅行に行った時に『かなさん』に泊まったって。だから」
理紗は、会社が起業した時から力を貸してくれている契約社員。だから、奈美の「元カレ」の事も知っている。
元カレである赤嶺颯太が、沖縄で家業である民宿『かなさん』の跡継ぎとして、それなりに業績を伸ばしている。
ジェイだって、解っていて奈美をけしかけたのだと思って居たのだが。
「まったく、キミは」
ふう、と、ジェイが嘆息した。
「自ら、千尋の谷を選びますか」
那覇空港からホテルに移動して、チェックイン。その足で、『かなさん』に向かう。生憎、赤嶺は休憩中で、店の女性に「おそらく『美らSUNビーチ』にいらっしゃると思います」と言われて、そちらに向かう。
そこに居た男性は、奈美が知っている赤嶺颯太とは全然違っていた。
健康的に日焼けした、沖縄の太陽が似合う、男性。ああ、こういうのが「浜辺の出会い」か、と、奈美は実感して苦笑する。
浜辺で出会った男は、普段の1.5倍は男らしく見えるのだとか。きっと、女だって、同じなのだろう。残念ながら今回の旅行に、水着は用意して来なかったが。
「赤嶺さん?」
普通に近づき、声をかける。砂地にハイヒールが歩きにくかったので、足は素足だ。
「奈美?」
呼ばれて、顔を上げた男。間違いない、赤嶺颯太。
五年振りの再会に、彼はひどく驚いたようだ。
「お久しぶりです」
営業スマイルとは違う笑みを浮かべる奈美。それを見る、赤嶺が少し眩しそうに、眼を眇める。
「本当に、久しぶり。え? 旅行?」
「いいえ。仕事で。実は、琉球ガラスのプロモーションを考えていまして。その視察でクライアントをお連れして」
「へえ。相変わらず、がんばっているんだ」
赤嶺の笑顔に、奈美は少し怖気づく。
頑張って来た。それは、事実だ。でも、今の赤嶺は奈美がこの地にやって来た本当の理由を知らない。
五年ぶりに再会した赤嶺は、かつてのスマートで、でもどこかギラギラしていたやり手の課長とは別の人物のように見えて。でも、彼は確かに赤嶺颯太だ。隠したところで、奈美の思惑など、すぐに気付かれてしまうだろう。
「頑張るしかないです。自分で選んだ道ですから」
すっと、その一言が口をつく。攻略するのに策を弄したところで、彼相手では、きっと時間の無駄だから。
「ねえ、今夜は時間ありますか?」
赤嶺は、少し考えてから頷いた。
「今夜? 宿泊客の夕食が済んだ後でいいのなら」
「そっか……。『かなさん』だっけ?素敵な宿なんですってね」
「知ってたの?」
「もちろんよ! うちの女の子も泊まったことがあるって言ってたもの」
答えながら、奈美の心に蟠る、思い。
(勿論、知っていましたよ。聞きたくなくても、教えてくれる親切な友人が居ましたから)
奈美は、赤嶺が一番辛い時に側に居なかった。そして、赤嶺は自分が一番辛い時に、奈美に一言もなく沖縄に帰った。
自然消滅だからこそ、わだかまり続ける思いを、奈美は顔に出さない。
「そろそろ戻らないと。じゃあ、後で……。で、どこへ行けばいいんだ?」
赤嶺に、宿泊しているホテルの名を告げて、奈美はビーチを後にした。
ラウンジで、赤嶺を待つ。
夕食は、ジェイお勧めの創作フレンチ。「評判に違わない料理だったが、面白味に欠けていた」と、素直な感想をメール送ると、すぐに次の一押しを送って来た。
明日は琉球料理を食べたかったのだけど、お預けになりそうだ。
「お待たせ」
赤嶺は、奈美の横に自然に腰をかける。
どきりとする。五年前に、戻ったような錯覚。
「君が飲んでいるのは?」
「泡盛を使ったオリジナルカクテルなんだって」
かなりアルコール度数の高いものだ。飲み過ぎは、厳禁だなと一口飲んだ時に思った。
「じゃあ、僕も同じのを……。それで、どんな用?」
「琉球ガラスの工房を紹介して欲しいの」
ストレートに答えた奈美に、赤嶺は苦笑する。やはり、奈美の思惑に気づいていたのだろう。
(相手が不審に思って居る素振りを見せたら、納得させろ。あらゆる五感を使って、その場を読んで。そうして、自分の言葉で畳み掛けるんだ。――相手にぐうとも言わせない、覚悟で)
そう教えてくれたのは、上司だった頃の、彼。その教えを実践する。
「明後日にクライアントに紹介するはずだった工房が、急に取引を中止したいと言って来たのよ。他の工房をいくつか当たってみたのだけれど、みんなダメだった……。どうやらライバル会社の妨害が入ったみたいなんです。だから、有名どころではなくて個人でやっているフリーランスの職人さんのような人を知らないかなと、思って」
ライバル社の事を聞かれたら、正直に答えるつもりだった。貴方を追い詰めた、あの会社だと。
奈美の持っているカードは、それぐらい。
「心当たりがないわけではないけど……」
赤嶺が、不承不承に告げる。奈美が、嬉々として立ち上がった。
「本当? 良かった! 赤嶺さんがここに居てくれてよかった」
「ちょっと待って。そのクライアントに引き合わせるのは明後日なんだろう? どういう趣旨でクライアントと引き合わせるのかは分からないけれど、いくらなんでも時間が無さ過ぎだよ」
苦言を呈する赤嶺は、かつての上司の顔を垣間見せる。奈美の心が、ざわめいた。
社員に「元カレ落として仕事を成功させる」などと宣言したことが、今更ながら恥ずかしい。「二度とぶれない」と、誓った筈なのに。
「職人さんの仕事ぶりと作品を見せたいの。クライアントが気に言ってくれたらその後の交渉は私がやりますから。この交渉がうまくいけば、そのクライアントが扱っている商品の独占契約が出来るの。だから、どうしても成功させたいんです」
畳み掛けた時に。
(千尋の谷を選びますか)
何故か、ジェイに言われた言葉がひらめく。
日本人なら、こういう場合「茨の道」と言うだろう。ジェイの感性は、日本人とは少し違う。
でも、「茨の道」でも「千尋の谷」でも、奈美にとっては同じ事だ。どうしても手に入れなければならないものがそこにあるなら、奈美はきっと茨の道を進み、千尋の谷を下るだろう。
真摯な眼差しを赤嶺に送り続けていると、彼は諦めたように頷いた。
「じゃあ、明日ウチへ来てくれ」
ほっとしたように、奈美が息をつく。
これで、先ず、一歩。成功への一歩だ。
「ねえ、ちょっと寄って行きますか?」
ルームキーをちらつかせたのは、五年前を思い出したから。赤嶺に憧れ、恋をしていた頃の、自分。
「いや、明日の仕込みがあるから」
成程と、奈美は思う。五年も経てば、恋人が居て当然だ。
笑顔で手を振りながら、奈美はカクテルを飲み干した。
翌日、約束の時間に『かなさん』を訪れる。
先日訪ねた時から印象に残っていた絵の元で佇んでいると、
「いらっしゃい」
赤嶺が、奈美を迎え入れてくれた。
「こんにちは。本当に素敵な宿ね。特に入口の絵が素敵だわ」
民族衣装に身を包んだ女性たちの舞が、躍動的に描かれた、一枚の絵。
「彼女の作品なんだ」
紹介されたのは「島袋和歌子」と名乗る、落ち着いた雰囲気のきれいな女性だった。どうやら、ガラス工房を紹介してくれるのは、彼女らしい。
やっぱり、と、奈美は思う。
赤嶺の雰囲気が、東京に居た時と、がらりと変わっていた理由。初対面の時に奈美が感じた「怖さ」など、今の赤嶺を見ていたら想像も出来ない。
「さあ、行こうか。彼女が案内してくれる」
言われて、最初に後部座席に乗り込もうとした和歌子を、赤嶺が制する。
「おいおい、君がそこに乗ったらだれが道案内をするんだ?」
「でも……」
遠慮するように奈美をちらりと見る、和歌子。
元カノに遠慮する必要、ないのに。と、口には出さずに奈美は笑顔を向ける。
「ああ、いいのよ。どうぞ」
奈美が後部座席に座ると、和歌子がすまなそうに助手席に乗り込む。
何が「いいの」か。自分の言葉に、苦笑する。「浜辺の恋」恐るべし、と。
結論として。
和歌子が紹介してくれた、「喜屋武」は奈美を信用してくれて、クライアントの視察を受け入れてくれた。
クライアントは喜屋武の作品をことのほか気に入り、商談成立。これで、大団円だ。
大ピンチからの逆転劇。興奮冷めやらない奈美が、赤嶺に電話で報告する。
「ねえ、今から会えないですか?お礼がしたいので」
「いいよ。じゃあ、和歌子さんも一緒に……」
「ごめんなさい。お礼というのは訂正します。赤嶺さんに会いたいの……」
「元カレ」だ「浜辺の恋」だと、自分に言い聞かせ続けていた奈美は、どうしても答えが欲しかったのかも知れない。
待ち合わのホテルのバー。
赤嶺が来た時には、奈美は既にかなり酔っていた。
気が緩んだ事。ジェイが駄目出し覚悟で勧めたイタリアンの夕食がことのほか美味しくて、酒が進んだ事。他にも、色々あったのかも知れない。
「私、一日だって赤嶺さんのことを忘れたことはないのよ。今回、クライアントが琉球ガラスに興味を持ってくれたのは神様が私にもう一度赤嶺さんに会えと言っているのだと、そう感じたの」
「僕だって君のことを忘れたことはないさ」
赤嶺は、困った顔をして付き合ってくれている。それが、奈美を更に苛立たせた。
「うそ! 私に何の相談もしないで一人で沖縄に帰っちゃったじゃない」
「君は新しい会社を立ち上げたばかりだったし、君の夢を邪魔しちゃいけないと思ったから…」
ばかみたいだと、奈美は思う。無くしたものは、もう取り戻せない。当たり前の事なのに。
でも、奈美は追い風に乗ってしまった。今でも、風は吹いている。
東京に戻る日、『かなさん』を訪れる。
「今日、東京に帰るの。その前に自慢のランチを食べさせて頂こうと思って」
待望の琉球料理は、今まで口にしたどんな料理よりも美味しく感じた。これが、彼が選び、描いた未来なのだろう。
不覚にも涙が浮かんだのは、「負け」を認めたせいだと、奈美は思う。
独立して、起業して、走り続けた五年間。それは、赤嶺颯太を忘れるための日々だったのだと、初めて自覚した。
「ご馳走様でした」
深く頭を下げ、店を出る。
「空港まで送るよ」
赤嶺に声をかけられ、奈美は小さく頷いた。
「ありがとう。じゃあ、甘えさせてもらいます」
空港までの車中、二人は言葉を交わさなかった。
運転しているのが、ジェイなら。奈美は何度も話しかけただろう。「あ、ちょっと待って。この先の店、興味あったんだ」などと、三回以上は車を止めさせた筈だ。
ジェイは、時間を気にしながらも「イエス・サー」などとおどけて寄り道をしてくれていた筈。
そんな事を考えて、奈美はため息をもらした。
空港に着くと、搭乗時間までまだ少し余裕がある。
「もう少し、一緒に居てもらってもいいですか?」
赤嶺と離れがたいのには、理由がある。離れがたいのに、会話が進まない事も。
まだ、赤嶺に告げていない事があるから。
「ランチも終わったし、大丈夫だよ」
ベンチに、並んで腰を下ろす。ゆっくりと息を吐いて、奈美は、
「また、来てもいいですか?」
やはり、言えなかった。「もちろん」と赤嶺が答えたので、奈美はもう一つ、確認したかった事を言って見る。
「私でも『かなさん』で働けるかしら……」
「冗談はよせよ」
一刀両断で切り伏せられた。
もちろん、冗談だ。赤嶺の隣に相応しいのは、奈美ではない。そんなことは、初めて和歌子を紹介された時から気が付いていた。
「そうね。赤嶺さんには素敵な人が居るんですものね」
「素敵な人?」
怪訝そうに聞き返す赤嶺に、奈美はくすくすと笑う。
「ううん、なんでもない……。私、決めたわ」
そう。千尋の谷を降りる覚悟は、いつでもある。でも、谷を降りてしまったら、ひとりでは登れない。手を引いてくれる誰かの手が必要なのだと、やっと気づけた。
「なんだか解からないけど、それはよかった」
「うそ!」
「えっ?」
「全部解かっているくせに」
奈美は立ち上り、
「そろそろ時間だわ。送ってくれて、ありがとうございます」
赤嶺の首に手を回して軽くキスをする。
そう。これは、お別れのキス。キスやらハグやらを日常的にしてくる相手とずっと居たから、すっかり慣れてしまった。
彼に背を向けながら、携帯を取る。
ジェイへの連絡ではなくて。
「もしもし、和歌子さんですか? 私、奈美です。この度は、本当にお世話になりました」
『いいえ、私は何も』
「あのね、和歌子さん。私、『時運』は逃しちゃいけないって思うんです」
東風―あいの風。春を告げる風。でも、その風は時化を呼ぶ。
『あの、奈美さん? おっしゃられている意味が?』
「きっと、赤嶺さんの周りにも新しい風が吹いているんです。だから、変われたんだわ。どうか、お幸せに」
言いたい事だけを言って、電話を切る。
いつまでも、一歩を踏み出せない人の、追い風になる為に。
赤嶺颯太から電話がかかってきたのは、一年後だった。
『かなさん』に、『真野戸詩美(utami manotom)」の名で二名の予約を入れたのが、奈美だとばれてしまったらしい。
utamimanotom。最後のmがヒントの、簡単なアナグラム。当日に、「君たちだったのか」とか言われるのを期待していたのだけれども。
「ナミ?」
電話を切り、意味ありげな視線を送って来る奈美に、ジェイは不思議そうに眉を寄せる。
「電話、何か嫌な事だった?」
「ううん。赤嶺さん。結婚おめでとう、だって。アナグラムには気づいたみたいなんだけれども、早とちりなんだから」
くすんと、奈美が笑う。
「だからね、私も『彼』って言っちゃった」
「え? ナミ?」
ジェイにしては、珍しく焦った様子を見せる。
「大丈夫。法律で認められていなくても、多分、赤嶺さんや和歌子さんは、解ってくれると思う」
「じゃあ」
「来月、予定通り式は挙げましょう。でも、場所は」
奈美の言葉は、力強い抱擁に途切れる。
「I love you Nami」
「Me too. Jennifer」
深い深い、口づけ。
こればかりは、さすがの赤嶺颯太の想像も越えているだろうな。奈美の胸に、悪戯心に近いものが芽生える。
「ナミ。その名前は」
ジェイが嫌な言葉でも聞いたかのように眉をしかめる。
「両親から、愛情を持って与えられたものを無碍にするのは、どうかしら?」
奈美が軽く諌めた。
全部をひっくるめて、この人と生きて行こうと決めたのだ。
「それでは、これからも二人で」
「共に、千尋の谷に」
〈了〉
読んでいただき、ありがとうございました。
この作品は、あるなろう作家さまとのコラボ小説です。
その方の草案に則って、私が松本奈美の視点で書きました。
ですので、私が思いつきもしないようなエピソードも入っています。
別の作者さまの描かれたストーリーの中で、奈美とジェイを動かすのは、とても楽しい作業でしたが、なかなか形にならなかったり。思いも寄らぬ時間がかかってしまいました。
待って下さった作者様に、感謝の言葉しかありません。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
ついでにコラボ作者当てをしていたければ、幸いです。