9.木精と森の民(9)
全く、散々な目に合ったよ。
俺はぶつぶつと文句を呟きながら、ジャージの上下を脱ぐと目の前にある泉の水でじゃぶじゃぶと洗う。
「この匂い、取れるんだろうな」
腐ったような刺激臭が鼻先に漂う。かなりの悪臭だ。その元となる緑色の液体が、脱いだジャージにべったりと糊のように張り付いていた。
これはゴブリン――この世界では、なんと呼ばれてるかは知らないが、俺には前世での記憶、アニメや漫画等からゴブリンっぽい生き物に見えた。緑色の液体は、その生き物が流した血液。前世では、生き物の生死とは無縁に生きていた俺だけど、幸いな事に、あまりにも人の流した血との見た目の違いから、それほどの忌避感もなかった。
もっとも、悪臭とねばねばとした手触りには閉口したけど。
とにかく、そのゴブリンの群れは、あの場所にいたのが全てではなかった。森のあちらこちらに群れていたのだ。その群れを、ユキが見付ける度に突撃し、生き残ったゴブリンが別の群れへと逃げ込む。それをまた、ユキが殲滅しようとする。これを、何度も繰り返していた。その間、かれこれ二時間ほど……。
体は強張り関節の節々は痛くなってくるし、今は止んでるけど途中で雨は降ってくるしで、全身はずぶ濡れ、ゴブリンの血糊と雨水で泥だらけになってしまった。
ホントに、勘弁して欲しいよ。
ようやく、ユキの興奮も治まった頃、ちょうど近くに小さな泉を発見した。泉といっても、沼に比べると猫の額ほどの本当に小さなもの。でも、全身に付着した汚れを落とすには十分な水量を湛えていたのだ。
ジャージに付いた汚れをこそげ落としながら、俺はしかしと考える。沢山の生き物の命を奪った行為に付いても……。
ユキにしがみ付くのに必死で、あまり実感がわいてこないが、森に住む大勢の命を奪ったのは事実。ユキの暴走とはいえ、責任の所在は俺にもある。なんといっても、ユキの主なのだから。
例え、醜悪な姿、俺の知っているゴブリンに似ていても、まさかアニメみたいに邪悪な存在って訳でもないだろう。それぞれが精一杯生きてるのだ。それを問答無用で刈り取って良いのだろうか。襲われて止むを得ずならまだしも、逃げる相手を追いかける必要があるのだろうか。
ちらりと横を眺めると、俺を悩ます元を作った当のユキは、無邪気に水と戯れている。その姿を見ると、文句を言う気も霧散する。
ここは、前にいた世界と違って弱肉強食の殺伐とした世界。ユキのように平然としているのが正しいのかも……。
前世での平和ボケした日本で、幼い頃から「命を大切に」と教えられてきた。それはもう洗脳といって良いほどに。だから、その弊害が今の俺に影響を与えているのか、俺の胸の内に嫌な気分を残す。
――俺の考えは偽善なのか。
この世界では、甘い考えなのかも知れない。ただ単に、俺が軟弱な心の持ち主なだけなのかも知れない。
よく考えると前の世界、日本でも、直接は無くても間接的には動物の生死には関わっていた。毎日の食卓に上る肉類も、食肉用に畜産された動物を、誰かが屠殺して加工しているのだ。それを忘れて、美味しいと口に入れている。生きるという意味は、他者の命を奪う事。
――全ては、偽善。
それでも俺は……以前は、そんな事を考えもしなかった。でも、この世界に転生してから次々に起きた濃い出来事に、命について色々と考えさせられてしまう。
いつしか、ジャージを洗う手を止め、考え込んでいた。
と、そこに突然、ざぶんと大きな水飛沫が、俺に向かって降り注ぐ。
「おぉ!」
せっかく乾きかけた体が、またしても頭の先から爪先までずぶ濡れだ。犯人は――。
「ユキィィィ!」
ユキが、ずぶ濡れの俺を見て、「バウバウ」と喜んでいた。たくっ、こいつだけは……大事なことを考えていたのに。でも、ユキのお陰で、少し吹っ切れた。
「……やったなぁ、お返しだぁ!」
俺もどぼんと泉に飛び込むと、水飛沫をユキに掛ける。それでも足りず、手で水を掬い上げユキに投げつけた。そしてユキもまた、水飛沫を俺に――俺たちは、延々と水を掛け合い遊び続ける。
けど、その間も、頭の片隅では考え続けていた。この世界で、俺はどうすれば良いのかを。図らずも、多くの家族を得て、俺が主となった。だから、皆に示さなければいけない。生き方を、偽善と言われようとも。
最後には、いつものようにユキに岸辺に転がされ、戯れ付かれていた。
と、そこで、ふと気付く。
俺は顔を上に向け、仰向けに寝転がっていた。だから、気付けた。傍の樹木の上の方に、何かが漂っているのを。
「あれは、なんだ?」
「バウ?」
ユキも俺の様子に気付き、樹上へと顔を向けた。それを待っていたかのように、樹上にいたそれは舞い降りて来る。
その姿は――。
「ひっ、ひまわり!」
向日葵の茎や葉の部分の無い、花の部分だけがふわふわと降りて来るのだ。しかも、一つでや二つでなく沢山の。
直径は五十センチ、もう少し大きいかも。外側の黄色い花びらが、外縁に沿ってくるくると回転していた。
俺たちの頭上数メートルの位置で止まると、ふわふわふわふわ漂い踊っている。
なんとも、見とれてしまいそうになるほどの、不思議で幻想的な風景。
「ユキ、あれが何か知ってる?」
「バウ?」
ユキも首を傾げている。
でも、次の瞬間、花の中心がくわっと縦に裂けた。そこには、びっしりと鋭く尖った歯が生えている。
「うおっ! 何なに!」
驚き慌てて、身構える俺とユキ。そんな俺たちを馬鹿にするかのように、宙に漂う向日葵の花が一斉に鳴き出した。
「ケタ、ケタ、ケタ!」
まるで、笑い袋のような声。
何これ?
どんなホラーだよ。
あっ、まさか!
「まさかだよね!」
俺は、慌てて神眼を使ってみた。そこに表示されたのは――。
<木精>
樹木が、高濃度の魔素を長年吸収し続け、亜精霊へと昇華した妖精。
「…………嘘だろ」
俺の想像は脆くも崩れさった。
「今度は、今度こそはと期待してたのにぃぃ! この世界、絶対に間違えてるぞおぉぉぉ!」
俺の心からの叫びが、またしても、虚しく尾を引き森に響き渡った。




