6.木精と森の民(6)
長い間、人の手が入っていない森は深い。道などあるはずも無く、全てが樹木に多い尽くされる。
当然、そんな森の中で行動するのには困難が付きまとう。でもそれは、森での生活に適性のない人だからだ。森で産まれた獣たちは、なに不自由なく育ち行動している。
そして、他種族から『獣人』と呼ばれる私たちは、その呼び名の通り獣の本性が色濃い。普人族などは蔑みを込めて『獣人』と呼ぶが、私たちは反対に誇りにさえ思っているのだ。
だから、私たちは自らをこう呼ぶ。
――『知恵ある獣』と。
体内に宿る『獣気』を体の隅々にまで巡らし、その流れを徐々に加速させていく。解放された獣性が、私に高揚感をもたらし筋肉が躍動する。
「グギャギャギャ!」
奇声を発するディアブル。目前には、瘴気を纏った凶悪な爪が迫って来る。
それを、半身に体を開き、するりと難なく躱す。逆に、前へと踏み込み、ディアブルの喉元に小剣の刃を押し付ける。そして、一気に引き切った。途端にバッと飛び散る、ディアブルの濃い深緑の血流。
ディアブルのどろりとした血しぶきが、私の頬を濡らす。口元へと伝う血流をぺろりと舐めた。
――苦いっ!
あまりの不味さに顔をしかめる。
しかし、それが切っ掛けとなった。私の中で押さえ付けられていた、獣の本能が顔を出し吠え猛る。爆発する獣性。歓喜に包まれる私の中にいる獣が起立し、次の獲物を求め、早く早くと急かし促す。
自然と舌舐めずりする私。と……。
「おい、アリス。『獣気』に流されるなよ!」
後ろを振り返る事もなく、ツバイが言ってのける。その声に、ハッと我に返った。さすがに、歴戦の勇士。私の気配の変化に、眺めるまでもなく直ぐに気付いたようだ。
「……あぁ、分かってるさ、それぐらい」
そう言って返すも、私の背筋には冷や汗が流れていた。
久しぶりの『獣気』の解放に、少し……いえ、大分に流されていたかも……。ツバイの声が無ければ、下手をすれば暴走していたかも知れない。
――巫女として、私もまだまだ修行が足りない……。
その事を痛感した。
獣人の戦士は、『獣気』といかに付き合い、上手く操るかを修練する。けど、私たち獣人巫女は、その逆に、できるだけ『獣気』を押さえる修行を行う。それは、人としての精神を、徳を高めるための修養なのだ。
「ふぅ……」
ため息をひとつつくと、周りを確認する余裕もできた。
ツバイは、銀狼族の中でも一二を争う剣速の持ち主。瞬速の剣が一閃、二閃と走る度に、ディアブルの首は転がり落ちる。ツバイと違ってトーゴは、その怪力でもって大剣を振り回し、数匹のディアブルをまとめて押し潰す。いつもは騒がしいザンジでさえ、半弓から矢継ぎ早に矢を放ち、的確にディアブルを葬っていく。
三人とも、今回の重要な任務に回されただけの実力を見せつけていた。
私の放った『符術』で、ディアブルの群れにできた隙間。それを強引に抉じ開け、私たち四人はディアブルの囲みを駆け抜ける。
人の動きを阻害する森の障害物も、『獣気』によって運動能力を向上させた私たちには、もはや意味を為さない。まるで、この森で生まれ育ったかのように行動できるのだ。
私たちは傍らの大樹の幹を駆け上がると、枝から枝へと飛び移り宙空を走り抜ける。
易々と、ディアブルの囲みから脱するかと思えた。
しかし――。
「ちっ、まずいな」
前を行くツバイが舌打ちした。
「どうした?」
「周りを見てみろ!」
ツバイに促され周りに目を向けると、私たちに群がるディアブルの数が反対に増えているのだ。しかも、遠くからは続々と集まるディアブルの姿さえ見える。
――何故、これほどの数?
まるで、森中のディアブルが集まるかの勢いで数を増やす。
私はもう一度、呪符を取り出した。これは『炎陣の符』。本来は罠として仕掛ける物だが、構わず後ろに向かって散蒔く。たちまち、その呪符を踏み付けたディアブルが炎に包まれた。
しかし、それも焼け石に水。追って来る勢いを殺ぐ事はできない。
今はもうディアブルたちももう、手を出してこない。一定の距離を取り、囲むようにして追って来る。私たちが疲れるのを待ち、数を頼んで押し潰そうとしているのは明らかだった。
私たちも、なんとか引き離そうとするが、ディアブルもこの森で産まれた邪精。中々、引き離せないでいた。
前を行くツバイたち三人の表情にも、焦りの色が浮かんでいる。
「三人とも頑張って。後少し、もう少しで森人族の領域に入る。辿り着けさえすれば、きっと」
私の言葉にツバイが頷き、私たちは走る速度を更に速める。
でもそれは、希望的観測に過ぎない。実際は、後どれぐらいの距離かも分からず、果たして森人族に出会えるかも分からない。それに、森人族に出会えたとしても、私たちの危難を救ってくれるとは限らないのだ。
それでも、僅かな希望にすがり、森の奥へと進む。
しかし、それも――。
ディアブルも、邪精と呼ばれるだけあって狡猾だ。狩りの時の勢子に追われるように、いつしか私たちは死地へと踏み込んでいたのだ。
――最初の異変に気付けたのは、やはり匂いだった。
森の中に張り巡らされた、樹木の枝。その一本に足を掛けた時に、森とは異質の匂いを嗅いだ。
咄嗟に、体を捩る。
それは、『獣気』を解放した為に目覚めた野性の本能が、我が身に迫る危機を教える予知。
私の体を掠めて、大きな鎌状の物が通り過ぎる。それを足で蹴り、その反動を利用して宙で一回転すると、地上に降り立った。
「大丈夫か、アリス!」
直ぐに、ツバイたちも私の周りに降り立つ。
「私は大丈夫、それよりも――」
さっきまで自分のいた樹木の枝へと目を向ける。
あれは、
「グレーターマンティス!」
周囲の樹木の枝葉に擬態しているが、確かに枝の上にいた。
マンティス系の魔獣は、細長い体に6本の脚を持つ。前脚の2本は太く、多数の棘を備える鎌状に変化する。頭部は逆三角形、2つの大きな複眼を持ち左右に別れる大顎が捕らえた獲物を噛み砕く。触角は毛髪状で細長く、中脚と後脚も細長い。体色は緑に茶の線が入り、樹木の枝葉に擬態し近寄る獲物を捕食する。その中でも、2トロン(メートル)を越える固体はグレーターマンティスと呼ばれるのだ。
枝の上で擬態していたのは、まさに3トロン(メートル)に迫る巨体。Aランクの魔獣、グレーターマンティスだった。
「おいおい、マジかよ……」
さすがに、冷静なツバイも声が上擦っていた。
しかも、一匹だけでない。周囲に擬態したマンティスの気配を、少なくとも数匹は感じる。更に、森の奥から唸り声と共に向かって来る魔獣も見える。
「あれは、オルソス! しかもレッド!?」
森の奥から現れるのは、真っ赤な剛毛を逆立てるレッドオルソス。
こちらもAランクの魔獣。がっしりとした体格に2本の後ろ肢と、4本の太い前肢を持つ。前肢の先に飛び出た湾曲した鉤爪で獲物を引き裂く、剛腕の魔獣。
4トロン(メートル)近い巨体を揺すり、私たちを発見すると後ろ足で立ち上がり、4本の腕を振り回し威嚇してくる。
そして、数多くの邪精ディアブルがその外側で囲み、「ギャギャギャ」と奇声を上げていた。まるで、絶体絶命の私たちを嘲笑うかのように。
「だから俺は――」
またザンジが喚き出すが、今度は誰も咎めない。私も含めツバイもトーゴにも、その声は届かないから。ただ、呆然とするしかなかったからだ。
――何故だ。
何故、種族の違う魔獣や邪精が協力して私たちを襲って来るのだ。分からない、この森に入ってから分からない事だらけ……。
私を育てた祖母が常日頃言っていた。リュミエールの名を冠する銀狼の巫女には、様々な試練が降りかかると。これも、私に課せられた試練なのか?
私は幼い頃から銀狼の巫女に成るべく育てられてきた。獣人の神にも、常に祈りを捧げてきた積もりだ。
近年、普人族には神が降臨し、様々な恩恵を与えたと聞く。しかし、未だ私には神の声は届かない。
結局、私はこの森で神の声を聞く事もなく朽ち果てるのか。世界の行く末も、獣人の未来も知らぬままに……。
獣人にも神がいるなら、最後に問いたい。
――神よ、我ら獣人をお見捨てになるのか?
5年前から始まる獣人族に降りかかる困難と試練。私にも、多くの試練が降り掛かった。
獣人の神に、最後に願う。銀狼の巫女として。
――獣人の神よ、我らに……。
その時だった。
――ドガッ!
私たちの左側にあたる森の樹木が、轟音と共に突如はじけたのだ。
「あ、あれは!?」
そこから現れたのは――。




