30.銀狼の巫女と戦乱の予感(10)
――これは……悪夢でも見ているのだろうか?
イスカルの目の前で繰り広げられる光景。それは、悪夢以外の何物でもなかった。
アランの「テオ様は?」との言葉に、イスカルは慌てて魔人の後を追いかけた。それは、もしやテオ様がとの考えが、頭の中を過ったからだ。
樹林を抜けた先――突如、視界が開け森の中とは思えぬ程の広々とした場所に出る。そこで、イスカルが目にしたのは――。
陽の光を遮っていた樹林の枝葉が無くなり、頭上には染みひとつない澄み切った青空が広がる。上空から燦々と降り注ぐ穏やかな陽光。
だが地上では、その麗らかな陽射しとは真逆の地獄が現出していた。
沼上から飛んで来る水弾に、領軍兵士たちは散々に翻弄され、地上では異形の魔物が蠢き、兵士たちを打ちのめしていた。中でも、見るからに凶悪そうな漆黒の魔獣は荒れ狂い、次々と兵士たちを薙ぎ倒していく。
その背後には青黒く澱んだ不気味な沼が広がり、中央に聳える崩れかけた塔が悍ましい威容を放っていた。その周りだけ陽光が避け、陰鬱な影を投げ掛けているかにイスカルには見えたのだ。
目の前で繰り広げられる光景。それはまさに、イスカルにとって悪夢そのものだった。
アルガイエの領軍では常駐する正規兵が三千弱、非正規兵を動員して八千ほどである。今回、この探索に出向いたのは、その領軍でも中核を成す精鋭。イスカルが、この二十年の間に鍛えに鍛えてきた軍団でもあったのだ。
「くっ……我が軍団が……」
おのれが鍛えたあげた精鋭兵数百の軍団。相手がいかなる軍勢、或いは魔獣であろうとも引けを取らないと信じていたのである。それが、成すすべもなく蹂躙される様は、イスカルには見るに耐えない物であった。
だから――体を硬直させ言葉を失うイスカル。その腕を、後ろから誰かが引っ張った。
「イスカル様!」
それは満身創痍のアラン。彼もまた、イスカルの後を追随していたのであった。そのアラン以外にも、数十名のイスカル直近の兵が付き従う。皆、目の前の光景に声を失っていた。
「アラン! お前は怪我の手当てを先に……」
イスカルの言葉の途中を遮り、アランは広場の片隅を指差した。
「そのような場合ではございません! あそこに、テオドール様が!」
アランが指差す場所――広場の一画に、兵士の一団に囲まれたアルガイエ領主テオドールが立ち尽くしていた。魔法兵や神官兵が障壁を張り巡らし、側近の正騎士たちが魔人の攻撃を辛うじて凌いでいる。だが、次から次へと着弾する水弾に障壁はビリビリと震え、魔人たちの怒涛の猛攻に騎士がひとりまたひとりと倒れていく。テオドールを護る防御が、破られるのも時間の問題かに見えた。
「テオ様……」
イスカルも慌ててこの場に駆けて来たため、率いていた大半の兵はまだ樹林の中。それらの兵たちを纏めている時間はもうない。
振り返るイスカルの目に映るのは、全身に傷を負い息も絶え絶えのアランと、体を強張らせた少数の兵士たち。その兵士の中には見知った者の顔が、ちらほらと見える。
イスカルに常に付き従うのは、アランを始めとした元セナ王国出身の者が殆どなのだ。
「……セナ王国が滅びてもう二十年近い……この二十年の間に数多くの者が、セナからこのアルガイエの領地に移り住んでいる。我らが今まで満足に暮らしてこれたのもアルガイエ家のお陰。家族のため、ひいては同じセナ出身の同胞のためにも、今ここでテオドール様を失う訳にはいかぬ」
そこで言い止したイスカルが、口元を引き締め目を据えて皆を見渡す。
「お前たちの命、預からしてもらうぞ」
「もとよりその覚悟!」
即座に答えたのはアラン。兵士たちも、お互い顔を見合わせ力強く頷く。その表情は強張るものの、アランと同じく、覚悟を決めた晴々としたものに変わっていた。
「もはや策も不要。我らの命に代えて、テオ様をこの場から逃がすのみ。突撃せよ!」
命を捨てる覚悟を決め、死兵と化したイスカルたちが広場になだれ込んだ。果敢に攻め立て魔人を押し退け、テオドールの元へ向かう。
枯渇しかけた魔力を気力で補い【聖光弾】を放つアラン。兵士たちも、クロスボウに番えた『爆炎矢』を次々と放ち駆ける。
「皆、魔力をわしに同調させよ!」
叫びと共に、イスカルの手のひらから微かな燐光が放たれた。燐光は周囲に広がり、イスカルたち一団を包み込む。
それはイスカルの家系ヴァイス家に代々伝わる固有の異能、【魔力同期】と【多重障壁】。周囲から魔力を取り込み、幾重にも重なる障壁を周りに構築し、如何なる敵の攻撃をも跳ね返す。イスカルが最も得意とする秘術。
ヴァイス家は元々が、ユナ王国に於ける魔法省を司る家柄。イスカル自身はヴァイス家の傍流の家柄であったが、その能力を色濃く受け継いでいたのだ。だからこそ、ユナ王国の軍部では若くして将軍に登り詰める事ができ、帝国にまで名を轟かせる事が出来たのである。
今、先頭を駆けるイスカルの後に続くのは、そのユナ王国時代から付き従う兵士たち。イスカルの異能を心得、阿吽の呼吸で魔力を同調させる。
「ぬおぉぉぉ……!」
イスカルの口中から放たれる雄叫び。後に続くアランや兵士たちも、イスカルにならい同様に雄々しい叫びを発する。
一団を包む蒼白い燐光が激しく明滅し、尖鋭と成した闘気が戦場と化した広場を切り裂いた。
それは、覚悟を決め気持ちをひとつにした彼らの、純粋な生命力の煌めきそのものだった。
たちまち魔人たちが群がり、イスカルの形成した障壁に取り付く。が、障壁の表層を破壊するのみで、逆に、後から形成される障壁に弾かれていた。そこへアランの放つ【聖光弾】や、兵士たちの『爆炎矢』が殺到して魔人たちを吹き飛ばす。
「後少し……後少しでテオ様の元へ……」
だが――イスカルたち一団の前に、一際大きな黒い影が立ち塞がった。
「ギチギチギチ!」
影から放たれる不気味な異音。
その影は、またしてもあの魔人。聖剣技の妙手であるアランを、軽くあしらった魔人だった。
「イスカル様! あの魔人は――」
アランが叫び、言葉を言い終わる前に、魔人が禍々しい異形の剣を降り下ろす。その剣は、まだ届かぬ距離であったはず。しかし、剣圧が風の刃となり障壁に襲い掛かる。
ガキン!
辺りに鳴り響く衝撃音。直後に、一団を包む燐光が霧散した。魔人の放った一撃が、イスカルの【多重障壁】を粉砕したのである。
「ぐぅわあっ!……まさか、我が障壁までもが……」
己の張る障壁には、対物対魔法に関わらず無類の強固さを誇っていた。それだけの絶対の自信さえ持っていたのである。それが、魔人が持つ剣の一振りで、幾重にも張られた障壁があっさりと打ち砕かれたのだ。その際の衝撃波が、先頭を駆けるイスカルにも届く。
驚きの声を上げ、片膝をつくイスカル。額から頬を伝って、一滴の赤い血流が顎先からポタリと、したたり落ちた。
「イスカル様!」
慌てて駆け寄るアラン。と同時に、またしても群がり襲い来る魔人たち。イスカルに殺到する魔人を、兵士たちが身を挺して庇う。
「イスカル様……御免」
アランがイスカルの腰にぶら下がる剣を引き抜くと、目の前に迫る魔人に立ち向かう。
「ここは、わたくしにお任せを! イスカル様は早くテオ様の元へ!」
「アラン、無茶を……」
途中で言葉を飲み込み、力強く頷く。分かっていたのだ、イスカルにも。アランの死を賭した決意が。
既に、アランは満身創痍。足元はふらつき、気力を振り絞り立っているのがやっとの状態。過剰放出により魔力は枯渇し、もはや生命力を削り戦っていることを。
「【聖光散華】!」
アランが放つ聖剣技。多数の【聖光弾】が周りに浮かび上がり、流星の如く光の残滓を撒き散らし魔人たちに向かっていく。
「敵わぬまでも、時間だけは稼がせてもらうぞおぉ!」
怒声を放ち、アランが駆ける。先ほどイスカルの障壁を砕いた魔人に向かって、僅かに残る生命力を燃やし……。
「アラン……すまぬ」
アランの戦いを横目に、イスカルは立ち上がる。もはや、アランも魔人たちもその眼中にはない。一刻も早く、テオドールの元へ向かう。ただそれだけが、胸中を占める。
「もう一度、わしに魔力を同調させろ!」
再び【多重障壁】を構築するも、さっきのような激しい明滅はもうない。既に大半の兵士が倒され、イスカルに従うのは僅かに数名しかいないのだ。
それでも、イスカルは前に進む。テオドールの元へと――それは、イスカルの夢そのものだから……。
かつて帝国戦に於いて、ユナ王国が滅んだ時に一度は死んだと思った身体。全てを無くしたイスカルが、この二十年で抱いた夢。それは、ある意味、諧謔的なものでもあった。
寄る辺を無くした亡国の将軍が、その原因となった帝国の執政を担う人物を育てあげる。国政を左右する人物を、己の思い描くように成長させる事が出来るのだ。
イスカルにとって、これほど痛快な事はななかった。
数年後には、テオドールを貴族院の上席に座らせ、その後に執政官へと導く。それこそが、イスカルの二十年来の夢。そのための根回しや、有効な手段も打ってきた積りなのだ。
――あと少し、あと少しでそれが叶う!
だが、前方へと伸ばすイスカルの手のひらは、むなしく虚空を掴む。
テオドールの元に辿り着く寸前、遂に漆黒の魔獣がテオドールを護る障壁を打ち破ったのである。
「ガアルゥ!」
怒りに満ちた鳴き声を上げる魔獣が、テオドールたちが固まる中央を駆け抜ける。次々と薙ぎ倒される兵士たち。騎士や神官兵は弾き飛ばされ――そして、テオドールもまた……。
「テオ様あぁぁぁ!」
イスカルの目の前で、血飛沫を撒き散らし、くるくると宙を舞うテオドール。肩の付け根から吹き出す血流が、まるで水車のように真っ赤な円を描く。テオドールの右腕は魔獣に咬み千切られ、その口腔に咥えられていた。
「……悪夢だ、そうに違いない。これは……悪夢に間違いない……」
呆然と立ち尽くすイスカル。それに気付いた魔獣が、猛然と突進してくる。
「イスカル様!」
兵士たちが、イスカルの前にその身を投げ出し守ろうとする。しかし、それしきで魔獣を止めれる訳もなく――あっさりと【多重障壁】を突破し、兵士たちを弾き飛ばした。
怒りを孕んだ真っ赤な瞳を、爛々と輝かせる魔獣。目前に迫り来るのは、死そのものだった。
それをイスカルは、感情のこもらぬ瞳で眺め、ただ、立ち尽くしているだけであった。
誰の目にも、これから起きるであろう出来事。イスカルの運命は尽きたかに見えた。
が――
突如、目映いばかりの白光が、周囲を、広場も塔も沼も埋め尽くす。それは、そこにいる者、イスカルやアランたち傷付き倒れた者全てに降り注ぐ光の雨。
絶望感に包まれていたイスカルの瞳に、ようやく感情の色が動く。
――こ、これは……。
◆
怒号と魔法が飛び交い、周囲では轟音が響き渡る。その最中、私は懐から聖言句の書かれた呪符を取り出した。
先ほど、邪神から放たれた威圧――あれは、人の精神に作用を及ぼす魔法……だったと思う。その威圧に当てられ、ツバイたちが心ここに在らずといった様子で、朦朧とした表情を浮かべている。
獣人は感覚が鋭敏すぎる為か、混乱や恐怖を付与する精神系の魔法には脆弱だ。幸いな事に、私は幼い頃より積んでいる巫女としての修練のお陰で耐えられたが、ツバイやザンジは邪神の威圧に少し混乱を来しているようだった。彼らの異常を治療するため、取り出した呪符をツバイたちの額に張り付けると、胸の前で印を結び口中で呪文を唱える。
これは、獣人族の巫女にだけ伝わる秘術。魔力の乏しい私たち獣人の巫女は、呪符に自然界の精気を集め魔力の代わりとする『符術』を扱う。
しばらくすると、ふわりと浮き上がる呪符。と、次の瞬間にはボッと炎を発して呪符が燃え尽きた。途端に、ツバイたちののっぺりと感情の抜け落ちた表情に、赤みがさし正気が戻って来るのが分かった。
「邪神の呪い。もしかしてと思ったけど……どうやら、打ち払う事に成功したようね」
ツバイたちの様子に、ようやくホッと安堵の息を吐き出し、私も、周りに目を向ける余裕ができた。
私たち四人――ツバイとザンジ、それに重傷を負い意識を無くしたトーゴと、彼を膝に抱える私の四人は、広場の隅、沼の近くで身を寄せ合い固まっていたのだ。
周囲での騒乱。とつぜん始まった帝国軍の兵士と魔人たちの争い――いえ、それは戦いと呼べるものではなかった。魔人たちの一方的な……。
――蹂躙。
そのひと言に尽きる。
私たち、獣人の部族連合軍を散々に苦しめた、帝国軍が最も得意とする戦法――魔結石に魔力を充填した魔具『魔法矢』で敵の陣を崩し、重装歩兵が突撃して敵を撃ち破る。それを、岸壁に打ち寄せる大波の如く、幾度も繰り返し如何なる敵をも殲滅する。帝国陸軍を大陸随一と、他国に言わしめた必勝の戦法『魔浪陣』。
私たち魔力の乏しい獣人族には、とても真似の出来ない戦法だ。
獣人戦士は普人族の兵士と違って、魔力の代わりに『獣気』を操り戦う。ひとりひとりの戦闘能力を格段に高めて戦うのだ。だがそれでも、先の大戦では『魔浪陣』に散々に打ち破られた。
納得し難い事だが、集団戦に限っていえば帝国軍が上と考えるしかなかった。
しかし、その『魔浪陣』が、魔人相手には全くと言って良いほど通用していなかった。飛来する『魔法矢』は、魔人たちの放つ水弾に迎撃され、辛うじて着弾した『魔法矢』も、魔人たちに僅かな傷を付けるのに留まっている。自慢の重装歩兵の装甲も、まるで紙細工のように切り裂かれ歩兵たちは打ち倒されていくのだ。
――冗談のような強さ。
その実力差は、まるで、大人と赤子。
獣人族も、個人の精強さには自信を持っていたが、それ以上に魔人たち個々の強靭さが際立つ。その戦闘能力の高さで、帝国軍の『魔浪陣』を、赤子の手を捻るように易々と切り裂いたのだ。
馬鹿げた話だが、魔人ひとりひとりの戦闘能力は、軍旅ひとつに匹敵するかに思えた。その魔人の数が軽く百を越える。いかに精強な帝国軍でも、討伐するのは不可能。逆に、散々に追い回され、弄ばれてるようにさえ見えた。
「帝国の毛無し共め、ざまぁ見やがれ!」
すぐ横で、ザンジが吐き捨てるように、帝国兵に向かって言葉を投げつけていた。
どうやら、ツバイやザンジも、しっかりと正気に戻ってくれたようだ。しかし――私はもう一度、帝国の兵士と魔人の戦いに目を向ける。
私たち獣人族を苦しめてきた普人族が、打ちのめされる姿を見るのは、確かに、見ていて小気味良く映り胸のすく思い……だけど、彼らもまた人。私には普人族よりも、魔人たちに脅威を、恐怖を覚えてしまう……強烈に。
「すまんな、アリス」
今度はツバイが声をかけてきた。振り返ると、ばつが悪そうに顔を歪めているのが見えた。
本来は私の護衛。それが威圧に負け、反対に、私に助けられたのだ。それが、彼の獣人戦士として矜持を、少し傷付けたようだった。
だが、ツバイは周囲の状況を見てとると、直ぐに表情を険しくさせ眉を潜める。
「それで、今はどうなっているのだ?」
ザンジにしてもそうだが、周りで吹き荒れる魔人の狂気に、驚きはしたものの怯えの色は見せていない。さすがは、歴戦の獣人戦士、大した胆力だ。
「さぁ……私にも分からない」
尋ねられても、私には首を振るしかない。
現れた多数の兵士は、私たちを追跡していた帝国軍なのか、かなりの大規模な部隊だった。その帝国軍に、襲いかかるのは沼から現れた大勢の魔人。それに、戻って来た邪神がどこかから連れて来た不気味な魔人たち。
周りでは、今も激しい争いが続いていたが、不思議なことに、何故か、魔人たちは私たちには手を出してこない。それどころか、帝国軍から護っているようにさえ感じられた。
――何か、思惑でも有るのか?
邪神の思惑など、考えただけでゾッとする。
その邪神も、さっきは帝国の『魔法矢』であっさりと消滅した。
まさかと、我が目を疑ったが……あの程度で倒せるはずがない。それだけの力が感じられたのだ。その証拠に、塔を眺めると未だに悍ましい気を放出させている。
……あれは邪神の本体ではない?
もしかすると、邪神は完全に復活してないのかも知れない。今ならまた封印できるのかもと、そんな事を考えていると。
「……おい、アリス! 聞いているのか?」
「あ、すまない。少し考え事をしていた」
「この状況でまぁ……呆れたやつだなぁ」
周りの騒音に、ツバイの声を聞き逃していたようだ。呆れた顔を見せるツバイに、苦笑いで返す。
「それで、何を?」
「あぁ、あと少しで、この争いにも決着がつくだろう」
ツバイは、表情を引き締めそう言うと、ひょいと顎先で周りを指し示した。促されるまま周りに目を向けると――少数で固まる一団を除き、大勢の兵士はもう抵抗する気もなく、ただ逃げ回っているだけに見えた。確かに、あと少しで戦いも終わるだろう。帝国の惨敗との形で……。
「……ん、それで?」
私が視線を投げ掛けると、ツバイがまた言葉を続ける。
「ここが混乱してる間に、逃げ出した方がよくないか?」
それは、私も考えた。今は魔人も手を出さないようだが、果たして逃げ出そうとする私たちを、黙って見逃してくれるだろうか?
私たちの周りには数匹の魔人が陣取り、此方を伺っていた。それらを眺めながら考える。
けれども、此処にじっとしていても……この後も、安全とは限らない。私は姿を消した邪神を思い浮かべ、背筋にぞっと寒気が走るのを覚える。姿こそ普人族に似せていたが、あの恐怖そのものを体現したかのような姿は、邪神以外にあり得ない。
この先、目の前の帝国兵よりも、更に悲惨なめに合うかも知れない。やはり、ツバイが言うように逃げ出すべき……けど。
私は視線の先を、膝に抱えたトーゴへと落とした。
獣人は驚くほど頑健だ。私がさっき受けた太股の矢傷は、もう回復の兆しを見せている。それはツバイやザンジも同じ。だけど、トーゴは……獣人の治癒力でも回復しきれない重傷なのだ。今はもう、意識すら保っていない。
ツバイが目を伏せ、表情を強張らせた沈痛な様子を見せる。そして……。
「残念だが……トーゴは……」
「な、まさか見捨てろとでも?」
ツバイの言葉に驚く私は、ザンジに目を向ける。が、彼もまた、私の視線から逃れるように顔を背けた。
「アリス、分かっていると思うが、俺たちは部族連合の将来を賭けた重要な任務の最中なのだ。何よりも、任務が最優先。それに――」
そこで言葉を途切らせたツバイが、一度、周りに蠢く魔人に目を向け、また言葉を続ける。
「早く、この脅威も伝えなければ」
「けど、トーゴは……」
と、その時、誰かが私の手首をぐっと握った。
「トーゴ! 気が付いたか!」
それはトーゴだった。未だ意識がはっきりとしないのか、その瞳は朦朧と焦点を結んでいない。だが、私の手首を掴む手のひらは力強かった。
「……構わん。俺はもう助からぬ。俺の事は放って、さっさと逃げろ」
「馬鹿な事を言うな……手当てさえすれば、きっと助かる」
「俺が足を引っ張り任務に失敗すれば、それこそ戦士としての恥。さっさと行け!」
「けど……」
「言っても分からんか。ならば、これでどうだ!」
そう言った言葉の端から、トーゴの瞳が妖しく爛々と真っ赤な輝きを放つ。
「トーゴ?」
そして、めきりめきりと、トーゴの腕が倍以上に厚みを増す。それは、腕だけではなかった。両脚も首まわりすら、トーゴの身体全体が倍以上に膨らんでいくのだ。
「アリス! トーゴのそばから離れろ!」
ツバイが鋭い声を発して私の腕を掴むと、強引に引っ張った。
「ト、トーゴに何が!?」
「『獣気』を暴走させた【獣化】だ。直に理性が飛ぶぞ!」
「な、【獣化】!?」
【獣化】は獣人族特有の能力。獣気を体内で加速させ、身体能力を数倍へと高める。しかしそれは、両刃の剣。理性を無くした狂戦士へと変えてしまう。その上、一度獣化してしまうと、二度と理性ある獣人へと戻る事はない。その命が尽きるまで、戦い続けるのだ。
話には聞いていたが、私も見るのは初めてだった。
「トーゴ、何故……」
「……オレガ道ヲ作ル……オレガ暴レテ……ソノ隙二逃ゲロ……」
立ち上がったトーゴが獣じみた唸り声を上げ、人では出し得ない声で喋っていた。
「トーゴ……」
「アリス、もう無駄だ。何を言っても、トーゴにはもう届かない。今はトーゴの死を無駄にしないように、ここから脱出するんだ」
ツバイの声が遠く聞こえる。帝国が、獣人排斥へと政策を転換させて五年。両親が、親類が、数多くの知り人が、櫛の歯が欠けるように命を落としていった。
そして、今日もまた……。
「ウガアァァ……!」
人とは思えぬ雄叫びを上げて、突進していくトーゴ。
「トーゴォォォ!」
私の胸に、ぽっかりと広がる空虚感。何時の頃からか、私の中に居座る。それが、また広がったのを感じた……。
――と、その時だった。
周囲の全てが輝き出した。魔人も、帝国兵も関係なく包み込む、目が眩みそうな白光。
それは、私たち全てに降り注ぐ、光の雨。
その光は、私の太股の矢傷に纏わり付き、急速に傷口を癒していく。私だけでなくツバイやザンジにも、魔人や帝国兵までもが傷口を癒されていくのだ。
そして、【獣化】したはずのトーゴも、巨大化させた身体が萎み、元の無傷な獣人へと姿を変えていく。
――いったい、何が起きている?
その白光は、私のささくれ立つ心を落ち着かせ、胸に居座る空虚感さえ埋め尽くす癒しの光。
そう……それはまるで、聖なる光そのものだった。




