1.魔神と叡智の指輪(1)
そこには何もない。踏み締める大地も、広がる青空も、光も、いやそれどころか闇すらも無い。何物も、何者も、何ひとつ存在しない虚無。
どれほどの歳月を経たのだろうか、何も無いはずの虚無に――。
――オオォォォォン!
それは微かな音、或いは僅かな振動だった。何もないはずの無に初めての動き、極めて微かな揺らぎが生じたのだ。その刹那、光が、闇が、揺らぎの中から溢れ出す。それは大爆発、いや、それ以上の衝撃だったろう。
――そして、新たな世界が産み出された。
◆
深い深い闇の底から、ゆっくりと浮上する。
それは、ゆらゆらと揺れる俺の意識。
――頭がずきずきと痛む。
表層まで浮上した俺の意識は、まるで真っ白な靄がかかったかのように、まだ判然としない。
――気分が悪くて吐きそうだ。
胸がむかむかとして、吐き気を催す。
それに何より、
――寒い。
凍えそうな寒さに、体がぶるりと震えた。
身動ぎを繰り返していると、ようやく体に感覚が戻ってくる。が、あまりの寒さに、纏っていた毛布のようなローブを胸元でかき合わせた。
――いったい何が?
と、その時、どこからか聞こえる機械的な音声。
『バイタル(生命兆候)ハ全テ正常。顕現シタ現身ハ■■世界二、問題ナク定着シマシタ』
――ん、誰?
ずきずきと痛む頭を振り払い、俺はゆっくりと目を開ける。
「どこだここは……?」
強引にこじ開けた瞳に映る光景に、俺は呆気にとられた。
――夢でも見てるのだろうか。
周囲にあるのは、何もない真っ白な空間。その中で俺は、膝を抱え丸くなり寝転がっていた。
壁も天井も、床すらも無い空間に、ゆらゆらと漂っていたのだ。
――本当に何もない。
ただ単に真っ白。目に映る全てが白い。ゆっくりと手を伸ばす。途端に、何か目に見えない壁に押し戻された。それは、自分の体を中心に何処に手を伸ばしても同じだった。
「……?」
俺は、上下左右一メートル四方程度の、奇妙で小さな空間に押し込められていた。
しかし、不思議な事に恐怖や焦りといった感情は湧いて来ない。逆に、妙な安心感を覚える。例えるなら、産まれる前の母胎に抱かれるような安穏とした静謐さ。自然と、安堵の吐息がもれる。
とはいえ、何時までもこうしている訳にはいかない。
心地好い感覚に身を委ね、何時までも漂っていたいとの思いを振り払い、何が起きたのか思い出そうとする。だが、痛みと痺れに上手く頭が働かない。体も動かそうとするが、のろのろと緩慢な動きしか出来ない。まるで長い間、夢の中で彷徨っていたような気分だった。
そういえば、さっきの声は何だったのだろう。
「……だ、誰か、誰かいませんか? こ……ここはどこですか? ……えっ?」
自分のものとは思えないような嗄れ声に驚く。しかも、囁くほどの声量しかでない。
それは違和感。喉が痺れ、まともに声が出ないのだ。
その感覚は、先ほど感じたものと同じだった。長い時間に渡り、言葉を発していなかったような感覚。
――な、何が起きてる……。
『ココハ、マスターガ産ミ出シタ世界。マダ名前ガ有リマセン』
――えっ!
突然また響く、機械的な音声。それは耳から聞こえたのでなく、頭の中へ直接に届くのだ。その事に気付き、俺はかなり驚いた。
――何だこれは?
「お、お前は誰だ!」
『私ハマスターノ僕、【叡智の指輪】デス』
マスター?
叡智の指輪?
何を言ってる。いや、それよりも何故、俺の頭の中に聞こえる?
『マスターノ感情ガ昂ッテイマス。正常値二戻シマスカ?』
「……マ、マスターって誰だよ!」
『マスターハアナタ。私ハ忠実ナ僕』
俺?
俺がマスター?
それに僕って……。確か、叡智の指輪とか言ってたな。
自分の指へと目を向けると、右の人差し指に見知らぬ指輪がはまっていた。
「これは……」
疑問に思った瞬間、頭にかかっていた靄が、唐突に晴れていった。そして、俺は思い出したのだ。
――あれは夢でなかったのか。
◆
「田中くん、頼むよ」
課長のにこにことした笑顔が迫ってくる。表情こそ笑っているが、瞳はきょどきょどと落ち着きなく左右に踊っていた。そのことから、よほど困ってる事が窺えたが――ちらりと柱に掛けられた時計に目を向けると、退社時間である五時を大きく回っていた。
――ちっ、参ったな。
胸の内で舌打ちをして周りを見渡すが、同僚たちは何時の間にやら姿を消している。
課長の様子を察して、早々に逃げ出したのだろう。
気付かなかった俺が迂闊なのだろうが、ひと声ぐらい掛けても良さそうなものなのに……。
――何とも皆、薄情なやつらだ。
と、思うしかなかった。
何か言い訳をと考えている間に――そんな俺の様子に気付いたのか、課長が俺の腕をがっしりと掴んだ。まるで、逃がさないと言わんばかりだ。
俺は「はぁ」と、これ見よがしに大きくため息を吐き出し顔を曇らせるも、課長は気にした素振りも見せず、にっこりと微笑む。その時俺は、厄介事に捕まり逃げられないと覚った。
――あぁ、仕方ないか……。
「……分かりましたよ。今日中で作成しておきます」
俺の投げ遣りな言葉に、課長が満面の笑みで答える。
結局俺は、課長の頼みを引き受けることにした。明日にはクライアント先に提出する、プレゼン用の資料を作成する事となったのだ。
――何時に帰れるのやら。
俺は典型的なNOと言えない日本人。自分の事ながら、この性格が恨めしい。
そして、今度はそっと、ため息を吐き出した。
ようやく仕事が終わったのは、十一時を少し過ぎた頃だった。課長はといえば、俺に仕事を押し付けるとあっさりと帰宅した。
まぁ、歳も六十を過ぎ定年(わが社は六十五が定年)も近い。それに、満足にPCも操作できない。そばにいても邪魔になるだけなのだが……何だかなぁと一抹の理不尽さを感じつつ、これが現実、これが仕事だと諦めるしかない。
その後、手早く片付けると会社を後にする。慌てて駅に駆け込むと、終電間際の電車に辛うじて滑り込んだ。
だからだろうか、疲れ果てていた俺は電車内のシートに腰掛けると、何時しか居眠りをしていたのだ。
「…………のじゃ」
「ん?」
誰かが、俺を起こそうとしていた。
「これ、起きるのじゃ」
誰だよ。俺は疲れてるんだから、ゆっくりと寝かせろよ。
そこで、ハッと気付く。今は電車の中だと。
「あっ、しまった! 寝過ごした!」
慌てて飛び起きるが、直ぐに体が固まってしまう。何故ならそこは、電車内では無かったからだ。というか、周りの景色がはっきりとしない。目を凝らして見ようとするも、するりと意識から外れ判然としない。
全くもって意味不明だ。
分かるのは、頭上に直径一メートル程の球体が、数多く浮かんでいること。色とりどりの球体が、シャボン玉のようにフワフワと浮かんでいる。それと、これが一番問題なのだが、目の前に人の形をした白光体が佇んでいた。
えぇと……これは夢だな、うん。よく夢の中であるやつだ。夢では周りの景色とか、はっきりしないのはよく有ることだと自分に納得させる。
――くそっ! 早く起きろよ俺!
降りる駅を乗り越すと、戻りの電車はもう無いぞ。終点まで行ってしまうと、もうタクシーで帰るしか――そこで俺は愕然となった。今は給料前、財布に入ってる残金は二千円ほどしかない事を思い出したのだ。
あっ、マジでやばい。最悪、歩いて帰る事に……。うわっ、それは勘弁してほしい。夜中の歩きなんて。
――おい、早く起きろ俺!
目を覚まそうと悪戦苦闘する俺に、
『あぁ、少し頼みが有るのじゃが』
目の前の人形白光体が、声を掛けてきた。
うん、やっぱり夢だ。課長に無理矢理仕事を押し付けられたから、夢の中でも変な人に頼まれ事をされるんだと思う。
――くそ、早く起きろ俺!
『おぉい、聞いておるか?』
何だよ、こいつ。夢の中の登場人物のくせに、妙にはっきりと自己主張しやがる。
「……で、あんたは誰?」
一向に目を覚まさない自分に苛つきながらも、人形白光体に向かって返事をする。夢の中の出来事を進行させれば、もしかして目を覚ますかもと思ったからだ。
『わしか、そうじゃのぉ……お主ら人がいうところの神? かのぉ』
何で疑問系?
ちっ、まあいい。どうせ夢だ。
「紙や髪でなく、神様だと言う訳ですね」
『そうじゃ……』
まあ、夢だからな。それにしても神様とは、自分の事ながら呆れてしまう。今まで、宗教に傾倒したことなど無いのだが……。
「それで、頼みって何ですか?」
どうせ夢だと思っているから、どこか投げ遣りに訊ねてしまう。
『うぅむ、最近の人間は……』
白光してるのでその表情までは分からないが、何故かムッとしたのが分かった。神様と名乗るくせに、何とも心が小さい……あっ、そうか夢だったな。
「で、早く言って下さいよ。その頼みやらを……まぁ、聞ける範囲でしかお手伝いしませんがね」
そうだよ。ここは夢の中なんだから、何時もはNOと言えない俺だけど、はっきりと断るのも有りだよな。
幼い頃から他人に頼まれると、嫌だとはっきりと言うことが出来なかった。他人は俺の事を、穏やかで良くできた人だと褒めるが、なんの事はない。ただ単に、引っ込み思案で優柔不断なだけだ。周りに気を使い、何時も損な役割を引き受けているだけ。だから俺は夢の中でぐらいは、はっきりと断ってやろうと待ち構えていた。だが、この神様だと名乗るこいつは、俺の予想を越えて斜め上をいく頼み事をしてきたのだ。
『お主のおった世界じゃが、人が増え過ぎて少し汚れてきたようじゃ。だから、邪神へと転生して半分……いや、三分の一程度に人間の数を減らしてきてくれんかのぉ』
「……は、はぁ!?」
開いた口が塞がらないとはこの事。俺は唖然となり、ぽかんと口を開けてしまう。
いやいやまてまて。これは夢だよな。これが俺の心の奥底にある願望なら、完全に性格破綻者じゃないか。
戸惑う俺に、神様と名乗るこいつは、頭上に浮かぶ球体を目の前へと招き寄せた。
『ほれ見よ、黒く濁っておるであろう』
球体を指差し、さも困ったものだと言ってくる人形白光体。その言い方が、いかにも人間臭くて笑ってしまう。ま、俺が考える神様なんてこんなものだろう。
苦笑いを浮かべ、目の前にある球体へと視線を向ける。確かに言う通り、その球体は黒い霧状のものに覆われくすんで見えた。
「で、これが何か?」
『見て分からんか? これがお前たちの住む世界じゃ』
ほぉ、そう来ましたか。なるほど。ということは――俺は頭上に浮かぶ数多くの球体に目を向けた。
『そうじゃ。あれも、無数にある世界のひとつひとつ――』
何とも察しの良いことで。この世には、無数の平行世界が有るとでも言いたいのだろうか?
SFチックな展開に、半ば呆れてしまう。これが俺の思い描く夢だとするなら、あまりの子供ぽい想像力に恥ずかしい限りだ。
そうか。これは、最近に読んだラノベの影響かも知れないな。神様からチートな能力を貰って、異世界で自分の勝手放題に暴れる話だったが。あまりにも都合の良い展開に、途中で読むのを投げ出したけど――俺の中にもまだ、子供っぽいヒーロー願望が残ってたのかも知れないな。
俺がそんな事を考えている間にも、白光体の飛んでも話は続く。
『――で、この濁りはお前たちが撒き散らす、妬み、怨み、憎しみといった負の感情が凝り固まったもの。このままでは、お前たちの住む世界は遅かれ早かれ、闇の領域に侵され消滅してしまうじゃろう』
そう言われれば確かに、黒い濁りを見詰めているだけで、胸がムカつき嫌な気分にさせられる。そこで、この自称神様が何が言いたいのか理解した。
ははぁ、そういう訳ですね。だから闇の領域とやらに侵される前に、人間を虐殺して数を減らせと……俺って、やっぱり相当に日頃のストレスや鬱憤が溜まってるのかな。
「ひとつ質問なんですが、目の前の球体や頭上に浮かぶ無数の球体がそれぞれの世界なら、ここはいったい何処なのでしょうか?」
『この場所か、ここはそうよのぉ……どの世界の理からも外れた何処にも存在しない場所。強いて言うならば、世界と世界の狭間の空間じゃな』
そんな突拍子もない考えが、自分の夢の中の会話に出てくるのに驚く。
やはり、ラノベの影響なのかなぁ。
『どうじゃ、もう分かったじゃろ。だからお主に――』
「はいはい、分かりました。良いですよ」
最初は夢の中の話だからと断る積りだったが、呆れを通り越して逆に、面白味を感じていた。だから、もう少し自分の夢に付き合う積りになっていた。
『……ふむ、やけにあっさりと頷きおったな。本当に良いのか?』
「はい、良いですよ。その代わりに、三つほど条件が有ります」
『ほぅ、三つの条件とな……』
まぁ、どうせ夢だし良いだろう。ここは、ラノベチックにチートで無双でもさせてもらうか。
「まずひとつ目は、転生するなら容姿は端麗でお願いします」
アイドルのようにキャアキャアと女性に騒がれるのは、全ての男が持つ憧れだからな。これは外せない。
「ふむ、その程度でなら構わぬじゃろ」
おっ、その程度ときたか……それなら。
「では二つ目。出来ればRPGゲームのように、レベルやスキルなど能力を数値化してもらうと有りがたいですね」
俺はゲーム世代だからな。全てが数値化される方が、分かりやすいし対策も立てやすい。俺はいつしかこれが夢だと忘れ、本気で考え楽しんでいた。いや、調子に乗っていたと言って良いだろう。
『むぅ……ゲームのように数値化じゃと。これはちと難しいかも知れぬな。人の能力を数値化するなど、不可能に近いからのぉ』
自称神様の声音に困惑した様子が窺える。
ま、そうだろうな。日によっても、調子の良い日や悪い日もある。それに、さすがに人の全てを数値で表すのには無理があるか。
やはり無茶な要求かと諦めかけた時――
『……じゃが、お主にだけ数値が分かるようにすることは可能じゃ。ある程度の誤差はあるがの』
え、嘘、できるの?
あっと、これは夢だったな。危うく本気にするとこだった。
「えっと、それでは三つめ。邪神と言うからには、最強無敵でお願いします」
よく有るだろう。映画とかなら、バンパイアは陽の光や十字架。狼男なら銀の弾丸だっけな。そういった弱点は無しの方向で。物語や映画とかだと、最後はその弱点をつかれて滅ぼされるからな。
『それは、最初からその積りじゃがのぉ』
えっ、そうなの。それなら最初にそう言ってよ。まずったかな……。
「あ、そ、それならもうひとつ――」
『おや、三つでは無かったのか?』
「いえ、その……さっきのは無しでも良いので……オマケでもうひとつ」
『うむ、良いじゃろ。言うてみよ』
「えっとですねぇ……やはり、一人では辛いので、軍師或いはアドバイスを貰えるような相棒が欲しいかなぁと……」
『それはちと無理があるのぉ。転生できるのは一人だけじゃ』
やっぱり。それはそうか。何人でも転生出来るなら、事は簡単だからなぁ。
『しかし――』
そう言うと、神様と名乗る白光体が腕を前に突きだし、手のひらから輝く光を放出させた。その光は、俺の右の人差し指に凝縮していく。
「おぉ、これは?」
光が治まると、人差し指には銀色にきらりと輝く指輪が装着されていた。何の装飾も成されていない無骨な指輪だが、何故だか見る人を引き付ける。
『それは【叡智の指輪】じゃ。ある程度の助言をしてくれるじゃろ。それで、我慢しておけ』
指輪ねぇ。見た目はぱっとしないが、妙な色気があるな。
『もう、これで良いじゃろ。それでは早速、お主を送るとしようかのぉ』
「えっ……」
俺はまたしても、驚き唖然となった。何故なら目の前の空間が、ぐにゃりと歪んだからだ。そして渦を巻き、俺を吸い込もうとしていた。
「ちょっ、ちょっと、嘘おぉぉぉぉ! これは夢ですよねえぇぇぇ!」
『何を言うとるんじゃ、お主は』
「まさか本当に現実?」
『当たり前じゃろ……おぉぉ?』
呆れたような声を出していた神様? だったが、途中から驚きの声に変わっていた。その時の俺は、既に体の大半が渦に飲み込まれ、首から上だけしかこの空間に残っていない。体はぐるぐると回り、まるで洗濯機にでも放り込まれたような気分だった。
「なに、なに、今度は何が?」
『済まぬのぉ。何処からか、わしの力に干渉する者がおる。どうやら元の世界に――』
自称神様の声を最後まで聞く前に、俺は光の渦の中へ完全に埋没していったのだ。
◆
自称神様が、先ほどまで渦を巻いていた空間を眺め、『むぅ』と唸り声を上げていた。
『やられたのぉ……まさか別の世界で行われた召喚の儀式が、わしの力に干渉するなど思ってもおらなんだが……やはり、あやつが裏で糸を引いておるかも知れぬな。これは計画を修正せねばなるまい』
自称神様は、頭上に浮かぶ無数の球体に目を向け、ため息を吐き出していた。