その2 押し寄せる水
洞窟の奥で、テオルがリコの手を掴み走っていっている。
「ねぇ」
リコが微かな声でテオルに呼びかけたが、テオルは無視して話し出した。
「リコ、準備しろ。一緒にこの洞窟から出よう」
「え?」
「あの女魔法使い、放っておいたら軍隊でも引き連れてもう一度ここに戻ってくる。洞窟の連中にしたって、あんな話を聞いたら何してくるか分かったもんじゃねぇ。ここはもう安全じゃない。だからさ――」
テオルは話を途中で切って、立ち止まった。リコが、掴んでいた手を振り払ったから。
「どうした?」
リコは両の拳を力いっぱい握りしめ、うつむいていた。
「それって私のせい?」
「あ?」
「テオルが洞窟から出なきゃならないのも、ここに軍隊が来るのも、全部私のせいでしょ?」
「そうじゃない。洞窟から出るのは俺の意思。面倒事はあの魔法使いが持ち込んだ」
「私が、龍の血を引いているから、でしょ?」
リコはテオルの言葉すら聞いていないようだ。身体は震え出し、顔を上げたリコは、泣いていた。
「私が人を喰べるから!」
リコに流れる『黒い龍』の血。その『黒い龍』が人を喰べるという事実は、リコにとって相当なショックだったようだ。
テオルは膝をついてリコと同じ目線になり、肩に手を置く。
「大丈夫、お前には人間の血だって流れてる。お前は人を喰わない。それに、『黒い龍』が皆、人を喰うわけじゃない。実際、俺の知り合いにそういうやつもいるからな。悪いのはお前じゃなくて、偏見を持つ外の世界だ。だから心配すんな」
いつもとは少し違う優しい口調でそう言って、テオルは軽くリコを抱きしめた。
「いつも能無しのくせに」
「うるさい」
テオルは笑った。そして立ち上がり、リコの手を握る。
「早くしないとな。走れるか?」
「うん。せっかく、妹が生まれてくるのに」
「お前の妹の卵は、担いでいってやる。そのために洞窟の奥に戻ってきたんだ。早く――」
その時。
テオルは地鳴りのような、鈍い音が聞こえてきていることに気づいた。
(何だ?)
音は次第に大きくなり、まるで巨大な何かが近づいてくるようだった。
やがてテオルには、その音の正体が分かった。
「あの、外道が」
「ど、どうしたの?」
テオルは抑えられない憤怒の色を表情から消し、リコに命じた。
「リコ、土魔法で目の前を封鎖しろ!」
「あ、え?」
「頼む!」
リコがあわあわと困惑しつつも両手を地面に着け、魔法を使おうとした――その時。
「それ」は、リコとテオルの視界に映った。
「うそっ」
「それ」は、水だった。洞窟の入り口の方から凄い早さで、何者をも押し流す物量で迫ってくるそれは、魔法で生成された膨大な量の水だ。
リコが両手を地へ着けたと同時に、勢いよくせり出してきた何本もの岩の柱が、目の前の通路を覆っていく。そして――間一髪。水がテオルたちを飲み込む前に、土魔法によって出来た壁が侵入を防いだ。
リコは、何が何だか分からない、といったような顔をしている。
「お兄ちゃん、これどういうこと!?」
テオルがリコの手を強く握る。
「あの魔法使い女、水魔法を撃ちやがった。この洞窟ごと水に沈める気だ」
テオルは爪が食い込み出血するほど、もう片方の手の拳を強く握りしめていた。
「み、みんなを助けないと!」
「無理だ。ここより上の階層や、他の枝分かれ通路にいたやつは、もう助からない」
「そんな――」
直後。水魔法によって生じた水のドリルが、目の前の土魔法の壁を貫通し、崩した。――奥からは激流と、その中に身を潜めた、水魔法の泡のような結界に入った魔法使いが、姿を現した。魔法使いは、残虐な笑みを張り付かせている。
コンマ数秒後、リコが反射的に熱魔法によるバリアを張った。激流は熱魔法のバリアに触れると勢いよく蒸発し、辛くも侵入を妨げている。
「ほう、やるね半龍の小娘」
熱のバリアの向こう側、激流の中から、魔法使いの高飛車な声が聞こえてきた。
「でも、そんなんじゃあダメだよ――」
何をされるか理解したテオルは振り返る。リコの張った熱のバリアを通り抜け、魔法使いはテオルの真後ろへと瞬間移動してきたのだ。
魔法使いの杖の先端が、鋭い水のドリルに覆われる。だが僅かに早く行動していたテオルは、杖を直に掴んで抑え込み、魔法使いの胸ぐらをも掴んで、そのまま洞窟の壁に叩きつけた。
「テオルお兄ちゃん!」
リコは熱魔法のバリアを発動しているせいで、その場から動けないようだ。水の激流はなおもバリアを圧迫し続けている。
「痛いな」
魔法使いが涼しい顔で、目の前のテオルに言った。
「お前、やってくれたな! これがエル王国とやらのやり方かよ!」
「何を言う。これは『選定』だ。真に魔力の高い者なら、この程度の危機は脱して然るべきだろう?」
「魔力の低い者は殺すのか!? ただの幼稚な虐殺だろうが!」
「君がどう思うかは関係ないよ――」
再び魔法使いはテオルの背後へと逃れた。そしてテオルの後ろ襟を掴んで押し倒し、喉元に水のドリルの切っ先を突きつける。
「動くな。半龍、お前に言っている」
テオルは、洞窟の地面に何かの紋様が描かれてあることに気づいた。それは、魔法の力を引き出す補助として使用する、魔法陣と呼ばれるものだった。
「いつ魔法陣を!?」
「最初に洞窟に入ったときにさ。私は用意周到だからね、各所に描いておいた」
この魔法使い、名前をネロという。光魔法と水魔法を使うが、魔法陣なしで上級技まで使うことができるのは水魔法のみ。光魔法の上級技、瞬間移動の魔法は、魔法陣のある場所に限り移動できるという制限がかかる。そのために用意した魔法陣だ。
「ん?」
魔法使いネロは、熱のバリアを張り続けているリコの体の中に、異様な魔力の流れを察知した。その直後。
「があァ!」
リコは口から、とてつもない威力の火炎を吐いた。それは、龍が頻繁に使う技。火炎はテオルを避けるようにやや上向きに、ネロの顔に向かって放射されたが――ネロが張った水魔法の壁により、火炎は遮断され、打ち消された。水蒸気が立ち込める。リコは悔しそうに唇を噛んだ。
「予備動作も魔法陣もなしで、この威力の熱魔法とは羨ましい。龍の血が成せる技だね。君ならこの洞窟の入り口にある結界くらいなら壊せるだろうけど、残念だったね」
水蒸気が晴れると、勝ち誇ったような笑みを浮かべるネロが見えた。
「私は、水の魔法使い。君との相性は最悪なのさ」
「ちぃ」
テオルは忌々しそうに舌打ちをした。喉元に突きつけられた水のドリルからは、ごうごうという水が高速回転する音がはっきりと聞こえてくる。
「さて、しかし君は思ったよりも使えそうだね。名前は、リコちゃん、だったかな? どうかな、私と取り引きしよう」
リコは必死に熱魔法のバリアを発動させ続けながら、眉をひそめた。
「君が私と一緒にエル王国について来てくれるなら、この男の命を助けよう。もちろん、君が今、頑張って止めている水魔法だって解除するよ」
「え?」
「ダメだ耳を貸すな! ついて行きゃ、奴隷同然だぞ!」
「君には聞いていないんだ。少し黙っていてくれ」
ネロは水のドリルを喉元に近づけた。テオルの喉が、僅かに裂ける
「返答は五秒以内。五秒後には、この男の喉を貫く」
「待、って――」
「耳を貸すなよ」
テオルは、覚悟を決めていた。リコ一人なら、この魔法使いに勝てるかもしれない。足を引っ張るのは、馬鹿らしい。水のドリルの根元、杖の部分を掴む。
「んん?」
そしてそれを、自分の喉に向けて落とそうと力を入れた、その時。
「私、あなたと一緒に行くよ!」
リコはそう言って、熱魔法のバリアを解除した。そうするとネロも指を鳴らして、迫ってきていた大量の魔法水を、一瞬にして消し去る。
「賢い。自分に利用価値があると判断して、わざと発動を解いたのだな。馬鹿なことをやろうとしたこの男よりよほど賢明だ」
「おいリコ、お前バカな――」
リコはネロの元に駆け寄って、水のドリルをテオルの上からぐいっとどかした。
「一緒に行くよ。だから、もうやめて……」
「そうだな。健気じゃないかリコちゃん。じゃあ早速、行こうか」
「おい待て!」
テオルが立ち上がり、後を追おうとすると――ネロが手をかざし出現させた、光魔法による不可視の硬い壁が行く手を阻んだ。
「く、そ!」
テオルは壁に拳を何度も打ちつけ、叫ぶ。
「リコ! お前の一生が無茶苦茶になるぞ! おいッ!!」
テオルは自分の無力を呪った。魔法を使えない自分の無力を。
すると、リコが足を止めた。その後、言葉が聞こえてきた。絞り出すような、儚い声だった。
「私、地上に行けるんだから、嬉しいよ」
それを聞いて、テオルは拳を止める。
そして、リコは振り返った。
「それに、これでテオルお兄ちゃんを喰べないでも済むしね」
冗談のようにそう言ったその顔は、眩しいくらいの笑顔だった。
――洞窟の奥深く、行き止まり。
置いてあった白い卵に、亀裂が入った。