その12 歪んだ世界の底
ノートの首が、かざしたテオルの手に吸い寄せられるようにして収まる。
同時に、雷で模った刃を、ノートはテオルの腹部へ突き立てた。だが、刃の先がテオルの肌に到達する前に、それは掻き消える。
「俺に魔法は効かない。あんたじゃ俺を倒せない」
首を締め付けられながらも、ノートはにやりと笑む。
「こっちだって同じだ。僕にはもう実態がない上に、源であるこの『魔宝具』はお前には壊せない」
首の金属の装飾をぐっと掴むノート。
「そうだな」
「お前のその得体の知れぬ力も、無限に湧き出てくる訳ではないだろう。どう考えても、『魔宝具』に蓄積した僕の魔力が尽きるより、お前の限界の方が到達は早い。何十年、魔力を溜め続けたと――」
「いや、勝負はもう終わりだ、亡者さんよ」
そのとき、ノートの身体に異変が起こり始めた。身体の輪郭が、ぼやけ出したのだ。
「な、に! どんな魔法を使ってる!?」
「逆だ。俺は魔法の元である魔力を抑え込むことができる。だから俺に魔法は効かないし、溜め込んだ魔力で蘇ったのがあんたなら――その魔力を封じて、あんたを消し去ることができる」
ノートは血走った目をこれ以上ないほどに見開く。直後に発動させた、本物の雷にも匹敵する威力の雷魔法。至近で放たれたそれも、掻き消える。
「無駄だよ。俺は無意識に、ずっとそうしてきたんだ。力を抑え込む方法なら、俺が誰よりも分かってる」
自嘲するように、テオルは悲しく笑った。
身体の輪郭が崩れ始めたノートが、空間を震わす程の叫び声をあげた。摩天楼の中が、玉座が、びりびりと振動する。
「ふざけるな、ふざけるな!! ダメだダメだダメだ!! こんなところで終わってたまるか、貴様ごときに負けてたまるか!!」
「魔宝具」の持つ輝きが、徐々に霞んできているように見える。それと共に、ノートの身体が、その存在が曖昧に薄らいでいく。
「見た目通りの子供のようだな」
「貴様、貴様のような男にィ!!」
ノートは崩れかけた腕で、テオルの顔面を掴んだ。
「あんた、さっき俺に『世界の理も知らぬ若造』と言っただろ。でも俺にはあんたの方が、世界を拒絶するガキに見えるんだがな」
「そうだ、僕は理のその先へ行くんだ!! そんなものに縛り付けられてたまるか!!」
「それがガキだってんだ」
テオルの顔面を掴んでいた手が、蒸発するように掻き消えた。テオルの眼光が、ノートを射抜く。
「あんたはもう死んでる。理に従え」
そのとき、ぷつんと糸が切れたような小さな音が、摩天楼の中に響いた。
「魔宝具」の魔力の放出が、完全に止まった。ノートの身体は宙に浮き、徐々に霧散していく。
「イヤだ……こんな……僕はネロと、一緒に、世界を――」
テオルがノートから目を逸らすと同時。ノートの身体は、この世界からなくなっていった。霞んだ色の「魔宝具」が、音を立てて床に落下する。
強欲で傲慢な、強烈な野望を持った魔法使いノートの本当の最期は、酷くあっさりとしたものだった。
「テオルお兄ちゃん!」
テーチ、アニ、リコの元へ戻ってきたテオルを、リコが最初に発見した。
「アニ、来てたのか」
テオルとアニが目を合わせる。
「うむ。というか何だ貴様、下品に光りおって。目が痛いわ、離れろ」
「何でそんな当たり強ぇんだよ……」
「ケリはつけたかの?」
テーチがそう問う。テオルは無言で頷いた。
テーチは片腕に、ぐったりと動かぬネロを抱えていたが、テオルは特に言及しなかった。
「この異空間の主がいなくなったということは、そろそろじゃのう」
テーチが独り言のように呟いた、直後。大きな地震と地鳴りを伴って、テオル達が立っている摩天楼が傾き始めた。いや、異空間全体が、大規模に歪み始めている。
「な、な、何何何!?」
リコが軽いパニックになっている。アニはそばにいって落ち着かせた。
「異空間が崩壊し始めてるんじゃ。出るぞ」
テーチはそう言って手をかざすと、目の前の空間に孔を穿った。この異空間からの脱出口のようだ。
「ほれ、とっとと入れ」
テーチに急き立てられ、リコとアニがその孔をくぐる。テオルもそれに続き、やれやれと肩を回しながら、ネロを担いだテーチが最後に入ろうとした、そのとき。
――ネロが、テーチの腕を振り払った。
「なんじゃと」
空中へと逃れたネロは、無抵抗に、闇の底へと落下していく。崩壊する摩天楼と共に。
その顔は、笑っていた。
「奴隷は、御免さ」
テーチは、ネロがそう言ったのを聞いた。
崩壊する異空間の歪みに呑まれ、落ちていくネロの姿は、あっという間に見えなくなった。
「ほぉ。心を壊せてなかったということか。わしの腕が鈍ったか、それとも――」
完全に、想定外の事態だった。だか――テーチもにたりと、嬉しそうに笑った。
「くく、貴様にもし魔力が残っていたら、不意をつかれてわしは死んでいたろうな。肝を冷やしたぞ、女魔法使いよ」
そして、闇の底へ向けてそう呟くと。テーチも、崩壊する異空間を後にした。
数秒後、轟音と、歪みを伴って、異空間は崩れ去った。
異空間から出た四人が降り立ったのは、元いたエル王国の外れの平野。ノートが使った禁断魔法をテーチが探知した場所だ。
四人を出迎えたのは、リコとアニの父親の「黒い龍」だった。
「遅かったな」
黒い龍はそう言うと、高熱の吐息を漏らした。
「言うてくれるわ」
くく、と笑い、テーチが返す。
テオルの身体から迸っていた光が、そのとき消えた。テオルは、自らの手のひらをじっと見つめる。
黒い龍は二人の娘の無事を確認すると、その巨大な体躯を動かした。
「人間どもよ」
リコとアニを押しのけ、テオルとテーチの前に出る。そして。
「ありがとう。貴様らのお陰で、娘達は助かった」
なんと、黒い龍は頭を下げた。その迫力と行動とのギャップに、テオルは一瞬放心する。風が吹きすさび、平原の緑を強く揺らした。
「随分と丸くなったもんだのう」
「人を頼るのは、これが最後だ」
頭を上げた黒い龍は、射殺すような視線でテオル達を睨みつけた。こんなものを喰らっては、先ほどの礼と差し引きマイナスだ。
「まぁ、何はともあれワシは帰るわい。あー疲れた」
伸びをするテーチに、無表情のテオルが手を振る。
「じゃあなジジイ。葬式くらいは行ってやるから、死ぬなら一報くれよ」
「冷たい弟子じゃのぅ。――あ、そうじゃ」
何かを思い出したのか、テーチが近寄ってくる。
「ん?」
「テオル、一つ心に留めておけ」
そして、テオルの耳元で囁いた。
「お前が長年、力を押さえ込んでいたのはおそらく一種の防衛本能じゃ。あまりその力は使うな――あっという間に限界がきて、最後には死ぬぞ」
その顔からは、いつものにまりとした笑顔が消えていた。
「……ああ、分かってる」
目を細め返事をしたテオルの肩に、しわ枯れた手をぽんと置くと、テーチはどこかへ向かって歩いていった。
「あんたは、どうしているんだ?」
その後ろから、テオルが声をかける。
「んー。そうじゃのう。言うてワシの方も、そろそろ限界が近いようじゃし」
「葬式の準備か?」
「まぁそれもそうじゃが――」
テーチは振り返り、一瞬だけテオルと目を合わせた。
「死ぬ前にでかい花火を、一発打ち上げるとしようかのう」
「へぇ」
そして、手をひらひらと振りながら歩いていくテーチの姿は、やがて瞬間移動の魔法により消え去った。
「私も帰るとしよう」
黒い龍は漆黒の翼を宙へ大きく広げた。まるで目の前に闇が広がったようだ。
「お父さん、どこへ帰るの?」
リコが尋ねる。
「『龍ノ里』だ。我等龍族のみが暮らす隠れ里だ」
「え、そんなとこあるの!? 行きたい行きたい、私も行きたい!」
リコは目を輝かせて、黒い龍の腕をぽかぽかと殴りせがんだ。すぐに体表の高熱を感じて飛び下がったが。
「乗れば連れて行ってやる」
「やったー! テオルお兄ちゃんも一緒に行こう!」
「人間は『龍の里』には入れないだろ。龍以外の種族を弾く滝の奥にあるからな」
テオルのその言葉を聞き、黒い龍が反応を示した。
「貴様、何故それを知っている? 多くはない筈だ、それを知ってなお生きている人間は」
黒い龍の口から、紅い炎が漏れ出している。
「いや、俺子供の時に、さっきのじじいと一緒に入ったことあるんだ。あの時は特例だったし、俺も他では誰にも他言してねぇからよ」
僅かに身の危険を感じ取ったテオルは、早口で説明した。黒い龍が、改めてテオルを覗き込む。
「――そうか貴様、あの時テーチと共にいた小僧か」
「え、会ったことあったっけ? 皆んな同じ外観に見えるからなぁ」
唸った黒い龍は、ぐっと顔をテオルへ近づけてきた。
「な、いや、悪かった。テーチみたいに、ちゃんと誰が誰だか分かるようにしとくからさ」
「そんな事はどうでも良い。ときに、貴様があの魔法使いを止めたそうだな」
先ほどテーチと話をしている間に、リコからそれを聞いていたのだ。テオルはこくりと頷く。その紅蓮の瞳に、自分が映し出されているのが見える。黒い龍はまじまじとテオルを見つめた後、口を開いた。
「ふん、なるほどな。面白い人間だ、貴様は」
予想外の、肯定の言葉だった。その顔は、笑みを浮かべているようにも見える。
テオルはそのとき、デジャヴを感じた。数秒後すぐに、その理由に行き着く。
(そうか、同じだ、あの時テーチに言われたものと)
周囲の反対を押し切り、テオルを弟子とすることを決めたテーチ。彼が昔、言った言葉だった。
(なぜ、こいつも同じことを――)
自分が映し出された紅蓮の瞳をじっと覗き込むテオルだが、答えは出ないままだ。
そんなテオルの横顔を、アニはじっと見つめていた。
――崩壊する摩天楼に包まれ、真っ暗闇の中をどこまでも落下していく、女魔法使い。彼女の手には、霞んだ金属の装飾があった。
「兄さん――」
女魔法使いは、その装飾をぎゅっと抱きしめた。
「さぁ、世界の果てへ、一緒にいこう兄さん」
霞んだその「魔宝具」には、二度と光が灯ることもなく。
そうして兄妹は、時空間の狭間、奥深くへと堕ちていった。