その11 鎮座する影
ぼこぼこと、テーチの前の空間から、三体の何かが産まれてきていた。ネロは眉根を寄せる。産まれてきたそれは、テーチと同じ姿をしたものだった。
「これはわしの作った魔法。本体の十分の一の力しか出せないが、自らの分身を生み出す」
にやにやと笑いながら、テーチは自慢げにそう述べる。
「十分の一の力で、私を倒せると?」
目を細めるネロが握る杖に、ごうごうと渦を巻く水の矛が巻きつく。
「案外、できると思ってのぅ」
「その目障りな笑みを、すぐに消してやろう」
光魔法によって宙へと一瞬で移動したネロは、水魔法の攻撃を放った。テーチの、本体へ向けて。空を切り裂いて飛んでいく水の散弾はしかし、テーチの分身の一体が展開した防御壁によって防がれる。
「鬱陶しい老害が」
残りの二体の分身が、悪態をつく宙のネロへ、風と雷の上級魔法をそれぞれ放つ。ネロはもう一度光魔法を使い、風魔法を撃った分身の目の前に現れた。この光魔法は、魔法陣を描く必要がある上級技の方とは違いどこでも使えるが、移動距離が極端に短い。
ネロは水の矛と化した杖を、目の前の分身に突き立てようとする。そのとき、最初に防御壁を使った分身が、またもネロの前の空間に防御壁を出してきた。だが。
「脆そうだね」
高速回転するネロの水の矛は、その防御壁を貫通し、打ち崩した。そして、そのまま分身の一体の顔面を貫き、亡き者にする。貫かれた分身は霧散し、大気へと搔き消えていった。
それを見ていた雷魔法の分身が、出の早い初級技の雷魔法を放ち、その魔法は狙い通りネロの杖を握る手へと当たった。
「ちっ」
杖は大きく弧を描いて飛んでいき、纏っていた水の矛も消え、テーチの本体の足元へと落下した。分身は笑い、杖を無くしたネロへ、再び手をかざす。その瞬間、ネロも笑みを浮かべた。あまりに計算通りだったからだ。
直後にネロの姿は消え、テーチの本体の目の前へと瞬間移動していた。何の警戒もしていなかったテーチは、辛うじて足元の杖へと視線を向けるくらいしかできなかった。
杖には、微細な魔法陣が描かれていた。
自らの片手に高速回転する水の矛を纏わせ、その矛でネロは、テーチの胸をいとも容易く貫いた。
「ご、ああぁあ!」
目を見開いたテーチの断末魔に呼応して、残りの二体の分身も搔き消える。
「え、嘘でしょこの程度? 凄まじい魔力を持ってる風だったけど、持ち腐れもいいところだね」
ネロは、水の矛を引き抜く。
その時。初めて違和感に気づいた。血が、出ていない。まさか、と思う。
本体だと思っていた目の前のテーチも、霧散して搔き消えていった。分身だったのだ。
「んー倒されたかぁ。いけると思ったんじゃが」
ネロの後ろから、テーチの声が聞こえてきた。振り返ると、そこにはやはりテーチがいた。
「いつから――偽物だった?」
「あん? 最初からじゃよ。わしは今初めてこの空間に来て、今初めてお主に会った。初めまして」
テーチはわざとらしく大げさに会釈する。
「最初から、分身を」
「そうじゃ。まぁ力は十分の一でも、考えとることも記憶も共有できとるから、心配せんでええぞ」
本物のテーチは、ネロへゆっくり歩み寄ってきた。その身体から、無遠慮に魔力を放出させながら。その魔力の量は、先ほどまで対峙していたテーチの、当然ながら十倍。今まで見たことも、予期したことすらない、あり得ないほどの飽和した魔力量に、ネロの思考は停止してしまい、身体は震えを起こすばかりだった。
「何じゃ、つまらん反応をするな。戦意喪失にはまだ早いぞ。このまま、わしの意のままに心を壊されるつもりか? ほーれ」
テーチが、ネロへと手を伸ばす。そのしわの刻まれた大きな手のひらが目の前まで迫ったとき、ネロはようやく正気を取り戻し。伸ばされた腕を振り払って、飛び下がった。
「ええぞー。そう来なくてはな」
テーチは楽しそうだ。そのテーチの振る舞い、態度、存在が、ネロをどうしようもなく苛立たせる。どう足掻いても、この老翁に自分は勝てないと、理解してしまったからだ。
「何故だ――」
「なんじゃい?」
「何故お前は私たちの邪魔をする! 何の為に、お前はここにいるんだ!」
顔を歪めて、ネロが叫ぶ。それを聞いて、テーチの顔から初めて笑みが消えた。ふーっと、ため息をつく。
「『黒い龍』が、最強の生物だと言われる所以は何だと思う?」
唐突に、テーチはそう問いを投げかけた。
「は?」
「知らぬか? それはのう、奴らは、どんな生き物にも劣らぬ『闘争心』を持っておるからじゃ」
テーチは天に輝く偽物の星空を見上げた。
「負けてたまるかという身をも焦がす思いが、奴らを突き動かし、周囲を巻き込む。だから奴らは強く、周囲も畏敬の念を抱き――あぁまぁ、何が言いたいかと言うとだな、一回話した気もするが、わしもそれに巻き込まれてここへ来たに過ぎないんじゃよ」
「何を言ってる?」
ネロが再び、水魔法を放とうとしたとき。
「要するに、その『闘争心』に、お主らは負けたと言うことじゃ」
テーチが、ネロの背後を指差した。
気配を感じ、その背後を振り返ると。隣の摩天楼、ここより高い位置にある屋上から、一人の少女がネロを見降ろしていた。夜空にたなびく、銀色の髪。
「お姉ちゃん」
遠くにいたリコが、そう呟いた。ネロを見降ろしていたのは、アニだった。
「半龍」
ネロは忌々しげに、アニを見つめる。その身体から、彼女が持つ全ての魔力が溢れているかのように、可視化されるほどに魔力が迸った。
「お前さえ、エル王国に来なければ!!!」
異空間に響き渡った吠え声と共に、ネロは杖を落として、アニへ向けて両手をかざした。そして、最強の水魔法を撃ち放つ。可視化された魔力が水に変化し、何本もの巨大な矛となってアニへと飛んでいく。
「お前が、あの洞窟にやってきたからだ」
アニはそう呟き、真っ白な火炎を吐いた。水の矛と火炎はぶつかり合い、水蒸気を伴って爆発した。ネロの最強の魔法は、得意属性であるはずの龍の炎により打ち消されてしまった。
そして、水蒸気を裂いて、アニがネロへと迫る。
「あぁ、敵わないというのか」
ネロが悲しく言葉を口にした直後。アニの掌底が腹部を打ち、ネロは吹っ飛ばされる。
「おっと」
摩天楼の底の闇に落下せぬよう、テーチが力魔法でネロの身体を浮かせる。
着地したアニは、テーチに向けて言った。
「一つ、違う」
「ん?」
「私の中にあるのは、闘争心だけなく、もう一つある。妹を守りたいという想いだ」
そうして、駆け寄って抱きついてきたリコを優しく、力強くアニは抱きしめた。
「くく、面白いなぁ。異種族の混血とは」
テーチは笑い、浮遊させていたネロの身体を引き上げ、自分の前に置いた。ネロは薄眼だけ開けて、近寄るテーチを見ている。
「さて、悪いが宣言通り――君の心を壊すとしよう」
半龍の姉妹が再会を喜んでいる片隅で、テーチはネロの頭へと、魔力を込めた手を伸ばした。
窓を内部から突き抜け、向かいの摩天楼へと吹き飛ばされるノート。再度窓を突き破り、中の一室に倒れこむ。
「が、はっ」
損傷した身体の部位を、「魔宝具」から溢れ出した魔力が形取り、補充していく。そんな彼の前から、身体から光を迸らせるテオルが歩いてくる。
(そうか、こいつ――)
ノートは、テオルの魔法ではない謎の力の正体を掴み始めていた。
(自分の中の力を「魔力」としてではなく、別のものとして変換したのか。発する技まで一から自分で再構築して――)
かつてテーチと世界を旅した経験と知識、そして天性の器量が、テオルにそれを可能にしていた。
自分の理解を超えたテオルの行いに、ノートは恐怖よりも怒りを覚える。
「世界の理も知らぬ若造が」
憤怒が具現化したかのように全身から雷を撒き散らすノートを無視して、テオルはその摩天楼内部を見渡していた。そこは、どこか異様な雰囲気の一室だった。壁のないワンフロアには、何も置いていない。ただ一つを除いて。置いてあった唯一のものは、荘厳な黄金の玉座だった。
そして、その玉座には人を象った「影」が一人、座っている。「影」は、王冠を被っているように見えた。
「あれは――」
そちらを見るテオルに、ノートの雷魔法が襲い掛かる。が、テオルは手をかざして魔法を容易く打ち消した。
「あれは、エル王国そのものだよ」
テオルが感じているであろう疑問に、ノートが答えた。
「どういう意味だ?」
「あの『影』には、エル王国の王をリンクさせている。僕の闇魔法でね」
テオルは目を見開く。
「まさか、王を――王国を、裏で操っているのか。お前が」
「そうだよ」
ノートは表情一つ変えず、当たり前のことのように肯定した。
「へぇ、なるほどな」
テオルが拳を握り締める。王国に対しての今までの疑念が、これで繋がった。
「――洞窟の生き物を殺したあのおかしな『選定』とやらも、地下の奴隷市も、兄妹に手出しさせない法も、全部あんたの仕業か」
「そうだ」
静かな怒りを瞳に燃え滾らせ、テオルはノートへ手をかざした。