その9 魔法が使えない男
「余興だ?」
ノートの異空間。夜空に向けて、天を衝くかのようにそびえる摩天楼の屋上に、テオルが。その隣のビル、テオルの立つ場所よりも数メートル高いビルの屋上には、リコを片腕で拘束したノートが、テオルを見下ろしている。
「あの黒い龍へ、苦痛を与えてやるのさ。僕が味わった倍以上の、苦痛をね」
ノートがテオルの質問に答えた。
「復讐のつもりか?」
テオルは、ノートのいる隣のビルにギリギリまで近づいた。そびえる摩天楼の屋上には、仕切りが全くない。一歩踏み外せば、底の見えない闇へと落下していって、終わりだ。
会話によって、テオルはノートを落ち着けようとしていた。このままでは、そばに捕らえられているリコの身が危ない。
「そうさ、復讐だよ。まずはこの娘の頭蓋をかち割って、生首を龍の前に転がしてやろう。どんな反応をするか楽しみだなぁ」
だが、その言葉を聞いて、テオルの方が平静を保つことが難しくなった。沸点を超え、ノートを激しく睨みつける。
「その手を離せ。今すぐ」
「胴体だけでいいなら、後で返すけど?」
その時。
「がァッ!!」
リコが、真っ赤な炎を吹いた。真横にいるノートの、顔面へ向けて。ノートの上半身は、テオルの方に向いたままの姿勢で、炎へ呑まれてしまった。
「はっ、はぁっ」
涙を浮かべながら息を荒げているリコは、口から血を吐いた。魔力の使い過ぎだ。
ノートの体は、首から上が炎によって吹き飛んでしまっていた。首を無くした身体が、重力に引かれ、仰向けに倒れる。
(死んだ? いや――)
あいつは、あれでは死なない。テオルはその事を知っていた。
「こっちへ跳べリコ! 受け止めてやる!」
自由になったリコが、テオルの言葉に従って、テオルのいるビルへと飛び移ってきた。テオルは衝撃を与えないようにリコの体を抱きとめて、倒れたノートの方に視線を戻す、が――ノートの姿は、そこにはなかった。
「お兄ちゃん!」
抱きかかえられているリコが、テオルの後方を指差す。
そこには、頭のないノートが、不安定な体勢で、立っていた。
「お前、『人』を捨てやがったな」
テオルが忌々しいものを見るような視線を注ぐ。
ノートの頭部は、光が形取るようにして、輪郭からゆっくりと、再生していった。数秒後には、何もなかったように笑うノートの姿が復活していた。
「進化した、と言ってもらいたいね」
そうこぼすノートの姿は、近くでよく見れば、どうにもおかしい。体全体が、この世のものではないかのようにぼんやりとしている。
唯一、胸元で輝く金属の装飾を除いて。
「テオルお兄ちゃん、あいつ、幽霊なの?」
「いや。でも、もう人間じゃない。魔力だけの残骸だ」
テオルは知っている。これは、「魔宝具」と呼ばれる禁忌の道具の効力だ。
龍の炎でさえも焼き切れなかった、ノートの胸元の装飾、それがその「魔宝具」だった。
「残骸ぃ? 僕は僕だよ。何も変わらない」
「生前に魔力を溜めて、蓄積した魔力を糧に何度でも蘇る。例え肉体が滅んでも。その『魔宝具』の力だ。人外の、力だよ。愚かだな、魔法使いノート」
「君がどう思うかは関係ない。半龍を渡せ」
ノートのその体から、膨大な量の魔力が迸り、空気が震える。
「どっかで聞いたセリフだよ」
テオルは笑う。
「今なら、君の命は助けてあげよう。渡せ」
「無理だね」
ノートの掌から放たれた風魔法の弾丸が、テオルを吹き飛ばす。隣接した隣のビルの屋上まで。
床に打ち付けられたテオルは、苦痛に声も出ない。
「お兄ちゃん!」
走り出そうとしたリコを、瞬間移動したノートが再び捕らえる。
「は、な、して!!」
「もう踠いても無駄だ。ま、そんな体力も魔力も、もうないだろうけどね」
テオルは、渾身の力を振り絞って立ち上がろうとする。
「リ、コ」
「おい、まだ立とうとするのかい? 風魔法の初級技ですら防げないのに、目障り極まりないよ。ねぇ?」
「本当にね」
そのとき、ノートではない誰かの発する声が聞こえた。覚えのある、ノートと同じ波長の高飛車な声。
立ち上がったテオルの体を、魔法の水を操った触手が縛り上げる。
「お前、生きて、たのか!?」
テオルの背後に、誰かがいた。
死んだはずの水の魔法使い、ノートの妹の、ネロだ。
「私が死んだところを見たのかい?」
奴隷置き場の地下で、再起不能だったネロ。だが、トロールにとどめを刺される寸前、空間変異の魔法によって、ノートに助けられていたのだ。
「可愛い妹を見殺しにするわけないだろう?」
ははっ、とノートが笑う。
「まぁ、私が来なくとも、君たちの運命はもう変わらないだろうけどね」
ネロはリコとノートの方を見る。最初にこの空間に来た時と、ほぼ同じ構図。違うのは、もうリコにもテオルにも、抵抗する方法が残されていない、ということ。
「ぐッ、があぁああ!!」
テオルが死ぬ気で体に力を入れてもがく――と、水の触手はぷしゅっ、と音を立てて僅かに形を失いかけた。
「大したものだね、魔法が使えない男」
だが。ネロが手をかざすと、触手はさらに強い力でテオルを縛り上げた。体が、ミシミシと悲鳴をあげている。
「ぐっ、く! リコ――」
「あきらめなよ。ねぇ、魔法が使えない男」
ネロはテオルの側まで近寄り、耳元でささやく。
「誰も守れないよ、お前じゃあね」
テオルが鬼のような形相でネロを睨む。ネロは、見下したようにテオルを一瞥し、離れていった。
「さあ。目を凝らして見ていなさい、テオル君」
ノートは、片手でリコの首を締めながら、リコの体を高々と掲げた。
「ま、待てッ!!」
テオルの叫びは、摩天楼の闇の深くに虚しく吸い込まれていく。
異空間の、星々の輝く夜空を背景にして、リコの処刑がおこなわれようとしていた。ノートは、手に力を込める。
「かはッ」
リコが、顔を歪めてもがき出した。
「やめ、ろ!!」
悲鳴をあげる体を無視して、テオルも死力を尽くしてもがこうとした。だが、水の触手はピクリとも動かない。
「あっはは、いい顔だテオル君、生かしておいた甲斐があったなぁ。さぁ!」
「アッ、かっ――」
リコの首を握るノートの手に、さらに力が入る。「魔宝具」のせいなのか、とんでもない力のようだ。
「止、せ!!」
そんなことを聞くはずもない。ノートもネロも、残虐な笑みを浮かべて、二人の姿を愉しんでいる。
リコは、苦しみに涙を流して、今にも――リコではなくなってしまいそうだ。
(リ、コ)
テオルは抗うことを止めなかった。
(もう、誰も、リコを助けには来れない)
だが、どうしようもない無力感が、テオルを襲う。幾度となく、味わった感覚だ。
(俺しかいない、俺しかいないのに――)
心は絶望に支配されかけていた。
体は、動かない。――魔法も、使えない。
(俺は、俺には――)
リコの意識が、遠のいていくように見える。
(誰も、守れない)
『やーい、落ちこぼれ』
昔、とある死んだ眼をした男の子が、そんな言葉を何度もなんども浴びせられていた。
『魔法が使えないの?』
『皆んなはできてるのに!』
『努力が足りないんじゃないか?』
それは容赦のない、辛く、悲しい言葉。
『何でできないんだ?』
『こんなにも簡単なのに』
『お前みたいなできそこないは、初めてだよ』
やがて男の子は、自分の殻の中に閉じこもってしまった。
『とっととのたれ死ねよ』
『何の取り柄もねぇじゃんよ』
『誰も、お前になんか見向きもしねぇよ』
『だ れ も 』
『いやいや、あいつは面白い男だ』
とある大魔法使いはそう笑って、男の子に世界を見せた。
摩天楼の上――テオルの中の枷が、外れる音がした。
ノートは、視界の端に、妙な閃光が迸るのを感じた。
(何だ?)
それと共に、衝撃が。
(何が起こった?)
半龍の首を締めていた手を離し、テオルと、ネロの方を見る。
半龍も咳き込みながら、同じ方を見ている。
(何も起こる、はずがない)
寒気がする。途方も無い、押し潰されそうな圧力を感じる。
(あり得ない)
そう、彼はネロの水魔法で縛られて――縛られて?
水の触手が、掻き消えていた。ネロも、衝撃によって吹き飛ばされ、倒れている。
(奴には何もできないはず)
彼の、テオルの身体から、薄い光が迸っている。
(いや、想定していなかった訳じゃない。何らかのきっかけで、眠っていた魔力が溢れ出す。そう、それなら分かる。それならば。だが――)
何故だ?
身体に光を従わせ、凄まじい圧力を放ち佇むあの男からは――今も魔力を「全く」感じないのだ。
そのとき、テオルが思い出したのは何故か。満天の星空を、テーチと手を繋いで一緒に観ている、幼い自分の記憶だった。