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デッドエンドは許されない  作者: danpan01
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デッドエンドは許されない

第5話 デッドエンドは許されない


翌日。

俺はいつものように、授業を受け、放課後になるのを待った。なぜだか、時間が過ぎるのがひどく緩慢に感じた。昼休みになっても、徒労感が全身に押し寄せるほどだ。いままでの学生生活で、こんなことはなかったのに。

そういえばいつか、楽しい時間ほど早く過ぎるものだと、誰かが言っていたな。

じゃあこれは、その逆で、俺はこの放課後が来るまでの時間がたまらなく嫌になっているのだな、と苦笑した。

やっと放課後になり、机に座りながら教室でじっと時間が過ぎるのを待つ。

ひとり、またひとりと生徒は去っていく。一時間もしないうちに教室にいるのは俺一人だけとなった。

「失礼するわよ」

俺が一人になったのを見越してか、紅野が教室に入って来た。そして互いに何も語らず、時間が流れていく。

ふと窓を見ると、天気が快晴だったからか、夕焼けの日差しが赤みを帯びて、教室に入っていた。まるでスポットライトが照らす劇場のようだな、とぼんやりと思う。

「そろそろ時間かしら?」

紅野は腕時計をちらりと見ながら聞いてきた。

ちなみに、わが高校には教室に時計が無い。

時間の管理ぐらい自分でやれと言うことなのか、はたまた予算削減のためにしているのか、どちらにせよ、面倒なことだなと思った。

「時計と言えば、こんな心理テストがあるのを知ってるかしら?」

流石にこのまま黙っているのは難儀だと思ったのか、紅野はこちらを見ずに、腕時計に視線を合わせながら話題を振ってくる。

「腕時計への感情は、恋人に対する感情と同じようなものだって話」

「ふうん」

そんな話は初めて聞いた。でもそれ、答えを言ったんじゃあ、心理テストの意味が無くないか?

「ね、あなたは腕時計に対して、どんな想いがあるのかしら?」

「その質問は、俺には無意味だな」

「あら、どうして?」

「だって俺、腕時計なんて持ってないから」

「苦手なの? 腕時計」

「ああ、苦手だね。そもそも腕時計って嫌じゃないか? きついし汗で蒸れるしそのせいでかゆくなるし。俺には平然と装備している奴の気がしれないね。時間を見るだけなら、携帯で十分だろ。断言するけど、俺は一生涯腕時計を付けるつもりはない」

「……なら、テストの時とかはどうしてるの?」

「流石にその時ぐらいは持ってきてるよ。懐中時計とか」

とは言っても、あれは重いから、常時所持するつもりはない。以前、テスト時に時計を忘れてしまい、ひどい目に遭ってしまったことがある。しかし、俺は時計を所持しないという主張を変えるつもりは毛頭無いのである。

「変なところで頑固なのね、あなた」

「そういう君はどうなんだ。その腕時計に、何か思い入れでもある?」

「そうね……」

ちらりと、自分の時計を見ながら、

「ないわね、特に」

あっさりと答えた。

自分から振ってきた話題のくせに、これ以上展開はしないようだ。

互いに黙ったまま、夕日を見つめる。

わずかな間しか見ることのできない、橙色の光。いっそのこと、このまま時が止まってくれないものかと、切に願った。

だが時間は万人に均等に進むものだ、誰がどう思っていようとも。

どうやら、待ち人が来たようだ。扉を開ける音がした。

「先輩、こんにちは。ちょっと待たせちゃいましたか?」

 春宮はそう言って教室に入ってくる。

 いいや、と首を振って否定する。

 「よ、ハル。わざわざ来てくれてありがとな」

 「いえいえ。先輩の呼び出しならば、地球の裏側にだって行きますよ」

 あはは、と笑いながら返事をした。

 今朝、俺は春宮の靴箱に、書置きを残しておいた。

 今日の放課後、用があるので来られたし。遅れてもいいので絶対に来ること。などと言った内容の文を、書いておいたのだ。

 「それにしても先輩、」

 ちらりと紅野の方を見ながら聞いてくる。

 「いつの間に紅野さんと知り合いになったんですか? びっくりしましたよ。昨日一緒に帰ったっていう話を聞いた時は」

 「篤字が言ったのか」

 「いえ、廊下を渡っている際に聞いたんですよ。

 ああ、そういえば篤字先輩は? 見かけなかったのですが、今日は休みですか?」

 「ん、まあな。今日は学校来てないぞ」

 「……そうですか。

 えーっと、紅野、さん? はじめまして。春宮晴子って言います」

 ぺこりと、紅野に向かって軽くお辞儀をしてきた。

 「ええ。はじめまして、春宮さん。紅野萌美といいます」

 紅野はにこやかな笑顔で返す。

 「あなたのことは、存じ上げていますわ。バスケットボール部で、優秀な成績を残しているそうね。一度あなたの勇士を見たのだけれど、感嘆の声を上げずにはいられませんでした」

 「そ、それは、ありがとうございます」

 褒めることに慣れていないのか、春宮は照れたように笑った。

 「せ、先輩。どうやって紅野さんと知り合ったのですか? この人、立派すぎて先輩とは縁が無いように見えます!」

 まるで、俺が星を掴んだかのように言ってくる。失礼な奴だな。

 「ま、俺もここ数日で知人になるとは、夢にも思っていなかったけどさ」

 「いったい何やってたんですか? 先輩」

 事件捜査、と言いそうになるが、口をつぐむ。

 「あ、そうそう。それで先輩、用件ってなんでしょうか?」

 「あー、……うん。それね」

 さて、こうやっていざ本題に入ろうとするのだが、心の準備ができていないのか、尻込みしてしまう。

 「先輩?」

 首を傾けながら、見つめてくる春宮を、直視することができない。

 「……春宮、その」

 「は、はい」俺の挙動不審さに影響されてか、春宮もどこかぎこちない。

 「そういえば、おまえ……女子バスケの部長になったらしいじゃないか。篤字から聞いたぜ。すごいじゃないか」

 「え? あ、はい。ありがとうございます」

 きょとんとした顔で、春宮は返事をしてくる。

 「どうだ、部長は? うまくやっていけてるのか? 何か問題とかないのか?」

 「……ふふ」

 俺の質問に、春宮は顔をほころばせる。

 「? あれ、俺何か変なこと言った?」

 「いえ、先輩。私の調子がどうとか、うまくやれていけてるのか、なんだかお父さんみたいです」

 「え、そうか?」

 俺そんなに老けて見える?

 「ええ。そういったお節介なところは、ずっと変わっていませんよ」

 「そうなのかな」

 あまり自覚は無いのだが。

 「でも先輩。そんなこと聞きたくて、呼び出したわけじゃあないでしょう?」

 「ん、まあな」

 頭をかきながら、相槌を打つ。

 「ねえ、藍上くん」

 「分かってるよ」

 話すつもりが無いのなら、自分から話す。そうしようとする紅野を、制止する。

 心の準備はできていないが、いつまでも留まっているわけにもいかない。

大きく息を吐く。

 では、本題に入るとしよう。

 「……春宮。お前愛崎のこと、どう思ってた?」

 できるだけ真剣な口調で、春宮の目を見て話しかける。

 「そうですね……、本音を言ってしまえば、好きではなかったですよ。私とは、全然違うタイプの人でしたし」

 薄く、自嘲するかのように春宮は笑う。その笑顔は、いつも見せるおちゃらけた笑顔とは遠くかけ離れていた。

 「春宮。お前一昨日言ってたよな、愛崎は、なぜ自分が死んだのか、自分でも分からなかったって。なぜそんなことを言ったんだ? まるでそれは、」

 まるで、どうやって麻奈可が殺されたのか、分かっていたように。

 「推測ですよ、あれは。ただ麻奈可さんは、誰かに恨まれるような人じゃありませんでしたから。殺されるのだとしたら、そうだったんじゃあないかという予測です」

 春宮は、ひらひらと手を振って受け流す。

 「春宮。お前事件があった際、つまりは早朝だが、どこにいた?」

 「体育館で練習していました」

 「誰かと一緒に?」

 「いえ、主に一人でした」

 「誰かと会ったことは?」

 「篤字先輩と、少しだけ。私の練習の手伝いをしてくれました」

 「図書室に行ったことは?」

 「……先輩、もういいでしょう? はっきりと言ってください。ほら、私って単純ですし、回りくどいの嫌いなんです」

 「………」

 押し黙ってしまう。これ以上踏み込むことに、ためらいを感じる。

 重い沈黙が流れる。

 「……しかたないわね」

 そうつぶやいて、紅野は前に出た。

 「紅野」

 「悪いけど、私はまどろっこしいの嫌いなの、だから私が言うわよ」

 「………」

 ためらっている俺に、止める資格はない。胸の中にある葛藤をぐっと抑えて、紅野に任せることにする。男として、情けない限りだが。

 「春宮さん、ご存知でしょうけど、私と彼は麻奈可さんの友人なの。それで、個人的に彼女の殺害に関して、いろいろと調べていたのよ。その中で、藍上くんとは知り合いに」

 「そう、だったんですか」

 「それでね、あなたにひとつ言っておきたい、いえ、報告しなければならないことがあるの」

 「はい?」

 紅野は一拍置いて、


 「昨日、篤字さんが警察に自首したわ」


 「―――え?」

 ぽかんと、口を開けたまま春宮は立ち尽くす。

 「愛崎麻奈可殺害の件でね、警察に出頭したの。私も今朝、藍上くんから聞いたわ。ほら、彼の姉が刑事なのは知っているでしょう? 彼女はこの事件を担当している刑事だったらしくてね、彼の友人と言うことで、いち早く教えてもらったのよ」

 「いや、あの……」

 「篤字くんはね、自首した際、証拠として凶器のスカーフを提示したそうよ。それで、自分がこの手で殺したって主張したみたいね」

 「ちょっと、待っ……」

 「私たちの用件と言うのは、このことよ。犯人があなたの先輩と言うのは、ショックなのかもしれないけど、こういったことは、あなたにもできるだけ早く教えてあげなきゃと思ってね」

 「いや、違……」

 「なんにせよ、これで事件は解決ね。動機はまだ不明だけど、麻奈可さんを殺害した犯人は捕まったわけだし。心苦しいけど、これであなたも安心してこれからの活動に―――」

 「待てっつってんでしょ!」

 叫んだ。

普段の春宮からは想像もつかない、ヒステリックな声が教室に響く。

突然大声を出したからか、はあはあと春宮は肩で息をする。

「………」

「藍上、せんぱい」

春宮がこちらを向いてくる。

「今の話、ほんとう、ですか?」

「……ああ、本当だ」

ゆっくりと頷く。俺も聞いた時は愕然とした。

先日。

妹も紅野も自宅から去って行った後、姉さんは夜中に帰宅してきた。その際、姉さんの口から、そんな言葉がでてきたのだ。

「今、あいつは警察で聴取を受けてるところだよ」

「……そう、なん、です、か」

呼吸を整え、春宮は窓を見た。その顔は、怒っても笑っても悲しんでもいない。無表情で夕日を見つめている。

「……はは、参ったなぁ。篤字先輩、なにやっちゃってんですか」

口から空虚な笑い声が漏れる。


「私のこと、なんとかしてやるって言っておきながら、そんなことしちゃうんだもん。誰が代わりに罪かぶれなんて言ったんだよ。あの馬鹿」


夕日が眩しいのか、それとも別の理由だからか、無表情から今にも泣きそうな顔になり、春宮は目を細める。

「あいつは、お前のことが好きだったからな。何としても守りたかったんだろ」

「そんなこと、望んでませんっての」

ふう、と春宮は深くため息をついて、決意をしたように顔を上げる。


「私が、愛崎さんを殺しました。ごめんなさい、先輩。先輩の大切な人を、私が殺してしまいました」


深く。

土下座でもするかのような勢いで深々と、春宮は頭を下げた。



「言い訳になりますが、最初は、殺す気なんて無かったんです」

ぽつりと、春宮は机に腰掛けながら話す。

「たまたま、廊下で愛崎さんとすれ違って、挨拶を交わされたんです。私のこと、知っていたみたいで」

確かに、以前麻奈可に春宮のことを話したことはあった。

「それで、話がしたいから、図書室ですることになったんです」

「だから、二人きりで図書室に行った、という訳ね?」

紅野の質問に、こくりと頷く。

「その時の愛崎さんには、何か不思議な様子は?」

「ありません、いつも通りの彼女でした」

春宮は頭を振って答える。

「ただ話をしていただけなのに、なんだか、段々と頭にきちゃって。愛崎さん、肝心なことは、答えてくれなくて。ほら、私ってバカな上にガキじゃないですか? 納得がいく言葉が聞けるまで、満足できなくて、ごねちゃうんですよ」

泣きそうな笑顔を作りながら、彼女は自分を罵倒する。

「それで、カッとなっちゃって、愛崎さんを、どついちゃったんです。そして、く、首を……本当、私なんであんなことしちゃったのかなあ」

「話と言うのは……やっぱり、藍上くんのことよね?」

紅野がこちらを見ながら聞いてくる。春宮は再び頷いた。

「………」

この事件は、あなたにとっても無関係ではない。紅野が言っていたのは、そういうことなのだろう。

「先輩が……なんで、バスケを辞めちゃったのか。それが知りたかったんです」

「彼が部活を辞めたのは、確か一年前の夏、だったわね。そして、そこから藍上くんは、麻奈可さんとよく図書室で話す間柄になった。確かに、その流れを見ると、麻奈可さんが何か原因の一端であると考えても、不思議ではないわね」

ふむ、と紅野は頷きながら納得する。

「はい、それで、愛崎さんに話を聞いたんです。でも、彼女は―――」

『私には、何も言うことはできないわ』そんなことを、麻奈可は言ったそうだ。

「むしろ、私に問うべきではないって。どれだけ聞いても、彼女は答えてくれませんでした。……それよりもその次が効きましたね。あなたのそれは、傷をただ遠ざけようとしているだけだって。逃げてるだけだって」

「………」

意外だった。麻奈可の口から、そんな言葉が出てくるなんて。俺はあいつの優しい部分しか知らなかったからだろうか、厳格な一面もあったのだなと、思い知らされた。

「頭に火が走ったような感覚になりました。私の一体何を知って、そんな言葉が吐けるのかって。気付いた時には、もう遅かったんですけどね」

「………」

「意識を取り戻した時には、倒れている愛崎さんが、その場に。そして次に気が付いた時には、その場から、全速力で逃げて」

話したくないのか、春宮の言葉尻が段々と弱くなっていく。

「……その後、篤字くんと話したのね?」

「はい。体育館に戻った時には、もう足なんてがくがくで。その姿を篤字先輩に見られたんです」

そんなもの見たら。誰だって心配する。

特に篤字なんかは、好きな奴がそんな目に合っていれば、気が気じゃなかっただろう。

「詰め寄られて、私は話しました。自分が、やってしまったことを。混乱してて、うまく話すことができなかったですけど。

そしたら篤字先輩、少し悩んで。その後、自分が何とかしてやるって言ってきたんです。そして、図書室に」

きっと、急いでいたんだろうな。麻奈可の死体から、スカーフを抜き取り、ドアの指紋を拭き取って。誰の目にも見つからないように戻る。

俺が見たあのスカーフも、あいつなりに処分の方法を検討していたところなのだろう。万が一見つかったとしても、疑われるのは所持していた本人になるわけだし。

「なあ、春宮。事件の翌日、お前ら二人と会ったよな。あれはひょっとして、」

「はい、二人でいろいろと話してたんです。事件のことについて、これからのことについて、私は自首するって言ったんですけど、篤字先輩は止めてきて。そんな時に先輩たちに会ったんです。……正直すごく焦りました。先輩のお姉さん、刑事ですし。ばれちゃったんじゃないかなって」

春宮は、いったん一呼吸置く。苦しそうに、悔いるように、天井を見上げた。

「こんなことになってしまって、藍上先輩になんて言えばいいのか、どうやって許しを乞えばいいのか……。いや、藍上先輩だけじゃない、家族、友達、クラスメート。人ひとりの命を奪って、どれだけの人を傷つけてしまったのか。頭の中は、そればっかりで、埋め尽くされて」

春宮は、自分で自分の腕に爪を立てる。渾身の力をこめるように、強く。きっと服の下は、血がにじんでいるのだろう。

いつか、人が死ぬのは、世界の修正だと、妹は言った。

春宮は、今までそれと闘ってきたのだ。ずっと自責の念にかられながら。こいつは殺人鬼でもなければ殺し屋でもない。ただの一人の少女だ。背負うには、少し重すぎた。

「ああ、でも。良かったです。先輩が私の罪を暴いてくれて。いずれ逮捕されるのも、時間の問題かと思ってましたが、その前に、先輩と会えて嬉しかったです。

どうぞ、先輩。好きにしてください。私のこと、殴ってもいいです。痛めつけちゃっていいです、殺しちゃっていいです。犯しちゃっていいです、辱めちゃっていいです。私には、それだけのことをしてしまったのだから」

すっと、春宮が俺の前に立つ。目をつぶって、両手を下げて、無抵抗の意を示す。

「あ、でも先輩。最後に一つだけ、我が儘いいですか?」

「……ああ、なんだ?」

「結局聞けなかった質問、させてください。

先輩は何で、バスケを辞めちゃったんですか?」

それが一番の大元。ないし、元凶だ。

やれやれ、と思ってしまう。

春宮は自身を馬鹿だなんだと蔑んでいたが、俺の方がその何倍も馬鹿だ。

もっと早く、もっと早くこのことを打ち明けていれば、春宮も麻奈可も篤字も、こんな目には合わずに済んだのに。なお質が悪いのは、それを良かれと思って隠し続けたこと。本当はただ逃げていただけのくせに。

だけどもうそれも終わり。春宮が、少女が切に願っている。これを叶えられないんじゃあ、先輩としてどころじゃなく、人として唾棄すべき行為だ。

「……俺にはさ、姉妹が二人いるんだ」

おもむろに口を開く。

自分語りというのはどうもむず痒い。

「その姉妹っていうのが、すっげー優秀でさ。俺にできないことを、軽々とやってのけるんだよ。本当に俺と同じ血が流れてんのかって思うぐらい、俺には眩しく見えたんだ。……劣等感を抱かずには、いられないぐらいにな」

「………」

春宮は何も言わない。黙って俺の話に耳を傾けている。

「で、そんな二人に挟まれている中で、俺も考えた。二人に引けを取らないぐらい、立派なものを残せば、俺も二人と肩を並べられるんじゃないか。正真正銘、この姉妹の一人だって証明できるんじゃないかってね。俺がバスケを始めた理由は、そんなものかな」

始めたのは、中学の頃。始めたきっかけは、中学生の間では、それが流行っていたから。それだけである。

「……それなりに真剣だったさ。毎日練習はしたし、うまい人に何度も教えを請うた。でもそれは、バスケが好きだからやるんじゃなくて、」

ただ認められたいがために、続けていたようなもの。

でも、そんなことを考える暇もなく、ただ黙々と俺は続けた。振り返れば、その時点で俺はとっくに間違えていたのかもな。楽しいとか面白いとか、そんなのは俺には一切なかった。そんなので認められたとしても、俺はどこか、欠けた気持ちのまま、生きていたのだろう。

満足はしても、満喫はできず。完成しても、完遂はできない。

「で、一年前のある日のことだ。俺に……、災厄のようなものが、かかったんだ」

「災厄?」

家族の事件のことは、詳しく言いたくはなかった。紅野もそれを察してか、腕を組んだまま、黙して立っている。

「……実際に見てもらった方が、いいかもな」

かがんで、ズボンの裾を捲りあげる。ふくらはぎが見えるぐらいまで上げて、春宮にもよく見えるぐらいの位置に立つ。

「あ―――、先輩、それって」

春宮は、信じられないものを見たかのように、愕然とする。


そこには、俺の脚には、もう一生消えないと断言できる、大きな傷跡が。


一年前の藍上家殺人事件。二人の他殺死体―――そして、一人の重傷者を生み出した事件である。

今でも思い出せる、四肢の先が焼き尽くされたかと思うほどの疼痛。部屋中に撒かれた、両親の血と俺の血の臭い。床で混ざり合って、何の臭いか分からなくなる。

思い返せば、よくつながったものだ。

辛うじて、ついていた手足。

それをなんとか、文字通り皮一枚の差で、つなげることに成功したのだ。最新の医学さまさまである。

「そん、な」

ぐらりと、春宮は倒れそうになり、机に手をかけて何とか踏ん張る。

「そういうことだ。もうやりたくても、やれないんだよ、俺は」

言いたくは、なかった。このことを知っているのは、姉と妹のみ。

できるなら、このことは誰にも悟られず、墓まで持っていくつもりだったが。

「でも……、でも先輩! 私とさしでやった時は、あんなに、動いてたのに」

「ああ、あれは何とか無理を通したんだよ。だいだい、あの時の俺、自分から動こうとはしなかっただろ?」

最後のクラッチは、いけると思ったのだが、やはり無理だったようだ。

こんなこと、勝手に激しい運動していたなんて、姉さんに知られたら、間違いなくブチ切れられる。

「……このこと、愛崎さんには?」

「話してない。聞かれなかったからな」

でも、うすうすは気付いていたと思う。

あいつが話す言葉には、ときどき俺を気遣うような優しさが、込められたように感じたから。


「……そっか、じゃあ私は、一人で勝手に勘違いして、一人で勝手に周りを巻き込んだだけなんだ」


ぽんと、軽い口調で、春宮は呟く。

表情は、もう、読み取れなかった。



「さて、とりあえず、警察に行かなきゃな」

話は終わった。これからのことを考えなければならない。

篤字のこともあるし、姉さんに話を通していた方がいいかもしれない。今、携帯は通じるだろうか。

「ほら、春宮。早く行こうぜ」

くいっと首を振り、教室から出るように促す。

「え」

春宮は、固まったまま動かない。

「ん、どうした?」

「いや、先輩。どうしてですか?」

「どうしてって、何が?」

「先輩。私は人を殺したんですよ? それも先輩の大切な友人を。もっと、怒ったり責めたりしないんですか?」

「……まあ、そりゃ、なあ……」

もし春宮ではなく、他の知らない人物がこんなことしたら、怒り狂ってたのかもしれない。殺すまではいかなくとも、気が済むまで殴りつけていただろう。

でも。

「でも怒りはあっても、責めることはしないよ。後輩が頭下げて謝ってるんだ。許さなきゃ、先輩である必要ないだろ。

そうだろ? ハル」

なんてね。辞めた身だけど。

「………」

久しぶりだな、こうやって春宮のことをハルと呼ぶのも。

咎は俺にだってある。周りの奴らに、ずっと傷のことを隠していた。

だったら、俺とハルは似た者同士だ。互いに何かを隠したことで、誰かを傷つけた。

……でもなぁ。

負け惜しみになってしまうが、じゃあ暴露してさえいれば良かったのか、と言われればそれも違う。告白しても、真実を話しても、誰かが傷を負うのは同じなのだろう。

違うのは、傷の深さと数だけ。

要は結果論だ。言ったもの勝ちである。

「それに、俺は説教とかそういうのは嫌いだ。することもされることもさ」

多くは語らない。いままで散々ハルとは話してきたんだ、それぐらいがちょうどいいだろう。

「……ああ、やっぱりそうだった」

さきほどまでとは打って変わって、安堵するように、憑き物が落ちたかのように、春宮は胸をなでおろす。

「うん?」

「やっぱり、先輩は先輩でした。

無愛想で、天邪鬼で、適当に見えて、相手このことを誰より考えていて、面倒見が良くて、そしてすごく優しい、

私の誇れる先輩です」

「………」

「成る程ね、そういうこと」

紅野はふわりと、優しく笑う。

「あなたは、藍上くんが何故バスケを辞めてしまったのかを知りたかったんじゃなくて、

あなたが好きだった藍上くんの生き方が、変わってしまったのかどうかを知りたかったのね」

「……はい」

春宮は頷く。

「………」

今になって思い出す、春宮との初めての出会い。


右も左も分からない、おっかなびっくりでうろたえる一年生。

高校デビューのつもりで部活に入ったのだろうが、何をすればいいか分からず、ただ周りを見ていただけの少女。

『バスケをするのは初めて?』

『は、はい』

『ボールを触ったことは?』

『た、体育の時間で少しだけ……』

『そっか、じゃあ慣れることから始めないとな』

ボールを手渡す。

『ボールを持った時間がそいつの強さだ、気楽に気長にやっていこうぜ』

そんなことを、言った気がする。

その時の彼女は、震えることなく、まっすぐな目で、俺を見ていた。


「ねえ、春宮さん。あなたが我が儘で一つ質問をしてきたから、こちらからも一つ追加として聞きたいのだけれど」

紅野は春宮に聞いてきた。

「はい、なんでしょう?」

「あなたが言った共犯とは、篤字くんだけを指すのかしら?」

「え……?」

春宮の表情が曇る。

「それは、どういったことで」

「あなた以外にも、共犯者がいるんじゃあないかってことよ。証拠の隠匿にしろ、篤字さんひとりでできるとは、思えないのだけど」

「………」

「どうかしら? 誰にも見つからず、図書室と体育館を行き来するのに、最低あと一人、協力者がいるんじゃないかしら? それも、あなたのごく身近にいる人物で」

「そ、それ、は」

狼狽えている。春宮がまだ何かを隠しているのは明白だ。唇を噛んだのは、言うのをぐっとこらえているように見えた。


「もういいでしょう、春宮さん。これ以上かばい立てする必要はありませんよ」


がらりと、扉が開く。

その先には、我々のクラスの担当である、月海先生が入って来た。



「やっぱり、先生でしたか」

特に動揺することもなく、紅野は月海先生に顔を向ける。

「朝のバスケの練習、春宮さん一人だけでやっているのか、他の部員の方に聞きました。そしたら、月海先生が、よく面倒を見てくれているって」

「私は顧問ですからね、生徒を見守る義務があるのです」

月海先生はいつものように、表情を変えることなく俺たちを一瞥する。

「月海、先生」どうしてここに、と春宮は顔で訴えるかのように、月海先生を見た。

「春宮さん。あなたが今朝藍上くんに呼び出しをもらっていたのは、分かっていました。ついでに、篤字くんが自首をしたというのも。これでも彼の担任ですからね」

影から見ていたのか。

「月海先生、あなたも一枚噛んでいたようですね。察するに、篤字くんと同じく、体育館で春宮さんの様子をご覧になったようで」

「ええ、その通りです。私と彼、二人で春宮さんの犯行を隠そうとしました」

「あなたは、どんな役割を?」

「事件では周囲の監視を。篤字くんが行く体育館から図書室までの、安全な道のりを確保しました。

それと、事件の進展の、情報を提供することですかね。教師と言う役職上、警察との情報の交換がありまして、春宮さんに不利な情報は与えず、別のところに疑いがかかるように仕向けたつもりだったのですが……どうやら、大した足止めにはならなかったようですね」

月海先生は、息を吐く。

おぼろげではあったが、予想はしていた。春宮と篤字以外にも、犯行にかかわった人物がいるのではないかと。警察の情報を見たとき、捜査がうまく捗っていないように見て取れた。これは裏から、妨害をしていた人物がいるのではないかと。

「月海先生」

いったん間を置き、紅野は春宮の方に視線を移す。

「何故、春宮さんをかばおうと? 分かってると思いますが、これも立派な犯罪ですよ。こんなことがばれたら、懲戒処分は免れない。そこまでする必要が、あなたにあったとでも?」

「どうしても何もありません。春宮さんは、私の大切な生徒です。教師として、生徒を守るのは当然でしょう」

月海先生は無表情に、けれど強く、断言した。

「さて、藍上くんに紅野さん。これで満足していただけましたか? 私たちは、春宮さんを守るために、今まで奔走していたんです。

ですが、これもここまでですね。篤字くんは自首をし、春宮さんも罪を認めた。こうなってしまった以上、私も関わっていたことを自白せざるをえません」

月海先生は、春宮の肩にそっと手を置く。その仕草は、普段の彼女からは予測できない雰囲気が感じられた。

春宮は、申し訳なさそうに背を低くする。

「では春宮さん、そろそろ行きましょうか。私の車が外にあります。これで警察まで送りますよ。それに二人とも、もう帰りなさい。下校時間は過ぎています」

「いや、その必要はないですって。俺の姉をこれから電話で呼ぶから、二人ともここで待っていた方が……」

二人を止めようとするが、

「それこそいらぬ世話、です。けじめぐらい自分達でつけることはできます」

きっぱりと、にべもなく断られた。そう言われてしまっては、これ以上引き留めるのも気が引けてしまう。

月海先生は、春宮の肩を支えながら、教室から出ようとする。その前に、

「ちょっといいですか? 月海先生」

紅野が、二人を引き留めた。

「……なんですか?」

月海先生が振り返る。若干、苛立ちが感じられるように見えた。

「いえ、私はこう見えて神経質でして、少しでも疑問が浮かんだら、問わずにはいられないのですよ」

「手短にお願いしますよ。予想外の事態が重なり、春宮さんは疲弊しているんです」

「はい。質問と言うのは、篤字くん持っていた、スカーフのことなのですけど。あのスカーフ、あれは結局誰のだったんですか? 春宮さんのでは、ないのでしょう?」

「おかしな質問をしますね。何故彼女のではないと?」

「春宮さんは、常に、どんな時でも、ジャージ姿なんですよ。それは、彼女の先輩である藍上くんが教えてくれました。現に、今でもジャージ姿でしょう?

そして、スポーツの朝練をしようと言うのであれば、制服の付属品であるスカーフなんて、わざわざ麻奈可さんとの会話のために、所持する必要がない。そうでしょう?」

「……確かに、その通りですね。分かりました、言いますよ。あれは私のです。私が学生時代持っていたのを、篤字くんに渡したのです」

「変ですね。なぜあなたが事件当日そんなものを?」

「たまたまですよ。その日は、私の学生時代の話でもしてみようと思い、用意しておいたのです」

「で、それを使うことで、犯行を春宮さんから他の女性になすりつけようと」

「……その言い方に若干悪意を感じますが、おおむねその通りです」

「成る程。それじゃあ、『死後』、麻奈可さんの首に痕をつけたのは、誰ですか?」

 「だから、それがいったい何を」

 「答えなさい」

 きっぱりと、目上の者には言うことのないような口調で、彼女は言い放った。

 その言葉がひどく、冷たく感じた。

 いつも彼女の放つ台詞にも、温度はあまり感じられない。しかし、今の言葉はそれよりもはるかに冷淡だ。まるで氷点下である。

 「……実際にそれをやったのは、篤字くんです」

 若干紅野の気迫に気圧されながら、月海先生は答える。

 「篤字くんを選んだのは、力のある男性が適任だと思ったからです」

 「春宮さん。あなたはその光景、見ましたか?」

 「え?」

 いきなり紅野は春宮に問いかけた。

 「どうなんですか?」

 「え、えーっと……いえ、私は、見てないです。

 その……あれ以上愛崎さんの死体、見るの、怖くって」

 「それもそうね。すると、図書室に入ったのは、月海先生と篤字くんだけ?」

  春宮は頷く。

 「質問は以上ですか?」

 月海先生はそう問いかける。

 「ええ、これで、だいたい納得がいったので」

 「そうですか、では私たちはこれで」

 月海先生と春宮の二人は、踵を返して教室に出ようとする。

 紅野が俺を見る。彼女はこれ以上なにも言わない。

 答えを待っているのだ。

 俺が出す答えを。

 やれやれだ。心の中でため息をする。こんなこと、俺がするものじゃない。柄じゃない。

 でも、

 いなくなった親友のために、

 大切な後輩を守るために、

 俺は俺のできることをするとしよう。


 「眼鏡、かけるんだよ」


 俺はその背に向けて、ぽつりと言った。

 「はい?」

 「普段は付けていないから、気付かれないだろうけど。あいつ、それなりに視力が悪くてさ。本を読むときは、必ず、眼鏡をかけるんだ」

 自分の目のあたりを指差しながら説明する。

 本人曰く、それで集中できるから。

 数日前に聞いた時、そう言って返された。

 思い返せば、俺と会う際の麻奈可は、眼鏡をずっとつけていたため、そちらの方がデフォルトになっていた。

 妹の言っていた、俺にしか気付けないことと言うのは、このことなのだろう。

 全く、気付くのにとんだ回り道をしてしまったものだ。

 「春宮、お前が麻奈可と会ったとき、あいつ、『いつも通り』だったんだろ? つまり、眼鏡はかけてなかったんだよな?」

 「え? あ、はい」

 「それが何か?」

 「春宮には言ってなかったが、俺はね、第一発見者なんだ、麻奈可の死体を見た、ね。で、その時の麻奈可だったんだが、あいつ眼鏡をかけてたんだよ」

 「え? それってつまり……」

 「死んだ後に、眼鏡をかけることは当然不可能、そうなったら必然的に、ある可能性が出てくるわね」

 「そう、つまり春宮が図書室を出て行った後、麻奈可は眼鏡をかけた。つまり生きていた、ということになる」

 「は……はぁ?」

 口をぽかんと開きながら、春宮は声を上げる。

 「ありえないと思う? でもこれが、最も自然な流れよ。犯人が、眼鏡をわざわざ死体に着ける理由なんてないでしょうしね。それに、この眼鏡を普段付ける付けないの事実を知っているのは、彼しかいないのだから」

 なにせ、彼女の両親ですら知らなかったのだから。と紅野は付け足す。

 「い、いやありえないですよ。だって私、愛崎さんを突き飛ばして、首に手をかけたら、ぐったりと動かなくなっちゃったんですから」

 「脈は確認した?」

 「いや、してないですけど……」

 「首に手をかけたのはどのぐらい?」

 「か、数えてないです」

 「そう。じゃあ、彼女を殺した確証は無い訳ね。きっと突き飛ばした際、机に頭がぶつかって、少しだけ気絶していたんでしょうね。で、首に手をかけたあなたは、気絶した彼女を見て、自分が殺してしまったと勘違いしてしまった」

 「で、でも、そんなことになったら」

 「ええ、そんなことになったら、矛盾が出てきてしまうわね。

現に麻奈可さんは殺害された。しかもしっかりと意識がある所を。では誰に?」

 ちらりと、春宮を支えている女教師に目を向ける。


 「月海先生。あなたでしょう? 実際に、麻奈可さんを殺害したのは」


 「………」

 彼女は背を向けたまま、答えようとしない。

 「えっと、その……え?」

 春宮は狼狽えたまま、となりにいる彼女に目を向ける。

 「さっき、死後麻奈可さんの首に痕をつけた、と言ったけど。彼女はあの時より前に、そして春宮さんと会った後に、首を絞められて殺されたの。これは、警察の調べによる情報よ、間違いはないわ。彼女は凶器のスカーフで首を絞められて、殺害された。

手で首を絞めたのは、死因じゃないのよ」

 「い、いや、だったら、実際に殺害したのは、篤字先輩になってしまうんじゃあ……」

 「本当は彼女の手で犯行に及んだのよ。篤字くんが行ったのはその後。彼に殺させるわけにはいかなかったのでしょうね。

もし気絶でもさせたままならば、意識を取り戻す可能性だってあるし、篤字くんは麻奈可さんが生きているか、確認することだってあるかもしれない。そうならないためにも、自身の手で殺す必要があったのよ。

そして、篤字くんと二人だけで図書室に入ったのは、おそらく凶器による索条痕を隠すため。相手が一人だけならば、先に図書室に入り、首にそれを巻きつけることが、容易になるでしょうね。実際、月海先生が先に図書室に入ったのでしょう?」

「は、はい。いや、でも! 何で、先生がそんなことを?」

「あら、そんなの明白でしょ? 

あなたに罪を被ってもらうため。そんなの、順当に考えれば分かるわよ」

「………」

春宮は、呆然としている。篤字が自首したということを聞いた時と同じぐらい、いやそれ以上に、我を忘れて立ち尽くしている。

その姿に、少し胸が痛んだ。

「さて、先生。お聞きの通り私たちはあなたを犯人として見ています。なにか反論があれば、どうぞおっしゃってください」

そう言って紅野は発言を促す。変なところで律儀な奴だな。

「……いいでしょう、では聞きますが、私が殺したというのであれば、二人を利用して、私は図書室に入って犯行に及んだということになりますね。でも、そもそも私は春宮さんと愛崎さんが話をしていたということなんて、彼女の口から聞くまでは知らなかったんですよ? 立ち会っていた訳でもない。

春宮さん、あなたが図書室から逃げる間、私と会いましたか?」

「い、いえ。会ってないです」

びくつきながら、春宮は答える。

「こんな状況で、どうやって春宮さんのあとに殺せるんですか? 二人の様子を見てもいないのに」

「いいえ。見ていたでしょう? 先生は」

紅野は即答した。

「図書室には、書庫がひとつだけありました。人の出入りが少ない図書室では、あそこは滅多に使われません。あそこから先生は、覗き見ていたんですよ。

そうして殺害のチャンスを、ずっと窺っていた」

「随分と、人聞きの悪いことを言いますね。私が愛崎さんをストーキングしていた? それでは、私が彼女に対して、前々から殺意を持っていたと言いたいのですか、あなたは」

「ええ、持っていたんですよ、あなたは。

おそらく、事件の前日から」

「………」

前日、というワードにぴくりと先生は反応する。

「学校の各室の鍵は、職員室にまとめてあります。本来は最初に部屋を使う人が、持っていく決まりですが、先生ならば、そのことを誰にもばれずに行える。

鍵を開け、職員室に戻し、部屋に入って内側から鍵をかける。そうすれば、不審がられることなく、その部屋に入って隠れることができる。至極単純だけど、これが最も確実です。

先生、あなたはそうして犯行の準備をした」

「………」

「仮に春宮さんが麻奈可さんともめなかった場合は、次のチャンスを待てばいい。そんな風に考えていたのでは?」

「………」

「どうですか? 他に、反論あります?」

「………」黙ったまま、彼女は俯く。

「でも、なんで先生が麻奈可さんを?」

「それは、月海先生と麻奈可さんには、大したつながりは無いはず。だから殺す理由が無い、ということかしら?」

「は、はい」

「そうね。こればかりは本人に聞いて見なければ、分からないけど。

でも、推測を立てることはできる」

「あるんですか? 心当たり」

「ええ。そうよね、藍上くん」

紅野はこちらに顔を向けて、説明を促してきた。

「……麻奈可の事件の二日前のことだ。ニュースで見なかったか? 中年の男性が、首を絞められて殺害されたという内容の」

「あー、えっと……そういえば確か、そんな話があったような無かったような……」

覚えてない、と。

「その際に、恋人の女性が行方不明となり、現在でもその人物を捜索中、だそうだ。

で、その殺害された中年の男性の名前なんだけどさ……


 浜下戸幸(はましたひろゆき)っていうんだよ。そいつ」


 「え……?」

 春宮は顔を険しくした。

 「浜下って、まさか……『トラちゃん』のことですか!?」

 俺は頷く。

 浜下戸幸、通称トラちゃん。警察の資料を見たとき、どこかで聞いた名前だと思っていたが、翌日の篤字との会話で思い出した。

 人の名前を覚えるのは本当に苦手だ。元顧問の先生の名前ぐらい、憶えておけというものである。ま、いいけどね。俺あの人嫌いだったし。

 「その浜下先生が、遺体で発見され、恋人が行方不明。順当に考えれば、その恋人とやらが一番怪しいけど。

 月海先生、以前あなたにはある噂が立っていましたよね? あなたと、浜下先生が交際していたという」

 「………」

 「先輩。まさか……月海先生が殺したっていうんですか?」

 「それだけじゃないわね。その話が真実ならば、その恋人も手にかけた可能性が高いわ」

 春宮は絶句してしまった。

 「俺はその事件について詳細は知らないが……行方不明の人物を作るっていうのは、なかなかに難しいものだ。それなりの手間が必要になる。

 じゃあ、それを誰かに見られてしまったとしたら?」

 「………」

 「たまたま通りかかった人物、それも運悪く、自分の顔をよく知っている者だとしたら?」

 「………」

 「で、俺はその翌日にね、ある人物と、話をする約束だったんだよ」

 ――――桐射君って確かお姉さんいたよね?

 ――――確か、職業は刑事さん……だっけ?

 ――――桐射君はさ、明日も図書室にくる?

 「じゃあ、それが……?」

 「………」

 ……後悔なんて、生きている中で数えきれないぐらいするものだ。後悔無き人生、なんてものはこの世には存在しない。できるのは、無くすことではなく減らすことだけ。そう思って傷付かないよう、怪我をしないよう、生きて行こうと思った。そう、思ったんだけどな。

だけど、これは今までの人生の中で、最大級の後悔だ。腹を抉られた感覚。いわば致命傷。

 少しでも。

 少しでも早くあいつの話を聞いておけば、こんなことには。

 「藍上くん?」

 「ん。ああ、大丈夫だ」

 よほどひどい顔をしていたのか、紅野が今まで見たことのないような表情で、こちらを覗いていた。これ以上話すのは流石にきついかな、と思い一気にまくしたてる。

 「話の流れで行くと、あとは証拠があるのかどうか、なんて展開になるのかもしれないけど、残念ながらその必要はないです。春宮と篤字の話を詳しく聞けば、おのずと犯人はしぼれてくるでしょうし。

 それに浜下先生の事件も、まだ捜査中なので、いずれ有力な証拠が見つかるかも。これは断言できる。犯人は絶対に捕まります。俺の姉は、優秀ですから」

 「……はあ」

 先の一言がとどめとなったのか、月海先生は深いため息をつきながら、肩を下す。

 その振る舞いは、いつも見る仮面をかぶったような表情ではなく、むきだしの感情を外に吐露するかのように感じられた。

 「参りましたね。あなた達、あらかじめ承知の上で話していたなんて。

ガキのくせして、いい性格してるじゃないですか」

 「お褒めに預かり、至極光栄ですよ、月海先生」

 彼女の付く悪態に動じることなく、紅野は軽く会釈する。

 「先生。一つ聞きますが、動機は痴情のもつれということで正解ですか?」

 「いきなりその質問ですか。あなたにはデリカシーというものが無いんですか?」

 「生憎と、私の友人を殺害した人物には、それ相応な態度をとっているつもりですよ。で、浜下先生を殺害したのはその理由でいいんですね?」

 言葉尻を強くして、紅野は問い続ける。

 「……ふん。まあ確かにその通りですよ。私は色恋沙汰がきっかけで今回の事件を起こしましたよ」

 「確か音音(ねおん)さんというのでしたか、行方不明になった女性と言うのは。その人は、ひょっとして浜下先生の」

 「ええ、恋人です。その時の、ね。私が彼に会いに行った際、あの人、今は他の人と付き合っているから、別れてほしいと言ってきたんです。

 信じられますか? その恋人と言うのが、実は私の後輩だった子なんですよ? 以前私の紹介で、たまたま彼と顔を合わせただけだと言うのに、それがきっかけで付き合うことになるなんて。これじゃあ私は彼のいったい何だというのですか? 男なんて皆そう。古いものは捨てて新しいものにしか目がいかない。下半身目当ての猿ばっかり。

 あんなクズみたいな男にただ振り回されるのが、私の役割だったというのですか? そんなこと――――」

 許せるわけがないと、憎悪をにじみ出すような声で語る。

 その振る舞いに、少し気圧されてしまう。

 そして少し、それが哀れに思えた。

 「なるほど、それなら彼を殺す動機は十分にありますが――――、なぜ恋人の方も殺さなければならなかったんですか? 話からすると、あなたの後輩だったのでしょう?」

 「……後輩ではありましたが、あの子とはそこまで親しかった訳じゃありませんよ。ためらいは大してありません。彼女を行方不明にしてしまえば、疑いがそっちに向くんじゃないかと、その時は思っただけです。

 それに、あの子にも罪が無かった訳じゃありませんでしたから。私と彼が付き合っていたことを、知ったうえで交際していたようですし」

 「ではその次に行った、麻奈可さんを殺害した経緯と言うのは?」

 「それもあなた達の推察通り、たまたま見られたんですよ。愛崎さんに、私が音音の遺体を処理しているところを」

 「麻奈可さんは、何か言っていましたか? その時に」

 「いいえ、何も言わずに去っていきましたよ。見られたときは流石に人生の終わりかと思って不安で、夜も眠れませんでしたけど。

でもその翌日、私が彼女と二人きりで話す場を作った時、彼女私に自首を勧めてきました。出頭した方がいいと」

 それは、あいつらしいと言えば、あいつらしい。

 春宮に行った台詞にしろ、麻奈可は、物事の良し悪しをしっかりと分けているスタンスをとっているのだ。何事も、公正に公平に。

 今回は、その性格が裏目に出てしまったのだが。

 だけど、あいつは悪くない。正しくあろうとすることで、責められる道理なんて一ミリもありはしない。だから、確認したいことがあった。

 「先生、ひとつ聞きたいんですけど、麻奈可に言われた時、自首なんて考えてましたか?」

 「え、いやいや。考えるわけないでしょ」

 何を当然のことを聞いているのか、そんなことを言いそうなそぶりで手を振る。

 「………」

 「なんで黙るんですか? あなた、さっきまでさんざん喋っていたのに。

 ひょっとして、愛崎さんの言う通りに私が自首をしなかったのはおかしいって考えているんですか?

 そんなのはね、自分で一度も罪を犯したことのない奴が吐く、ただの綺麗事ですよ。聞こえがいいだけだ。過ちをしたら素直に言う、なんて常套句はね、相手側の都合がいいように動かすためだけの命令なんですよ。それが手に余るようだったら、当人に全部投げて切り捨てるのが常識だ。

 あなた達だってそうでしょ? 間違いや後ろめたいことがあったら、ふつう隠すでしょう?

 春宮さん、あなただってそうだ。愛崎さんを殺したと勘違いした時、篤字くんが犯行を隠すと言った際、特に反対なんてしなかったでしょう? あれは、我が身可愛さで黙認していたってことですよ」

 「……っ」

 先生の矛先は、春宮にも向かった。

 春宮は、唇を噛んでぐっと黙っている。

 そんな様子を見て、冷静を保てるわけがなかった。

 「そんなのはあんたが煽ったからだろ。自分のやっていることを棚に上げて、ハルをせめようとするんじゃねーよ」

 「それを言うなら、あなたも同じでしょう。

 藍上くん。あなたは自分の怪我のことを、春宮さんにも誰にも話さなかった。そんなことになったから、春宮さんは暴走してしまったんですよ。あなたが自身のことを言わなかったのも、私と同じく自分の身を守るためでしょう? そんなあなたに、どうこう言われる筋合いはない」

 「な……、……こ」

 すげえ。

何がすごいって滅茶苦茶な理論を振りかざすだけでなく、人を怒らせるを次々と台詞を吐くところが。

怒りで言葉を詰まらせるってあるんだな。一周回って逆に冷静になってきた。

もうこれは、殴ってもいいよな?

よし、殴りまくろう。顔面変わるぐらい殴り続けよう。

そんなことを巧もうとしている間にも、彼女の暴走は止まらない。

「だいたい、私のどこに落ち度があったというんですか? 責任があるのは不倫していた彼の方でしょう。私には責められる覚えも理由もない。そんな前提の上で、罪がどうとか言われても、私には関係ない。……そうだ、私には関係ないんだ。それなのに皆が私を責めようとする。『自首をしろ』ですって? 言いたいことだけ言って、そっちの気は晴れたのかもしれないけど、こちらはお先真っ暗で最悪よ。見ていたなら黙っていれば良かったのに。そうすれば、自身に危険が及ぶこともなく、私がわざわざ殺す必要すら無」


「つまんない」


「は?」

紅野は月海先生の独白に割って入り、黙らせた。

「つまんないですよ、先生。もう十分です。これ以上あなたの主張を聞く必要はありません」

「なんですって……?」

「浜下先生を殺害するまでは、なかなかに良かったのですが、それ以降はもう聞くに堪えません。あなたのやっていたことは、ただ自身がいかに罪から逃れるか、犯行を無かったことにしたかっただけ。

ただの自己愛です」

ばっさりと、彼女は切り捨てるかのように言う。

「……っ。それが何だというのですか。自己愛の何が悪いんですか。誰だって自分が一番大切でしょう?」

「ええ、そうですね。自分のことを好きになるのは結構ですよ。好きなだけ好きでいればいい。けれどその愛を他人に押し付けないで下さいよ。

あなたの愛は、どこにでもある、ありきたりなものだ。酷いですよ、そんなもので、私の友人を犯すなんてね。正直に言って――――


くだらねーんだよ。そんな理由で、私の友人犯しやがって。どうせ殺すのなら、もっとそそる理由で()れっつーの」


紅野は、あからさまな落胆と軽蔑の表情を出した。まるで好きな劇を観ている最中、三文役者が混ざり、劇が台無しにされてしまったかのような。

「………」

先生は黙った。

紅野の言っていたことが的を射ていたからか、常識から逸脱しているからなのか、口調が豹変したことに愕然としているのか、俺には分からなかった。ちなみに俺は今ビビッてます。

「春宮さん」

言いたいことは言い切って、先生にはもう用が無くなったのか、紅野はいつもする話し方で春宮に話しかける。

「は、はい」

「私たちは今から警察を呼んで、事情を説明することになるから、その時にはあなたのさっきの証言、もう一度してくれるかしら? 今となっては、あなたの発言が一番事件をスムーズに解決へと導いてくれるから」

「……わ、わかりました」

「ああ、それともう一つ。私たちが事件について調べていたということは、秘密にしてくれない? 追々警察に事情を訊かれるのも、面倒だしね。

私たちは、あなたの付き添いとして呼ばれてやって来た、ということにしてくれるとありがたいわ」

話し終わると、紅野はこちらに顔を向けて、親指と小指を立てながら耳に当てる。どうやら、電話をしろというジェスチャーらしい。

ポケットから端末を取りだし、姉さんの番号をプッシュしながら、伝えるべきことを頭の中で反芻する。犯人が自首してきました、でいいかな?

「待ちなさい」

そんな時、前方から声がした。

顔を上げて見てみると、月海先生がカッターを片手に持ちながら、こちらを睨んでいる。

もう片方の腕で、春宮を捕えながら。

「え……」

ちょっと、理解できない。

今目の前で何が起きてる?

「あら、これは、また……」

紅野も予想外だったからか、目を丸くしている。

「口封じの次は人質ですか、随分と古風な手を使いますね、先生」

「仕方がないでしょう。今となっては、これ以外に方法が無いのだから。

とりあえずあなた達、動かないでください。騒がないでください。助けを呼ぼうとしないでください。さもないと、春宮さんを刺します」

そう言って、春宮の首元にカッターの刃をそえた。よく見れば作業用のやつである、刃は頑丈そうだ。たかがカッターでも思い切り横に引けば、まあ、頸動脈ぐらい切れるだろう。

「あ……っ、う」

春宮は、言葉に詰まっているのか、うまく喋れていない。

唐突すぎる身の危険にどう対処すればいいのか、分からなくなっているようだ。

「……ひとつ進言しておきたいのですけど」

こんな場面でも冷静に、紅野は手を上げて発言してきた。

「人質と言うのは、その人物にとって深い関わりをもつ者にすることで、立場的優位を得るものですよ? 言っちゃ悪いんですけど、私にとって春宮さんは、特に知り合いでも大切な人でもありません。その行為は私には全く意味がないんですけど、どうするんですか?」

そう言いながら、紅野は歩み寄ろうとする。

「おま……っ!」

紅野の態度に、反発をせずにはいられなかった。

「ええ、そうでしょうね。春宮とあなたには接点は全くない。でも、彼の方はどうでしょうかね? 藍上くん、あなたは元後輩の命の危機が迫っているとき、指をくわえて見てますか?」

「……っ」

挑発だというのは分かっている。でも事実、黙って見ているのはどうしても俺にはできないようだ。

「……悪い、紅野」

そう言って、紅野の前に腕を出して抑える。

「………」彼女は何も言わなかった。

「で? 先生は何が望みなんですか?」

「そうですね。とりあえず藍上くん、紅野さんを縛ってください。簡単に身動きが取れないように」

「……ここに縄なんてありませんけど?」

「代替品なんてどこにでもあるでしょ。なければ上着でもいいわよ。ほら、早くしなさい」

急かすように、春宮を前に出す。

「………」

言われた通り上着を脱いで、それを紅野の二の腕あたりに縛りつける。紅野は軽く息をつく程度で、特に抵抗はしてこなかった。

「できましたよ」

「でしたらあなたは、紅野さんを見張っていなさい。彼女が余計なことをしようものなら、あなたが止めるんです」

そう言って月海先生は、その体勢のまま扉の方へと引き下がる。

「もしかして逃げる気ですか?」

「ええ」

「逃げられると思ってるんですか?」

「ええ、そのつもりよ。とりあえず、車に乗ってできるだけ遠くに行くに逃げるから。あなた達は、半日ぐらい誰にも連絡しないこと。警察なんてもってのほかよ。もし、そんな様子が少しでも見られたら、私はこの子を殺すから」

「半日したら、あんたは春宮を無事に開放するのか?」

「あなた達が何もしなければ、そのつもりよ」

それは嘘だろう。

今は殺す意思が無くとも、後々殺すはずだ。

自分が有利になれるものを、むざむざ手放すことは、彼女はしない。

もし開放する時が来るのなら、彼女を不利にする言質を無くすため、春宮が何も語れなくなった時、ということになるだろう。

じゃあどうする? 放っておいても殺される。助けようとしても殺される。

どちらにしたって、春宮は死ぬ。

だったら麻奈可を殺したこいつを、今この場で捕まえるか?

春宮を見殺しにして?

そんなことができるのか?

この、五体が満足に動けないその体で?

無理だ。

以前の俺ならまだしも、こんな状態じゃあなにもできるはずがない。

腹が立つ。

何もできない自分自身に。

「……先輩」

すると、春宮が何かを決意したかのように呼びかける。

「私って何かと先輩の足を引っ張ってばかりですよね。……本当にすみませんでした。駄目な後輩で」

「春宮?」

「私、先輩のバスケをする姿が好きでした。ただ一心不乱になにかに打ち込むその姿に、たまらなく惹かれました。理由がなんであれ、私には眩しく見えたんです。だから、私もそうなりたいって。できることなら、私もその手伝いがしたかった。

でも、もうこれ以上先輩の邪魔にはなりたくありません。私は、先輩を助けたい。だから、」

そう言って、春宮は深く、息を吸って。

「……っ!」

あえて、あえてカッターの方に首をつきだし、月海先生の方に頭突きをした。

「かっ……!」

それをまともに顎に食らい、月海先生の体がよろめく。

動くのなら今しかないと思い、春宮の方に走った。思い切り地面を蹴る。

距離はだいたい五メートル。間に合うか?

「ふ……っ!」

一瞬、手足に無数の針を刺すような痛みが走ったが、無視した。(間に合うか)

体の痛みなんざ、今はどうだっていい。(間に合ってくれ)

二人の目の前まで近づいていた頃には、月海先生は意識を回復させ、春宮にカッターを振り下ろそうとしていた。(間に合え)

思い切り手を伸ばす。(間に合え!)

カッターは、春宮の眼をえぐることなく、俺の腕に突き刺さった。

「いっ……てえ!」

遠慮なしで振り下ろしたのか、腕に深々と刺さっている。

この痛み、懐かしい。腕を切断された時の痛みが思い出され、笑いそうになる。

カッターは俺の腕に刺さったまま、途中で刃が折れ、月海先生はもう一度カッターを持ち直す。今度は俺に対して、突きつけてきた。

俺の方は、無理な姿勢で前に出たため、かわす余裕が無い。

ぶり返す痛みに泣きそうになりながら、こうなったら手のひらで受けてやると思い、手を広げて前に出す。

目の前に迫る刃物。

だが、俺の手に刺さることなく、カッターは宙を舞った。

「え……?」

一瞬、見間違えるかと思った。

流れるようなハイキック。

紅野は腕を縛られた格好のまま、月海先生が出したカッターを蹴り飛ばしたのだ。

そのまま勢いを殺さず、蹴った足を着地、そしてくるんと体を一回転させ、もう片方の足の踵で、月海先生を蹴っ飛ばした。

「ご……っ!」

鈍い音が耳に届き、月海先生は壁まで吹っ飛ばされた。

蹴りで人があんなに吹っ飛ぶのは初めて見た。圧巻である。

蹴りは脇腹に当たったらしく、どうやら肋骨が折れたらしい。内臓に刺さってなければいいのだが。

なんだかとても痛そうだ。かなり悶えているし。

春宮の方を見る。カッターが横に引かれていなかったのが幸いだったのか、軽く首元から血が出る程度で済んでいる。

からんと、落ちてきたカッターが音を立てて地面に着いた。

ふぅ、と紅野は荒れることもなく息をつく。

「あなた、腕大丈夫?」そして振り返って聞いてきた。

「あ……、うん。問題ない」

腕をさすりながら答える。痛みはあるが大した出血はしていないようだ。

「……なあ、今のなに? カポエラ?」

さっき目前で起きた光景が信じられなくて、聞いてみることにした。

「使用人がね、護身術として教えてくれたの。実戦向きのやつをね。結構面白かったから、一時期打ち込んでいたんだけど」

大したことはしていないかのように、彼女は言った。

この女、本当にトンデモだ。

高嶺の花でも薔薇のほうだったか。しかも棘だらけ。

「それはそうと、早く私の腕解いてくれないかしら? 正直この体勢で蹴り飛ばすのは、かなり億劫――――いえ、その前に、あなたには、彼女に言うことがあるのでしょう?」

紅野は笑いながら、俺が抱いている彼女に目を向ける。

「先……ぱい……?」

まだ自分の安全が分かっていないのか、おっかなびっくりに春宮は目を開ける。

目が合った。

「………」

さて、こういった場合、何を言おうか。

こいつのした無茶を怒るべきか、それとも無事を喜ぶべきか。

どちらも言ってやりたいが、悲しいかな、言葉で伝えられるのは一つずつである。

「………」

いや、まどろっこしいのは苦手だ。

開口一番に言うべきことは決まっている。

春宮と目を合わせたまま、

「この馬鹿」

べし、と割と強めに、春宮の頭を叩いた。

「あう」

いい具合に当たったのか、春宮はのけぞる。

痛そうに、春宮は頭をさすった。

「許さないからな」

続けて言葉を投げつける。

「俺はお前を、許さないからな」

「……っ」

春宮は、顔を辛そうにしながら、その言葉を受け入れる。

「お前が、中途半端な形で自分の命を終わらせるなんてこと、俺は許さない」

「……え」

春宮は顔を上げた。

首元の傷にそっと手をそえる。

「くだらない理由で、命の使い捨てなんてやめろ。俺のためとか、誰かのために命を投げ捨てるようなことは二度とするな。受け取る方も迷惑だ。

そんな終わり方は、俺が許さない」

そこまで言いながら、ぽふ、と春宮の頭に手を置く。

「……まあでも、おまえのおかげで助かったよ」

薄く笑う。いつか俺が彼女に向けたように。

「ナイスプレイだ、ハル」

春宮は黙った。ゆっくりと、今の言葉を噛み締めるかのように目蓋を閉じる。

「返事は?」

「……はい!」

そうして春宮は、泣きそうに笑いながら、元気よく答えた。


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