ノーマルエンドはありえない
第3話 ノーマルエンドはありえない
「お兄ちゃん」
声が聞こえる。妹の声だ。
その慣れ親しんだ声は、なぜかとても寂しそうに思えた。
声の主は上から、そのことで自分は妹に馬乗りにされていることがわかる。
「お兄ちゃん」
妹がもう一度俺を呼ぶ。
「……」
体を起こそうと手足を動かそうとする。
「――――あ、つ」
激しい痛み。力が、入らない。
いや、入らない、というより。
力を入れる先が「ない」といったような
見ると、そこには。
まるで壊れた人形のような。
ありえない方向へと向いた手足が。
肉や骨は断ち切られて。
かろうじて皮一枚で繋がって。
「――――あ」
納得がいった。さっきから鼻にからみつくこの匂い、それはほかでもない、自分から発せられたものなのだから。
ペンキをぶちまけたみたいに広がる紅い液体。
「お兄ちゃん」
顔をつかまれ、妹の方へと顔が向けられる。
どこから持ち出したのか、手にはナイフが握られて。
そのナイフが。
ゆっくりと。
服へとのび。
「私が」
服が裂ける。
「私が、殺してあげる――――」
俺は目を覚ます。
「………」
まただ。
またあの夢。
なぜまたあの夢を見るのだろうか?
夢なんてものは所詮、脳の無意識がひきおこす幻覚でしかないのに。嫌なことが起こると、連動して嫌な夢を見てしまうものなのだろうか?
ひょっとしたら、こういうのも明晰夢というやつなのだろうか? 無意識が勝手に誘導してる、とか?
そしてなぜ、
「うぅ……ん…………ふへ、駄目だよ弟くん、私たち姉弟なんだから。さすがにそういうことはしちゃいけないよ……」
姉というものは弟のベッドで寝たがるものなのだろうか?
事件が起きてから数時間。姉さんが帰ってきてから、いつものように夕食をとり、寝るまで時間をつぶしていた。まあ、食事の際は、会話の全くない味気ない食事ではあったが。
そして、いざ寝ようとするところ、姉さんが何も言わずに布団に入り込んできたのだった。
さすがにそのときは、文句を言う体力も残っていなかったので、素直に頭を撫でられながら眠りについたのだった。
「……ううむ」
今思い返すと、かなり恥ずかしい記憶だ。
しかし、一緒に寝てくれたおかげか、精神的にも肉体的にも疲れはとれたようだ。
姉さんの顔を見る。呆れるぐらい、とても幸せそうな顔をしていた。
さすがに起こすのは悪いかな、と思いそっと布団を抜けた。
「ねえ弟くん、今日時間あるでしょ?」
朝のニュースを見ながら、目玉焼きを口に含んだところ、姉さんが何の前触れもなくそう言ってきた。
「……うん? 確かに、今日は休校で、手持ち無沙汰ではあるけど」
「そっか、じゃあデートにでも行きましょうか」軽い様子で、そんなことを言ってきた。
「は? デート? 誰と誰が?」
「いや、私と、弟くんが」
「ええっと……」
食事の手が止まり、考える。
「なんでデート?」
「今日は、折角の休みなんでしょ。だったら有意義な時間を過ごすべきよ。学生時代は休みなんてもの、腐るほどあったから気付かないようだけれど、社会人になれば休日ほど貴重な時間はないんだから」
「姉さんと一緒にデートするのが、有意義な時間?」
「そう」
「……まさかとは思うけど、姉さん、今日の仕事は?」
「もちろん有休を取ったわ」親指立てながら返答してきた。
「………」
なんでこう、うちの姉はやることが唐突なのだろうか?
「姉さん、もし断ったらどうするつもりだったの?」
「え、断るの?」すごく意外そうな顔をされる。
「いや、別にそういうわけじゃないけど。ただ、わざわざこんなことするために有休取った、とか言わないよね?」
「♪~」
あ、そっぽ向いて鼻歌始めた。どうやら言うつもりだったらしい。
「……ふう」
まあ、日中は全く予定無い訳だし、別にいいか。
「わかったよ、じゃあ一緒に外にでも出ようか。何時ぐらいから行く?」
「よし、それじゃあご飯食べ終わって、準備してからすぐ行きましょう」
姉さんはそう言って、ジャムが塗りたくられたトーストを、ぱくぱくと口に運んだ。俺もそれに乗じてトーストを牛乳で流し込む。
「それと、姉さん。血のつながった身内同士でどっかに行くことは、世の中ではデートとは言わないと思うんだが」
「細かいことはいいじゃん、別に」
ははは、と笑いながら手を横に振る。
……ひょっとしたら、俺のことを気遣って、気分転換として出かけようと思ったのだろうか。だとすれば、その厚意はちゃんと受け取っておかねば。
「弟くんはさ、まず見た目を変えるべきなんじゃないかと思うの」
歩きながらふと、姉さんはそんなことを言ってきた。
駅の近くのショッピングモール、俺と姉さんは二人並んで歩いていた。平日で午前のせいか、人の入りようは少なく、店も客は四、五人しかいない。
「そんなこと言われてもね、俺はずっとこの顔で生きてきたからさ、そうそう簡単に変えたくはないよ。いや、見苦しい顔だっていうのはわかっているけどさ」
「いやいや、顔じゃなくて服装の話。あと、弟くんは顔十分に格好いいから。というか、それ以外ありえないから。変えるなんて私が絶対に許さないよ」
「ああ、服の話」
そう言って姉さんの姿を見てみる。
タイトなジーンズにブーツ、シャツにカーディガンを羽織っており、その容姿に相まって大人の女性という雰囲気を醸し出している。それに対して俺は、ズボンとTシャツに上着を羽織っただけの、どこにでもいる男の子、といった感じだ。
まあ確かに、こんな不釣り合いの男女が肩を並べて歩いていると、彼女が彼氏にわざわざ付き合ってやっている、というふうに見えるな。
「そうだな。やっぱ俺にはあんまり服のセンスとかは分からないからさ、姉さんに一任してもいい?」
「了解。まずは、この店に入ってみようか」
姉さんが笑顔で店の方を指差す。
そこは婦人服売り場だった。
「?」
ああ、そっか。まずは自分の服を買ってからか。その後に俺の服を見繕ってくれる、と。
一瞬俺に女装でもされるのかと思ってしまった。全く、先走ってなに阿呆なこと考えているのやら。
「それじゃあ早速、弟くん試着してみよっかー。これなんか似合うんじゃない?」
「……………」
無言で姉さんを睨みつける。
「大丈夫! ちょっと着てみるだけだから! 絶対似合うから! 別に女装で外歩けってわけじゃないから!」
そう言いながら姉さんは、こちらににじり寄ってくる。笑顔で。手をわきわきさせながら。大人の服装から出る凛とした雰囲気も、これでは台無しだ。
前言撤回、この人絶対俺のこと気遣ったりしてないな……
で、この後。姉さんはここで土下座でもしそうな勢いで、こちらの女装を頼み込んできたので少しだけ着ることになった。まあ、このことについては、深く語るのは止そう。
その後は約束通り、紳士服売り場に行き、普通に俺の服を買った。あと、意趣返しとして姉さんに男装させてみたのだが、姉さんの男装は……その、男である俺が見惚れるぐらい格好が良かった。俺の時とは大違いだ、理不尽である。
服を買い終わった頃には、もうお昼だったので、近くのファミレスで昼食を済ませることにした。姉さんはスパゲッティを、俺はハンバーグを頼む。
「それにしてもこうしてさ、二人で街を出歩くのって何気に久しぶりじゃない?」
フォークでくるくると麺を絡ませながら、姉さんは話しかけてくる。
「あー、そうだっけ? よく覚えてないな。ほら、俺はあんまり買い物しに外には出ないからさ」
「弟くんはもう少しお金使って、服とか本とか買った方がいいと思うな」
「いいよ、別にそういうのは、必要最低限で」
無駄にお金使うのもったいないし。
「本は良いわよ、世界が広がる。得られないであろう知識や経験が、千円ぐらいで簡単に入手できるんだから」
「あんなの言葉の羅列だろ。百聞は一見に如かずってあるでしょ?」
「良き書物を読むことは、過去の最も優れた人々と会話をかわすようなものである、よ。先人の話は聞いておいた方がいいわよ。要領の良いやり方ができるからね」
だから姉さんの部屋には、本が頭悪いぐらい並んでいるのか。
「さっきの服の話でもあるけどさ、もう少し着飾ってみたら? 元は悪くないんだしさ。そうすればきっとモテるよ?」
「別にモテなくていいよ。俺としては、頻繁に服やらバッグやら買いあさっている奴の方がもったいないと思うね」特に女性とか。
「それはほら、人っていうのは新しもの好きだから。今まで無かったもの、知らなかったことに対しては貪欲になるのよ。抗えない好奇心ってやつ」
「で、休日に新しいものを大人買いする、と。無駄にね」言葉尻を強くして言う。
「あっはっはー、誰のことを言っているのかな?」
笑顔で流しながら、姉さんはフォークを口へ運ぶ。
「姉さん。姉さんの給料で生活している俺が言うべきことじゃあないと思うけど、もっと効率よくお金使えない? なんか最近、積ゲーやら積本が増えてきている気がするんだけど……」
「大丈夫大丈夫、うちには財布のひもを握っている、優秀な財政係がいるから。そのへんの問題はなんとか解決してくれるでしょう」
本当、自分が関心のないことに対してはルーズな姉だ。優秀なのに。
飲み物を切らしたので、ドリンクバーに向かうことにする。
何を飲もうか迷っているところ、
「あ、先輩」
「え?」
話しかけられた。
見るとそこには、私服姿の春宮晴子がいた。
「いや、学校が休みになってもすることがなくてな。そこで、後輩であるこいつを昼飯に誘ったってわけだ」
篤字亮は隣に座っている春宮を指差して言った。
あの後、春宮と、一緒に来ている篤字を見つけ、なんだったら一緒に食べましょう。という姉さんの発案により、四人でテーブルを囲むことになった。俺は姉さんと並んで座り、篤字と春宮は向かいに並んで座っている。
「いやー、それにしても。こうして会うのはお久しぶりですよね? 桐射先輩のお姉さん」
春宮は笑顔で、姉さんの方を向いて言ってくる。
「ええ、そうね。あなたは確か、おと……桐射の後輩だったかしら?」
「うす、春宮です。はるみやとは読まないので、あしからず」
「まあこいつのことは軽くハルとでも呼んでください。みんなそう呼んでるんで」
「ちょっと、篤字先輩。とうぐうだって言っているでしょう? みーんな最初は私のことはるみやはるみや呼ぶんですもの。誰のことかわからなくて戸惑ったんですから」
「いいじゃねえか、そっちのほうが呼びやすいんだから。むしろそっちに改名すればいいんじゃねえか?」
「げ、他人事だと思って好き勝手言っちゃって。篤字先輩マジキチですよ」
「はん、そりゃ他人だからな。お前にそこまで肩入れする人情はねえんだよ。あと俺はキチガイじゃねえ。お前と一緒にすんな」
春宮がかみついてくるのに対し、篤字は軽くあしらう。この二人の様子を見て、姉さんが話しかけた。
「仲いいわね、あなた達」
すると二人はこちらを向き、
「いや、全然仲良くなんてないっすよ」
「こいつと仲がいいなんて、屈辱的っすね」
二人そろって返答した。うん、やっぱり仲いいな、こいつら。
「二人が知り合ったのっていつごろ?」
「えーと、確か二年ぐらい前ですかね。こいつバスケ部に入ってきて、そのころはまだ可愛げある奴だったんだけどなあ……」
「まだってなんすか。今でも可愛い後輩でしょう? 私、他の部員の皆さんには人気ありますから。篤字先輩だけが、私にきつく当たるんです」
「うわー、自分で人気あることアピールしてるよこいつ。恥ずかしくねーのかよ」
「それはきっと、篤字先輩の目が腐りかけてるんすよ、この前だって、女バスの子たちのお尻、舐めるように見てましたよね?」
「そりゃ気のせいだ」
篤字はそっぽを向いて返答した。
二人の問答を見ている間にはもう、ほぼ昼食は食べ終っていた。ちなみに、篤字と春宮は既に昼食を食べ終えていたようで、食後のコーヒーがテーブルに置かれている。
「さて、これからどうしよっか? だいたい私の方は用事が済んじゃったわけだけど。桐射はどこか行きたいところとかある?」
姉さんは食器にフォークを置き、聞いてくる。
「いや、俺の中では何も決めてないな。本屋でもぶらつこうか?」
「あ、あの! お姉さん! それでしたら、少し私の方から提案があるのですが!」
春宮は手を挙げて姉さんに話しかける。
「ん、どうしたの? 言って御覧なさい、ハルちゃん」
「うぐ、お姉さんにまで、そんなあだ名で呼ばれますか……。え、えーっとですね、私たちもこれからどうするか決めかねていたところでして。ですから、一緒に行動しません? ほら、赤信号みんなで渡れば怖くないってやつですよ!」
いや、それじゃあこれから俺たちが危険なところに行くように聞こえるぞ。
「おい、春宮」
言動が失礼だったせいか、篤字が春宮を睨みつける。
「い、いいじゃないですか。多人数の方が楽しいことってありますし」
篤字の視線に若干圧倒されながら、春宮は言う。
姉さんはふむ、と顎に指を当て、考えるそぶりを見せると、
「それだったら、桐射だけ連れてったらどうかしら?」
「え?」
俺は姉さんの方に顔を向ける。
「ほら、若い人は若い人同士で会話していた方が気楽だと思うな、どうにもそこに大人がいたら気まずくなっちゃうかもしれないでしょ?」
姉さんは笑顔でそう答えた。
「え、えーっと……」
さすがにその返答は予想外だったらしく、春宮は言葉に詰まる。
「ああ、別に私のことは気遣わなくてもいいわよ。実は、まだ片付けなきゃいけない仕事もあることだし、私は先に帰っているわ。桐射。夕飯までには帰ってくるのよ」
姉さんはそう言って席を立ち、会計を済ませて行ってしまった。
「……あー、なんというか」
篤字は呆気にとられながら、なんとか口を開き、
「いいお姉さん、なんですかね?」
とぼやいた。
まあ、確かに。気遣いに長けた人物であることに間違いはない。昼食代、いつの間にか春宮たちの分まで払ってくれたみたいだし。
「なんというか、イメージと少し違いましたねー。桐射先輩のお姉さん」
お昼過ぎ、俺と篤字と春宮の三人で歩道を歩いているところ、春宮はそう言ってきた。
「イメージと違ったって……お前は俺の姉のこと、どんなふうに見てたんだよ」
「なんというか、こう。『あなたなんかにお姉さんと呼ばれる筋合いわないわ!』とか『弟くんに手出ししたらコロスわよ』とか言いそうな気がしてたんですけどね。思ったよりも優しくて人当たりの良い性格でしたね」
「おまえは人の姉に対してなにを想像してたんだよ……」失礼な奴だな。
家での様子を見ていると、確かにそう言いそうな雰囲気は存在する。しかし、言っておくが俺の姉、藍上彩香は、そのへんの分別はしっかりとしている姉であることを明言しておこう。
……まあ、人のベッドで寝るといったようなところは、言い訳のしようが無いが。
「ところで、どこ行くか決まっているのか?」
「ああ、さっき考えたんだが、やっぱり俺たちが行くのはあそこしかないと思ってな」
「ふうん」
どこに行くのかは知らないが、まあ楽しみにしておこう。
そして歩くこと約十分、目的地に到着した。
「……ここって」
「おう、ひさびさだろ? こういうところは」
ついた場所は、高架橋の下。影が落とす場所に、バスケ用のハーフコートがそこにはあった。
「最近見つけた穴場でしてね、たまにはこうやって体を動かすのもいいと思いますよ?」
「いや、そんなこと言ってもさ、俺たち私服だぜ? そんなに激しくは動けないっつーか」
「大丈夫ですよ。条件はみんな同じなんだし、そんなに長くやるつもりはありませんから」
「あー……ボールは?」
「持ってます、こんなこともあろうかと」
春宮はそう言って鞄からバスケットボールを取り出した。
いや、なんで持ってきてんの?
「ま、テキトーにやっていきましょうや」
そう言って春宮はボールを投げる。そのボールは綺麗にゴールの上を通過した。
それから、俺たちはボールが回さられると、パスしたりシュートしたりと適当にプレイしていた。俺にボールが来たときは、その場からシュートするか、すぐに他の奴にパスするかしかしなかったけれど。
春宮はポイントゲッターの配役があるからか、実に正確なシュートを決めていた。どうやら昨年より数段実力を上げたみたいだ。篤字の方は自慢の足をうまく使い、レイアップを決めている。こちらも相変わらずの速さと正確さである。
「あの、先輩」
春宮が数回シュートをした後、こちらに向かって話しかけてきた。
「ん、どした?」
「ちょっと、試合やりませんか? 一対一で」
春宮の目は真剣だ、どうやら本気でやりたいみたいだ。
だけれど俺は、
「……んなこといってもな、俺久々にやるわけだし、だぶんおまえには勝てねーと思うぞ? お前、ここんとこずいぶんと腕上げたみたいじゃないか」
「いえいえ、そう言ってくれるのはありがたいのですが、まだまだ先輩には及びません。こうやって実際に試合うところを見て、短所を指摘してほしいんですよ」
「おまえは俺を買いかぶりすぎたっての、俺はただの『元』バスケ部員。それ以上でも以下でもないよ」
「そうは言っても、あのころ先輩エースでしょ? 先輩が入っていたころは、うちのバスケ部快勝しまくってたんですから。あのころは本当、凄かったなあ……」
「だったら篤字とやれよ。今バスケやってるのはあいつの方だし、十分参考になると思うぜ?」
「篤字先輩とは何回もプレイしましたよ。でも、藍上先輩とやるのは久しぶりだから、見てもらいたいんです」
やけに食い下がってくるな。まあ、仕方がない。将来有望なバスケ部員のために、ひとつ付き合うとするか。
「わかったよ。そこまで言うなら付き合ってやるよ。でもそんなに多くはできないぞ?」
「それだけで十分です。ありがとうざいます!」
よし、と春宮は一息つく。
「話は決まったか?」
篤字はそう言いながら、ボールを手に取る。
「おう、じゃあ始めるか。交互にやって、一回相手より先にシュートした方の勝ちってことでいいか?」
「異論はありません。篤字先輩、ボールお願いします」
はいよ、と篤字は言ってボールを春宮に渡す。
「先行は、私からでいいですね?」
「ああ、いいよ」
俺と春宮は互いに向かい合い、膝を曲げ、腰を下げる。
春宮が一気にゴールへと駆ける。俺も同じように、春宮にくっつくように追いかける。
春宮はシュートに関しての正確さが増してきたので、おそらく投げてくるのは、遠距離からのジャンプシュート。ならば、できるだけ密着してマークすることで、シュートを打たせないようにする。
「……っ」
ならば向こうは、近距離からのレイアップあたりを狙うはず。フェイントをかけて抜けようとするが、なかなかうまく決まらずチャンスを窺っているようだ。
バスケにおいて、精神力は重要な要素である。否、これはスポーツ全般においてか。
ミスをすればチャンスを失うことによる焦りが、自身の行動を鈍らせる。大事なのは落ち着いてその場に応じたプレイをすることであり、かつ失敗を恐れずに突き進む姿勢が重要、と。
ま、要は経験と慣れということである。
「あ」
春宮の持っていたボールをはたき落す。ボールは春宮の手から離れ、地面に転がって行った。
「じゃ、次は俺からだな」
ボールを拾い、コートの端に行く。
「はい、おねがいします」
ボールを片手でドリブルしながら、機会を待つ。
「………」
「………」
春宮の手が伸びてきた瞬間、後ろ手で反対の手に持ち替える。そこで一気に抜こうと駆ける。が、そこから素早く春宮は下がってブロックし続ける。どうやら、追い抜くのは無理そうだ。
こうやって対面して見ればわかることだが、こいつ、随分と俊敏に動くことができるようになったな。
「……ずいぶんと動きが速くなったな」
「先輩の反応が鈍いんですよ」
春宮はそう言ってこちらを睨みつけくる。いつもの春宮がするとは違う、厳しい目つきだ。なんか、怒ってないか? こいつ。
「……ふっ」
コートに近づくのが無理と分かれば、遠くから投げるしかない。フリースローから少し離れた距離で、シュートを放つ。
ボールはゴールにかすりもせず、その手前でぽてん、と落ちた。
「あーあ」落胆の声が出る。情けないったらありゃしない。我ながら下手糞な。
「……ねえ、先輩」
「んー?」
落ちたボールを拾いに行き、振り返って言ってくる。
春宮の顔を見ると、彼女は真剣な眼差しで言ってきた。
「真剣にやってくれませんか?」
「俺は真面目だけど」
「嘘つかないで下さいよ。もし先輩が本気だったら、さっきので私を追い抜いて終わってましたよ? たとえ万全じゃなくても、どんなに時間が経とうとも、先輩のそれはそうそう鈍るものじゃないでしょ?」
「だから、買いかぶりだっての。俺はただの元バスケ部員。お前が俺に何を期待しているのかは知らないけど、きっとおまえの望みどおりの成果は果たせないと」
「先輩」
春宮が一息ついて、こちらを見ながら言ってくる。
「私はね、先輩のこと尊敬してたんですよ。いや、今でも尊敬しています」
ボール片手に持ちながら、彼女は語る。
「先輩がバスケする姿を見て、私はバスケ部に入ろうと思ったんですよ。いつか、あなたのように、生き生きとバスケをプレイしたいって。……でも、先輩がバスケ辞めちゃって、一年前の夏に。私、どうすればいいか、わからなくなって」
春宮は腰を下げて、ドリブルしながら聞いてくる。
「先輩、なんでバスケ辞めちゃったんですか?」
「………」
「一年前も、聞いたときちゃんと答えてくれませんでしたよね」
「………」
「結局、そうやってはぐらかすんですか? 私、そんなに信用がないんですか?」
「……プレイ中だ、私語は慎め」
「……っ」
春宮は、一気にリングに向かって駆けて行った。さっきよりも速い。
こうなると、追いかけるのが精一杯で、横から奪うチャンスがない。
リング近くまで来て、春宮は足を地面に叩き付けて飛ぶ。レイアップか。
こちらもブロックするため、飛んで春宮の前に立ちふさがる。
すると春宮は、両手に持っていたボールを片手に持ち替えて、手首を捻らせながら、ボールを放った。
スクープショット。高いループを描くことで、ディフェンスの上を行くことにより、ブロックを掻い潜ることができるショット。
いつの間にこんな高等技術を。
ボールは綺麗にゴールへと入って行った。
「……これで、まずは一本目ですね。もう後がありませんよ」
春宮はこちらから背を向いたままで言ってきた。そして、ボールをこっちに投げる。
「先輩。私に見せてくださいよ。この勝負で、あなたの本気を」
春宮はここぞとばかりにこちらを挑発してくる。
何故なのかは、なんとなくわかる。
「春宮、お前が俺の本気を見たいと言っても、それは叶わない相談だよ」
「私は、先輩の本気を出すには実力不足ってことですか?」
「違うよ。お前は十分に強くなった。そんでもって俺は弱くなった。それだけ」
だから、お前が望んでいる、憧れている先輩は、もういないんだ。
探しても、いないものは見つからない。
それでも彼女は探し続ける。
無駄だとわかっていても探し続ける。
ずっと追い続けてきた、その姿を。
「ね……ねえ、先輩」
春宮はひきつった笑いで、こちらに話しかける。
「麻奈可、さん、昨日亡くなったそうですね」
「………」
それは、
それは言っちゃ駄目だろ。
そこは触れちゃあ駄目だろ。
「おい、春宮。お前何言おうとしてんだ」
その言葉を聞き、篤字は言葉を荒げ、黙らせようとする。
しかし、春宮は無視して言葉を続ける。
「麻奈可さん、なんで亡くなったんでしょうね?」
「………」
「おい、やめろ」
「きっと彼女、何で自分が死んだのかもわからなかったんでしょうね」
「………」
「でもこれで先輩、図書室にはもう行けなくなっちゃいましたね、あなたの拠り所は、もう」
「おい、晴子。テメエいい加減に――――」
「……っ!」
篤字が今にも春宮の頭をひっぱたきそうな勢いでこちらに歩いてきた時、春宮は一気に移動する。こちらがいきなり動いてきたのに反応できたのは、日々の修練の賜か。なんとしてでも追いかける、といったような勢いでついてくる。
目指す先はゴール。止まる暇もなくまっすぐに飛び上がり、ボールを挙げて、シュートを決めようとする。
「くっ……!」
だが何とか追いついたか、春宮も飛び上がり、こちらのシュートをブロックする。
俺はボールを持っていた両手を一旦下げ、違う方向からシュートしようとする。
「この……っ」
それでも打たせまいと春宮は、その体勢のままこちらに腰を捻って手を伸ばし、こちらのシュートを防ごうとする。だったら。
「だったら、もう一度」
上にのびる春宮の手に対し、俺はシュートしようと伸ばした手をもう一度下げ、放るようにリングに向かって投げた。
「トリプルクラッチ……?」
そしてボールはボードに跳ね返り、そのままゴールへと――――
「やー、本当に、すいませんでした」
試合が終わり、春宮は深々と頭を下げた。
「いや、まあ、勝負はお前の勝ちってことで」
「いえ、無駄にペラペラと話しかけてくる時点で負けです。先ほどは不躾な言葉を言ってしまい本当に申し訳ありませんでした」
春宮はそう言って、もう一度深くお辞儀をした。
「しかし、お前、トリプルクラッチって……普通高校生が打つ技じゃねえだろ」
篤字は呆れ顔で言ってくる。
まあ結局、あのシュートはゴールにはじかれて、失敗してしまったわけだが。
「ついカッとなってやってみたくなったんだよ、今は反省してる」
「どこぞの犯罪者かっつーの」苦笑気味に言われる。
少し体を動かし過ぎたか、後になって四肢に痛みがじわりとわいてきた。
体をゆったりと動かし、ストレッチをする。
「ま、無理していきなり激しい運動するもんじゃねえな。さすがにちょっと疲れたわ」
「ん、じゃあそろそろ帰るか?」
「そうですね。帰りましょう」
春宮はいまだ暗い顔をしている。
どうやら、まださっきのことを引きずっているようだ。やれやれ、仕方ない。
「春宮、ほれ」
そう言って手を差し出した。
「?」
春宮は怪訝な顔をしながら、こっちの顔と手を交互に見つめてくる。
「仲直りの握手。これでさっきのことチャラな」
「あ……は、はい」
おずおずと手を伸ばしてくる春宮の手を握り締める。
「………」
彼女の顔にはどこか悔いが残っているようで、その笑顔が余計苦しそうに見えた。
さて、時刻はそれから半日を過ぎて午前二時。もう真夜中である。
たいていの人はもうとっくに寝静まっているはずであろう時刻。
春宮たちと別れた後、家に帰っていつものように姉に愛でられ、晩御飯食べてあとは寝るだけ、の何一つ不自然のない生活を今日も送っていた訳だが。俺は外に出ていた。
もちろん姉には内緒で。
まあ、今ごろあの人はきっといい夢でも見ているのだろう。
さすがにこの時刻に起きているということは、まずない。一応念のため今日は、いや正確には昨日は、しこたま飲ませ、風呂に入れておいた。
これでまず朝までは起きない。
さて、夜道を歩きながら目的地まで行くわけなのだが。バスはもうとっくに無いし、タクシーを呼ぶにもお金がもったいない。となれば、必然的に徒歩ということになる。
「………」
ほう、と息をつく。春であっても、夜の時間は少し肌寒い。
普段であれば、いつも行き来する道を通っていくわけなのだが、あまり人には見つかりたくない。なので、できるだけ人目につかない小道を通っていくことになる。これがかなり神経を使う。小道とはいっても、人が皆無というわけではない。だから、人に会ったときも、怪しまれずに通らなければならなくなる。
こんな労力払うぐらいだったら、お金をケチらないで普通にタクシー使えばよかったな、と今更ながら後悔した。
しかし、こうやって真夜中に歩く夜道というのは、少し高揚する。
空を見上げると、天気が良かったおかげで、多くの星が輝いている。
そういえばいつの頃だったか、出歩くべきではない時間に外に出る背徳感に憧れて、こうやって夜中外に出たことがあったな。結局、ばれてこってり絞られたわけだが。
そして、危ない目に数回会いつつも、目的の場所、いつも自分が通っている学校に到着する。
校門は当たり前というべきか、とっくに閉じられており、鉄柵が敷かれている。これをなんとかよじ登って通り、学校の周りを調べる。
あった。一昨日の時点であらかじめ開けておいた鍵、トイレの窓の鍵だ。そこから学校に侵入する。
学校の中は真っ暗であり、廊下は先が見えない。そのため、あらかじめ持っていたペンライトをつけ、できるだけ目立たないように、抜き足差し足で最短のルートである渡り廊下を通り、目的地である図書室へと向かった。
「……あー」
さて、ここまで来たのだが当たり前のことに気が付いた。
図書室の鍵を持ってない。
アホだ。アホがいる。
やっぱり表面上は落ち着いていても、内心は気付かないうちに動揺しているんだな、と思った。こんな初歩的なミスをやらかすとは。
殺人事件なんかが起きたばかりのこの部屋を、誰も鍵をかけずに無防備においているはずないよな。
どうしよう、鍵は確か職員室にあるが、たぶん職員室も閉じているし、職員室の鍵も持ってない。マスターキーはおそらく管理人が持っており、鍵貸してくださいなんて頼んだら絶対通報される。もういっそのこと、この鍵そのものを破壊してしまおうか、などと物騒なことを考えながらダメもとで扉に手をかける。
扉はあっさりと開いた。
「……あれ?」
扉が開いたということは、元から鍵がかかってなかったということになるのだが、いくらなんでも不用心すぎないか? 殺人事件の現場だぞ。
疑問が頭をよぎったが、今の自分には、たぶん関係のないことだ。むしろ結果オーライと受け取るべきだろう。
図書室の中も当然明かりは点いてないため、ペンライトの光を周りに当てる。
するとそこには、よく刑事ドラマなどでよく見る、テープの跡が人型で当てられていた。
「………」
この身長は間違いなく被害者、麻奈可のだろう。
かがんで、もうそこにはいない、かつていたであろう麻奈可の場所に手を当てる。もう熱はとっくに無く、ただの冷たいリノリウムの床の感触しかない。
「……本当に、死んだんだよな、おまえ」
とりあえず、手を合わせて合掌する。
しばし黙祷した後、あたりを見てみる。
いつも見ている図書室の内部と、今の図書室の内部とを、覚えている限りの記憶で比べてみる。本棚には荒らされた形跡はなく、机も移動されてはいない。
いや、もしかしたらいったん荒らしたあとに戻したのかも。そう思い、並べられている本を一つ一つ見てみるが、特に変わった様子は見られない。いくつかは本棚から本が抜けられた跡が見えるが、おそらく他の生徒が昼間か放課後にでも借りて行ったものだろう。
他に証拠はないのか、と思い地面に貼られてあるテープを捜す。だが、麻奈可の遺体以外にはテープはなかった。そして、鞄の方も見つからない。
窓に目を向けると、すべて鍵がかけられており、壊された形跡など一つもない。当然と言えば当然か。窓に目を向けると、暗闇の中にグラウンドがうっすらと見えた。
「……さて」
とりあえず今までのことを振り返るため、近くにある椅子に座って、目を伏せてもの思いにふける。
まず俺が図書室に来たのが七時二十分。あの時の麻奈可の死体状況を思い出すと、まだ温かかったことから、あいつが殺されたのは俺が来る一時間くらい前ということになる。
おそらくそれは間違いない。以前、なんとなしに聞いた姉さんの話では確か、人体の起こす死後硬直は、死後一、二時間当たりで顎や首あたりが固くなり、さらに時間をかけて四肢、指へといたるはず。俺が麻奈可の首元に触った際、少しだけその感覚があったことを覚えている。
となると麻奈可は、いつものように学校に登校し、図書室に到着。そしてその後に殺された、ということになるのだろう。
姉さんの言葉を思い出す。上向きに絞められた、要は後ろからつるすように首を絞める、ということになるのだろうが、これはつまり麻奈可が後ろにいても何も不審に思わない、顔見知りの犯行ということになるのだろうか?
いや、それはいくらなんでも安直すぎる。別に人が後ろにいることをそんなに気にする事なんて早々ない。どこぞの暗殺者じゃないんだから。知らない人物であっても、不意を打てば後ろに立つぐらい簡単なはずだ。
それにしても、なぜ図書室なんて犯行の現場に選んだのだろうか。いや、そもそも学校で罪を犯すということが問題だ。学校は、生徒や教師がいるから人目が多く、見つかりやすい。早朝とはいえ、朝練の部活生徒や、早めに来る教師だっているはずだ。デメリットばかりしか存在しない。となるとこの犯行は突発的な、計画性のない犯行ということになるのだろうか?
では麻奈可の首を絞めた凶器―――まだ見つかっていないらしいが―――も、もとから犯人が持っていたもの、ということになるのだろう。
凶器。凶器ね。
死体の状況を思い出すと、首にはくっきりと凶器の跡が残っているようには見えなかった。首元が赤くはなっていたが。だとすると細い紐、例えば縄やリボンなんてことはないだろう。とすれば、ハンカチのような日常で使うものではないだろうか。そう考えれば、突発的な犯行だということにも納得がいく。
いや、待て。本当にそうだろうか。
ひょっとしたら、突発的な犯行に見せかけただけなのかもしれない。
さきほど麻奈可が殺されたのは一、二時間前だと判断したが、死亡推定時刻は確か温めるなりしてごまかすことができたはずだ。とは言っても図書室は別段暖かくはなかった。ならば電気毛布かなにかを死体にかけておき、その後回収、ということだって十分ありえるのかも。もしそうだったのなら、殺害されたのは夜中ということに、
「うーん……」
これはちょっと考え過ぎじゃないだろうか?
わざわざ夜中に学校で犯行に及ぶ理由がない。それに学校は夜中にはもう閉じているはずだ。
そもそも、本当に犯行現場は学校なのだろうか。
改めて考えてみると、どこか別の場所で殺害してから、図書室に遺体を移動させたという可能性も十分にあり得る。麻奈可の鞄は現場にはなかったし、その理由の説明にもなるはずだ。
いや、でもそれでいいのだろうか?
死体をわざわざ図書室に移動させるのは、それだけでも十分危険な行為ではないだろうか。
ではなくなった鞄はどう説明を、
「あー……駄目だ」
頭をがしがしとかき、暗い天井を仰ぎ見る。
思考がうまくまとまらない。
残念ながら、俺は小説に出てくるような名探偵じゃないので、現場の状況や証拠をみて犯人がズバリわかる、なんていこうはずもない。
椅子探偵なんて、ただのミステリ好きの幻想だな、こりゃ。厳密にはここは現場だけど。
そもそも、手がかりとなるものが少なすぎる。
こんな状況では、何が起こったのか、皆目見当もつかない。
いや、逆か。可能性がいくらでも思いつくからきりが無い、と言うべきか。
となると、可能性を絞るためにすることは、警察と同じように地道に身近なことから捜査、ということになってしまうわけである。一つ一つ可能性を潰していくのが、最も確実な方法だしね。
しかし、それはよろしくない。
俺は刑事ではないので、捜査の方法を全く知らない。素人の俺がやったとしても、収穫があるとはとてもじゃないが考えにくい。
なまじそんなころをすれば、もともと俺にあった疑いが、より深くなってしまう。
というか、待てよ。
「こんなことやってる自体そもそも犯罪だよな……」
そんな言葉をつぶやいた後、自分の言ったことを恥じて、ぺちぺちとほほを叩きながら、立ち上がる。
そうだ、いちいち日照っている場合じゃない。
リスクをなにも負わずに成果を手に入れようとするべきじゃない。
警察がなんだ。逮捕がなんだ。
そんなのが怖くて捜査ができるか。
そう思って、もう一度現場を詳しく見てみようと試みる、そのとき、
かつん、と。
どこからか、音が聞こえた。
「……やっべ」
今の足音、どうやらこちらへと向かっているようだ。
図書室へ、廊下を通じての道は一本のみ。
つまり、そこから逃げることは不可能。
窓から逃走することは可能ではあるが、鍵が開いてしまうし、外の広いグラウンドに出てしまったら、背後からライトを照らされてばれてしまう。書庫の方に隠れようにも、こっちには鍵がかかっているから無理。
かつん、かつん、と足音がもうすぐそばまで近づいている。
ああもう、こうなったら。と思い、図書室のカウンターの机、その受付側に移動し、椅子をどかして、足を置くためのスペースに身をひそめる。
扉が開く音が聞こえ、その人物が図書室に入ってくる。
おそらく、見回りの警備員の人だろう。と考えながら息を殺す。
こうしてじっと隠れているだけで、いやな汗が噴き出してくる。
ああもう、なんで後先考えずにこんなことしてしまうんだ俺は。
もうちょっと、あらかじめ準備ぐらいはしておけっていうんだ。
あー、このままじゃあ、見つかって終わりかなー。見つかったら警察につきだされて逮捕だよなー。姉さんにどやされるよなー。
なんて、もうほとんど自棄になってしまう自分がいた。
こうなったら自分から名乗り出て、土下座でもして許してもらおうか、などと捨て鉢な行為を思考しているうちに、その人物の声が聞こえた。
「ねえ、誰かいるのかしら? もしかして犯人さん? だとしたら、顔を見せてくれないかしら」
声の主は、以外にも女性であり、透き通った綺麗な声だった。
人を脅かすような威厳さもなければ、人を恐れさせるような威圧感もない。まるで、ごく親しい友人に、日常の中で投げかけるような、そんな声色だった。
というか、待て。
今の声。どこかで、ごく最近。
ついこのあいだ、聞いたような――――――。
声に呆けていると、うっかり、目の前にあるカウンターの椅子を蹴っ飛ばしてしまった。
あ、やば。
椅子が移動したことに気付いたのか、つかつかと彼女はこちらに向かっていき、そして恐れることなく、こちらを覗き見た。
「あら、あなたは――――――」
「……こ、こんばんは」
とりあえず、手を挙げて夜の挨拶をしてみる。
目の前の人物、声の主はこちらの姿を見て、少し黙った後、
「ええ、こんばんは、藍上くん。こんな夜更けにご苦労様。
で、あなたが犯人?」
と、紅野萌美はにこりと笑ってそう言ってきた。
翌朝。
これ以上休校にするのも問題かと考えたのか、本日から普段通りに授業を再開する形となった。ただし、警察の捜査はまだ続いているようで、図書室は一時閉鎖。また、事件のことについて警察に話を聞かれることがあるかもしれないのでそのつもりで、と担任の月海先生からホームルームで話をされた。
事件について、クラス内の様子としては、事件についての興味半分、身近に殺人犯がいるのではという恐怖半分、といったところに思えた。
しかし、こうしていったん冷静になってクラスを見てみると、いままでのクラスより、かなりテンションが高くなっていることに気付く。まるでお祭りのようだ。
篤字の方を見てみるが、俺と同じ考えか、クラスの変わった様子に気付き、すこし苛立っているように思えた。
ちなみに、俺が事件の第一発見者だということは、クラスの皆には知らされてはいないようだった。先生が俺のことを慮ってくれたのか、ありがたいことである。他の生徒に事件のことをねちねち聞かれるのは、勘弁してもらいたかったし。
そして、いつものように授業が始まる。
だが、殺人事件なんという非日常にあてられてか、クラスではあまり集中して授業を受ける雰囲気ではなかった。授業の合間に、ひそひそと事件についての会話がよく聞こえた。犯人はだれなのか、とか。なぜ麻奈可を殺したのか、恨まれるようなことしていたのか、とか。また事件が起きるのではないか、殺人鬼がすぐそばにせまっているのでは、とか。
このような、大して意味のない、面白半分でしている会話を聞かれる身としては、正直腹立たしくあった。そこで、胸に手を当て、深呼吸をする。落ち着け、と。ただの噂、面白半分でしているだけの会話だ。いちいち気にかけている場合じゃない。
人のうわさも七十五日、という。時間が経てばこのような話題もきっとさめていく。
しかし、七十五日ね。
「……長いな」
二か月半じゃねえか。
もうその頃には夏になっており、夏休み間近である。確かにその時点では、もう事件のことなんて皆の興味から失われ、夏休みをどう過ごすかに関心がいっているだろう。
そう考えると、麻奈可のことが少し憐れに思えた。
午前の授業が終わって昼休み、昼食を十分以内で手早く食べ終え、教室から出る。行く先は学校の屋上、普段一般生徒には出入り禁止になっている場所であるが、行かざるを得ない状況になっているのである。
なぜなら脅されているからだ。
脅迫である。
屋上に出ると、昼だからか、温かな風が吹いてきた。外の天気は良く、柔らかな日差しと風が体に入り込む。こうして春風を身に受けるのは気分が良かった、昼寝や昼食にはベストな場所である。なぜ学校は屋上を開放しないのだろうとつくづく疑問に思う。
そして屋上には、先に上がっていた紅野萌美の姿があった。
「あら、藍上くん、約束どおり来てくれたのね。嬉しいわ。こうやって面と向かって話すのは初めてよね。自己紹介は不要かしら?」
風で乱れた髪を直しながら、紅野は笑顔でそう言ってきた。
「……そりゃ、来てくれなかったら警察につきだす、なんて言われたらな」
あの時、彼女と鉢合わせすることになり、時間を改めて話し合いましょう、もし来なかったらこのこと警察に言うわよ、と言われて指定した場所がここ、学校の屋上である。
「ああ、ごめんなさい。でもそう言わないと、あなたが私と話をしてくれるとは思えなかったし。もうあのことで、あなたになにかを強制することはもうしないから、安心していいわよ」
悪びれる様子もなく、すらすらと紅野は話す。
「そりゃよかった。で、早速いろいろとそちらに聞きたいことがあるんだけど、質問していいかい? 紅野、さん」
近すぎもせず遠すぎもしない、微妙な距離を保って彼女に話しかける。
「そうね、でもこちらからも聞きたいことがあるの。だから、ひとつずつ互いに聞いていかない? 私が質問したらあなたが答えて、その次はあなたが聞いて私が答える、という形で」
こちらがそう言ってくるのを予測してか、紅野はすかさず提案を出してきた。
「……まあ別に、構わないけれど。答えたくないことは答えなくてもいいか?」柵に体を寄りかけながら、顔を相手に向ける。
「ええ、互いにプライベートなことは詮索しないでおきましょう。ああ、でもその前に、条件がひとつ」
紅野は人差し指をあげて言ってきた。
「条件って?」
「名前」
「は?」
「さん、は要らないわ、私たち同じ学年なのだし、紅野と呼んでくれないかしら?」
「まず最初は私から、でいいわよね?」
首を縦に振る。
「そう。じゃああなたは、愛崎さんを殺害した犯人を、自分自身の手で捕まえようとしている、ということでいいのかしら?」
「……そうだな。そういうことに、なるのかな」
客観的に見たら、俺のしていることは、素人の捜査、探偵の真似事をしているに過ぎない。
「……なにか、間違ってたかしら? 私の表現が気に入らなかった?」俺の答え方が歯切れの悪いものだったからか、怪訝そうに尋ねる。
「いや、合ってるよ」
捕まえる、というのは少し違うが。俺はただ、知りたいだけなのである。
「そう。まずはこのことを、はっきりとさせておきたかったから。あなたが犯人じゃない、ということもね。はい、次はあなたの番よ、藍上くん」手のひらを差し出し、質問を促す。
「わかった。紅野さ……紅野も、事件について自分の手で調べているんだよな。そのために、君もあの学校に忍び込んだ、ということでいいんだよな?」
紅野は、んー、と顎に指をあてて、答えをいいよどむ。
「確かに、私も事件について調べよう、とは思ったわ。でも、忍び込んだ、というのはちょっと違うわね」
「うん? どういうことだ? 夜中に無断で学校に入るのは、不法侵入って言うんじゃないのか?」
自分がやっといて言うのもなんだが。
「いやいや、無断じゃないわよ。ちゃんと断って学校に入ったわよ」
「……は?」
なんだそりゃ。
「……これは身の上話になるから、あまり言いたくはないのだけれど。私はね、ここの土地ではすこし有名な名をもった家の娘なの。知ってた?」
「ああ、そういえば」
麻奈可がこの前言ってたな。
「それでね、この学校の偉い人たちとも面識があってね、その人たちに私の方から頼んだのよ」
「え、自分で捜査するから学校開けてくれって?」
「違う違う、何言ってるのよ、もう。女子高生相手に、そんなことしてくれるわけないでしょう。私はこう言ったのよ、『警察の人が、どうしても今すぐに現場で調べたいことがあるらしいから、今晩だけでも学校を開放してくれないか、一刻を争うんだ』ってね。あ、もちろん嘘だけど」
しれっととんでもないことを言ってきた。
「まあ私だけがそんなの言ってきても、説得力はそこまでないのだけれどね、さすがに警察手帳が効いたのかしら」
「え、なに。知り合いに警察関係の人でもいるのか?」
「いいえ。私の使用人に警察の人のふりをさせたの。警察手帳は偽物」
「なんでそんなもの持ってんだよ……」しかも使用人って。
「趣味よ」
「趣味か」
変な趣味。
「そうして学校を開けてもらって、私は校内を調べまわっていたのよ。管理人さんの方には、私から話を通しておいたから」
「あー……じゃあ、なんだ」
俺がわざわざ裏口の窓から侵入しなくとも、学校は出入り可能な場所だったってわけか。はあ、とため息をつく。
「けれどあなた、運がいいわね。もし、あの日以外に学校に侵入していたら、その場で逮捕されていたわよ」
「え、なんで?」
「最近ではね、どの学校も夜中の肝試しとか、試験問題の持ち込みとかで入ってくる人たちを警戒してか、警備セキュリティに力を入れてるの。もちろん私たちの学校もそうよ。センサーとかカメラとか、知らなかった?」
「……知らなかった」
紅野に呆れられるような顔で見られる。
「あなたね、自身が罪を犯すつもりだったなら、もう少し自覚をもって、計画と下調べぐらいしなさい。後先考えない行動は、身を滅ぼすわよ」
「……猛烈に反省しているよ、今」
顔を伏せて、手で覆う。なんでこんなことしちゃったのかなあ。
「さて、次は私の番ね。じゃあ藍上くん、三つぐらいまとめて質問しても構わないわね?」
「え、いや、構うよ。一問ずつって言ったのはそっちだろ」
「あなたのほうから、まとめて質問してきたじゃない。私が事件について調べていること。どうやって学校に入り込んだのか、その手法。で、学校のセキュリティのこと。ほら、三つ。こっちもまとめて聞いてくる権利はあるはずよ?」
「む……」
そう言われると、確かにこちらから矢継ぎ早に聞いてしまったように思える。だって気になるような言葉ばかり使ってくるんだもん。この娘、そうやって会話を誘導させたな。
「では質問です。あなたの知っている愛崎さんについて、教えてくれないかしら。どういう人物なのか、性格とかね」こっちがイエスもノーも言っていないうちに、紅野は質問を投げかける。
「麻奈可について、か? ……どんな奴かって言われてもな。朝が早くて、本が好きで、ジャンルは問わずになんでも読んでいて、インドア派で、成績はけっこう優秀で、性格は穏やかで、裏表なくて、よく笑うやつで、怒った顔は見たことなくて、それから、えーっと、」
「オーケー、もういいわ。わかった。つまり、彼女はだれかに敵意を持って殺されるような、性格破綻者ではなかった、ということね」
「当たり前だ」
さすがにその発言には憤りを感じたのか、自分でも気づかない間に、言葉が少し荒っぽくなってしまう。
「まあ、ね、そのことに関しては私も同感よ。彼女とは同じクラスだったけれど、彼女ほど、誰かに恨まれる可能性がない人物なんて、私、見たことなかったし」
そう言って紅野は、視線を外に向けた。その時の彼女の顔は、どこかなにかを憂いているように見えた。
「……でも、殺された」
「そうね、それは間違いようのない事実ね。じゃ、次の質問。事件当時の、あなたの死体発見時の経緯を教えてくれるかしら」
「経緯、経緯ね。……って待て。なんで俺が第一発見者だってこと知ってんだ?」
「あら、やっぱりあなただったのね」
「あ」
ハッタリかよ、ちくしょう。
「ま、でも順当に考えれば分かるわよ。図書室はあなたと愛崎さんぐらいしか使わないわけだし」
「……それもそうか」
氷山さんの前でも一度説明したのだが。俺は家を出てから、事件発見、そして家に帰るまでのことをかいつまんで話した。俺の話を聞いてか、紅野はふむ、と少し考えるそぶりを見せた。
「図書室まで行く際、誰かと会わなかった?」
「……いや、会ってないな。朝早くってこともあってか、誰ともすれ違うことはなかったはずだ。ただ」
「ただ?」
「向かう途中、グラウンドで部活の練習をしている連中を、見かけたことはあったな。その時間にはもう、運動系の部活は来ていた頃みたいだ」
このことは警察には言っていなかったが、特に大切なことでもないだろう。調べれば、すぐに分かることだし。
屋上から、下にあるグラウンドを見渡す。一般生徒が、遊びでサッカーをして走り回っている姿があった。
「なるほど、ね」
納得がいったのか、紅野は大きく頷く。そして、こちらの顔を見て手を差し出す。どうやら、さっき質問した、誰かと会ったかということも、彼女の質問に入っていたらしい。
こちらの番として、何を質問するべきか、少し悩む。事件について何か知っているのか、何か手がかりはつかめたのか、犯人はだれなのか。さまざまな疑問点があったが、今一番に聞いておきたいのは、このことだろう。
「紅野萌美」あえてフルネームで呼ぶ。
正面から彼女を見据えて、この質問は重要だということをアピールする。
「君は何で、どんな理由で、この事件について、調べてるんだ?」
「興味があったからよ」
紅野は即答した。
「……そんな理由で、俺が納得するとでも?」
「だけど事実なのだから、仕方がないじゃない」
紅野は肩をすくめた。
「興味がある、なんて理由だけで、現場に無断で侵入するなんて、犯罪すれすれの行為は、普通は誰もしない」
「…………」
紅野は黙ってこちらを見る。
「答えろよ。なんでこの事件に執着する?」
「…………」
「…………」
「…………」
数分間、しばらく彼女は黙ってから、その口を開く。
「これは質問じゃあないのだけれど―――――」
「…………」
「藍上くん、あなた、動物と人間の決定的な違いって、なんだと思う?」
「……は?」突拍子もない台詞に戸惑う。
「私たち人間も、彼ら動物も、脳も内臓も機関はほぼ同じ。性欲、食欲、睡眠欲なんて三大欲求も、どちらも持っている。また、どちらも個体だけでは生き残れず、群れをなし、効率化を図り、生きるうえで最適な方法を施行している。こうやって考えると、動物と人間には、さしたる違いが存在するとは思えないじゃない?」
「……何が言いたい」
「藍上くん、私はね、動物と人間の違いはね、感情の起伏の差だと思うの」
「…………」
「三大欲求なんてものは、生物が誰しも持っているもの。だけれど、本を読んで感動するのは、人間だけ。音楽を聞いて感銘を受けるのは、人間だけ。功利主義は知っているかしら? 人間はより質の高い快楽を求めるものだ、ってね」
「……だから、それが」
なんだっていうんだ、と言いたかったが。紅野は発言を続ける。
「生物は、生きるため、生き残るために、他の生物を殺す。食糧のため、繁殖のため、繁栄のため、でもね――――」
彼女は依然として笑顔のまま、言葉を紡ぐ。
「愛憎で同族を殺すのは、人間だけよ」
「……っ」
「藍上くん、私はね、それが知りたいの。どうやって殺したか、どうやって罪から逃れるのかなんて、私にとってはどうでもいいことなのよ」
歌うように、彼女は話す。さっきまでの憂いた顔など、どこかに行ってしまったようだ。
「私に興味があるのは、ただ一つ。何を持って、どんな理由で、どんな目的で、人は人を殺すのか。どんな気持ちで、人を手にかけることができるのか。それだけよ」
そして、彼女は一息ついた。
「だから、さっき興味があるって言ったでしょ? どう、わかってくれた?」
「……ああ、成程ね」
納得がいった。つまり、こいつは、
「麻奈可の馬鹿……なにが高嶺の花、だ」
どんでもねえ奴じゃねえか。
常識人とは遠くかけ離れた、異様な価値観を持つ少女。殺人というもの、人間の規定にはずれたものに、この少女は、異常なまでに執着している。……確かに、人はそういった、日常の中には普段ありえない、非日常を求める生き物だ。それはなぜか。きっと人は、自分自身が持ちえないもの、持つことができないものに、憧れを持つからだ。社会という、秩序の中からはずされた非日常には、どのような価値が内包されているのか。好奇心を抱かずにはいられない。ゆえに、興味があったから、か。
だが、この少女は、それが行き過ぎている。どんな理由があるにせよ、そんな憧れは、胸の中に留めておくのが一番だ。でなければ、その憧れは、いずれ自身に還っていくのだから。
「あら、好きなものを好きというのは、可笑しいかしら?」
「……っ」
気付けば、知らず知らずのうちに、自分の両手はきつく握りこぶしを作っていた。なぜだか無性に腹が立った。
「俺は」
震える声で、口を開く。
「俺は、君が嫌いだ」
「あら」
俺の素直な言葉に、紅野は笑みを崩さない。よりいっそう、笑みに深みが増す。
「残念ね、私とあなたは、結構相性がいいものだと思っていたのだけど」
「冗談じゃない。君の俗な好奇心と一緒にされて、こっちは勘弁してくれって感じだ」
俺は踝を返し、屋上の扉に足を運ぶ。もうこれ以上、彼女と話すことはない、もとい、これ以上は話したくはなかった。
「君は、御大層な理由を並べて、自分がさも他人とは違う、高等な欲求を持っている特別な人間だと思い込んでいるだけだ。そんなのに付き合わされるのは、迷惑以外のなにものでもないよ」
彼女の顔は背にあるため、見ることはできない。でもおそらく、彼女はまだ笑っているのだろう。
「とりあえず、俺も君も、昨日会ったってことは忘れよう。そのほうが、互いのためだ。それと、あんまり深入りしすぎて、足元をすくわれることのないように注意した方がいいと思うぞ。じゃあ、俺はこれで」
最終的に言いたかったことを捲し立てて、手を振ってこの場を去ろうとする。事件について、彼女の知っている情報を聞き出したかったが、もうその気にもなれない。だが、背後から彼女の声がした。
「ねえ、最後に聞いておきたいのだけれど」
どうやら質問を重ねてくるようだ。けれど、答える義理はもうない、無視して歩き続けることにする。
「なぜあなたは、普通でいられるのかしら?」
「……は?」
質問の意味が分からず、立ち止まって振り返り、紅野の方を見る。もう彼女の顔は、さっきまでの笑みはなく、無表情で、真剣な趣でこちらを見ていた。
「私としては、あなたのことが一番よく分からないわ。あれだけのことがあって、なぜ普段の生活を保ち続けようとするのかしら? そんなに怖いの? あなたの妹と、同じになってしまうのは、そんなに嫌?」
「……あ?」
一瞬、思考が停止する。
最初は、紅野は麻奈可の事件について、話していたのかと思っていたが、妹、というワードで別の事件のことが強制的に思い出される。
頭の中でよみがえる光景。
ペンキのようにぶちまけられた血。
切り刻まれた死体。
信じられないくらい熱い手足。
そして、ナイフを持った、妹の――――
眩暈がした。
一瞬、意識を失ったのか、倒れそうになる。あわてて足を踏ん張り、なんとか持ち直す。
その時には、紅野は俺の横を通り過ぎ、先に屋上の扉に向かっていた。その時の表情を、俺は見逃してしまう。
扉の前に立ってから、彼女は振り返り、
「また後日、合いましょう、藍上くん。今度はゆっくり話すことができるといいわね」
と、彼女と最初に会ったときと同じような、見惚れるような笑顔で扉を開いた。
姉さんが家に帰ってきたのは、午後九時ごろのことだった。
捜査がうまくいってないのか、上の人ともめたのかは分からないが、姉さんはかなり疲れた様子だった。
……そもそも、捜査線上に身内がいる場合、原則その刑事は捜査には協力することはできないはずだ。それでも、捜査ができているのは、姉さん自身の人徳と優秀さのたまものなのだろう。
風呂はもう沸かしてあるので、早く入ることを進めた。疲れていても、「一緒に入る?」なんて言葉が出てくるあたり、さすが姉さんだ。
姉さんが風呂に入ったのを確認した後、姉さんがさっきまで持っていた鞄を持ち上げる。濃い紺色で、ちょっとした大きさの、革製のブリーフケースだった。特に、なにかストラップやシールが付けられているわけでもなく、外見は、きれいなままだった。
「……ごめん、姉さん」
風呂場にいる姉さんの方に向けて、前もって謝っておく。そしてブリーフケースのファスナーに手をかけた。
中身には、A4サイズのクリアファイルに数個のリングファイル、そして筆記用具と捜査の教本など、しっかりと整理されている。
横にあるポケットの中身を探ると、メモ用紙が数冊、それとポケットティッシュ、あとは写真が数枚あった。
写真を手に取って見てみると、それは家族の集合写真だった。俺と妹と姉さんの三人で、肩を並べて写されていたのもあれば、家族全員の姿が写っている写真もあった。
「……おお」
ちょっと感激。
姉さんこういうの、毎日持ってるんだ。
職場にも写真を持ち込んで、頑張って仕事をしている姉さんのことを思うと、何か、じんと来るものがあった。
……でも、姉さん。
持ち過ぎじゃないだろうか。
これ、軽く百枚以上はあるぞ。
っと、いかんいかん。
今俺がすることは、そんなことじゃなかった。
鞄の中にあるリングファイルを抜きだし、内容に目を通す。
そこには先日起こった、絞殺の殺人事件のことが書かれていた。たしか、この前ニュースでも報道されたやつだ。被害者の名前の欄を見ると、浜下戸幸(男性・四二)、行方不明の恋人は強間音音(女性・二〇)と記載されていた。
これじゃないな、とつぶやき、別のリングファイルに手を伸ばす。
今度は、目的の、麻奈可の事件が書かれている捜査資料だった。見落としが無いように、注意して目を通す。
俺は麻奈可が殺害されたのが、六時半ぐらいと推察したが、確かにその通りみたいだ。彼女の解剖の結果と、彼女の両親の話により、その結果が得られた。麻奈可の両親にも話を聞いたらしく、彼女はいつもと同じ時刻、六時には家を出ていた。彼女の家から学校まで、まっすぐ行っても三十分はかかるらしく、彼女は寄り道をせずに、学校に行ったということになる。
こうやって、ただ書かれている文章を読むだけでも、胸に針と刺されるような感覚になった。
例えば、解剖、という普通の人には縁がないワードに、複雑な気持ちを持ってしまう。
また、麻奈可の両親のことを少し考えた。麻奈可は、自分の家族についてあまり語るような人物ではなかったが、彼女自身の性格を考えると、特に問題のない、いい家族だったと思う。
それと、彼女の行動がいつも通りだったことを考慮すると、やはりこの事件は、突発的な犯行だったと結論づけられる。
彼女の解剖によると、首を絞める以外にも、麻奈可は頭に打撲痕があったそうだ。そしてこれは、生前、首を絞める前につけられた後、という話だった。なにか固いもので麻奈可を殴りつけ、気絶させてから、とどめに首を絞めたのかな、と考えた。
麻奈可の首を絞めた、凶器の話だが、彼女の首に付着した繊維、そして絞められた跡(索条痕というらしいが)から、凶器はスカーフではないかという結論が出たらしい。しかも、そのスカーフは、学校指定の、女子生徒の制服が装備しているスカーフである、とも。加えておくと、麻奈可が持っているスカーフには、そんな痕跡はなかったそうだ。
「…………」
このことを知り、いったん目を閉じだ。
つまり、警察ではこう考えているのだろう。
犯人は学生である、と。
不思議と、驚きはしなかった。というかむしろ、ああなるほどね、と納得してしまう。
ページをめくると、六時半ごろ、つまり犯行時刻に、学校に来た者たちのリストが書かれていた。朝早くであっても、学校に来る理由がある人は、かなりいるらしく、リストには三、四十人ぐらいの名前が並べられていた。
生徒の名前や先生の名前、事務員の名前がそこにはあった。そのリストの中には、知っている名前もちらほらあり、自分の名前も挙げられている。ついでに言うと、紅野の名前もそこには書かれていた。
「……あいつも、あの時間いたのか」
ひょっとしたら、あいつが犯人なんじゃないかと一瞬疑ったが、すぐにやめた。
犯人だったら、わざわざ捜査中の現場に舞い戻ってくる必要なんて、危険以外の何物でもないだろうし。それにあいつと麻奈可には、同じクラスと言う以外大した接点なんてない、殺す理由なんてないはずだ。
「……じゃあ、誰なんだろうな」
ぱらぱらと資料のページをめくってみる。
とりあえず他に目についたのは、彼女の持ち物である鞄のこと。
鞄は今現在でも見つかっておらず、持ち去られた可能性が高いそうだ。
また、動機についてだが、麻奈可の人物関係には特にトラブルはなく、誰かに恨まれるようなことはなかったそうだ。
それ以外のページから軽く概要をつかんだが、事件について有力な手掛かりはないようだ。
「ま、こんなものか」
ぱたんとファイルを閉じ、鞄に戻す。
そのまま、まっすぐ自分の部屋に戻り、気になったファイルの内容を、ベッドに横になりながら頭の中で反芻する。
注目すべきは二点。
どうやって麻奈可を殺害したのか、殺害方法。
なぜ麻奈可を殺害したのか、殺害動機。
やはり考えるべきなのは殺害方法だろう。
動機は……あまり考えたくない。紅野の話に触発されてか、麻奈可に対して殺意が生じるまでの暗い感情なんて、想像したくなかった。
打撲、のちに絞殺か。
殴るのにつかったものと首を絞めるのに使ったもの。
どっちも犯人の手によって持ち去られた後なのだろう、凶器はいまだ発見されず、である。
いったい殴るのに何を使ったのか、どのような過程で殺害に至ったか。
様々な仮説が浮かんでは消えるの繰り返しが、思考を埋め尽くしたが、どれも理屈に合わず、いまいちぴんとこないものばかりだった。
そんなことを、目をつむりながら考えているからか、気が付けば俺は眠っていた。