バッドエンドは認めない
第2話 バッドエンドは認めない
無常の風は時を選ばず、ということわざがある。
よく聞く言葉で言いかえるのなら、一寸先は闇というやつである。
青天の霹靂、塞翁が馬。
いかな平和な日常、平穏な日々を迎えていようと、その終わりがどのような形を迎えるのか。だれにも分からないというやつだ。
ごくごく当然だと思っている日々が、突然崩壊するときがやってくるかもしれない。
親しい人が、急病で亡くなるかもしれない。
身内の人が、事故に遭って死んでしまうかもしれない。
未来に何がおきるのか、0.1秒後のことなど、だれにも予想できないのだから。
そのような話を聞いた際、確かにその通りだな、と俺は思った。
その日常が、さも当然に崩壊することを、俺は一年前に知ったから。
もし姉さんがそんな話を聞いたら、きっと同意してくるのだろう。
その上に『だったら、だからこそ今私たちが受ける幸せを、ちゃんと受け止めなきゃ、もったいないでしょ』なんてポジティブな発言を加えてくるかもしれない。
ではもし、
もし妹がこの話を聞いたら、なんと言うのだろうか?
俺と同じように同意するのか。
それとも全く違う理屈をつけて、論破していくのか。
あの妹ならどちらでもありえそうだな、と俺は思った。
今の俺から言えることは、万が一そのような事態がまた起こった時には、冷静に対処できるだけの肝の太さを持っておかなければ、のちのち後悔することになるかもしれないということである。
でもそういったメンタルの強さはどう補えばいいのだろう?
やはり経験だろうか。
人の死に何度も立ち会うという経験。
……そうやって考えるとどっちもどっちに思えてきた。
人の死を飽きるほど見て感情の起伏を失うのも、
より少ない人の死でより深い絶望を味わうのも、
結果として残るのは碌なものではないだろう。
いや全く、
感情なんて本当に面倒なのを持っているものだ、人間は。
目を開けると姉の顔が目の前にあった。
姉がこちらを上から覗いているからか、天井の代わりに姉の顔を見続ける。
「……おはよう」
とりあえず挨拶してみる。
「うん、おはよ、弟くん」
姉さんはもう着替えたのか、服を見るとワイシャツとズボンを着ている。
「早いんだな、姉さん」
頭をガリガリとかきながら、ゆっくりと体を起こす。
「うん、まあね。仕事の呼び出しかかったし、あと十分もすれば出るところ」
時刻は六時半。俺が普段起きる時間より少し早い。
「そういえば、今朝はよく眠れたの?」
「ん、弟くんのおかげですっごくよく眠れた。絶好調! いまならなんでもできそう!」
姉さんはそう言いながら、笑顔で腕をぐるぐる回した。
「朝ごはん作っておいたから、それ食べて。弟くん遅刻しちゃだめよ? 社会人になったら遅刻はまじヤバいから」
了解、と返事しながらパジャマを脱ごうとボタンに手をかける。
「…………」
姉さんはそのまま、笑顔でこちらを見ている。
「……あの、着替えたいんですけど」
「あ、いやいや、私のことは構わず、どうぞ続きを」
「出てけ」
早く起きたせいか、学校には七時すぎに着いてしまった。
いつものように図書室に足を運ぶ。
昨日麻奈可と会う約束はしていたが、別に少し早く来ていても問題はないだろうと思った。麻奈可も時間は関係ないと言っていたし。
そういえば、俺が普段来る時刻より少し早く、あの紅野さんとやらは来ているんだったよな。
となると、はち合わせすることもあるのかな、と考えながら当たり前のように図書室の扉に手をかけ――――――
と、その瞬間。
手が止まった。
「――――あれ?」
この感覚。そして、この雰囲気。
覚えがある。否が応でも体が覚えている。
いつもの日常が、突拍子もなく崩壊する感覚。
現状を理解できず、思考を放棄したことでの空虚さ。
そう、それはあの時。いつものように家に帰宅したとき。
扉の向こうには血まみれの――――――
「……いやいや」
自分で考えておきながら首を振る。
ありえない。そんなことが簡単に起こっていいはずがない。
そもそも、その理屈で考えるのなら扉の向こうにいるのは、
「…………はっ」
笑ってしまう。そんなことを真面目に考える自分に笑ってしまう。
考えるだけ時間の無駄だ。馬鹿馬鹿しい。
そうして、いつものように扉を横に引く。
そうして、
そこには、
馴染みの顔が、
馴染まない顔で、
「……笑えねえよ」
愛崎麻奈可が死んでいた。
ポケットから端末を取りだし、電話帳から姉の番号を選択する。
コール音が二回程鳴った後、電話は繋がった。
『もしもし』
「もしもし、姉さん? 俺だけど」
『どうしたの? 今学校でしょう? 授業はどうしたの?』
職場にいるからか、姉さんは張りつめた声で聴いてきた。
「えっと、さ、こんなこと唐突に言われても信じないと思うんだけど」
『何?』
「人がさ、死んでるんだ」
『………』
「しかも今、目の前で」
『………』
「どうすればいいのかな?」
『………』
「もしもし、姉さん?」
『その人本当に死んでるの?』
「うん、呼吸していないし、脈もとったけど、なかった」
『そこはどこ?』
「図書室、学校の。一階の渡り廊下を通じたところ」
『人は呼んだ?』
「いや、まだ。俺が最初に発見したみたい」
『そう、とりあえず部屋から出て。余計なものに手を触れないように。誰か来たとしても通さないで』
「わかった」
『すぐにそっちに行くから待っていて。なにかあったらすぐに連絡……いや、やっぱ携帯切らないで、繋げたままにしておきなさい。あと私が着く前、にきっと他の警察の人がやって来ると思うから、落ち着いて話をしなさいね』
「わかった」
『ねえ、桐射』
「……なに?」
『気をしっかり持ちなさい。男の子でしょ』
「…………はい」
姉さんの言っていた通り、警察は電話した約五分後に来た。どうやら、地元の警察に姉さんが連絡を入れたらしい。
そして今、俺はパイプ椅子にぐったりと座っている。
後で話をするためか、空いている会議室で待機させられているのだ。
外が騒がしく、集団での生徒の声と足音が聞こえる。
死体があったのだ、当然学校は休校されることになるのだろう。
「………」
会議室の椅子に座りながら、図書室で見た麻奈可の死体を思い出す。
うっ血した顔、血走った眼。苦悶の表情。
死亡した際の影響か、スカートは失禁したことで濡れていた。
人が最期に見せるとしては、あまりにも衝撃的な姿。
十七になるまで生きていた以上、死体を見たのは初めてというわけではない。それどころか、もっと過激な死体を見たことだってある。
「……はあ」
しかし、麻奈可が。
顔を上に向け、ただ天井をじっと見つめる。
普段何気なく会話をしていた人物が、こうもあっけなく死んでいる姿を見ると、
「……やりきれねぇよな、これはさすがに」
ひとりぼやいていると、いきなり会議室の扉が開き、そこから二人の人物の姿が見えた。
一人は、見慣れた顔である俺の姉、藍上彩香である。
そしてもう一人は姉さんと同じくスーツ姿で、姉さんよりひとまわり年上の、三十代ぐらいの男性の姿であった。顔つきはごつく、無精ひげを生やしており、鋭い目でこちらを睨んだ。
「君が藍上桐射くんだね?」
男は太く割れた声でこちらのことを尋ねてきた。そして、警察手帳を見せて、
「警察庁刑事部捜査一課警部の氷山割見だ、悪いが君にいくつか質問をさせてもらうのだが……今、大丈夫かい?」
と言ってきた。
「あ、はい、大丈夫です」
「まあ、君のことは、こいつからいろいろ聞いてるよ」
と、表情を崩しながら、氷山さんは姉さんのほうを指差した。
「はあ……あの、ちなみになんて?」
「あー……、聞きたいかい? まあ凄く褒めてたよ、君のこと。具体的にどうと聞かれれば、言うけど……」
「……いえ、その、結構です」
「いや、こいつと飲んだ時、君のことについて聞いたら延々と話を聞かされたよ、ははは」
その場の空気を和ませ、話を聞きやすい雰囲気にするつもりだったのか、氷山さんは小さく笑う。
「…………」
そういえばいつの日か、姉さんが朝帰りだったことがあったな、と思い出した。
「氷山さん、雑談はここまでにして事件のことを聞きましょう。この子はさっき、死体を見たせいで精神的に参っているんです。早く話を切り上げて、帰らせてあげましょう」
姉さんは、今の会話に動じることもなく、冷淡に氷山さんに向かって話しかけた。
「おっと、そうだったな。悪い悪い」
氷山さんはそう言いながら、俺の近くの席に座り、手帳を開きながら聞いてきた。
「ええと、君が通報したのはいつだっけ?」
「七時すぎぐらい、ですね」
「正確な時間はわかる?」
「……姉さんに連絡したのが、確か」
端末から履歴を確認する。
「七時二十四分。だから、死体を見たのは七時二十分あたりですね」
「なるほど。朝に図書室には良く行くのかい?」
「ええ、ほとんど毎日。今日はいつもよりちょっと早かったんですけど」
「ほう、なんで今日に限って、早く?」
「それは……」
「それは私が今日早く起きたからです。そのついでに、彼を起こそうと」
姉さんが割り込んできて、代わりに答えた。
「氷山さんも呼び出されましたよね? 先日の起こった殺人事件について、新しい手掛かりがあったからって」
「あー、そうだったな」
忘れていた、と言いながら、彼はぽりぽりと頭をかいた。
「では次だ。図書室に行く途中、誰かとすれ違うことはあったかい?」
「……いえ、特には……いません、でした、ね」
瞑りながら俯いて、なんとか思い出そうとするが、心当たりは無かった。
「じゃあ桐射君。つらいことを思い出させてしまうかもしれないけれど、現場を見て、なにか気になるところとかあったかい?」
いままでのくだけた雰囲気から一変して、真剣な目で、氷山さんは俺を見た。まるで視覚が実体化したら、すぱっと切れそうな、そんな目つきだった。
「……それは、死んでいたこと以外で、ですか?」
「そう」
「……しいて言うなら、眼鏡が割れてたことぐらいですかね」
きっと犯行の際に割れたのだろう。
犯人ともめた時に、どこかにぶつけたのかもしれない。
あいつはインドア派だし、あまり力はなかったのだろう。せめて、鞄のように振り回せるものでもあれば、もしかしたら……いや、待て。鞄?
「鞄がない……」
「うん?」
「図書室に鞄がありませんでした。普段あいつのそばに置かれていたはずなのに、あの場にはなかった」
「教室に置いていったのでは?」
「いや……、それはだぶん、ないと思います。あいつはいつも学校に着いたら、まっすぐに図書室に行くんです。そしてホームルームまで本を読む。わざわざ教室まで、置きに行く理由がないんじゃあ……」
「後で確認させます」姉さんが氷山さんに言う。
「ふむ、となると、物取りの犯行がでてくるな……」
「そうでしょうか? わざわざ学校のような、人気の多いところで物取りをする必要があるとは思えませんが」
「そうなんだよなぁ……。となると、鞄の中になにか重要なものでも入っていたのか?」
「そう考えるのが妥当でしょうね、もしくは犯人の痕跡が鞄についた、とか」
姉さんと氷山さんは、無くなった鞄について話し始める。
「あの、すいません」
どうしても確かめたいことがあったので、手を挙げて、質問する。
「ん、どうしたんだい?」
「あいつは……麻奈可は、誰かに殺されたのは間違いないんですか?」
「断言はできないけれど、おそらくそうでしょうね」
俺の疑問に、姉さんが答える。
「彼女の遺体には、首が絞められていた跡があった。それも後ろから絞められたような特徴的な跡が。それに、うっ血した様子も見られたし、そう考えて」
「あまりべらべらと事件のことを話すなよ、彩香」氷山さんが姉さんの言葉を切らせる。
「すいません。しかし、彼は被害者の友人でしたし、第一発見者でもある。それぐらいは教えても大丈夫でしょう?」
「それを判断するのは、上司である俺だ。まあ確かに、それぐらいなら構わないがな。だが彩香。これ以上事件に関することは、この子に話したりするんじゃないぞ」
「はい、わかっています」
姉さんは静かに、氷山さんに軽く一礼した。
氷山さんは、こちらに顔を向き、
「悪いね、少し見苦しい場面を見せてしまった。今日のところは、話はここまでにしよう。後日日を改めて話を聞くかもしれないから。なにか思い出したら、こいつに言いなさい」
氷山さんは親指で姉さんを指した。
「はい、わかりました」
俺は一礼すると、席を立った。
「ああ、そうそう、あと一つ聞きたいことが」
ふと思い出したように、氷山さんは顔を上げ、聞いてきた。
「君さ、被害者の愛崎麻奈可さんと付き合っていたのかい?」
「……いいえ」
俺は首を横に振った。
学校から出る際、月海先生に会い、大丈夫かどうかを聞かれ、生返事で答えた。そして明日も事件のことがあるので学校は休校です。他の皆はもう帰りましたよ、と言われた。
身内ということもあるので、付き添いとして姉さんと一緒に帰ることになった。
「ねえ、弟くん本当に大丈夫? 具合悪くなったりしてない?」
アパートに着いたところで、姉さんの口調がいつもの柔和なものへと変わる。
「大丈夫だって。ほら、俺死体見るの、これが初めてというわけじゃないし」
手をひらひらと振り、平気であるジェスチャーを取る。
「………」
姉さんは黙ってこちらを見つめる。
「それじゃあ、私はまだ捜査があるから、弟くんはここでゆっくりしてなさい。なにかあったら呼んでね。すぐに駆けつけるから。それと、上司の人には早めに帰るように言っておくから。たぶん五時ぐらいには帰ってくると思う。それじゃあ」
「待って、姉さん」
姉さんを引き留める。
「ん、どうしたの?」
「あのさ」
このことを聞こうか聞くまいか一瞬迷ったが、言わずにはいられない。
「俺ってさ、疑われてる?」
「……あなたがそんなこと気にする必要はないわよ」
俺の疑問に姉さんはそっけなく答える。それだけで、答えには十分だった。
「安心しなさい、犯人は必ず私たちが捕まえてみせるから。姉さんを信じなさい」
俺の不安を読み取ったのか、姉さんはそう言って、俺の頭を優しく撫でながら元気づける。
「わかった、それじゃあ行ってらっしゃい」
「はい、行ってきます」
姉さんがアパートを出てから、部屋に戻り、居間のソファーにどかりと座って、天井を見る。
ふう、と大きく息をつく。
「………」
さてと。これから何をしようか?
暇になっちゃったな。
まあとりあえず、まずは服を着替えなければならない。いつまでも学生服というわけにはいかないし。壁にかけてある時計を見る。時刻はまだ午後にも回っておらず、昼食には早い。じゃあ部屋の掃除でもしようか? いや、掃除ならこの前かけたよな。姉さんが帰ってくるまであと七、八時間といったところか。受験生なのだからやっぱり勉強するか? 否、せっかくの休校なんだし、なにか好きなことでもやるか。そうだ。この前録画しておいたドラマ、見ておかなくちゃ。昨日姉さんが買ってきたゲームをやるのも良いかもな。あれ、けっこう面白かったし。いや、でも白昼堂々、午前からゲームをするのは若者としてどうなのだろう? まあ別に大丈夫か、誰も見てないわけだし。……でも、あれ一人でやっても絶対面白くないよなぁ。ところで夕食はなににしようか? 姉さんも一緒食べるわけだし、なにか凝ったものでも作ろうかな。じゃあ下ごしらえをしておかなくては。食材はあっただろうか。あ、しまった。大切なこと忘れていた。以前図書室で借りた本、確か返却期限が明日までだった。どうしよう、明日休校なんだけど。まあ、事件のこともあるわけだし、少しぐらい超えても大目に見てくれるだろう。ああ、でも、図書室っていつ開くんだろう? 捜査のこともあるわけだし、しばらくは出入り禁止になりそうだよな。姉さんが帰ってきたときにでも聞いてみようか。何にしても、これから図書室に入る人は確実に減るよな。なにせ死体があったわけだし。いや、逆に殺人があった現場として、野次馬どもが押し寄せるかも。そうだったら、居づらくなるよなー。俺はあの人気のない静かな図書室が気に入っているわけで
いやいや、待て待て。
何言ってんだ、俺。
何考えてんだ、馬鹿か?
人が死んだんだぞ。親友が死んだんだぞ。何呑気にゲームだ、本だ考えてんだ?
もっと、こう、悲しむとかそういうことしろよ。
それが人が、親友が死んだことに対する考え方か?
そういう場合は、死に対して憐れみと哀しみを持つのが普通じゃないのか?
いやそもそも普通ってなんだろう?
常識的にそうだから、皆がやってるから、習慣だからやるのか?
それこそ失礼じゃないのか?
じゃあなんだ、哀しくないのか?
いや、哀しいよ?
じゃあ、哀しいそぶりでも見せた方がいいんじゃないのか?
見せるって、誰に?
ここには誰もいないけど?
いや、ここには自分がいる。
自分の気持ちをはっきりと出すためにも、
感情表現。しっかりとしなくちゃ。
えーと、
俺は、親友が死んで、とても哀しいです、と。
小学生の作文か。
それはないわ。
全然哀しそうに見えないんだけど。
哀しいんだったら、泣けよ。
こう、顔をぐしゃぐしゃにして、大声で泣くとか。
俺のせいで死なせてしまったって、泣くとか。
ん? いや待て、俺のせいか?
おまえのせいだよ。
いやいや、なんで?
だって、おまえがもう少し早くあいつのところに来ていれば、あいつは死なずに済んだのかもしれないんだぞ。
いや、そんなのわかるわけないだろ。
今日死にます、なんて連絡来たわけでもないし。
だいたい、今日はたまたま早く来ることがあったから、俺が第一発見者ということになったんだぞ。そのせいで疑われることになっちまったし。迷惑だ。大迷惑。迷惑千万。
見たくもないもの見ちゃったし。
ああ、もういちいちうるさいな。いいから泣けよ。慟哭しろ。
なんだよ、泣くこともできないのかよ?
両親が死んだときも泣かなかったよな、お前。
泣くのを我慢してんのか?
泣くのを我慢するのが男らしいとか、そういう教育受けてきたのか? 違うだろう?
ああ、でも――――
「まだ、泣けない」
だって、まだ何も終わってない。
泣くことは、認められない。