第七十一話 夜長
1
官舎に戻った井上は、自室で晩酌をしている。
結局あの後、沖田の一言でお開きになった。
「バカ言ってんじゃねーよ」
それ以上は話をせずに沖田と別れた。
実際、あの異人は今どこでどうしているのか。
あの目立つ風貌では、どこに行っても隠れ切れない。
いっそ山の中にでも籠っているのか。
井上はふと、異人が逃げ出した日のことを思い出す。
弥彦が半泣きの表情で朝早く井上を呼びに来たが、長屋に着いてみると仕事に行く前の安斎が井上を待っていた。
井上の顔を見ると、すぐに安斎が口を開く。
「どうやら・・寝でる間に逃げ出したらしい。わだしもまっだく気付がながった」
飄々と答える安斎を見て、井上はひょっとして安斎が異人を逃がしたのではないかと思った。
だが、それ以上は何も訊かなかった。
「す、すんまへん。旦那。わし、ゆんべは無性に眠とうて・・いつの間にやら寝込んでまいましたんや」
弥彦は落ち込んだ声で何度も頭を下げる。
「・・しゃーねーなぁ」
井上が心配していたのは居留地付近で頻発している夷人斬りだった。
攘夷浪士が外国人を町中で襲う事件が多発している。
(チ・・)
心の中で舌打ちをしながら善後策を考える。
異人の身元が分かったら、大騒ぎにならないようになんとか送り届けるつもりでいた。
だが、あの異人は身元が分からず、井上も正直困り果てていたところだった。
(どうすっかなぁー・・つーか、もうどうもなんねーのか)
頭を掻く。
すると、安斎のいつもと変わらぬ声が聞こえてきた。
「わだしはもう診療所さ行がねど。井上さんも弥彦さんも、もう仕事さ戻っでけれ」
2
斎藤は部屋で、任侠者の絵草子を読んでいる。
平成で言うところのヤンキーマンガだ。
「マジかっけー・・・オレぁ、どこまでもついていきますぜ」
部屋にいるシンの存在は忘れ果てて、ぶつぶつ独り言を言いながら読み進む。
そこに障子が開いた。
顔を上げると原田が立っている。
「斎藤、来い。呑むぞ」
それだけ言うとスタスタと歩き出す。
斎藤は息をつくと、仕方なく立ち上がって部屋から出ていく。
部屋にはシンが残された。
シンは近頃、ちょくちょく部屋で1人になる。
(オレって確か、見張られてんじゃなかったっけ?)
原田が廊下から玄関前を通りかかった時に、ちょうど井上と別れた沖田が戻って来た。
「おー、総司?どこ行ってたんだよ。ちょうど良かったぜ、おめぇも来いよ」
「え?」
突然、原田に声をかけられて沖田が迷っていると、斎藤が現れた。
「斎藤、いま左之さんに呼ばれたけど・・なんだ?」
沖田が親指で原田が消えた方を指す。
「黙って来い、総司。呑みだよ、呑み」
斎藤が力無く言う。
「うぇっ」
沖田が声を漏らす。
「新八っつぁんと左之さんにゃあ、付き合えねぇよ」
沖田が玄関を上がって自分の部屋の方を向くと、斎藤が肩に手を置いた。
「いーから・・・・来いってば」
斎藤の目を見ると、イヤとは言えなくなった。
3
部屋ではすでに永倉と原田が、椀に注いだ酒をグビグビと呑みほしている。
「お、総司。斎藤、来たか。まぁ座れ」
永倉に声をかけられ、仕方なく2人はあぐらを組む。
「まぁ、呑め」
原田が椀になみなみと酒を注ぐ。
「オレぁ、そんなに呑めねぇですよ。左之さん」
沖田が仕方無く椀に口をつける。
「うん?知ってるか?山野がやまと屋の娘とイイ仲らしいぜ」
永倉が面白そうに話し出す。
やまと屋というのは壬生寺の後ろにある水茶屋だ。
そこの娘が評判の小町娘で新選組の隊士たちもこぞって通い詰めていたが、どうやら山野と恋仲になったと言うのだ。
「まぁ、オレが女でも山野を選ぶよなぁ」
原田が笑いながら答える。
山野八十八(ヤマノヤソハチ)は隊で評判の美少年だ。
愛想が良い上に腕も立つので、土方などからも気に入られていた。
どうやら、今夜はただの呑みらしい。
ヤバそうな話が出てこないので、沖田と斎藤はホッとしている。
久しぶりに永倉と原田の部屋に来た沖田は、キョロキョロと辺りを見回す。
部屋の隅には、任侠草子(ヤンキーマンガ)や春画(エロ本)が散らばっている。
「男臭ぇ部屋・・」
沖田が小さくつぶやく。
「あーなんだよ?総司。おめぇもいい加減に大人の階段登んねぇとなー、おかしな道に入っちまうぜー」
原田がからんでくる。
「いつまで貞操守ってんのよ、総司くんてば。さっさと捨てちまえってー」
「左之さん・・もう酔ってんすか?」
沖田がやんわりかわす。
「あー?酔うかよ、これっぽっちでよー」
原田が言うと、永倉が続ける。
「おめぇ、女遊びしねぇからなぁ。あっちの世界の住人じゃねぇかって思われてんぜー」
「あっちの世界?」
沖田が訝しそうな顔をする。
「衆道(男色)だよ」
永倉が親指を立てた。
「はぁぁー!?」
沖田の声がひときわ高くなる。