第五十六話 長屋
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井上は、長屋の前に立っている。
安斎の家はカラッポのままだ。
異人を助けた日から、ほとんど毎日この長屋に来ている。
無理に異人を預けたが、何かあったらと弥彦と交代で見張っていた。
だが、あの火事の後からここは無人のままだ。
中に入って見まわすと、生活していた跡がそのまま残っている。
暇をみつけて探しているが、安斎の子供たちは行方不明のままだ。
安斎が亡くなったと聞いて、井上は京の町を巻き込んだバカバカしい戦を呪った。
後悔しても遅いが、安斎に迷惑をかけたことを悔やむ。
いくら医者でも、小さな子供がいる家に身元の知れない異人を預けるなぞありえない。
安斎の人柄に井上はいつも甘えてきた。
長屋の中に入って板の間に腰を下ろし、足を組んで肘をつく。
せまい部屋に、異人の身体が横たわっていたのを思い出す。
さぞ窮屈で大変だったろう。
あの異人は、次の日には布団の上で上半身を起こしていた。
見張っていた弥彦に呼ばれて井上が来た時、安斎の手から重湯をもらって飲んでいた。
「おっす、先生」
井上が入ると、安斎が顔を上げる。
「ああ、井上さん」
「へぇー、もう起き上がってんじゃねぇか」
井上が重湯を飲んでいる異人を見る。
異人も井上を見たが、すぐに目を落とす。
瞳は昨日見たまま金を帯びた薄茶だが、朝日の中で禍々しさは無く琥珀のような美しさだ。
井上は板の間に上がり込んで、異人のそばにあぐらをかく。
「よぉ、オレの言葉が分かるか?」
井上の声に異人は振り向くが、黙ったままだ。
「ダメだよ、井上さん。無理させちゃ」
安斎が答える。
「骨ど内臓にゃ異状ねぇが、全身打ち身だらけで崖がら突き落とされだみでぇなもんだ」
井上が息をつく。
「言葉は分かるのか?」
「いや・・起ぎでがら一言も喋っでねぇ」
安斎と井上が同時に異人の顔を見た。
異人は椀を両手で支えて、行儀良く座っている。
ケガをしているからだけでなく、どうやら大人しい。
井上は少し安堵した。
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「チビっこたちは?」
井上が部屋を見まわす。
「子守りさ預げだ。わだしも診療所さ行がねばなんね」
「おう、先生。留守番はオレと弥彦でやっとくから、気にせず仕事に行ってくれ」
やれやれといった感じで安斎は笑った。
「じゃ、行っで来る。鍋さ粥入っでっから、昼にこの人さ喰わせでやっでけれ」
安斎がでかけた後、井上は弥彦に見張りを頼んで自分も仕事に行った。
弥彦は入口に立っているだけで、長屋の中には絶対に入らない。
昼頃になって、井上がまた長屋に戻る。
「どうだ?様子は」
「なんも・・変わりありまへんで」
玄関から中に入ると、異人は布団に横になっている。
井上に気付いて、ゆっくりと身体を起こす。
「よぉ、どうだ?身体は」
井上は草履を脱いで板の間に上がる。
異人は黙ったままだ。
どこから来たか分からないが、どのみち通訳を呼ぶことは出来ない。
井上は身振り手振りで会話を試みる。
「腹減ったろ?」
わざとらしく腹に手をあてる。
「なんか食えそうか?」
箸で椀をすくう仕草を真似てみる。
すると、異人がほんの少し頷いたように見えた。
井上は立ち上がって、炊事場の鍋に入った粥を椀に盛って運ぶ。
異人に箸とお椀を手渡した。
すると以外にも、慣れた仕草で箸を使い、粥をすすり始める。
(こいつ・・)
井上は異人の様子をさりげなく伺う。
「あんた、どっから来た?」
井上が訊くと異人はふと顔を上げたが、言葉が分からない風に顔をかしげ、また粥をすすり始めた。
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その後も、井上は色々な質問をした。
異人は終始、曖昧な表情で黙ったままだ。
「国はどこだ?」
「船で来たのか?」
「いつこの国に来たんだ?」
「仲間はいねぇのか?」
「なにしに来た?」
何を訊いても答えないので、井上はふぅーっと息をつく。
「アンタを襲ったチンピラ連中が、アンタは鳥居の門から現れたと言っていた」
鳥居の門がいきなり真っ黒になって、そこから鬼が現れた。
連中が言っていた荒唐無稽な話を思い出す。
「まぁ、鬼と思い込んだ連中の幻覚かなんかだろうが、なんだってあんなとこにいた?」
すると布団に目を落としたまま、異人が口を開く。
「I'm not a foreigner」
異人の声を初めて聴いた井上は、驚いて弾かれたように顔を上げた。
「なんだ?いま、なんつった?」
しかしその後、異人が口を開くことは無かった。
井上はいまいましく溜息をつく。
(ったく・・やっかいもん、しょいこんじまったぜ)
井上自身、どうしたらいいものか考えあぐねていた。