第四十五話 井上
1
二条城の南に位置する東御役所は、江戸幕府が設置した奉行所である。
沖田は門の警備に身分を伝え、取り次いでもらう。
入口で待っていると、ほどなくして井上大助が現れた。
「よう、総司。どうしたんでぇ、珍しいじゃねぇか」
井上は生粋の江戸っ子だ。
もとは八丁堀の同心だが、転出して京の奉行所に来ている。
沖田と同じ年で、風変りな役人だ。
「あの医者の家にゃあ、誰もいねぇぞ」
挨拶もなく、沖田が話し出す。
「・・おめぇ、行ったのか」
「ああ」
沖田が頷くと、井上は軽く息をついた。
「あの先生は、おめぇらが起こした鉄砲焼けで死んじまったよ」
沖田は黙っている。
「診療所からは逃げたらしいが、遅れた連中を助けに戻ったらしい。火事場じゃあ、我先に逃げ出したモン勝ちだ」
井上の言葉を聞きながら、沖田は安斎という若い医者の柔和な顔立ちを思い出した。
「あの異人は・・どうしたんだ?」
沖田が訊くと、井上は空々しい顔をする。
「ああ・・火事の前にいなくなっちまったらしい」
「どういうこった?」
沖田の顔が険しくなる。
「逃げたんだろ。いいんだよ、ほっときゃ。別段、だれも困っちゃいねぇだろ」
井上がわざとらしく適当に答えるのを沖田が遮る。
「おめぇ・・わざと逃がしたんじゃねぇだろうな」
「・・オレぁ、そんなお人良しでも、おせっかい焼きでもねぇよ」
井上は独特の読めない表情をした。
2
昼までかかって、やっとシンはいいつけられた洗濯を終わった。
実際3分の2は環がやったが。
不慣れなシンは、てきぱきと作業をこなす環を見ながら、見よう見まねで手を動かした。
「ありがとう、助かったよ」
シンがお礼を言うと、環はニッコリ笑う。
「お互い様。そっちもなんかあったら力貸してよね」
シンより年下なのに、まるで年上ぶった口ぶりだが、不思議と生意気な感じがしない。
実はシンは、新選組の屯所から逃げるつもりが無い。
不本意に捕まって連れて来られたが、屯所にいるのはシンにとって好都合だ。
自分と環と薫の3人が意図的に江戸時代に落とされたのだとしたら、なんらか共通点があるのではないか。
シンは薫と環のことを知りたかった。
そのためには怪しまれないように下働きに徹して、身を潜めようと思っている。
それに市中見廻りをしている新選組の中にいれば、赤い鬼の噂話がどこからか入ってくるかもしれない。
メシ屋であの噂を聞いてから、その後はどこからも赤鬼の話は聞こえてこない。
鳥居から現れた赤鬼が教授なら、禁門の変の火事が起きる前に元の時代に帰った可能性もある。
ここでシンの考えが行き詰まる。
赤鬼が教授だとしても、すでにこの時代にはにいないかもしれない。
だとしたら、もう元に時代には戻れないのか。
自分はともかく、薫と環はいったいどうなるのか。
この江戸時代で、このまま生きて行けというのか。
新選組は、崩壊する幕府の船に最後まで乗り続けることになるのに。
3
台所で、薫と環は一緒にお昼を食べている。
火事の後まだ食料が不足気味で、漬物と味噌汁と白米だけの質素なものだ。
薫と環も、最近はオカズなしで白ゴハンだけ食べられるようになっている。
「さっき、シンが庭で洗濯してた」
環が白ゴハンをほおばりながら話す。
「洗濯ぅ?」
薫が訊き返すと環が頷いた。
「うん、サンナンさんにいいつけられたって。こーんな山盛りの」
環は手で大きく円を描く。
「へぇ・・でもしょうがないよ。ただでゴハン食べさすわけにいかないもん。働かざる者食うべからず」
薫はシビアだ。
環は続ける。
「わたしもちょうど洗濯あったから一緒にしたけど、なんかイメージ違うんだよね」
「イメージ?」
薫が訊くと環が頷く。
「うん。シンってなんかこう・・冷たいっていうか、あんまり感情豊かな感じがしないじゃない」
「うん」
「話すとそうでもないんだよね。なんていうか・・フツーっていうか」
環の言葉を薫は繰り返す。
「フツー?」
「けっこう気ぃ使いしぃだし。普通の、良い人って感じ」
「へぇ」
薫が笑う。
失礼な話だが、薫も環も自分たちより年上のシンを呼び捨てにしている。
シンもそんなこと気に留めていないようだった。
目上の人間を呼び捨てするなど普段は絶対にしないが、シンに限っては最初から「シン」だった。
いまさら「アカギさん」だの「シンくん」だのに変えられない感じである。
仲間意識のような連帯感が3人に生まれていた。