第三十話 伏見
1
「ごめんなさい。町がメチャクチャで進めなくて」
環が謝ると、薫の方は少し不機嫌な声を出す。
「どうしてこんな日に?ずっと姿を見せなかったのに」
シンの表情は暗闇で見えない。
「話があると言ったろう」
抑揚の無い声で続ける。
「オレも、あんたらと同じで元の時代に戻れないでいる」
薫と環は黙って聞いている。
「どうやらオレ以外にも、オレの時代からここに来てるヤツがいるらしい。そいつを探す」
「誰なの?それ」
「研究チームの責任者だ。大学の教授だよ」
「教授?そ、その人に会えば元に戻れるの?」
環が訊くと、シンは顔を下に向けた。
「分からない。だが考えると、今回のことはどうやら事故じゃないようだ。オレたちはわざとこの時代に足止めされてる」
「わざと?」
薫が低い声で訊くと、続けて環が訊いた。
「オレたちって・・わたしと薫もわざと江戸時代に?」
「おそらくな」
シンが2人の方に向き直る。
「最初から不自然な事故だった。座標の計算ミスにしては上手く行き過ぎてる。平成の鳥居になぜ数値が合っていたのか」
薫と環は呆然とした。
誰かが自分たちをわざと江戸時代に?
「どうしてそんなこと」
環がつぶやく。
「オレが訊きたい。あんたたちは心当たりは無いのか?」
シンの質問返しに、薫が声を高くする。
「あ、あるわけないじゃない!あたしたちが江戸時代にタイムワープするなんて・・」
シンは黙って町の方を見た。
夜が深まっても、町の灯は消えることがないようだ。
2
薫と環はしばらく座り込んで考えたが、どんなに考えても自分たちが江戸時代にタイムワープする理由など思いつかない。
「もう戻らなきゃ」
薫が立ち上がる。
屯所から抜け出して来たが、出陣している隊士が気になる。
「町には戻らない方がいい」
シンの言葉に薫が訊き返す。
「どうして?」
「今日は禁門の変の日だ。長州軍と幕軍の戦が起こる。町に戻るのは危険だ」
薫と環が目を合わせる。
「禁門の変?」
「長州が兵を上げて御所に攻めいる。戦は長州の敗退で終わるが、町で大火事が起きる」
薫と環が目を見開く。
「3日間燃え続けて、町の3分の2が焼失する」
シンの声は淡々と続く。
「3分の2が・・」
環がつぶやく。
いったいどれだけの町家が無くなるのか。
「元治の大火だ」
「あたし屯所に戻る。このこと伝えなきゃ」
薫が言うと、シンがさらに言った。
「火元の原因は、長州の敗残兵の放火とも、幕軍や新選組の砲火によるとも言われている」
「新選組が・・」
もしかしてシンは、このことが分かっていて、自分たちを鳥居まで呼び出したのかもしれない。
「やっぱり戻る」
薫が歩き出すと、環が立ち上がった。
「待って、薫。わたしも行く」
「よせ」
引き留めるシンの声が聞こえたが、振り返らなかった。
3
会津藩と新選組が筋違橋で大垣藩と合流した時、すでに長州藩は退却を始めていた。
「大将の福原越後は、流れ弾を顔面に受けてすでに退却しています」
先に馬で移動していた山崎が、近藤と土方に戦況を伝える。
「チッ」
土方は舌打ちする。
なんのために来たのか分からない。
こうしている間にも、嵯峨の主力部隊が洛中に進軍を始めているかと思うと、いても立ってもいられない。
「くそ!」
福原隊が退却を始めたとなると、追撃するか否かだ。
「どうする、近藤さん」
土方の問いかけに近藤が答える。
「福原を取り逃がしちゃあ、ここまで来た意味がねぇだろう」
近藤の言葉で追撃を開始したが、伏見の長州藩邸に辿り着くと、すでに藩邸は燃え落ちている。
家老の福原は淀川から船で逃げ出し、墨染まで追った新選組は首魁を取り逃がした。
その時、土方が京に散らした監察方が戻って来た。
「国司信濃隊が進軍を開始して、御所の中立売門で一橋隊を破りました」
見上げると、京の夜空に火煙が立ち登っている。
「近藤さん、すぐに京に戻るぞ」
土方が言うと、近藤が首を振った。
「だめだ。見ろ、トシ」
隊士は一睡もせずに動き続けて、敵と一戦も交えていないのにフラフラの状態である。
「少し隊士たちを休ませんと」
「休むヒマなんざねぇよ」
近藤と土方が遣り取りしているのを組長が遮った。
「土方さん、四半時でいいからこいつら寝かしてやってくんねぇか。休むヒマがねぇのは分かってるが倒れちまう」
永倉と原田である。
「こっから京までは3里ですぜ。どうにも間に合わねぇ」
沖田が言う。
斎藤と藤堂は黙っているが、同じ考えのようだ。
「みな、少し休め」
近藤が言うと、土方は何も言わずに溜息をついた。