第百二十一話 蛍
1
角屋の一室で、羽虫はどうしたものかと困っていた。
沖田の様子がおかしい。
沖田は羽虫を呼ぶと、いつもたわいない話をして笑わせてくれた。
だが・・今日は部屋でずっと酒を呑んでいるのだ。
沖田は病のこともあって、あまり酒を呑まなくなっていた。
しかし今日は、部屋に来てから隅の方であぐらをかいて、ひとり手酌で杯を傾けている。
「もう・・およしやす」
羽虫が沖田の杯を取り上げると、沖田は不満気な顔をする。
「今日はいんだよー。だって、送り酒だから・・」
「送り酒?」
「・・・」
沖田は黙ったままだ。
羽虫は優しくなだめる。
「毒どすえ、そないな呑み方」
沖田がお銚子に手を伸ばそうとするので、羽虫が取り上げようとする。
すると逆に、沖田に手首を掴まれてしまった。
お銚子が転がって、中に残っていた酒が零れて畳を汚す。
羽虫が慌ててお銚子を拾おうと手を伸ばすと、腰を浮かした羽虫の膝裏に沖田が腕を差し入れて、あぐらの上に羽虫の身体をのせた。
羽虫が驚いて沖田の顔を見ると、全く酔っていない。
沖田は羽虫を姫抱っこしたままで立ち上がると、赤い布団の上に羽虫を運ぶ。
羽虫の身体を横たえ、顔の横に両手をついた。
「姐さん、この帯解くぜ」
そう言いながら、片手で羽虫の帯を引っ張る。
羽虫は床入り用の緋無垢を着ている。
「蛍や。ウチの名前」
羽虫がニッコリ笑う。
まるで花が咲いたようだ。
「・・ホタル」
沖田は低くつぶやくと、羽虫の顔にすこし自分の顔を近付ける。
「大丈夫だ。唇にゃあ、触れねぇ」
羽虫の帯が完全に解かれる。
「首につかまってろよ」
そう言って、羽虫の耳元に顔を寄せた。
2
沖田に言われた通り、羽虫は沖田の首に両手を回してしがみついていた。
沖田は力が強く、羽虫のカラダをまるで紙人形かなにかのように軽々と扱う。
か細い声を上げる羽虫は、沖田の動きに合わせて時折声が高まった。
事が終わった後、羽虫は着替えている沖田の胸に身を寄せた。
もしかして拒否されるのではと思ったが・・沖田は片手で羽虫を抱きよせると耳元でつぶやいた。
「・・ありがとな」
まわした手を降ろすと、そのまま「あばよ」と言って床入り部屋から出て行った。
「また来る」とは言わなかった。
部屋に残った羽虫が、鏡をのぞき込む。
着物の合わせ目から、肌があらわに映って見えた。
首筋から胸・・ヘソの近くまで、沖田が残した痕(しるし)が朱く散っている。
それを見ていたら、涙がこぼれてきた。
あのテレ屋で少し寂しがりな青年は、もう自分に逢いに来ないだろう。
そんな気がしていた。
頬を伝う涙を指でぬぐうと、羽虫は思わずつぶやいた。
「あれぇ・・なんやの、これ。おかしなぁ、ウチ」
膝をかかえて、自分の足に顔を埋める。
遊女は客に惚れるものじゃない。
寝るのはあくまで仕事だ。
赤いふとんの上で交わされるのは愛じゃない。
だが・・
仕事だと分かっていても、割り切れない感情が生まれることがある。
そのことを初めて知った。
思ったより涙がドンドン溢れてくるのが、自分でも不思議でならなかった。
この涙が乾く頃には、こんな気持ちは消えてなくなる。
そう自分に言い聞かせていた。
3
屯所の玄関の板の間に、薫が座り込んでいる。
「沖田さん、ひとりでどっかに出かけたよ」
シンが言っていた。
沖田が門からフラリと出るところを、前川邸から八木邸に来る時に見かけたのだ。
(大丈夫かなぁー・・)
薫は沖田が心配だった。
山南の介錯をして、その後ひとりででかけるなんて・・どう考えてもアブナッカシイとしか思えない。
薫の涙は止まった。
山南のことを思い出すとまた流れて来るので、なるべく考えないようにする。
(そろそろ門限だけど・・)
薫はかじかんだ手に息を吹きかける。
門の方からフラリと歩いて来る沖田の姿が見えた。
肩に羽織を引っ掛けている。
薫が思わず立ち上がる。
玄関から外に出て、歩いて来る沖田の方へ走り寄る。
「沖田さん!」
薫の声に、沖田が顔を上げる。
不思議なモノを見るようなカオをしている。
「なにやってんだ?おめぇ」
「よかった・・帰ってきたぁ」
薫は心底、安心した声を出す。
「・・・」
沖田は黙って、薫の顔を見ている。
ついと目を逸らすと、羽織を掴んだ手首に白粉が着いてることに気付いて、思わず手を下ろす。
「ガキが夜更かしするもんじゃねぇぞ。さっさとションベンして寝ろ」
いつもの口調に戻って、沖田がさっさと歩き出す。
横を通り過ぎる時、ふと甘い香りが漂った。
薫が振り返って、沖田の背中を見る。
(・・オンナの人の匂い?)
沖田の背中は、いつもより遠くに感じられた。