第百十七話 大津
1
馬の足を休めながらだったので、京から直線十数キロの大津まで来るのに1時間近くもかかった。
宿場町の外れに来ると、沖田は記憶を辿る。
以前、療養していた山南の見舞いに何度か訪れたことがあった。
山南の常宿に向かうと、旅籠の主人に尋ねてみる。
すると、驚いたことに本名で宿を取っていた。
山南は湯屋に行ってるようだった。
沖田と薫は近くの水茶屋で待つことにする。
薫はお尻が痛くて、馬から降りれるならどこでも良かった。
身体が冷え切って、熱いお茶を飲んでやっと温まる。
すると・・
「あら、沖田くん。薫ちゃん」
聞き慣れた声がして、振り向くとそこに山南が立っている。
湯屋からの帰りで、髪の毛の先が濡れていた。
沖田が無言で立ち上がる。
(フツー・・逃げてる時、自分から声かけるかなぁ)
沖田は言葉が出てこない。
薫も慌てて立ち上がる。
「なんだ。あなたたちが追手なの?土方さんもニクイ事するわね」
山南はにこやかに話し続ける。
「ホラ、宿に入りましょうよ。せっかく湯あみしたのに冷めちゃうわ」
山南に誘われて、沖田と薫も一緒に旅籠屋の玄関をくぐった。
2
山南が取ったのは、ひとりにしてはかなり広い部屋だった。
「寒かったでしょう」
山南が宿から借りた茶道具で、煎じた茶を淹れる。
「どーぞ」
出されたお茶を、沖田と薫がすするように飲む。
「それで・・これからすぐ屯所に戻ればいいのかしら?」
いきなり山南が本題に入る。
「サンナンさん・・」
沖田は茶碗を畳の上に置く。
「困ります・・遠出すんなら、誰かに一声かけてもらわないと」
沖田の言葉に、山南がクスクス笑い出す。
「脱走する時、わざわざ声かける人なんていないわ」
薫が思わず、横にいる沖田の方を見る。
山南からハッキリ"脱走"と言われて、沖田は返す言葉を探した。
「・・なんで・・」
「なんでかしらね・・良く分からないわ。"そうしたかったから"とか?」
「・・・」
しばらくの沈黙の後、口を開いたのは薫だった。
「沖田さん。あたし今日もう、馬に乗れません。お尻の皮が剥けてると思います」
めずらしく弱々しい声だ。
沖田は目を開くと、息をついた。
「しゃーねーな・・じゃー、今日はこの宿に泊まってくか」
「今日、満杯のはずよ」
山南が口をはさむ。
「・・この部屋に泊めてもらえませんか?」
沖田が訊くと、山南は少し驚いた顔をしたが、笑って立ち上がる。
「宿の主人に訊いてみるわ。お布団と晩御飯追加してもらえるかどうか」
山南が部屋から出て行くと、薫がボソリとつぶやいた。
「いーんですか?沖田さん。・・土方さんに怒られちゃいますよ」
「っ・・おめーが"もう馬に乗れねぇ"って言ったんだろーが」
沖田が声を上げる。
2人で言い合っていると、山南が戻って来た。
「大丈夫みたい。今夜は3人で川の字ね」
3
宿の料理を食べながら、3人でたわいない話をした。
脱走の理由とか・・新選組のこととか・・そんなことは口にしなかった。
外は雪が降り始めている。
「誰かに作ってもらった料理って、ホントおいしいなー」
焼き魚をオカズに、薫がゴハンをパクパク食べている。
「薫ちゃんの料理が一番おいしいわよ」
山南がうれしいことを言ってくれる。
「沖田くんも、薫ちゃんの味付けになついてるものね」
「・・オレは犬ですか?」
沖田がボソリとつぶやく。
山南はクスクス笑いながら続ける。
「沖田くんは犬より猫じゃない?飽きっぽいし、ゴロゴロしてるし」
山南が言いたい放題言うので、沖田はややムッとする。
「沖田さんって極端ですよね。ダラダラしてるかガツガツしてるか・・どっちかしか見たことないな」
薫が山南に便乗する。
「うるせぇよ・・黙ってろ」
沖田がブスッとする。
「なんなんだ・・この流れ」
山南と薫がクスクス笑っている。
食事が終わると、部屋に3人分の布団が敷かれた。
山南、薫、沖田の順で布団に入る。
冷たい布団が体温で温まるまで寝付けなかったが、ジンワリ温まると自然に眠気が襲って来る。
夜中になって・・寝入ってたはずの沖田が目を覚ました。
首の辺りで寝息がするのだ。
驚いて目を開けると、沖田の布団に薫が入ってスヤスヤ寝息を立てていた。