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見るに堪えない

お前の妄想は見るに堪えない

作者: 弦巻桧

「お前の顔は見るに堪えない」のラッセル視点です。「お前の顔は~」の方を先に読まないと意味が分からないと思います。


無駄に字数が多い割には中身が無い馬鹿話です。ひたすら妄想オチ・夢オチが続きます。

それでもいいという方のみどうぞ。

「あのね、ラッセル。私ね、ずっと、……ラッセルのこと」


 俺の幼馴染であり10年来の片想いの相手でもあるシャーロットが、上目遣いで俺を見ている。胸の前で手を組み合わせ、恥ずかしそうに言葉を紡ぐ。

 ほんのり赤く染まった頬、ふっくらとした唇、涙でうるんだ瞳。その全てが俺を昂らせ、心拍数が一気に上がる。脳まで心臓になったかのように、耳のすぐ内側でドキドキと大きな音がする。


「ラッセルのこと、その……」


 期待と不安で胸をふくらませ、彼女の言葉を待った。


「す……き、なの――」


 蚊の鳴くような声。しかししっかりと聞き取った俺は、その瞬間シャーロットを抱きしめる。細く柔らかなその体は、俺の腕にしっくりと収まった。

 赤くなった顔を俺の胸に埋め、隠そうとするシャーロット。そのおとがいに指をかけ、顔を上げさせる。


「……ラッセル……」

「シャーロット、好きだ……」


 顔を近づけると、シャーロットが目を閉じた。彼女との距離は、もう数センチ。彼女の吐息を唇に感じ、胸の鼓動がさらに速くなる。俺を誘う唇に、いままさに吸いつこうとした、その時。


 バシンッ。


 後頭部に脳を揺らすほどの衝撃を受け、俺は目を覚ました。


「早く起きなさい! ラッセル」


 丸めた雑誌を持った姉貴が、ベッドの傍で仁王立ちしていた。


 カーテンは全開で、眩しい朝日が燦々さんさんと差し込んでいる。

 毎朝見慣れた光景、何の変わりもない自分の部屋。当然そこにシャーロットの姿はない。


「何も殴ることはないだろう!」

「辞書の角にしなかっただけ、これでも気を遣ったつもりだけど? 普通に呼んで起きないのがいけないのよ愚弟」


 テーブルの上に雑誌を放り、姉貴はさっさと部屋を出て行った。

 幸せな夢を良いところで邪魔された俺は、思わず溜め息を吐いていた。


 夢とはいえ、シャーロットとキスできそうだったのに! あと五ミリだったんだぞ!!

 ……………………まあ、夢なのだが。

 本物の彼女とそんなことができたことは一度もない。


     *


 言ってみれば出来るのか? 授業中、シャーロットの背中を見ながら――色っぽいうなじにもたまに視線を向けながら、考える。

 シャーロットは何だかんだ文句を言いつつも、俺の言うことには逆らわない。シャーロットが弁当作り担当の日には、毎回俺の分の弁当も作ってきてくれる。


 貴族の子弟ばかりが通うこの学園では、昼食は各々、家のお抱え料理人の手によるものを食べることになっている。だがシャーロットの家・アシュモア男爵家は、料理人はおろかメイドの一人もろくに雇えない窮状にあり、ここ一年ほどは家族で家事を分担して行っているようだ。彼女は何も言わなかったが、料理人がいなくなった直後に弁当の質が激変したから丸分かりだった。


 貴族たるもの家事など使用人に任せて当然、という考え方がこの学園では普通であるため、他の生徒たちが気づいたなら眉をひそめていたのは間違いない。しかし、俺はこの学園で最も高い身分にありながら、シャーロットの状況にさほど抵抗を感じなかった。我が家では、母が突然スイーツ作りに目覚めて調理場に立つことも頻繁にあるからだ。


 俺の分の弁当も頼むことにしたのは、彼女の手作りを食べてみたいという好奇心が半分、下心が半分。ちなみに俺の分の材料費は月ごとにアシュモア家へ払っているため、家計が苦しい彼女の家に追い打ちをかけることもない。

 そんなわけで今日も、二人分の弁当が入ったシャーロットの鞄は大きめのものだ。


 どこまで彼女に伝わっているのかは不明だが、俺はなるべく自分の気持ちを素直に伝えるようにしているつもりだ。俺の見たところ、彼女もそれを受け入れてくれているようだ。脈はある、よな? 手間を掛けて俺の頼みを聞いてくれているのだし。まあ、万が一無かったとしても、彼女をみすみす他の男に渡す気はないのだが。


 午前の授業終了の合図とともに立ち上がり、シャーロットの細い手首を掴む。掌に吸いつくような肌の感触に、体がカッと熱くなる。ドクドクと激しく打つ鼓動。血液がものすごい勢いで全身を駆け巡っている。


 ――やっぱり無理。キスさせろなんて命令したら、俺の心臓は破裂する。


 けれどそう思う一方で、もっとシャーロットに触れたいという衝動と戦ってもいた。廊下の両端に寄って通路を開けてくれている他の生徒たちの目もあるため、かろうじて耐えていたが。


 中庭でお昼を食べる時は、チューリップの花壇の前と決めている。シャーロットの一番好きな花。きれい、かわいい、と呟きながら一心に花を見つめる彼女を、隣でこっそり眺めているのが好きなのだ。

 しかしシャーロットは、今は花には目もくれず黙々と弁当を広げていた。俺のために用意された弁当箱は四角く、シャーロットの丸いそれより一回り大きい。


「……どうぞ」


 少し遠慮がちに勧められたのを合図に、弁当に手をつける。

 ――美味い。

 願わくは彼女の手料理を食す特権が、俺だけに与えられるものであってほしい。他の誰にも食べさせたくはない。俺だけに、俺だけのために、シャーロットが料理を作ってくれればいい。


 そう、たとえば……俺とシャーロットが結婚して、毎朝、毎晩、二人だけの食卓を――



「どうかしら? あなた」

 白いエプロンをしたままのシャーロットが、テーブルの向こう側で心配そうに俺を見る。


「ん。美味いよ」

「本当? よかった」


 シャーロットの表情が綻ぶ。その笑顔に俺の胸はギュッと締めつけられ、彼女が愛おしくて仕方がない気持ちでいっぱいになる。


「でも、出来れば俺は……」

「なに? 遠慮しないで言って!」


 また不安げな顔に戻った彼女に、ニヤリと笑って言ってやる。


「俺は、シャーロットの方が食べたいな」

「……やだ、ラッセルったら……」


 呆れたように言いながら、彼女も満更ではないようだ。そうとなれば早速と、俺は彼女を抱き上げ、寝室に繋がる扉を開いた――



「……ラッセル?」


 フォークを持つ手が止まっていたらしい。花壇一面のチューリップを背景に、シャーロットが制服姿で座っている。その目は訝しげに俺を見つめていた。汚れないその瞳に、よこしまな想像を見透かされることを恐れて目を逸らす。

 やはりシャーロットは可愛すぎる。ずっと目を合わせていると心を狂わされそうだ。

 いや、もう狂っているのか?


「肉の焼き具合が足りない。もっと火を通せ。それから、全体的に味付けが濃い。俺の好みはもっと薄味だと、何度言えば分かるんだ」


 気づけば、そんなことを言っていた。

 が、幸か不幸かシャーロットは聞いていないようだった。のんびりと野菜を口に運んでいる。


 と、シャーロットの目が、弁当箱の隅を捉えて輝く。それは、シャーロットの弁当箱には入っていて、俺の分には入っていなかったもの。デザートの苺。傍目にも分かりやす過ぎるほど、シャーロットは嬉しそうだった。

 思わず見惚れる愛らしい表情に、その時は、なぜか無性に腹が立った。


 ――もう俺は、お前のことしか考えられなくなっている。こんなに苦しめられ、振り回されている。それなのにお前は、苺のことしか考えていないのか!?


 フォークで横から、一個しかない苺を突き刺す。取り戻す隙を与えず口に運んだ。


「あー!」


 シャーロットが今日聞いた中で一番大きな声で叫び、恨めしげに俺を睨む。そんな風に下から見上げるように睨まれても、可愛らしいだけで全く迫力がない。


 が、可愛いからといって俺を怒らせたことが許されるわけではない。


「やっとこっちを見たな、シャーロット。俺の言葉を聞き流した罰だ」


 可愛いからといって俺を怒らせたことが許されるわけではない、が……。


 しょんぼりと肩を落としてがっかりした顔をするな!

 そんな頼りなげな顔を見せられたら、今すぐ抱きしめて謝り倒して許しを乞うて、頭撫で撫で頬をすりすり元気を出せと慰めてやりたくなるだろう!


 ――だんだん自分でも何を考えているのか分からなくなってきた。

 だが、これだけは言っておかねばならない。


「いいか、よく聞け。お前の弁当は食べられなくはない。だが、こんなものは俺以外には、絶・対・に、食べさせるな。分かったな」


 食べられなくはないどころか、俺はシャーロットの手料理ならいくらでも食べられる自信があった。しかし言い間違いを訂正する余裕などない。ただ、彼女が手料理を他の男に食べさせたりしなければ、それでよかった。それだけは、俺の特権であって欲しかった。


 シャーロットはまだ呆然と、空になった弁当箱を見つめ続けていた。落ち込んでいるその姿さえ、ハッとするほど美しいなど反則だ――



 思わず彼女を後ろから抱きしめ、無防備な項に口づけていた。


「あ……ラッセル……ッ!」


 彼女の良い香りを堪能しつつ、唇を首筋に這わせる。ブラウスのボタンを外し、肩を肌蹴させる。首の付け根から肩にかけて何度も口づけを落としながら、片手で彼女の腰を抱き空いている手は胸元へ伸ばす。下着の上からでも、その柔らかさは存分に味わえた。


「だ、だめ、こんなところで……やだ……」


 言葉では逆らいながらも、彼女の体からは次第に力が抜けていく。


「じゅ、授業、始まっちゃうよ?」

「それは好都合だ。ここには誰も来ない」

「!」


 なす術もない彼女を、俺は放課後までじっくりと蹂躙していく。



 などという妄想を、頭を振って追いやり、教室へ戻る。なるべく今は、シャーロットの気配を感じないように。これ以上射程距離にいると、事態がヤバい方へ転がるのは間違いなかった。


     *


 午後の授業は体育だったが、彼女は今日も制服のまま見学。俺がそうしてくれと言ったからだ。

 昔は彼女も皆と同じように、体操着に着替えて体育をしていた。だがある時、俺は気づいてしまったのだ、彼女の体が女性らしい柔らかさと丸みをおびていることに。

 きっかけは水泳のときだった。プール日和の暑い一日だったが、俺の体温を上昇させたのは太陽の仕業だけではなかった。


 シャーロットは今も当時も、他の女子と比べて特に発育が良いわけではない。けれどその控えめなふくらみが、俺の目を釘づけにした。

 もちろん体育の時間中ずっと、女性に特徴的な部位だけをじろじろ見ていたわけでは決してない。そうしていたいなんてほんの少ししか思っていなかった……こともないのだが。

 いや、正直に白状すればじっくり見ていたかったが、恥ずかしさやら後ろめたさやら何やら様々な感情が入り混じって見ていられなかったというのが正しい。それに、彼女が泳いでいる時はさすがに、体までは見えない。


 とはいえ、体が見えないことで俺の心が穏やかになるかと言えば、むしろ逆だった。

 泳ぐのが下手な人間の特徴の一つに、息継ぎの時に無理に顔を上げてバランスを崩す、というのがあるが、シャーロットにもその特徴が顕著だった。しかもよほど空気が恋しいのだろう。彼女は水面から顔を上げるたび、何とも言い難い苦しげな表情をしていた。


 その表情を見るたび、なぜか体が熱くなる。


 ――今すぐ飛び込んで彼女を抱きしめ、口移しで酸素を与えて楽にしてやりたい。

 ――息も吐かせぬキスをして、激しく抱きしめてもっと苦しませてやりたい。


 相反する衝動。もちろんあの当時は自覚がなく言葉にもならなかったが、今ならそう感じていたと分かる。そして一度そんな目で見てしまえば、もう普通の体操着でも意識しないのは困難だった。

 あの薄いシャツの下に、汗ばむ白い肌がある……そう考えただけで、体の中心が元気になってしまうのだ。


 体育を禁じたのは、彼女のそんな姿を俺が一人占めするため。俺以外の男がそんないやらしい目でシャーロットを見ることが許せなかったから、


「ではなく、俺以外の男のイヤラシイ視線から、初心で無防備なシャーロットを守るため、だ!」


「だ」を発音したと同時に、ラケットにボールが当たった。


「いや~、そう言ってるラッセルが一番イヤラシイよねー」


 ジュニアスが、ニヤニヤしながら打ち返してくる。俺もテニスは得意だが、ジュニアスの動きも軽快だ。口まで軽いのは余計だが。


 ちらと振り向くと、肩越しにシャーロットと目が合った。木陰で三角座りした彼女。視界の隅にスカートの裾から覗く下着が映る、なんてことがあったらいいなと思った俺は頭が沸いている。

 やましさを悟られぬよう、さっと目を逸らす。が、その仕草こそ疾しさをありありと示してしまっていたことに気づいたのは、だいぶ後になってからだった。


 背中にシャーロットの視線を感じる。見られている。その意識が、俺の全身をコンマ五度熱くする。

 シャーロットは、俺をどんなふうに見ている?

 彼女の視線を感じる先に、神経を集中する。彼女は俺を、頭の先から足の先まで全身隈なく舐めるように見つめている。汗で濡れたシャツ越しに、筋肉の付いた広い背中を見ている。きっと俺のこの体をセクシーだと感じ、抱かれたいと思ってくれている……。


 言うまでもなくそれは、俺の独りよがりだったわけだが。


 再び振り向くと、彼女は膝の上に顔を伏せていた。その体勢のまま、ピクリとも動かない。


「……シャーロット?」


 異常を感じ、一目散にシャーロットに駆け寄った。

 シャーロットに、もしも何かあったら――! 想像するだけで背筋が冷たくなった。


「シャーロット! シャーロット!!」


 肩を掴み揺さぶって、大声で名前を呼ぶ。


「ん……ラッセル?」


 彼女が緩慢に顔を上げた。焦点の合わないまま、視線がさまよう。


「シャーロット、大丈夫か!」

「……寝てた」


 はぁ~~~~~~っ。脱力の余り、深いため息が出た。人の気も知らないで、呑気な奴だ。安堵して、呆れ、……しかし次の瞬間、俺はドキリとした。


 まだ眠そうに瞼をこするシャーロット。その姿に、あらぬ想像が膨らんでいく。


 たとえば、二人で共にした夜が明け、同じベッドで目覚める朝。

 互いに生まれたままの姿で抱き合い、けだるく余韻に浸るような……


「おーいラッセルー?」


 ジュニアスの声にハッと気づいた。ここには俺以外の男もいるのだと。


 シャーロットのこんな顔を、他の奴に見せられるか!!


「……まったく、お前は今のその顔も、とても見られたものじゃないな……。いいか、二・度・と、俺以外の人間のいるところで無防備に寝起きの顔を晒したりするな」


 激情を押さえ努めて冷静に言ってやったというのに、シャーロットは、


「ふわぁーい」


と、欠伸混じりの返事。ああ、くそ。


「その顔、俺以外には見せるな。絶・対・に、だぞ!」


 やっぱりシャーロットは無自覚で無防備で、そして可愛らしかった。


     *


 シャーロット・アシュモアは、ご覧の通りの魔性の女である。

 だがもう遅い。そうと知らずに俺は、十年も前に惚れてしまった。しかも、一目見たその瞬間に。


 十年前、六歳だった俺たちは、この学園の初等部の入学初日に教室で、運命の出会いを果たした。当時から俺は自他共に認める美しく聡明な子供で、加えて身分も高かったことから、周囲の耳目を集めていた。ところが、あまりのスペックに恐れをなしたか、堂々と話しかけに来る子供は少なかった。そんな中、数少ない例外の一人がシャーロットだった。


 大きな瞳をキラキラ輝かせて、ニコニコしながら彼女は俺の真正面に立った。俺より少しだけ背が低くて、俺よりだいぶ痩せっぽちな彼女は、目が合うとぽっと頬を染めた。彼女が俺に見惚れている、というのはすぐに分かった。これまでも、同じ年頃の女の子にじっと見つめられたことは何度となくあり、そのたびに冷たく見つめ返しては、相手に気まずい思いをさせてきた。けれど今回ばかりは何故か、居た堪れなくなったのは俺の方だった。


 この子は、何かが違う。でも、何が違うんだ?


 視線を合わせているのが辛い。そうだ、この目が。キラキラしていて、眩しすぎるのがいけないんだ。ならばと視線をさまよわせて眩しくない部分を探すが、彼女はどこもかしこも輝いて見えることに気づいた。

 見つめているだけで、胸がどきどきしてきた。このままずっと見ていたいような快いくすぐったさと、今すぐ逃げ出したいような恥ずかしさとが交互にやってくる。


 ……なんだこれ?


 動揺のあまり、とんでもないことを口走った気がする。だが、よく覚えていない。

 そんな初対面の翌日、シャーロットにずっと俺の傍にいるようにと伝えた。――つもりだったのだが、実際に俺の口から出た言葉は、


「お前は今日から、俺の召使にしてやる」


だった。シャーロットには「いやだ」と言われてしまうし、俺は一度口に出した言葉を撤回できずにモヤモヤしていた。


 が、しばらくすると、状況は俺の望んだとおりになっていた。

 俺はいつも優先的にシャーロットの近くの席にしてもらえたし、クラス替えでも離れたことがない。シャーロットの鈴を転がすような声を他の男に聞かせることも、全世界を魅了する笑顔を他の男に見せることも、たまにはあったが最小限にとどめることができた。最小限にとどめたとはいえ、たまにあっただけでも俺はじゅうぶん嫉妬に苦しんだのだが。


 シャーロットはいつも、俺を翻弄する。彼女の行動一つ一つが、俺の心をかき乱す。十年間、ずっとそうだった。そして、今この時も。


     *


 俺は怒っていた。もう何度目になるか分からない強い怒りだった。教室で彼女と二人きりという状況にいながら、色っぽい妄想も浮かばないほどの。


 今、俺の手にはシャーロットがサインした「退学届」があった。これまでも散々破いてやったというのに、教師共は懲りずに無駄紙を用意しやがる。あっさりサインするシャーロットもシャーロットだ。なぜ俺を裏切ろうとする? シャーロットはずっと、俺のそばにいるべきなのに。

 俺の手で真っ二つになった「退学届」。それを見つめる色のない顔すら、俺の視線を捉えてやまない彼女。


 もし、シャーロットを放置して、このまま退学させたらどうなるか。


 彼女に魅了された男たちが、彼女をめぐって争いを始める。恋という不治の病に冒された者たちは、彼女を求め、渇きを癒さんとさまようだろう。

 だが、どんなに他の男たちが彼女に入れ込もうとも、シャーロットはすでに俺のものだ。

 厳然たるその事実に打ちのめされた者たちは、絶望のあまり自ら命を絶ってしまうのだ……。


 懇切丁寧にそのことを教えてやっても、シャーロットは納得しなかった。どういうわけか、心外だとすら言いたげである。その顔を見ていると、俺はますますむらむら……もとい、いらいらしてきた。


 シャーロットは俺の怒りに萎縮しながらも、瞳に小さな光をたたえ、か細い声で言う。


「私はあなたの召使じゃない」


 ぶるり。体が勝手に震えていた。


 俺の心をも揺さぶる衝撃。駆り立てられるのは嗜虐心か、狩猟本能か。

 この声で啼かれたらたまらないな。そう思いながら、もう一度聞きたくて仕方なくなってきた。できればもっと、いやらしくて生々しいシチュエーションで。

 襲ってもいいだろうか。いや、マズイだろうそれは。初めてが教室というのも……って、何かズレて――


「私はあなたの召使じゃない。恋人に、なりたいの」


 教室万歳!

 即座に彼女を押し倒す。勢い余って彼女の頭を床にぶつけそうになり、慌てて掌で支えた。シャーロットが目を丸くして俺のことを見つめている。何が起きているのか分かっていないようだ。相変わらずどこもかしこも無防備で、そして俺を誘う魅力を放つシャーロット。

 唇を彼女の頬に掠めさせながら耳元へ近づける。声に精一杯色気を含ませて囁いた。


「ここで、お前を俺の恋人にしていいか……?」


 シャーロットが、頬を薔薇色に染めてこくりと頷く。


「いいよ。嬉しい」


 はやる気持ちを抑えて、優しくキスする。柔らかな唇を、角度を変えながらじっくりと味わう。

 彼女の体に触れようと、ゆっくりと手を伸ばす。


 と、手の中でクシャリと紙の音がした。……紙?


 一メートル離れて立っているシャーロットが、俺の手の中の小さくなった「退学届」を見ていた。

 脳内を支配していた妄想を悟られぬよう、目一杯真剣な顔を作る。


「召使でないというなら、それでいい。だが、俺から離れることは許さない」


 勝手に声が震えていた。彼女が見ていると思うと、紙を破く手も震える。


 シャーロットのような魔性の女のそばにいられるのは俺だけなのだ。もう二度と離れようなどと考えられぬよう、間違っても退学届を復元しようなどと考えないよう、細かく破く。シャーロットは床に落ちて積もっていく紙屑を、無表情のまま、無言でただ見つめていた。

 手に残っていた紙屑を払い、踵を返す。が、そこでハタと思い至った。


 シャーロットが退学届にサインをした時。彼女は、担任の男性教師(三十代前半・独身)と、教室で二人きり、だったはずだ……!


「ああ、シャーロット。君はなんて美しいんだろう! 君がオールディントン公爵家の子息のものだということも、僕と君が教師と生徒だということも分かっている。でも、今は、今だけは、忘れさせてくれないか」

「先生……!」


 そして二人はひしと抱き合い、めくるめく愛の世界へ――なんて展開になっていたら……!

 くそ、羨ましい! その教師、俺と替われ!


 ……ではなく。

 そんなことになっていたら、と想像するだに恐ろしい!

 見たところシャーロットに変わった様子はなかったから、今回は何もなかったのであろう。だが今後、俺が想像してしまったようなことが起きないという保証はないのだ!


「俺のいないところで、俺以外の奴と二人きりになるのも止めろ。たとえ教師であっても、だ。お前は、自分が俺やそいつをどんな気持ちにさせるのか、もっと想像してみろ」


 手を出さなかったとはいえ、もしかしたら教師の方はいかがわしい想像をしていたかもしれないではないか。シャーロットは鈍いから気付かないだろうが。

 現にこの瞬間も、俺の言葉の意図をまるで分かっていない顔をしている。


 くそ、忌々しい! これもすべて、シャーロットがあり得ないほど可愛すぎるのがいけないのだ!


 持て余した感情を扉にぶつけるように、乱暴に扉を閉めながら廊下に出た。

 ピシャリ! 思いの外、大きな音がした。

 シャーロットは今、教室の中に一人きり。


 深いため息が出た。こんなふうに彼女のことをずっと閉じ込めておけたら。

 そうすればざわつくこの胸は、少しは落ち着いてくれるのだろうか。


     *


 俺の席は今、シャーロットの後ろだ。あらわになった項と、背中に透けて見える下着の線が非常に良い眺めで、この素晴らしい光景を独占したいがために俺はこの席に座っている。

 シャーロットは休み時間でも席を立つことは少ないから、常に俺の視界に入る。そう思って、油断していた。俺が隣の席の男と談笑し(つつ、シャーロットのあれやこれがそいつの視界に入らないように阻止し)ていると、


「シャーロット、数学の予習やってる? 僕、今日当たるんだ。すっかり忘れてて」


 シャーロットが話しかけられていた。シャーロットの前の席の男・ジュニアスに。


 おのれジュニアス……お前、俺のシャーロットと知っての愚行か!?

 ほぼ呪いのような念を送る俺の視線に気づくと、ジュニアスは真っ青になり慌てて前に向き直る。が、背後の俺の気配にまるで無頓着なシャーロットはあろうことか、


「……ジュニアス? どうしたの」


などとジュニアスの名前まで呼び、引き下がる気配がない。俺の腹の中で、どす黒い嫉妬の感情が渦巻く。


「ごめん。やっぱりいいや、自分でやるから」

「ジュニアス――」


 もう聞いていられない。

 シャーロットの腕を掴むと、強引に引っ張って廊下に連れ出した。


 ――畜生! ジュニアスめ、二度もシャーロットに名前を呼ばれやがった!!

 シャーロットの声で名前を呼ばれて、腹の底が疼かない男がいるのか? いたとしたらそいつはよほど耳が悪いか、男にしか興味がないかのどちらかに決まっている。


「この唇で、この声で。名を呼ばれる男の気持ちを考えろ」


 震える指で、シャーロットの唇を摘まむ。想像よりも柔らかい。俺の唇と重ねたら、一体どんな味がするだろう。

 この唇も、ここから発せられる声も、俺のものだ。彼女の全てが、俺だけのものだ。他の奴には渡さない。

 本当は、他の男と毎日同じ空間に居させることすら嫌なのに。クラスメイト? それが何だ。一緒に居て良い理由になんてならないだろう?

 だが、俺とシャーロットが一緒に過ごすためには止むを得ないのだ。ならせめて、シャーロットが呼ぶのは俺の名前だけであって欲しかった。


「他の男の名は呼ぶな。だが……俺の名だけは」


 呼んでくれ、シャーロット。

 壁と俺の体に挟まれたシャーロットは、俯いていた顔を少し上げて俺を見た。


「ラッセル」


 呼ばれた瞬間に、ぎゅっと心臓を掴まれて苦しくなる。


 思わずシャーロットの細い腰を抱き寄せた。俺の腕の中で彼女が驚き固まったが、構わず顔を近づけると、シャーロットが真っ赤になりながらも目を閉じた。

 軽く、唇を触れさせるだけのキス。角度を変えながら何度も口づける。触れるたびに全身が甘い痺れに襲われた。

 キスもいいが、もう一度俺を呼んで欲しい。唇を僅かに離して命じる。


「もう一回」

「ラッセル」


 開かれた唇の間に舌をねじ込む。歯列をなぞり、舌を絡め、吐息をも飲み込む。

 夢中でキスをしながら、彼女の体に触れる手は胸から腰、腰から足へと下ろしていく。


「もう一回」

「ラッセル」


 秘めやかな場所に指を伸ばすと、しっとりとした感触が彼女の反応を伝えてきた。

 シャーロットがとろんとした瞳に涙を浮かべて、少し不安げに俺を見る。

 安心させる言葉の代わりに何度もキスをして、もう一度名前を呼んでもらう。


「もう一回」

「ラッセル」


 もう、我慢の限界だった。

 初めてのシャーロットを気遣う余裕もなく、そこからは性急に事を進めてしまった。

 学校の廊下で、服を着たまま。俺たちは一つになった。


「シャーロット」

「はい?」

「最後にもう一回だ」

「……ラッセル」


 その声を聞きながら俺は、シャーロットの胎内に欲望を解放した――



 などということがあるわけもなく。


 傍から見れば今の俺は、最初に唇を摘まんだ以外はシャーロットに触れることも出来ず、威圧的な態度を取ることしかできない不器用な男だった。仏頂面だがその顔は、間違いなく真っ赤に染まっている。

 その俺が何を考えていたかなんて、五回俺を呼んだだけのシャーロットにはまるで分からないに違いない。


 疑問符を浮かべる彼女を先に教室に戻らせた。

 途端、表情筋が弛んだ。

 彼女の唇に触れることができた指を、そっと舐める。耳の奥で繰り返し再生されるシャーロットの声に、俺はしばらくの間酔いしれた。


     *


 来週の放課後、ダンスパーティが開催されるそうだ。

 主催者側は「紳士淑女のたしなみを学び、社交術を身につける」との意図があるというが、実はかつての学園理事の息子の我儘が発端だという噂もある。

 会場は学校の敷地内にあるホールである。このホールは学園の創立当初からあるというから、本来の使用目的はダンスパーティなどのようなふざけた行事のためではないと思われる。


 ここまでの説明でなんとなく、俺がダンスパーティに良い印象を持っていないことは察していただけたことだろう。何を隠そう俺は去年、とんでもない失態を犯してしまっていたのだ。


 なんと去年の俺は、当日シャーロットのドレス姿を目にするまで、ダンスパーティのことを失念していたのである。当然パーティ用の衣装などは用意していなかったから、急いで家に帰って着替えた。締め切られる直前に何とか会場に滑り込むと、目を皿にしてシャーロットを探した。

 愛しい後ろ姿を見つけた瞬間、俺は頭に血が上った。


 ドレスに身を包んだシャーロットが、俺の知らない男と向かい合い、今まさに手を取り合おうとしているところだったのだ!


 大慌てで二人の間に割り込み、シャーロットを男の手から奪還したのは言うまでもない。

 その後はシャーロットを会場の隅に連れて行き、俺自身の体を盾にして、彼女を虫けらどもから守り続けた。


 結果的にはシャーロットを独占できたから良かったものの、もし間に合っていなかったらと考えると腹立たしくて仕方が無くなる。あのシャーロットに声をかけ、言葉を交わした男がいるというだけで、内臓が沸騰しそうになる。


 真面目なシャーロットは今年も参加するつもりに違いない。どうせなら彼女には、俺が用意した俺好みのドレスを着せよう。そして一晩中、甘く幸福な二人だけの世界に浸るのだ……。


 桃色妄想に背中を押されるままに、教室から出ようとしていたシャーロットを捕まえる。オールディントン家の車に乗りこみ、そのまま仕立屋に直行した。


 仕立屋? と目を見開くシャーロット。店に入るなり店員に取り囲まれ、今度は目を白黒させる。驚いた顔も可愛らしい。いつかまたサプライズでも――と妄想しかけるが、未だかつてない精神力で抑えた。


 先々のことを考え、指のサイズまで測ってもらっておく。その間に俺はドレス生地のサンプルを吟味。色見本の中からピンときた色をいくつか指差し、生地の見本を持ってきてもらう。それらを順々に、シャーロットの体に当てていく。赤、橙、黄、緑、青、紺、紫……。それぞれにシャーロットの良さを惹きたてている。白や桃色も愛らしくてよく似合うし、思い切って黒も良いかもしれない。さすがは俺のシャーロットだ、どんなドレスでも着こなすのが目に浮かぶ。


 この色ならこんな形のドレスに、という店長の説明を聞きながら、断腸の思いで三着に絞る。結局、一着に決めることは出来なかったため、候補に残った物は全て買い上げることにした。ドレスに合わせて靴や小物も用意してもらう。


 相談が一区切りついた所で、メジャーから解放されたシャーロットに詰め寄られた。


「何なの、これ!」

「ドレスを作るんだ」

「それは分かるけど、なんで……。誰の?」


 ここまで来ておいて何という天然ボケ発言だろうか。だが、そんなところもシャーロットの魅力だ。


「他の奴のドレスを作るのにお前を連れてきてどうする」

「でも、ウチお金無いよ」

「金なら俺が出す。いいから黙って言うことを聞け。恥を晒したくないならな」


 言い足りない、というように口をもごもごさせるシャーロット。その口を、もういっそ俺の口で塞いでしまいたい。

 妄想世界の入り口に立った俺を引き戻したのは、見積書を持って戻ってきた店長だった。


 

 店長と話している間にどこかへ行ってしまったシャーロットの姿を探す。その途中、小さな髪留めが目にとまった。

 それはチューリップをあしらった上品なデザインで、色は赤、白、黄、緑、紫の五種類が並んでいた。俺は迷わず紫を手に取る。

 昔、シャーロットがチューリップを好きだと知った時に、花言葉を調べた。チューリップの花ことばのテーマは「愛」だが、色によって意味が少しずつ異なる。中でも俺の気持ちにピッタリだったのは、紫だった。その気持ちは今でも変わらない。


 髪留めの会計を済ませ、再びシャーロットの姿を探す。どうやって渡すか、出来るだけスマートな方法を頭の中で予行演習しながら。


「シャーロット」


 椅子にぼんやりと腰かける彼女は、制服姿ということもあり店内では少し浮いて見えた。呼びかけると、ホッとしたように俺を見る。


 その表情で、脳内の予行演習が吹っ飛んだ。


 俺は何も言うことができず、ただ黙って拳を突き出した。彼女の目の前で握り込んだ手を開き、先ほど買った髪留めを見せる。

 彼女が一瞬息を詰め、じっと髪留めを見ている気配があった。だが、俺は彼女の反応を見ることができずに、あさっての方向を向いていた。


「……」

「……」


 シャーロットは俺の掌を見つめたまま、二人の間に沈黙が流れる。

 ああ、もしかしなくてもこれは、俺からシャーロットへの贈り物だということが伝わっていないのだ。そう確信すると、シャーロットの手を掴んで髪留めを握らせた。


「……私に?」


 やっぱり分かっていなかった。


「他に誰がいるんだ」

「……ありがとう。つけてみてもいい?」


 頷くと、シャーロットが嬉しそうに髪留めをつける。

 店員が持ってきた鏡を見ながら、シャーロットは頬を桃色に染めて微笑んだ。


 胸の奥に、温かなものが広がっていく。心の底で固まっていたものが柔らかく解けていく心地良さ。

 パーティでもその髪留めをつけることを約束させ、俺はほわほわした心地のまま帰宅した。


     *


 シャーロットがあんなふうに笑うのを見たのは、一体どれくらいぶりだろう。

 ベッドの上で、今日見たシャーロットの姿を回想する。

 いきなり仕立屋に連れてこられて、戸惑うシャーロットが可愛かった。

 店員に囲まれて、恥じらいながら身体測定を受けている姿も――


「……おお?」


 あの時の俺は、シャーロットに似合うドレスのことで頭がいっぱいだった。だが、そんな状況でもかろうじて入ってきていた視覚からの情報を、細部まで精密に記憶から掘り起こす努力をしてみると。


 下着姿で恥じらうシャーロットがそこにいた。


 誤解の無いように言っておくと、シャーロットは身体測定のために店員たちに無理やり制服をはぎ取られたのであった。店員たちはもちろん、女性ばかりだった。

 下着姿のシャーロット……もっとじっくり拝んでおけばと後悔してもすでに遅い。せめてもの悪あがきと、俺は記憶の精度を限界まで上げる。


 白いキャミソールの裾を引っ張るシャーロットに、今さらながら生地が伸びるぞと注意してやりたくなった。シャーロットは出来る限り下の方まで隠したいと思っていたようだが、残念ながら無駄だったようだ。

 俺にとっては幸いなことに、俺の目はしっかりと捉えていた。


「苺柄か……」


 白い布地の上に描かれた小さな苺を、一つずつ口に含んで――


「ぎゃ!!?」


 ノックもせずに入ってきた姉貴が、俺の顔を見るなり短く悲鳴を上げた。


愚弟ラッセル、鼻血!!」


 鼻の下に手をやると、掌にねっとりとした赤い液体がこびりつく。鼻血だと分かった途端、急に鼻の奥に鉄臭さが充満した。


「さっき、『愚弟』と書いてラッセルと読まなかったか」

「だってどうせロクでもないことが原因でしょ? その鼻血」


 姉貴が渋面でティッシュ箱を差し出してくる。その言い草にも態度にもムッときた。


「ロクでも無くない」

「じゃあ、シャーロット絡みね」

「な、なんで」

「分からないワケ無いでしょう」


 やれやれ、と言うように肩をすくめ、姉貴は本棚から分厚い事典を掴んだ。そして、


「まったく。資料を取りに来ただけなのに嫌なもの見ちゃったわ」


という失礼な一言を残して去って行った。



 鼻にティッシュを詰めたまま、ベッドにだらしなく寝転がる。

 チューリップの髪留めをつけたシャーロットの微笑みを、もう一度思い出す。もう十年一緒に居て、いろんな顔を見ているが、やっぱりシャーロットは笑顔が一番可愛い。どうすれば、またあんな笑顔が見られるだろうか。


 次に浮かんだのはシャーロットの恥ずかしそうな顔と、苺柄。


 ――苺といえば、この間シャーロットの弁当から横取りしたな……。


 シャーロットはずいぶん苺を楽しみにしていたようだったし、詫びも込めて持って行ってやるのは良いかもしれない。

 そうすればまた、シャーロットは喜んでくれるだろう。



「わ、苺だ!」


 目をキラキラさせて俺が抱えている箱を覗きこむシャーロット。一粒摘まむと、待ちきれないというように早速口に入れた。


「美味しい」


 シャーロットが、幸せそうに笑っている。俺の心がふわふわ、温かくなる笑顔。

 ああ、これだ。この顔が見たかったのだ。


「ラッセルもどうぞ」


 シャーロットが苺を一粒、俺の顔の前に差し出してきた。手で受け取ろうとすると、すっと苺が逃げた。


「ラッセル、口開けて?」


 言われたとおり口を開けると、シャーロットのたおやかな指が苺を食べさせてくれた。

 俺は今、耳まで苺のように赤くなっているに違いない。そんな俺を、シャーロットも頬を紅色に染めながら嬉しそうに見つめている。恋人同士のような、良い雰囲気である。


「あのね、ラッセル」


 上目遣いの、何かをねだるような視線が、俺の視線と合わさった瞬間恥ずかしそうに逸らされる。視線をさまよわせ、もじもじと何かを躊躇う。

 やがて何かを決心するようにぎゅっと目を瞑った後、真っ赤になった顔を上げた。


「その……い、苺だけじゃなくて。わ、私のことも、食べて欲しいな、なんて……」


 イタダキマス!

 苺の箱を放り出し、シャーロットを抱きしめた。



 その瞬間、目が覚めた。ベッドに転がったまま、うたた寝してしまっていたらしい。

 思わず自嘲の溜息が零れる。そりゃそうだよな、そんな都合のいい展開になるわけ無いよな……。

 だが、苺は早速、最高級品を取り寄せることにした。


     *


 パーティの前日。ドレスが出来上がったという連絡を受け、シャーロットを連れて仕立屋に寄ってから帰宅した。久しぶりに俺の家の敷地内に入ってきたシャーロットは、なぜか真っ先に庭師と親しげに挨拶を交わそうとした。が、もちろん阻止してそそくさと屋敷内に連れ込む。

 俺の部屋にシャーロットがいる。妄想が発動する条件は嫌というほど揃っているが、今はまだ駄目だと理性で抑える。これからシャーロットのファッションショー開幕だというのに、妄想している場合ではないのだ。


「よし。シャーロット、脱げ」

「……は!?」


 ゴン。


 呆気にとられたシャーロットの叫びと同時に、俺の後頭部に鈍痛が走る。振り向けば音もなく入ってきた姉貴が、先日貸した事典を片手に立っていた。鈍痛は、事典で殴られたせいらしい。


「姉貴、青筋なんか立てると老けて見えるぞ」

「うるさいわ変態愚弟ラッセル!」

「今、『変態愚弟』と書いてラッセルと読まなかったか」

「読んだわよ。早く出て行きなさい。シャーロットの着替えは私が手伝うから」


 姉貴は俺が運んできたドレス及び服飾品から事情を察したらしい。ぐいぐい俺の背を押し、その怪力でもってあっという間に部屋から追い出した。カチッと音がして、ご丁寧に内側から鍵までかけられた。


「ちくしょう……生着替えが……っ」


 シャーロットの下着姿を、もう一度拝むチャンスだったのに。

 仕方なく、扉に耳をつけて部屋の中の音に集中する。


 微かな衣擦れの音に混じり、「あ……! そ、そんなとこ触っちゃダメです……!」というシャーロットの慌てた声と、「良いではないか~良いではないか~」と笑う姉貴の声が聞こえてくる。


 などということは無かった。防音完璧な分厚い扉が、今は誠に遺憾である。



 永遠にも思える待ち時間の後、俺を閉めだした扉が開かれると、目の前に女神様がいた。

 とにかく神々しくて、美しくて輝きを放っていて、直視できない。一目見ただけで目を逸らしてしまったから、ドレスのディテールを観察する余裕も、化粧したシャーロットの顔をじっくり拝む余裕もなかった。圧倒されて思わず後ずさり、滅茶苦茶なことを口走った気がする。


 再び、扉が閉ざされる。廊下に一人取り残された俺は、壁に凭れたままズルズルとしゃがみ込んでしまった。

 心臓の鼓動が痛いくらい速く強い。

 ……一着目からこれか……。大丈夫か、俺?

 シャーロットが帰るまで、心臓が爆発しない保証はない。


 ようやく動悸がおさまってきた頃に、再び扉が開く。今度はさっきより見ている余裕があった。薄桃色のドレスはシャーロットの愛らしさを引き立てつつ、大人の階段を上り始めた年頃の女性特有のそこはかとない色気を引き出していた。可憐さとほのかな色っぽさを全身に纏い少し恥ずかしげに俺を見つめるシャーロット。

 一着目より余裕があるとはいえ、やはり俺の心臓は破れんばかりに速くなった。


 ――いったい、どこのお姫様が現れたのかと思った。隣に立つ男は、よほどのスペックを備えていない限り恥ずかしい思いをするだろう。学園で一番高貴で優秀で男前な俺ですら、今の彼女の隣に立てば不釣り合いとのそしりを免れないのではと不安になるほどだ。


 少々口ごもりながらも正直にそう伝えると、シャーロットは何故か微かに表情を曇らせた。そんな彼女とは対照的に、姉貴はニヤニヤしながら扉を閉める。

 体が、全身が熱い。とりわけ顔が熱いのは、シャーロットにじっと見つめられたせいだろう。

 姉貴さえいなければ、シャーロットと今頃あんなことやこんなことを――


「これが三着目。ラストね!」


 姉貴の声と扉の開く音が、俺を現実に戻した。が、俺はしばらく、現実に戻ったという実感を得られなかった。なぜなら、シャーロットの姿を見るなり固まってしまったからだ。


 白に近い水色のドレスに身を包んだシャーロットは、清楚で初々しい。その一点の曇りもない汚れの無

さがむしろ、男の欲望を刺激してしまう罪な姿だった。触れることを躊躇わせる神秘的な美しさと、触れてみろと男を誘う扇情的な美しさ。相反するそれらが絶妙なバランスでシャーロットの魅力を演出している。


 俺が一言も発しない意味を正しく酌んだらしい姉貴が、その場でシャーロットをゆっくり一回転させる。俺の目はまずきれいな鎖骨と胸の形に吸い寄せられ、続いていつにもまして色っぽい項と健康的な手足、くびれた腰とまろやかなヒップラインへと移る。このドレスは、動くほど体のラインがくっきりと分かる仕様らしい。


 息をするのも忘れて見惚れた時間は、一瞬のようにも永遠のようにも思えた。

 思わず深い溜息を吐いた俺に、シャーロットが窺うような視線を向けてくる。


 ――やめてくれ。こっちを見るな。目が合うとまた石のように固まってしまうだろう!?


 もっと見ていたいという欲望を掻き立てられながらも目を逸らす。だが、赤くなったままの顔までは隠せず、逸らした視線の先では姉貴が遠慮なく笑っていた。


 一人で大笑いする姉の隣で、シャーロットがしゅんとした気配がした。見れば、スカートを握りしめたシャーロットが、泣くのを堪える顔で俯いていた。


「姉貴」


 あんたがバカ笑いするせいでシャーロットが誤解しているだろう! という怒りを込めて呼んだ。


「ああ、ごめん! シャーロットを笑ったんじゃないのよ。変態愚弟ラッセルの反応が面白かったからなの! ……で、変態ラッセル、どうする?」


 私のお古の、胸元がぱっくり開いた大胆なドレスも着せてみる? と、これは俺にだけ聞こえるように囁く。

 姉貴の言葉には突っ込みたい所が多々あるが、それはひとまず置いておく。


「ひとつ、分かったことがある。……シャーロット、お前はよくよく、人を落ち着かなくさせる天才だな」


 ドレスは三着とも俺が選んだとはいえ、デザイナーには失礼だがありふれたものと言っていい。それら全てを自らの引き立て役にしてしまったのだから、シャーロットの魅力は底知れない。どんな衣装もシャーロットの匂い立つ魅力を隠しおおすことは出来ないと証明されてしまった。したがって彼女に惹かれてしまう男たちを完全に排除することも困難である。ずっと守り続けてきた俺の、俺だけのシャーロットが、他の男たちの視界に入ってしまうことになる。


 ……ダメだな、これでは。とても人には見せられない。


 力が入らない膝を叱咤して立ち上がり、まだ動悸の収まらない胸を抑えたまま告げる。


「お前、明日は出るな」


 直後、沈黙がその場を支配した。

 一拍遅れて、驚きのためか真顔になっていた姉貴が弾かれたように笑いだす。


 ダンスパーティ禁止令を出された当のシャーロットは、目に涙を溜め、唇を尖らせて震える声で呟く。


「せっかくお兄様にもダンスの練習に付き合ってもらったのに……」


 その時気づいた。このままシャーロットを欠席にしたら、今年は俺も彼女と踊る機会を失ってしまうのだ。シャーロットと公然と体を密着させるチャンスを、みすみす失うのは惜しい。


 いや、そんな下心よりも大事なのは、シャーロットの練習を無駄にしないことだ。

 だからこれからする提案は、あくまでもシャーロットの努力に報いるためのものであって、決して俺がシャーロットにくっついて彼女の匂いを堪能したいがためではないのだ。


「し、仕方ないな。俺が踊ってやる、今、ここで」

「……へ?」


 跪き、震える手でシャーロットの手を取った。心臓の高鳴りを聞きながら、細い指先に軽く唇で触れる。

 シャーロットは、真っ赤になって手を引っ込めてしまった。そのことに僅かに胸が痛むが、挫けず手を差し出して彼女を誘う。


 シャーロットの躊躇と困惑を示す、長い長い沈黙の後。


 おずおずと重ねられた手を、優しく握る。緊張のため冷たくなってしまった彼女の掌に、俺の熱が伝わるように。


 幸せな時間だった。シャーロットが俺の腕の中で、時おり頬を染め上目遣いで俺を見る。その仕草と甘い香りにどんどん酔わされ、もう戻れない深みへと嵌る。


 もしかするといつもの妄想かもしれない、と何度も思った。だが、シャーロットに足を踏まれる痛みは本物で、これは現実なのだとつい顔がにやける。足を踏まれてニヤニヤする俺を、シャーロットも訝しげに見上げていたから間違いない。



「ねえ、ラッセル。ラッセルは、ダンスパーティに出るんだよね?」


 ぎこちなく体を動かしながら、シャーロットが訊いてくる。


「出席せざるを得ないだろうな」


 俺は学園で最も高い身分だから、ほとんどの行事に出席するよう求められている。去年までは姉貴がいたことで逃れられた責任が、今年からはやたらと重い。


「踊る……よね、他の女の子と」


 問いかける声は、不機嫌そうで、不安げだ。

 これは、まさか。もしかして、もしかするのか。


 ――シャーロットが、ヤキモチを焼いている……!?


「踊らない!」


 突然大声を上げた俺に、シャーロットが目を丸くした。


「他の女となど踊れるはずがないだろう! だから、踊らない! 絶・対・に、だ!」


 俺は真剣に誓った。俺のことを信じて欲しいと。彼女の不安が消えれば良いと。

 だが、シャーロットは。


 微笑みながら、泣きそうな顔をしていた。


     *


 休日は、シャーロットに会えなくて辛い。アシュモア家に用事ができてくれやしないかと思うが、さすがに毎週は難しい。

 枕をシャーロットに見立て、抱きしめて幸せな妄想をしながらゴロゴロしていると、例によって姉貴に頭を小突かれた。

 俺はもちろん不快になったが、姉貴の持ってきた箱を見て気分が上向いた。

 取り寄せておいた最高級苺が届いたのである。これでシャーロットに会いに行く理由ができた。

 最高級苺と、「あわよくば」という下心を抱え、いそいそとアシュモア邸へ出かける。


 だがそんな俺を待っていたのは、残酷な事実であった。


「あら、ラッセル。シャーロットならお見合いデート中よ。……知らなかったの?」


 応対してくれたシャーロットの姉君があまりにもあっさりと言うものだから、理解するのに数秒かかった。


「……お見合い? デート?」


 ――何故? 誰と?

 その二つの疑問がぐるぐる渦巻く。

 ――俺という存在がありながら、どうして!?


 姉君の後ろが俄かに騒がしくなり、ドタドタと何かが近づいてくる。ひょっこり顔を出した少年と少女が、同時に俺を指差した。


「あ、ラッセルだ! 知ってる! シャロ姉にフられた人でしょ!」

「本当だ、ラッセルだ。シャロ姉に意地悪して嫌われちゃった人だね!」


 シャーロットの弟妹きょうだいたちが、楽しそうに胸に突き刺さる言葉をくれた。


「こら、お前たち! 繊細な年頃の少年に、面と向かって事実を言っちゃダメだぞ!」


 弟妹を追いかけて出てきた兄君が、追い打ちとしか思えない台詞を吐いた。


 知らないうちに失恋していたらしいことに打ちのめされ膝から力が抜けるが、動揺を押し隠し懸命に踏ん張った。弟妹たちが興味半分、敵意半分の目で俺を観察していた。

 微妙な空気になったその場を、姉君が苦笑いしながら取り成してくれる。


「ごめんね。みんな正直だから」


 ――と思いきや、あなたも敵ですか。


「それで、シャーロットは」


 どこに、と訊こうとした俺の後ろで、弟妹がヒソヒソ話を始めた。


「このヒト、シャロ姉のことブスって言ったんでしょ?」

「そんなの、あたしたちの同級生だって言わないよ! フられるの当たり前だよ!」

「しかも権力を笠に着て、シャロ姉を囲っていたんでしょ?」

「えーっ? ありえなーい! 横暴! シャロ姉かわいそう……」

「こら、お前たち! 繊細な年頃の少年に、聞こえるように事実を言っちゃダメだぞ!」


 一見たしなめているかのような兄君の言葉は、実は一番耳に痛い。


「シャーロットは、……どこですか」


 ようやく口にできた問いに、姉君、兄君、妹君が順番に首を傾げる。


「聞いてどうするの?」

「まさかお見合いを邪魔しに行くの?」

「ブスって言ったくせに?」

「言ってない! それは絶対に言っていない。俺は心にもないことは言わない!」


 なんとか妹君の発言にだけ反論すると、最後に弟君が首を傾げた。


「じゃあなんでシャロ姉は落ち込んでたの? 僕が『シャロ姉可愛い』って言うと、シャロ姉は絶対喜んでくれるよ?」

「お前ら、姉弟でどういう会話をしているんだ」

「シャロ姉とはお嫁さんごっこしたりしたよ」


 次々と明らかになる、衝撃の事実。


 ……この弟、まさか俺の恋敵ライバルか!


 思わぬところから出現した伏兵を、俺はシャーロットの家族だということも構わず睨みつけた。


「話が脱線してるから。あんたたちはあっちでお菓子でも食べてなさい」

「はーい!」と元気な返事をして、弟妹は駆けていく。



「ここからは真面目な話ね」


 俺はこれまでも充分真面目な話をしていたつもりだったのだが。

 仕切り直しとばかりに姉君がそう言うと、兄君が表情を引き締めて重い口を開く。


「――君も察していることだと思うけれど、ウチは経済的にかなり苦しい。もう、切りつめて少しずつ貯金して……それでようやく、娘一人分の持参金が出せるかどうか、なんだ。そんな状況でこのお見合いの話が出た。叔父の会社に融資してくれて、持参金も必要無い。嫁いだ後も全てあちらが面倒を見てくれるというのだから、こんな良い話は無い。乗らない手はないだろう?」


 シャーロットの母は労働階級の出身だ。アシュモア男爵との結婚は、地位は有れど金は無い男爵家と、金は有れど地位は無い彼女の実家との利害の一致によるもの、つまり政略結婚だった。一代で財を築いたシャーロットの母方の祖父の事業を、今はシャーロットの叔父が継いでいるのだが、どうやら上手くいっていないらしい。


 そんな時、シャーロットの叔父の娘との結婚を条件に、ブロウズという商人が融資を申し出た。しかし、シャーロットの叔父の娘はすでに別の人物と婚約していたため、アシュモア家から一人、養子として叔父の家に入ることで話がまとまったそうだ。


 アシュモア家は先代から経済的には苦境が続いており、シャーロットの両親の結婚によって一時は持ち直したものの、結局はまた逆戻りしてしまった。そこで、両親と同じくシャーロットもまた、金で貴族と縁続きになろうとする成金との結婚の道具にされようとしている、ということなのだ。

 これは、忌々しき事態だ。


「ま、あちらの息子さんがシャーロットを気に入らなければ、この話は破談になるだろうけどねぇ」


 シャーロットに惚れない男などいるものか!


 政略結婚の何が忌々しいか。それは、地位や名誉のために近づいた男さえ、シャーロットは虜にしてしまうことだ。どんな形であれ結婚してしまえば、シャーロットが愛されないなどということはあり得ないのだ。この地上のどんな男も、シャーロットの魅力に気づけば愛してしまうのは間違いないのだから。


「シャーロットが断ったら、私が行こうと思っていたのだけど。あの子、あっさり受け入れちゃった。みんなびっくりしていたのよ? どういうことって、こっちがラッセルに訊きたいわ」


 てっきり、シャーロットはラッセルと恋人同士なのだと思っていたわ。そう呟かれた言葉に、思わず「俺もそう思っていました」と言いそうになる。想いの全ては無理だとしても、少しは伝わっているはずだと思っていた。シャーロットも、俺を憎からず思ってくれているはずだと。


 だが。


 ――二人で弁当を食べていても、シャーロットはデザートばかり気にしていた。

 ――寝起きの無防備な顔を、俺以外の男に無自覚に見せていた。

 ――何度破り捨てても、「退学届」にサインをしてしまう。

 ――その声で、俺以外の男の名前を呼んでいた。

 ――仕立屋に連れて行った時も、自分のドレスが作られるとは思っていなかった。そのあと髪留めを渡した時も、自分のものだとは思わなかったようだった。

 ――他の女と踊らないと誓っても、微笑みながら泣きそうな顔をした。


 思い返してみれば、シャーロットの鈍感さは明白だ。

 ずっと、自分の気持ちを正直に表現してきたつもりだった。まさか、伝わっていなかったとは。


「うーん、お金さえあれば。シャーロットを差し出すような真似はしなくて済んだんだけどね」


 そう言うと兄君は何かを試すような、含みのある視線で俺を射た。

 俺の気持ちなら、とうの昔に決まっていた。


「シャーロットは、どこでお見合いをしているんですか」

「植物園だよ」


 ――植物園?


「先方の希望。植物好きな人に悪い人はいないってシャーロットは言っていたけど、どうかな?」


 たとえ政略結婚であっても、相手の男はシャーロットを愛すだろう。

 なら、シャーロットはどうか。

 自分を愛し優しくしてくれる男に、彼女もまた尽くし愛し返そうとするだろう。そうしていつか、二人が幸せな夫婦になってしまう。そんな想像が容易く描けた。

 知らず知らずのうちに握りしめていた拳に、ますます力が入る。


「お義兄さん、お義姉さん」

「……何かな?」


 呼び方に何かを感じたらしい二人が、薄く笑う。この二人には――二人どころか、シャーロット本人を除くアシュモア家の全員に――俺の気持ちはもはや透けて見えているだろう。だが、肝心なことはやはり、言葉にして伝えなければならない。

 居住まいを正し、精一杯、誠意を込めて。


「シャーロットを、俺にください」


 二人が笑みを深めた。と同時に、どこかから嬉しそうな四人分の歓声が届く。弟妹に加え、ご両親にも丸聞こえのようである。家族を代表して、兄君が笑顔で俺の願いに答えた。


「シャーロットが『いいよ』って言ったらね」


 絶対に『いいよ』と言わせてみせる。

 シャーロットを幸せにするのは、この俺だ。


     *


 広い植物園を駆けずり回り、ようやく遠目にシャーロットの後ろ姿を見つけた。お見合いだから当然なのだが、彼女の隣には俺ではない男がいる。一刻も早く引き剥がすため、走って追いかける。

 距離が縮まったところで立ち止まり、シャーロットに声を掛けようとした。すると、同じタイミングで男が何か言ったらしい。


 シャーロットが振り向き、俺を認めて目を見張った。

 その瞳は潤み、頬には一筋の雫の跡。それらが意味する所を悟って、俺は唇を噛み締めた。


 男がまだ何やらシャーロットに話しかけていたが、俺には聞こえていなかった。ただ、シャーロットを泣かせたこの男が許せない。シャーロットを守りたい。その一心でシャーロットの前に立ち、男をじっと睨みつけた。


「俺の女が世話をかけたな」


 男が呆れたような、馬鹿にしたような顔で笑う。


「分かった。僕は退散するよ」


 退散するという言葉に、少し油断したのかもしれない。

 男が横を通り過ぎる時、不覚にも彼女の耳元に顔を寄せて囁くのを許してしまった。


「彼のことが嫌になったら、いつでも僕のところにおいで」

「させない」


 即座に噛みついたが、男は余裕の笑みで、

「決めるのは、彼女だからね」

などとぬかして去って行った。




 腹立たしさが収まらないまま、シャーロットと二人で植物園の中を歩く。本当ならさっさと彼女を連れ出したいところだが、あの男に先に出て行かれてしまった。鉢合わせないように、しばらくこうして時間を稼ぐ。

 誰にも邪魔されずシャーロットの真意を確かめるチャンスは今だと、思い切って話を切り出す。


「どういうつもりだ。離れるなと言っただろう」


 抑えきれなかった苛立ちが、詰問する口調となって出てしまった。

 少なくとも破り捨てた退学届と同じ数だけ、俺は彼女に「離れるな」と言い続けてきたのだ。


「……そっちこそ」

「何?」

「離れるなって、どういうつもりで言ってるの」


 それはもちろん、一生一緒にいたいという意味に決まっている。

 本気で分からないらしく、睨みつけるかのように見上げてくるシャーロットも可愛い。……じゃない、俺は一応、怒っているのだ。


「分からないのか?」

「召使だから、でしょ。でもそれなら、私じゃなくてもいいじゃない。どうして――」

「召使だなんて、思っていない!」

「言ったじゃない、召使だって!」


 それは確かに言った。だがそれは昔のことで、最近は、

「召使でなくていい、とも言ったはずだ」


 ちなみに俺としては出来れば、「召使じゃなくて、恋人になりたいの(ハート)」と言って欲しかったのだ!!

 しかしシャーロットはあからさまに、「納得できない」という表情を顔に張り付けていた。


「召使でないならどうして……ブスだとか顔を見せるなとか言うくせに」

「言ってない! 俺はお前がかわ……かわ……」


 きょとん、と首を傾げるシャーロットも可愛い。「かわ?」……ああ、まったく。そこまで聞こえているなら普通分かるだろう、この天然小悪魔さんめ!


「……っあー! 言えるかっ!!」


 思わず叫んでしまった後、長く息を吐いて呼吸を整える。


「とにかく、金が必要なら俺が出す。だから養子だとか婚約だとか、余計なことは二・度・と、考えるな。絶・対・に! だぞ」


 わざわざここまで、お見合いをぶち壊しに来たというのに。シャーロットはきっと、そんな行動の意味さえ正しく理解してはいないのだろう。

 そして、ここに来るまでの俺の気持ちも。

 ……本当に何一つ伝わっていなかったことに、もう怒りを通り越して落胆する。


 溜息を零しながら隣を見ると、シャーロットは風に揺れるチューリップを見つめていた。

 その横顔につい見惚れ、また違った意味で溜息が零れた時。


 シャーロットが、不意に口を開いた。


「ね、ラッセル。紫のチューリップの花言葉、信じてもいい?」


 シャーロットが鞄から、あの髪留めを取り出す。


「紫のチューリップの花言葉、『永遠の愛』だって教えてもらったの。図々しいかもしれないけど、それがこの髪留めをくれた意味なんだって、自惚れてもいい?」


 シャーロットの言葉に耳を疑った。一瞬の間に、一体何が起こったのだろう?


 俺の気持ちが、伝わったのだ!

 何一つ伝わっていなかったと、確認した直後の奇跡。


 ――はっ! もしやまた妄想か!?


 だがシャーロットは、不安げに俺の反応を待っていた。胸の前で祈るように組まれた手が、小刻みに震えている。

 妄想でも現実でも、どちらでもいいじゃないか。彼女が不安そうにするなら、すぐにでも安心させてやらなければ。

 シャーロットには、いつも笑っていて欲しい。


「ああ。俺の気持ちだ」


 めいっぱい優しく笑って答えると、シャーロットがほっと息を吐いた。

 その直後に見せた満開の笑みを、俺は一生忘れないだろう。



     * *



 後日。


「……ラッセルッ」


 シャーロットの声を聞きながら、俺は彼女の服を脱がせていく。両手をベッドに縫い止めて、白い肌に所有の証を刻んでいく。


「シャーロット。お前を、俺にくれないか」

「いいよ。ラッセルに、ぜんぶあげる……!」


 欲望のおもむくままにキスをして、けれど優しく大事に、彼女を抱きしめた。



「――という妄想を、よくしていた」


 シャーロットの髪を撫でながら打ち明けると、彼女は恥ずかしそうに笑う。


「やだ。ラッセルったら。ずっとそんなことばかり考えていたの?」

「ああ。だから今日この日を待ちわびていた」


 二人の間には今、気だるい空気が漂っている。それは昨夜の、激しい行為の名残を生々しく、色濃く留めていた。いつか妄想した二人で迎える朝が、いま実現しているのだ。


「ラッセル、好きよ」


 不意にシャーロットが、俺の頬に唇を寄せた。それだけでもう、一瞬で体が熱くなる。


「シャーロット。もう一度、してもいいか……?」

「昨夜あんなにしたのに? んっ……」


 俺は飽きることなく、シャーロットの体を貪ったのだった。


     ※


「もう、デートしようって言ったのはラッセルのくせに! まだ寝てるなんて」


 涎を垂らしアホ面で眠りこけるラッセル。その姿を、シャーロットはベッドの脇に仁王立ちして見下ろした。


「昨夜は傍目にも浮かれてるのが分かったからねえ。寝付けなかったんでしょ」


 部屋まで案内してくれたラッセルの姉が、苦笑しながら言った。


「適当に起こしてやって。一日寝かせたまま放っておいて、反応を見るのも面白そうだけど」


 残酷な提案をして、ラッセルの姉が部屋を出ていく。



 残されたシャーロットはじっと、ラッセルの寝顔を見つめた。

 彼は顔面をユルユルに崩壊させ、時折何やらむにゃむにゃと呟く。黙っていれば男前の彼も、寝顔はアホの子そのものであった。が、


「寝顔までカッコいいなんて、キレイな人はずるい」


 そうこぼすシャーロットの目にはしっかりと、恋する乙女特有のフィルターがかかっていた。恋とは恐ろしいものである。

 ベッドの上に肘をつき、手の甲に顎を乗せた状態で、彼女はしばし彼を見つめた。ふと、引き寄せられるように顔を近づけていく。


「……ラッセル、好きよ」


 音もなくそっと、ラッセルの頬に唇で触れる。

 そして素早く体を離すと、シャーロットはいまだ眠りこけるラッセルに背を向けた。


 ――ひゃ~! 初めて自分からキスしちゃった!!

 シャーロットの全身がカッと火照った。何せ二人は、キスの回数もまだ片手で足りるお付き合いだ。


 ドキドキいう胸に手を当て、本棚に並ぶ分厚い背表紙を眺めているシャーロット。その背後でラッセルが、むくりとベッドから起き上がる。


「シャーロット、……いつの間に服なんか着たんだ。脱げよ、もう一回……しよう?」


 寝ぼけたラッセルがシャーロットに襲いかかったのは、その一秒後のことだったという。

「シャーロットのどこがそんなに良いのかさっぱり分からんが、ラッセルの目にはしっかりフィルタがかかってるんだってことは分かった」と思ってもらえれば。


この話から得られる教訓があるとすれば、

「『伝えてるつもり』と『伝わってる』は違う」

ってことくらいでしょうかね……。


ここまで読んでくださって、ありがとうございました!

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