雪子の重い存在
竜太郎のある種の居心地の悪さは雪子の存在だった。子供がそのまま身体だけ大きくなったみたいで、時折竜太郎に鋭い視線を投げかけるのであった。お風呂場の脱衣所に干してある雪子の下着が目に入ったときはなんともやりきれない思いがした。やはりここは長く居るところではないと感じた。けれど食事を毎日作ってくれて、好きな時にお風呂にも入れる。これは大きな魅力だった。勉強もアルバイトも心置きなくできる。
竜太郎はふと外を見やると十六夜の月がでていた。玲子と初詣に行ったときと同じ形ではあったが、東京で見る月はうすら寂しかった。玲子の手のぬくもりと、身体の暖かさを思い出し玲子にむしょうにあいたくなった。玲子と東京で会うことを考えやはりここを出ようと決意した。
「竜ちゃん、糸井さんて言う方から電話よ。」
いといは竜太郎の高校時代の野球部の先輩である。国立大学に通っていてまだ野球をやっている。
「東京には少し慣れたか。電話番号はお前のお母さんから聞いた。ところで沢村に頼みがあるんだ。」
「なんですか。」
「洗足のドーナツ屋でアルバイトしているんだけど、人手が足りなくて困っているんだ。手伝ってくれないだろうか。時給は850円。夜中に働いてくれたら2割り増しだ。いい話だと思わないか?1週間もやればすぐ慣れる。簡単な仕事だ。」
「判りました。いつから行けばいいでしょうか。」
「明日の午前中空いてるか?」
「はい、大丈夫です。」
「履歴書を持ってきてくれ。10時に。店長に伝えておく。」
糸井は電車の乗り換えや店の場所を説明して、電話を切った。いそがしそうで、用件だけだった。
「竜ちゃんバイト決まったの?」
「うん明日面接があるんだ。」
叔母の文子は話を切り出した
「じつわね、昔主人が美佐子さんのお父さんにとてもお世話になったのよ。会社の資金繰りが苦しくなって、美佐子さんのお父さんが援助してくれたのよ。その恩を主人はずっと忘れないでいるわ。だから主人と私を東京の両親だと思ってしっかり勉強して欲しいのよ。アルバイトと勉強の両立は並大抵のことでは出来ないわ。心置きなくこの家を使ってちょうだい。」
竜太郎はとりあえず一人暮らしは保留にし、もうちょっと考えてみようと思った。文子と美佐子は深い絆があるらしい。美佐子が文子の家に住むことに賛成したことが判りつつあった。