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『魚』(仮)


 無口だった。言いたいことがあっても言葉は口からでることはなく、ただぱくぱくと動いた。そんな僕を見て、クラスメイトは僕のことを愛らしさとは無縁に「魚」と呼んだ。その「魚」というあだ名も直接僕を呼ぶために使われることはなく、まるで水草のように佇む机に隠れて過ごす僕が、クラスメイトの会話の中から拾って知ったのだ。

 自ら音を発することのない僕には、特に意識するでもなく野生のそれのように周囲の音が入ってくる。水の流れの中に動きを感じ、それを受け流すように身を翻し、一定の距離を保ち何事もなかったようにまた佇む。そうして過ごす1日は日常から好奇心を遠ざけ、希薄にした。

 自分が「魚」ということを知ってから、自分を魚と思うようになっていた。そこに悲しみや苛立ちは特に感じなくて、寧ろ本来ある名前よりもしっくりきた。例え何かいいたいと思ったところでいつも言葉は随分後ろに遅れていたから、ぱくぱくと口が動くだけに違いなかった。

 いつの頃だったろうか、そんな水の中から外に出た。高校の卒業だとか、住んでいた町を出たとかそういうタイミングではなくて水の密度が薄くなった、そういう感触が確かにあった。僕はその時エラがあるでろう耳に近い顎骨をあたりを思わず触っていた。僕以上に他に無関心な人々が街中には溢れているのに気がついた。

 自分のすぐ近くを多くの人々が通りすぎていく、にも拘らず僕に関心を持たない。刺すまでもなく向けられただけで背骨をぴりぴりとさせていた視線の銛はもはや僕を捉えてはいない。魚であったはずの僕はここでは流れそのものになっていた。人それぞれ目的に向かって歩いているようで、見えない力に押されているように、どこからかどこかへするすると流れていく。

 そう考えると、僕が今までいた場所は対流のない、不自然で濁った溜め池のように思えた。その中で限られた酸素を消費しないように、僕は本能的に注意していたのかもしれない。

 例えそんな学校の中でも、臭いの放つ吹き溜まりの中だとしても、僕には役割が与えられ、それは「魚」であった。泳ぎ回るだけの力がなく、ただ生きるために呼吸に終始するにしても、僕はそこに存在していた。その在り方を無意識に意識すればするほど、僕には意味があった。

 自分がそうした水の存在を意識し、習慣として街に出たとき、流れが生まれるかわりに僕は魚ではなく、水そのものになっていたのだった。

 校舎の3階、窓際の席に僕はいた。その窓からは薄い森に覆われた山々が見え、そのさらに向こうから、稜線をたどり、街へ風を送ってくる。僕はカ−テンに隠して風で膨らまない程度に窓を開けた。酸素を求めたというより、街でそうであったように一滴の水になれやしないかとただそう願った。

 淀んだ水をゆっくりと外側から廻す毎日。それはやがて僕の周りに小さな対流を生み出すはずだ。

「ねえ、あなたの話をしてよ」

彼女のその言葉に、僕は顔を上げ、ちらりと外を見やった。水の話。が、頭に浮かんだが、この彼女が望むものではない気がしたし、それを上手く伝える自信もなかった。

 ちょっとした時間に、ちょっとしたユーモアを交えて話せる思い出を僕は持ち合わせてはいなかった。彼女が求めているのはたぶんその手の話だ。

「面白い話はないよ」

「例えば?」

「すべてがそうさ」

「それはわたしが決めることじゃないかしら?」

「そうかもしれない、けどつまらない自信だけはあるんだ」

「ふーん。」

 カオリはあまり納得していていないのか、俯せに頬杖に足をバタバタとさせ何かを考えていた。ゆったり目のタンクトップをふっくらとした乳房が申し訳程度に押し出していて、足の動きに合わせて揺れた。

「何を見ているのよ?」視線に気がついたのか、カオリはこちらに顔を向けた。

「いや、何でもないよ」

「おっぱい」

「え?」

「おっぱいって何であるのかしら?」

見透かされたようなその言葉に何ていえばよいかわからない。

「おっぱいってさぁ、たぶん赤ちゃんにお乳をあげるのが目的よね?」

「たぶんね」

「たぶんね…か、うん。だけどサイズとかずいぶん人と差があると思わない?別に小さくても大きくても役目を果たせるのに」「そうだね。まぁ身長と同じように個人差じゃないのかな?」

「うーん。個人差にしては差が激しいと思うのよね。お洒落やHの時ぐらいしか使い途がない気がするわ」

「そんなこと言われてもなあ」

そう、そんなこと言われてもよくわからない。

「あなた、おっぱい好き?」

「…え?」

「好き?」

「嫌いではない…かな?」

「好きでも嫌いでもなくて?」

「うん」

「それってどういうこと?」

「わからない。というより考えたことがない」

「なんで?」

「例えば、乳房についてああでもないこうでもないといつも悩んでる奴がいたとして、それってどうなんだろうね?」


「確かにそうね。ただ本来の目的なんて人生の中で言えばほんの一時よ?一日中とはいわないけれど、ちょっとは考えてもいいんじゃない?おっぱいが不憫だわ」


「ちょっとってどのくらい?」


「そうね、小一時間かしら」


「そうするとどうなるの?」

「特にどうもならない。けど…もしかたら夢だとか希望が宿るかもしれない」

「いつか考えてみるよ」

「近いうちにね、絶対よ」そうして足の動きに合わせて乳房は小刻みに揺れていた。

 カオリの住む家には水槽があって、そこには魚の代わりに亀がいる。砂の下地に大小の石が配置がしてあり、数本の水草が水面から飛び出し、水と陸地がおよそ2対1の割合で小さな海岸のようにも見える。週末の休日にはそうじをするから、水槽の中はいつも清潔で亀も快適そうに見える。

 水槽には部屋の様子が映り込んでいる。白い壁に掛けられた誰かの絵画のコピー、キッチン、ダイニングテーブル、そして自分。1DKの部屋の殆んどがこの数十センチ四方の水槽に収まっているのかと思うと、何だか騙されているような不思議な気分になる。

 水。ここにある水は濾過機を通して循環している。水が一周するのにはどれくらいかかるのだろう?

「亀、何で飼ってるの?」

水槽を見つめたまま、僕は訊いてみた。

「死なないからよ」

「死なない?」

「そう」カオルは起き上がってベッドの縁に腰掛け、僕に隠れた水槽を見つめた。

「カメってね、ヒトよりも長く生きたりするんだ。種類にもよるけど」

「どれくらい」

「今の情報技術っていうの?と昔は違うから確かとは言い切れないらしいけれど、255年生きたのもあるそうよ」

「これはその種類なの?」

「わからない」

「わからない?」

「うん」

「わからなくったっていいのよ」

「……」

カオリはタバコを一本取り出すと、今にも落ちそうなくらい唇の端にくわえた。「亀ってね、結構うんちするのよ。憎たらしいくらいに」

僕は水槽を見続けた。循環器の音をどこか遠くに聞きながら。

「それを水に濡らさないようにね、割りばしでつまんで拾うの。きな粉をまぶすと美味しそうなうんちをさ」

「わたしなんて出ないのにねぇ」

そういうと水槽に映る彼女はふふっと笑った。

「わたしは文句もいわずにうんちを片付ける係。飼うまでそんなこと知らなかったから、立候補ってわけでもないのにね」

「楽しい…のかな?」

「楽しいわけないわよ。仕方ないだけよね」

「飼い主だから?」

僕は腰を伸ばして立ち上がると、ダイニングテーブルの一脚に腰掛けた。

「違う、かな?意識してるわけじゃないけどさ、部屋って散らかるでしょう?2、3日も掃除しないと」

「うん」

「それって仕方ないことだと思うの。でも、その仕方なさがいいの」

「どういうこと?」僕は意味がわからなかった。「どういうこと?」と言ってみて、わからなくなって、答えのなさそうな答えを待った。

「仕方ないことはたくさんある」


「部屋が散らかるみたいに?」


「そう。」


「でも、それがいいんだ。」



「そう。」



「仕方がないことが増えたとしても。」




「そう。」


 亀は重く小さな足どりで水槽の中を歩く。とうに歩き尽くしたであろう水槽の中を。



「仕方がないか」


 コーヒーを煎れる為にやかんに火をいれた。その音が循環器に代わって室内に響いた。窓の外には青空が広がっていて足早に雲が横切っていく。春の清々しい陽気がレースの合間から部屋へと洩れてきていた。

「外に行こうか」

僕は冷蔵庫を開けながら、カオリに声をかけた。

「いいけど、どうして?」

「天気が良いし、何だか体を動かしたいんだ。あ、あった」

きゅうりと卵、それにハム。

「そうね、たまにはいいかも」

「コーヒーとサンドイッチを持っていこう」

レタス、マスタード、バター。

「卵。」

「ん?」

僕はカオリに振り向く。彼女と目が合う。



「茹で卵は半熟にしてね」



彼女は微笑む。循環器は唸る。僕は、僕は?

「うん」

 頷いて、視線を冷蔵庫の中に戻して、顔に触れる冷気に合わせて一度、震えた。僕はその冷気よりも、ずっと冷えていた。

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