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彼方 1

 

 僕が唯一人に安心を与えられる場所は電車の中だと思う。それは安心というより信頼といってもいいかもしれない。

 仕事場から家までを結ぶ数十分の電車の中で、座っているときも、立っているときも、僕は人のつっかえ棒になっていた。

 人は僕の肩に、あるいは胸に、頬やこめかみを押しあて、すっかり脱力しきって寝息をすうすうと立てるのだった。

 最初の頃、僕はそのことにすごく緊張したのを覚えている。心臓ははっきりと聴こえるくらいに強く打っていたし、空調の整った特に混んでもいない車中でじっとりと汗を掻いた。 電車が都市部を離れ、席がまばらに空きはじめても、つり革を持って僕はそんな人らのつっかえ棒になり続けていた。それは端から見ていて不思議な光景だったろうと思う。

 そんなことが数日も続くと、僕は存在感がないかもしれないと不安になった。違和感から僕は周囲の人々に好奇とも軽蔑ともとれる視線を浴びていたが、一駅を過ぎる頃には、まるで最初からなかったものであるかのように、彼らは持っていた本や携帯に目を落とし、或いは友人との雑談に戻っていたのだ。

 僕は生まれてこのかたたぶんこの時以上に、人と密接に関わったことはないと思う。僕に寄りかかる人には遠慮とかそういうものを感じることはなかった。本来彼らを支えるべき足に力がこもっているように思えなかったし、僕のシャツやスーツは口紅がつけられ、涎に濡れていた。それでも僕は怒らなかった。そのタイミングは最初から奪われていたといっていい。そのくらい彼らは僕に安心しきっていたのだ。

 彼らは本当に良い寝顔をしていた。電車を降り、家に帰れば風呂に入ってぐっすり布団で寝ることができるはずだろう。ただその時こんなに穏やかな寝顔をしているものだろうか。僕の想像以上に彼らは疲れているのかもしれない。

 よくよく見ていると彼らの頬には例外なく赤みがさしていた。酔いのそれではなく、赤ちゃんのように繊細でうっすらとしていた。僕の機嫌が悪いとそれが伝わるのか、彼らの寝顔は不安げになった。


 だから僕はどんなに自分が疲れていても、電車に乗っている間、そのことを表情に出さないのはもちろん、なるべく気持ちの外に追いやった。そうして彼らの寝顔が安堵に包まれていくのを見ると、不思議に自分も安心しているのだ。


 そのうちに、車窓に流れる風景とは別にもう1つの風景が見えることに気づいた。その風景は本来ある風景に重なるようにして存在し、水面に映るように不安定で揺れていた。目をこらしても、どこまでもはっきりすることはなかった。

 どこかの田舎であったり、海や川であったり、森というのもあった。ただそこに都市の風景はでてくることはなかった。そしてその風景にはストーリーがあるようで、毎度異なる独特のスピードで流れていた。

 僕はその風景に参加することは出来ず、ただひたすら見ているだけだった。その風景がなぜ見えるのかもわからなかった。

 僕の家はちょうど駅から10分ぐらい歩いたところで、向かいに公園がある。その公園は特殊法人の学校がつくったもので、隣には校舎が建てられている。ただ、その公園から校舎へ行き来することはできない。黒い鉄の柵に仕切られ、その奥には緑が繁り、覗くこともできない。その公園は柵以外に、三方が石垣と木々に囲まれ、夜になると閉鎖される。それにもかかわらず中には外灯が立っている。その閉鎖的な公園は昼間でも利用する人は少ない。

 僕は風景を見るようになってから、その公園に行くようになった。もやもやとした風景をはっきりさせたかったのかもしれない。現実にあるようで、どこか懐疑に満ちた風景は、この閉鎖的な公園に似ているとおもったからだ。


 ある日のことだ。その公園を散策していると、一人の老人に出会った。その老人はこの公園の清掃員らしく、制服に身を包んでいたが、ちりとりと(ほうき)を側の木に立て掛け、座り、弁当を食っていた。

「あんた、一体何の用かね」

老人は弁当に口をもごもごとさせながら訊いてきた。僕は周囲に僕ら以外誰もいないと知りながら、辺りを見回した。

「あんた以外にだれがいるよ。こんなところに」

老人は鋭い目で僕を視ている。

「何か特別な用がなくてはいけないのですか?」

僕はその目に怯むことなくそういった。

「それもそうだな…といいたいところだが違う。この公園の隣に学校があるのは知っているだろう?中は柵で仕切られてるが、外はぐるっと同じ石垣で囲われている。その内側には木々がびっしり生え揃っている。ここに公園があることを知っている奴は少ない。もちろん入るなとも書いてないが、学校の一部と思って普通ここには人は来ないんだよ。地元のやつは尚更こない。」

老人は淀みなくそう言う。まるで予めよういしていたかのように。

「強いていえば人がいなくて静かだからじゃないですか?何か考えるには良い場所に思いますけど。ところで、そんな利用する人のない公園になんで清掃員がいるのですか?」

「そんなことわしに訊かれてもわからん。わしはただの雇われだ。人がこないから掃除も楽だ。金ももらえる。こちらの理由としてはそれで十分だ、違うか?」

 僕はこのやり取りで、幾分気が削がれていた。人と会話するために来たのではないし、何より求めていたものからはかけ離れていた。老人が納得する答えを僕は用意していないし、そんな気もない。そしてこの会話の終わりがいつ来るのかわからないのだ。老人は変わらない鋭い目つきで僕を注視している。沈黙が続けば続くほど、空気は重たくなっていく。


「あなたはぐっすりと眠れていますか?」

不意にそう訊ねてみた。

「何の話だ?」

「だからそのまんまです。ぐっすりと眠れていますか?」

「おい、どういうことだ?何がいいたいんだ?」

 老人は困惑した表情を浮かべた。公園内は中にもあちこち木が立っているせいか薄暗い。木漏れ日は僕と老人を照らすことなく中空に溶けている。

 なんでそんなことを訊いたのだろうか。電車の中の風景に結び付く何かを求めてやってきたのだ。眠ること。風景。そこにいったい何があるのだろうか。僕にわからないものを彼がわかるはずがないのだ。

 疎らな木々の間を縫って遊歩道が伸び、僕はもと来た道を戻る。後ろから老人の「待て!」という声が聞こえる。けれども追ってくる気はないようだった。


 電車の中に現れるもう1つの風景、それは公園を訪れるようになってからは逃げ水のように薄くなっていた。かといって消えるということは決してない。相変わらず僕はつっかい棒になり続けている。電車の揺れに合わせて僕は揺れ、駅に差し掛かり、ブレーキがかかるときもつんのめるようなことはなくなっていた。筋肉は適度の緊張を保ちつつも、それが精神にまで作用することはなく、つり革を握る手は乾いたままだった。

 僕が寄りかかられる時というのは、ごく自然にそうなっている。ラッシュによって押し合い圧し合いしているのが、駅に停車する度紐解かれるようにして疎らになっても、そのままに僕に寄りかかり寝ているのだ。僕はその時、彼らと同じに寝ることはなく、むしろ頭は冴えているといっていいと思う。そしてしかるべき時間がたって、風景が見えるようになる。

 ある雨の日だったと思う。僕は地下街に入るまでの間に降られてしまっていた。スーツには夕立と呼ぶに相応しい大粒の染みがいくつもできていた。喫茶店に入り、僕はスーツを乾かした。冷房が効きすぎているので、地下街では冷たい飲み物を飲まない。夏にホットコーヒーで暖をとるのも皮肉だが、濡れたスーツは思ったよりも冷たかった。それに濡れたスーツに寄りかからせるのは何となく気が引ける。こんな感情は他人に理解されないし、よく考えてみればおかしな話だが、仕方ない。

 2杯目のコーヒーを飲み終える頃にはスーツは乾いていた。改札を抜けて12番線の電車に乗ったとき、1人の女性と目が合った。彼女はするすると僕の所へ来て隣に立った。しばらく考えたが僕は彼女に見覚えはない。彼女は僕の隣に来てから俯いたままで、その表情を確認することはできない。発車時刻が近づくにつれ電車はどんどん混んでくる。この時間帯の下り電車は常にラッシュである。彼女の体はやがて僕の内側に密着するようになった。

 普段なら決して気にすることはないけれど、今回ばかりはそうはいかなかった。僕はともかく、彼女は僕のことを知っているようだ。ちょうど彼女の頭は首の辺りにあり、シャンプーの香りがする。うっすらと脱色された髪は、傷んでるふうでもなくて電車の揺れに合わせて首筋をくすぐった。

「あの、どこかでお会いしました?」

僕はずっとききたかった言葉を口にした。それに対する彼女の返答はない。込み合った電車の中では僕の声はか細く、彼女の耳には届かなかったかもしれない。彼女と顔を合わせているわけではないから、自分に話しかけられてるとも思ってないかもしれない。どちらにしろ、僕にはもう一度彼女に声をかける勇気はなかった。

 電車が三鷹に着いたとき、十数人の人が降りていった。もっと降りたかもしれない。電車の中のこもった空気が人々とともに排出されていく。

 その時僕は気づいたのだ、彼女がすでに寝ていることに。僕はそれをまじまじと見ている。もしかしたら、という予感が込み上げてきている。彼女は以前に僕に寄りかかってきたことがあるのではないか。

 そんな予感を打ち消すように、もう一つの風景がいままで見たどれよりも鮮明に広がった。



 これは河川敷から見た風景のようだ。遠くに橋が架かり、自転車や車が時折行き交う。それを夕日が赤く照らし、影を色濃く地面に映している。とうとうと流れる川の音が聴こえ、青いビニールバケツを椅子にして釣りをする人が見える。河川敷の手前には家々が立ち並び、魚や肉を焼く匂いが入り混じって流れてくる。遠く山々の稜線を辿ると、その切れ目には街が見え、その街から道路が伸びて大きくカーブしたあとに橋に繋がっている。白い月がうっすらと浮かび、そこから少し離れたところに一番星が瞬く準備をしている。陽はゆるゆると山の奥に沈み、それに合わせて街灯がぽつぽつと灯り始める。もう一度橋に視線を向けると、違和感を覚える。暗い欄干の下の小さな闇に動く影を見つける。その影の動きを見つめるうちに、首筋に冷たさを感じる。つり革から手を外し、それに触れるとさらさらとしていて、そのうちに消えてなくなった。


 ガタンという音ともに電車は止まる。慌てて僕はつり革を掴みなおす。足だけでは2人分の体重を支えることはできない。車内アナウンスが立川駅への到着を告げる。この電車はここが終着駅のようだ。自分の街へ帰るには乗り換えなくてならない。

 寄りかかっていた彼女はゆっくりと顔をあげた。僕はそれを不思議なくらい落ち着いて見ている。

 彼女の目に泣いたあとがあって、それはまだ細く頬を伝っていた。彼女は僕の表情から何かしら感づいたらしく「ごめんなさい」と頭を下げ、足早に電車から去っていった。もう一つの風景は消え去り、ガランとした車内に僕は1人立っていた。

 首筋に感じた冷たさは彼女の涙だったんだと思う。そしてそのことに彼女自身は気づいていなかった。これまでになく鮮明に見た風景は僕が以前にどこかで見たものではなかったと思う。それは彼女と関係あるのだろうか。あの欄干の下では何が起こっていたのだろう。僕の中にはいくつもの疑問が残る。その疑問を解こうにもこの先彼女と会う可能性はあまりに低いだろう。僕は彼女に関するほとんどを知らないのだ。


 石垣を越えて忍び込んだ夜中の公園は真っ暗だった。灯らない外灯は枯れ木のように存在感がなかった。公園の周囲を囲う背の高い木々が余分な光を遮るからなのか随分と星がくっきり見える。ベンチに仰向けに寝てみると、いよいよ星空は大きくなった。

 人が僕の中で眠るようになって、僕はもう1つの風景を見るようになって、電車に乗っている数十分が、僕の中でどんどんと大きなものになっていく。ただそれが自分にどんな意味をもたらすのかがわからない。

 電車での一連の出来事をこうして1人公園に来て整理しながら、もう1つの風景の続きを求めてもいる。今、僕はこの夜空に輝く星の1つ1つを眺めているようなものだ。無数にある光りの強い星、弱い星を漠然と見ている。昔、ギリシャの人々は幾日も幾日も夜空を眺めて、北極星を中心に空が回転していることに気づき、そしてその中にいくつもの絵を書いたのだ。それらをどうにか結びつけて星座にしなくてはならない。


 次の日、僕は仕事を休んだ。「ええ、ええ、風邪なんです。病院行ってみてもう一度連絡させて頂きます」突然の思いつきであったから、どうにも苦しい理由だったが今まで休んだこともなかったのですんなり了承を得た。

 その時、僕は新宿のとある雑居ビルの喫茶店にいて、ボックスとカウンター席の内、僕はカウンター席に座り、サンドイッチを食べていた。

 カウンターの向こう側には中年くらいの女性がいて食器を洗っている。適度にくだけた服装と物腰の柔らかさから店長らしい雰囲気を醸し出している。

「今日はお休みかしら?」

女性は顔をちらっと上げ、聞いてきた。僕は自分の格好をみて、

「そう見えます?」

とそれに質問で返した。

「スーツ着てても、仕事の人とそうでない人との区別ってつくのよ。どことなく雰囲気が弛緩してるっていうのかな。スーツ自体はきっちり着てるから、その雰囲気は意図的なものじゃないと思ったの。後ろのボックス席を見てごらんなさい。ちょっと違うでしょ?」

僕は言われたとおり振り返ってみると、なるほどそうかもしれないと納得した。

「ね?じゃないと私からあなたに声をかけようと思わなかったわ。ひたすら皿を洗って、目が合ったら微笑みかけて、お会計をして、またお越しください、というだけ」

そういって彼女は微笑み、食器を再び洗い出した。

 特徴のない白いカップや皿がシンクの隣に敷かれたタオルの上に迷いなく積まれていく。必要最低限の音がなり、水が流れ、耳に障らないスマートさがあった。

「僕が初めてこの店に来た客ってことはわかりますか?」

サンドイッチの最後の一口を飲み込んでから僕は訊く。

「あなたの場合、たぶんわからないと思う」

「それはどうして?」

彼女の特に考えるでもなくそういったことに僕は驚いた。

「喫茶店というのはね、何かと何かを結ぶ途中にしか存在しないお店なの。ブティックなんかと目的が違うのね。それでもお客さんは何かしらの痕跡を残していって私はそれを記憶に留めるわけなんだけど、もしあなたが今日以前に仕事の向かう途中に来ていたならあなたに気づかなかったと思う」

「それは僕の印象が薄いということでしょうか」

「ある意味ではそうかもしれない。気に障ったらごめんなさいね。ただこうして話すまであなたは、喫茶店という場所を席のある自動販売機みたいに思ってはいなかったかしら?」

そういって彼女は再び微笑んだ。

 僕はそんな彼女の言葉がすっと胸に入ってくるのがわかった。僕はこうして彼女に話しかけられるまで、喫茶店にいる認識を持たなかったもしれない。サンドイッチを食べ、さっと会計を済ませて一時間後にはそのことを忘れていたかもしれない。僕は頷いた。

「そういう人は痕跡を残さないのよ。食器を下げて、洗って、どんな人がいたんだろうと考えることもなくおしまい」

僕はもう一度頷く。

「僕みたいな人はよく来るのですか?」

「このお店は私一人でやってるけれど、そういうお客は少ないと思うわ。このお店は2階にあるでしょう?新宿にはたくさん喫茶店があって、一階や地下に集中しているの。たぶん駅から入りやすいようにね。たいしたお洒落でもないこの店に来るような人はやっぱり、何かしら痕跡を残していくわね。だからあなたに気づいたのは偶然といえると思う。ここに入るとき何か思ってのことじゃなかったでしょう?」

「またいらしてね」彼女の言葉を背に受けて、僕は店を後にした。

 午前10時を過ぎた新宿の裏路地は閑散としている。店の半分はまだ開店したばかりで、人の入りも見られない。僕は宛もなく歩きながら心なしか澄んだ空気を吸った。

 休日に都心まで出てくることはないから、目に映るものはすべて新鮮に感じる。どれがどれかわからない看板に目を向け、建物の新旧を比べ、隙間なく立ち並ぶ建物を見て、一人感心した。これだけ注意を払ってモノを見るのはいつぶりのことだろう。

 電車で見えるもう一つの風景は僕の意識を簡単に引き付け、周囲のモノを褪せさせてしまう。それ以外のところでは僕の記憶はひどく曖昧なのだ。喫茶店の彼女が言う痕跡を僕は残していないのかもしれない。

 そう考えると会社の人々も僕を休んだことを知ってはいても、何事もなかったように仕事をこなしているのかもしれない。明日会社に行ってもそのことについて会話にならないかもしれない。ただそう思ってみたところで、僕はとりたてて寂しさというものを感じなかった。それだけ僕は関心がないのだ。

 そういう意味でも電車での出来事は僕にとって何かしら意味を持ち始めている。僕はそこに答えを出さなくていけない気がする。すべては偶然ではないように思うのだ。

 電車に乗りたい、そこで『もう一つの風景』がみたい、そうしなければ、何も前には進まない。僕は自分の内側から突き動かされるようにして駅へと足を向けた。








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