悪役令嬢も転生者でした
入学式の翌日、わたしは空き教室に呼び出された。
呼び出したのはオクタヴィア・ヴァレンシュタイン公爵令嬢。銀の髪に紫の目、この学院で最も家格が高く、最も美しく、そして『銀薔薇の檻』という乙女ゲームで最後に断罪される悪役令嬢である。
わたしが前世を思い出したのは12歳の冬だ。熱を出して三日寝込み、目を覚ましたときには、27歳まで日本で会社員をしていた記憶が全部そろっていた。残業と、コンビニの肉まんと、休みの日に一本だけやっていた乙女ゲームの記憶が。
わたし、リディア・アシュフォードは、そのゲームのヒロインである。平民上がりの男爵令嬢で、学院では見下される。そこへ王太子殿下が手を差し伸べ、嫉妬した悪役令嬢が卒業パーティーで断罪される――という筋書き。
5年かけて、わたしは覚悟を決めてきた。彼女の結末を知っている以上、破滅だけは避けさせてやりたい。我ながら善良な話である。
窓辺に立っていたオクタヴィアが、わたしを見て言った。
「――おつかれさまです」
日本語だった。
「おつかれさまです」
反射で返している。5年分の覚悟が、その二秒で吹き飛んだ。
「やっぱり。返しましたわね、今」
オクタヴィアが笑う。きれいな顔が、ぐにゃりと崩れるように。
「わたくしは11歳の秋でしたの。少しだけ先輩ですわね。……疑ってはおりましたのよ。リディア・アシュフォードは12歳で大病をするはずなのに、記録では三日で治っている。原作では一か月寝込みますのに」
彼女は指を一本立てる。
「筋書きがずれているところには、必ず誰かが立っておりますわ」
この人は、原作を覚えている。わたしより、ずっと細かく。
「……なら、知っているのよね。あなたの結末を」
「断罪されて、修道院送り。ええ」
「だったら、いい子にして回避すれば」
「なぜ?」
オクタヴィアは、心底おかしそうに首をかしげた。
「わたくし、前世では小売店の店長に怒鳴られる側でしたの。バックヤードで三十分立たされて、名札を曲げられて。それが今は、王家の次に偉い家の娘ですのよ。わたくしが眉をひそめれば人が消える。あんなに欲しかったものが、生まれた瞬間から全部そろっていましたの」
紫の目が、まっすぐわたしを見る。
「使わないなんて、もったいないじゃありませんか」
原作のオクタヴィアは、嫉妬深くて見栄っ張りで、だから失敗する女だ。目の前の女は、失敗しそうにない。
「断罪する方々は、先に潰しますわ。証言した令嬢が四人いらしたでしょう。二人は、もうこの学院におりませんの」
「……わたしから潰さないの。原作では、あなたを断罪する側の筆頭よ」
「あなたには殿下の目がありますもの。手を出せば、真っ先に疑われるのはわたくしですわ。それに」
氷のような指が、わたしの頬を撫でる。
「あなただけが、わたくしのしていることの意味をわかりますもの。全部わかったうえで、何もできずに見ていていただきたいの。絶望していただいてから壊すほうが、ずっとおいしゅうございますわ」
扉の前で、彼女はもう一度振り返った。
「ご忠告を一つ。この世界で、証拠のない話をなさる方がどうなるか、ご存じ? ――狂人ですわ。北の施療院に、窓が高いところに一つきりの部屋がございますの。前の生の話をなさる方が、何人か入っておられますわ」
紫の目が細まる。
「わたくしたち、何を知っていても、それを誰にも説明できませんの。お互いに、ね」
◇
最初の半年で、わたしは彼女のやり口を理解する。
オクタヴィアは、自分では何もしない。
アンリエッタ・ブランシェ侯爵令嬢――原作でわたしへのいじめを証言するはずの令嬢は、平民の楽師との密通の手紙が出て、一週間で北の修道院へ送られた。手紙を届けたのは本人の侍女。その侍女の弟は、ひと月前に公爵家の口利きで王宮の下働きに採用されている。
商家の娘ベアトリス・キールは、実家の納品に腐った肉が混じって商会が潰れ、秋には公爵家に引き取られた。表向きは慈善。実際には当主の、三人目の愛人である。学院を去る前の日、彼女はわたしにきれいなお辞儀をした。何も言わずに。その夜、わたしは吐いている。
異母妹のクラリスは、去年の冬に階段から落ちて、右足を引きずるようになった。姉が近くを通ると、あの子は息を止める。姉が通り過ぎるまで、ずっと。
それでいて、オクタヴィアの評判は完璧だった。
彼女は未来を一言も口にしない。言葉では使わないのだ。夏の増水で東の橋が流される二か月前に、公爵家は上流の渡し船の権利を買っていた。南から疫病が入る前の春には、南の布の在庫を全部さばいている。
誰も予言だとは思わない。彼女は何も言っていないのだから。人はただ、さすがヴァレンシュタイン家、抜け目がない、と言う。
残るのは、正しく買って正しく売っただけの記録。そんなものは、この国に何万件もある。
わたしには、同じことができない。男爵令嬢には渡し船を買う金がないし、なぜ知っているかも説明できない。
彼女は一度も、わたしに手を出さなかった。
ただ、わたしの周りにいる人が、順番に減っていく。
◇
ミレイユ・ドラクロワは、雨の日の図書館で声をかけてきた。
「それ、上の棚のでしょう。わたし、背が高いので」
栗色の髪をひとつに結んだ子爵令嬢が、ひょいと手を伸ばして植物図鑑を引き抜く。
この学院で、わたしに自分から話しかけてくる人は、もう半年いなかった。
「……わたしと話すと、面倒なことになりますよ」
「なりますか? でも、なるかもしれないからって話しかけないでいたら、一生誰とも話せませんよ」
そう言って、勝手に隣へ座る。
ミレイユは行動の早い人である。わたしが授業で分からない箇所を口にすれば、次の日には自分のノートを持ってくる。食堂に行けないでいると(行けば料理に何か入っている可能性があった)、パンを二つ買ってきて中庭で分ける。
近衛見習いの兄ジュリアンに会ったのは、夏の終わりだ。彼は男爵令嬢のわたしに完璧な角度で礼をして、それから妹に向き直った。
「寮の屋根に出て猫を助けて、手のひらを三針縫ったそうだな。落ちそうなものを見ると、先に体が出る。お前の悪い癖だ。いつか取り返しのつかないことになるぞ」
口をとがらせたミレイユを見て、わたしは声を出して笑った。学院に来てから、久しぶりのことである。
秋の初めの誕生日、ミレイユはハンカチをくれた。白い麻に、青い糸で「リディア」。字が傾いでいる。
「3枚失敗しました。これが4枚目です。3枚は燃やしました。証拠隠滅です」
わたしはそれを、その日から毎日持ち歩いている。
好きになってから、気づいた。
ミレイユ・ドラクロワは、『銀薔薇の檻』に出てこない。ヒロインの隣に座り、パンを買ってくる子が、一行も描かれていないのだ。
わたしには、この子の未来がわからない。
オクタヴィアも、同じことに気づいているはずである。
◇
思い出したきっかけは、図鑑の一頁だった。
銀鈴草。白い釣鐘の花。根に強い毒を持つ。
原作の一年目の秋、王太子セルジュがこの毒に倒れる。学院の温室で育てられていたもので、オクタヴィアの仕業として疑われ、証拠不十分のまま断罪への前振りになる。誰が本当に盛ったのか、原作は最後まで書かない。
放っておけば、彼女が疑われる――そう考えたのは、三秒ほど。
あの人が、原作どおりに疑われて終わるわけがない。筋書きを外すなら、いちばん確実なのは、自分以外の犯人を用意することだ。
わたしはその日のうちに、ミレイユをつかまえた。
「温室の奥の棚に、銀鈴草という白い花があります。絶対に近づかないでください。触らないで、話題にもしないで」
「毒があるやつですか。どうして急に」
「聞かないでください。お願いします」
未来を知っているとは言えない。言えば、あの高い窓の部屋に入るのは、たぶん二人になる。
ミレイユはわたしの顔をしばらく見て、うなずく。
三日後の夕方、彼女は温室にいた。
土のついた手袋をして、麻袋を抱えて。袋の中には、根ごと抜かれた白い釣鐘の花。
「管理人さんに聞いたら、もう授業で使ってないんですって。誰でも入れる温室に毒草なんて危ないから、処分しましょうって。手続きもちゃんとしましたよ。持ち出し帳に日付と名前と株数を書いて、管理人さんの立会いでサインもしました」
目の前が暗くなる。
本人の署名。日付。株数。これ以上ないほど完璧な証拠である。
「……近づかないでって、言いましたよね」
「すみません。でも、リディアさんが怖がってたので。なくしてしまえば、もう怖くないかなと思って」
この人は、そういう人だった。危ないものがあると聞けば、避けるのではなく取り除きにいく。兄が三日説教しても直らない癖。わたしはそれを知っていて、「近づくな」とだけ言ったのだ。
それを見越していた人間が、この学院に一人いる。
温室の入り口を振り返る。ガラス越しの夕日の中に、銀色の髪。
オクタヴィアは小さく手を振って、口の形だけで言った。
――ありがとう、と。
◇
王太子セルジュが倒れたのは、9日後である。
殿下の茶から、銀鈴草の根の成分が出た。二日目に温室の記録が調べられ、三日目の朝、ミレイユが連行される。
証拠は三つそろった。持ち出し帳の署名。寮の机の奥から出た、乾かした根――管理人が焼却したと証言したはずのもの。そして、当日の午後にミレイユが給湯室へ入るのを見たという目撃証言。証言したのは、公爵家の侍女だった。
宰相子息エミール・ヴァレーの鑑定では、毒の量は致死量の半分にも届いていないという。
殺す気がなかったのだ。倒れさえすれば、犯人を出せるから。
その夜、わたしはオクタヴィアの部屋の扉を叩いた。彼女はガウン姿で、すぐに出てくる。
「明日、調査官に証言します。銀鈴草のことを教えたのはわたしだと」
「どうぞ。では、こう聞かれますわね。『なぜ9日も前から、そこに毒があると知っていたのですか』」
彼女は指を折っていく。
「恋のもつれで殿下を狙った共犯、という形もよろしいわ。単独犯より、共謀のほうが罪は重いですもの」
「……なら、未来を知っていたと言う」
「どうぞ、ぜひ。わたくしなら、こう申し上げますわ。お気の毒に、あの方、お友達が捕まってからおかしなことばかりおっしゃるの、と。ミレイユさまのために口をきく人間が、この国から一人減りますわね。もともと一人しかおりませんのに」
どの道も塞がっている。
オクタヴィアがかがんで、わたしの耳元に口を寄せた。
「ミレイユさまを選んだのも、警告なさったのも、あなたですわ。わたくしは後ろに立っていただけ」
息が耳にかかる。
「あの方、あなたと出会わなければ、死にませんでしたわね」
◇
それから7日、わたしは走り回った。
殿下は寝台の上で、最後まで聞いてくださる。そのうえで、こうおっしゃった。
「私が『信じる』と言えば人一人の首がつながる国であってはならない。証拠を持ってきてくれ。持ってきてくれれば、王の前で何度でも読む」
正しい。腹が立つほど正しかった。
温室の管理人は、故郷の母が倒れたと言って前日に辞めている。書類にあった北の村へ半日かけて行くと、そんな村はどこにもない。ドラクロワ子爵家に宛てた手紙には、返事が来なかった。助命嘆願を出せば家督の審査に響く、という話が先に届いていたらしい。
面会が許されたのは、処刑の前日である。
ミレイユは地下牢で膝を抱えていた。髪は短く切られている。
「リディアさん。来ちゃだめですよ。あなたまで疑われます」
「……わたしが、あなたを殺したんです」
言ってしまった。
ミレイユは鉄格子の隙間から手を伸ばして、わたしの手の甲に触れる。その指が、小刻みに震えていた。声はあんなに落ち着いているのに、指だけが別の生き物のように。
「わたしは自分で温室に行って、自分で名前を書きました。あなたは、近づくなって言ったんです。悪いのは、あの草を毒に使った人です」
震える指が、わたしの手をとんとんと叩く。
「だから、代わりにその人のこと、覚えていてくれませんか。わたし、たぶん明日で終わるので」
恨んで、とは言わない。
牢を出るとき、背中で小さな声がした。
「あれ、痛いんでしょうか」
答えを探しているうちに、看守が扉を閉める。
◇
処刑は北広場で行われた。よく晴れた日で、パンの屋台が出ている。
引き出されてきたミレイユは、歩けていなかった。衛兵に両脇を抱えられ、つま先が石畳をこする。目を見開いたまま固まり、歯の鳴る音が三列目のわたしまで聞こえてくる。
「見ろよ、おっかないのか」
「毒を盛るときは平気だったくせにな」
前のほうで笑い声が上がった。
「最後に、申し述べることはあるか」
ミレイユは顔を上げた。口が開いて、何も出てこない。焦点の合わない目が、人垣の中の誰かを探して、右へ、左へ。
わたしは、手を挙げようとした。
挙げれば、あの子が見つけるかもしれない。挙げれば、わたしが誰なのか、この広場の全員に知られる。
――一秒。
わたしの腕は、上がらなかった。
その一秒のあいだに、係の男が「よし」と言う。
刃が落ち、群衆が沸いた。人垣の端では、同僚に押さえられたジュリアンが妹の名を三度叫んでいる。
わたしは泣かなかった。唇を噛み切っていて、ポケットの中で握ったハンカチには、手のひらに食い込んだ爪の跡から血がにじんでいる。曲がった名前の刺繍の上に。
隣で、銀色の髪が揺れた。
「――おつかれさまです」
今度は、反射で返さない。
「あら。いいお顔になりましたわね」
「ひとつ教えてください。あなた、この6年で、損をしたことはありますか」
「ございませんわ。一度も」
「知っていて、何もしなかったことは」
「ございませんわね。もったいないじゃありませんの」
「そうですか。よかった」
覚えていることにした。
ミレイユに頼まれたとおり、あの人のことを。
◇
冬、わたしはセルジュ殿下の茶会の招きを三度断った。中庭まで来られた殿下に、一つだけ申し上げる。
「いつかわたしがお願いを一つだけ申し上げたら、証拠を持ってこいとおっしゃらずに、一度だけ聞いてくださいますか」
「……覚えておこう」
殿下の寵愛は、わたしの盾である。同時に、物語を原作の形へ引き戻す首輪でもあった。これからすることは、人目のある場所ではできない。
年が明けるころには、わたしの周りには誰もいなくなっている。
ジュリアンとは組んだ。毒の件の証拠は、もう全部消えている。だから金の流れから入った。渡し船、南の布、北の農地。三か月かけて集めた取引の記録はどれも公爵家の家令に行き着き、家令は「すべて私の判断です」と繰り返すばかり。
礼拝堂で、クラリスにも話を聞いた。
「杖は、落ちた次の日に届きました。わたしの背丈に合わせて削ってあって……注文は十日前だったと」
「知っていたのではありません。決めていたんです。知っていたなら、止められたはずでしょう。あの方は止めずに、杖を注文なさった」
あの子は何も答えない。ただ、その日から、わたしとすれ違っても壁まで下がらなくなる。
監察に書類を持ち込む三日前、ジュリアンが捕まった。書庫番に差し出された「公爵家の金の動き」の紙に、飛びついたのだ。紙は本物の王宮の機密記録で、書庫番は翌日から姿を消していた。
聴取の席で、灰色の髪の監察官は言う。
「あの家は勝ちすぎている。私もそう思います。ですが、思うことと書けることは違う。疑いはいくら積んでも証拠にならない。積めば積むほど、積んだ人間の執念のほうが目立つ」
ジュリアンは近衛を除名され、ドラクロワ子爵家は三か月後に爵位を返上した。
王都を出る前の日、彼から短い手紙が届く。
――正しいやり方では勝てないと、あなたは最初から知っていたのだと思います。知っていて、俺に正しいやり方をさせてくれた。あなたなりの誠意だったのでしょう。
――次は、そうしないでください。
三度読んで、燃やした。
◇
春の終わり、オクタヴィアがわたしを空き教室に呼んだ。
「わたくし、何もしておりませんのよ。書庫番が紙を差し出したのも、あの方が受け取ったのも、全部わたくしの外で起きたことですわ。……なぜ調べる先が読まれたか、お分かり? わたくしも同じところを調べるからですわ。同じ物語を読んだ者が二人いれば、片方の手は読めますのよ」
彼女は教壇に腰かけて、指を立てる。
「証拠を集めて、正式な手続きで出す。それ、前世の発想ですわ。この世界で人を落とすのに、証拠は要りませんの。要るのは、皆さまが信じたいお話」
監察官と、同じことを言っている。
「わたくしを落としたければ、わたくしと同じことをなさいまし。話をこしらえて、人を騙して、皆さまが信じたい形に整える。そうしなければ、一生届きませんわ」
ミレイユが死んでから、わたしは「あの子ならこうはしない」と何度も考えた。考えた結果が、ドラクロワ家の取り潰しである。正しいやり方を選んだのはわたしで、代償を払ったのは全部あの家だった。
あの子を言い訳に使うのは、もうやめる。
「――おつかれさまです」
一年前に彼女が言った言葉を、そのまま返した。
「あなたの言うとおりです。わたしは、あなたと同じやり方でしか、あなたを落とせません」
オクタヴィアは心底うれしそうに笑い、すれ違いざまに囁く。
「でも、駒の数が違いますわよ。同じやり方をすれば、必ずわたくしが勝ちますの」
◇
夏のあいだ、わたしは紙に何も書かずに、天井を見て原作を並べ直した。
三年目の春の舞踏会。その夜、王家の宝が消える。
銀の薔薇。代々の王妃が身に着けてきた、銀の台に真珠を三つ並べた古い髪飾りである。王妃陛下は舞踏会の途中で控えの間に下がってそれを外し、戻ったときには、もうない。二度と出てこない。
疑われるのはオクタヴィアで、証拠不十分のまま、卒業パーティーで罪状の一つとして読み上げられる。
誰が盗んだのかは、原作に書いていない。
書いていないということは、あの人にも分からないということだ。誰がやるか分からない事件は、見張れないし、防げない。できるのは一つだけ。
――その日までに、別の犯人を立てておく。
ミレイユのときと同じ手順になる。そして代役は、自分の意志でそこへ行く人間でなければならない。脅して立たせれば、脅した跡が残るからだ。
その夜、控えの間の近くにいて、宝に手が届き、動機を作れる者。指を折ると、四人思い当たった。
四人目は、わたし自身である。
盾を捨て、友人もなく、公爵令嬢を逆恨みしている男爵令嬢。皆が信じたい話として、これ以上のものはない。
三人外されれば、残りは一人しかいない。
◇
一人目は、官報の末尾で見つけた。
王宮の採用は、下働きの名前まで毎月載る。誰も読まない三、四行の欄を、わたしは毎月読んでいた。あの人は金を積まない。その人が前から欲しがっていたものを、先に渡す。アンリエッタの侍女のときと同じように。
十一月、王宮の厩に16歳の少年が採用された。姉はジョゼット・メナール、22歳。王妃陛下の控えの間を預かる侍女で、母親の薬代に困っているという。
年末の茶会で、わたしは壁際からジョゼットを見ていた。陛下の水の温度を三度替え、銀器を布で受けてから置き、下がるときは必ず扉の内側を確かめる人である。
わたしは女官長に面会を申し込み、見たことを全部話した。
「あの方は、本隊にお引き上げになるべきです。わたしに得はありません」
年が明けてすぐ、ジョゼットは王妃付きの本隊へ移る。舞踏会の夜は、大広間の詰所に立つことになった。控えの間の係には、去年の秋に上がったばかりの17歳の娘が入る。
いちばん使いやすい娘を、わたしがあの部屋に置いたことになる。一日だけ考えて、何もしないことにした。
二人目は、仕立て屋の娘リゼットである。二月、公爵家から舞踏会の衣装の大口注文が入った。当日は、控えの間の隣の衣装直しの部屋に詰める。採寸した者でなければ、公爵令嬢の衣装には触れられないからだ。
「父が三日眠れていません」
膝をついてわたしの丈を測りながら、彼女は明るく言う。
危ないと教えれば、人は動く。逃げるほうへ動くとは限らない。わたしはミレイユで、それを覚えた。
だから、別の頼み方をする。舞踏会の日の午後、宿でわたしの衣装を直してほしい。代金は、三年分溜めた小遣いの全部。
当日、リゼットは王都の南の宿で、わたしの裾を三度直すことになる。一度目は丈、二度目は袖。三度目は、裾の内側。
「袋にしてください。手のひらが入るくらいで。表に響かないように」
「……できます」
彼女は、なぜかを聞かなかった。頼まれたことを黙って丁寧にやる人である。だから選んだ、とも言える。
三人目は、クラリスだった。
三月、中庭で姉に肩を抱かれていたあの子を、わたしは追いかける。
「……舞踏会の夜、皆さまが踊っているあいだに、控えの間へ王妃陛下へのお礼を申し上げに行くようにと」
足の悪い娘が、人のいない廊下を一人で。跡取りの姉を妬んでいた、という話はいくらでも作れる。
「その夜、王妃陛下の髪飾りがなくなります。なぜ知っているかは言えません。なくなったとき、そこにいた人が犯人になります」
「……杖と、同じですか」
「同じです。どうするかは、あなたが決めてください」
三日後、廊下で姉妹の声が上がった。
「お使いは、お断りいたします。長い廊下を歩くなと、お医者さまに言われておりますので」
オクタヴィアの手が上がって、止まる。人のいるところで、この人は手を上げない。
「……そう。お大事になさって」
歩き出した彼女が、三歩めでこちらを向いた。口の形だけで言う。
――三人目、ですわね。
その夜、クラリスが杖をついて寮の階段を上がってきた。
「舞踏会には、出なければなりません。でも、お姉さまと四時間同じ部屋にいるのは……一人では、行けません」
「ご一緒しましょうか」
あの子の顔が、泣かずに崩れた。
◇
三月の終わり、三度目の空き教室。
「あなたがなさったのは、人助けではありませんわね。わたくしの手を一本ずつ折ることですわ。人が助かったのは、そのついで」
「否定しません」
オクタヴィアは、膝の上で手を組んだ。
「手を組みませんこと? 話の通じる相手は、この世界に二人きり。わたくしが公爵家を、あなたが王太子妃を。物語の外まで行けますのよ」
三十数えるくらい、わたしはそれを考えた。
「ミレイユさんは、その組み合わせのどこに入りますか」
「……入りませんわ。もういらっしゃいませんもの」
「だから、組めません」
「もったいないこと。では、残りは一人ですわね。あなたですのよ」
「知っています」
「当夜9時に、控えの間の隣の衣装部屋へいらして。クラリスの忘れ物をお預けしますわ。見ているのは、わたくし。侍女の証言と公爵令嬢の証言では、重さが違いますもの。人にやらせて、見るのは自分。ずっと、そうしてまいりましたの」
9時は、王妃陛下が控えの間に下がられる時刻である。
「行きます」
「……何かなさるおつもり?」
「何も。わたしは、何も作りません」
扉の前で、彼女は振り返らずに言った。
「わたくし、あの薔薇を盗りませんのよ。誰が盗るのか、ずっと分かりませんでしたわ」
「知っています」
あの人が本当のことを言ったのは、たぶん、これが初めてだった。
◇
春の舞踏会の大広間には、四百人が入る。
8時、わたしはクラリスと入場した。リゼットが三度直した藍色の衣装は、生地こそよくないけれど、縫い目だけはきれいである。
8時40分、侍従が呼びに来た。
「ヴァレンシュタイン家の妹君はおいででしょうか。王妃陛下が、お目にかかりたいと」
療養の見舞いの礼を申し上げる機会を、陛下のほうから作ってくださったのだ。歩くのに人手の要る娘には、連れが一人許される。わたしはクラリスの腕を取った。
控えの間は暗く、花の匂いが強い。クラリスは三度つかえながら礼を述べ、陛下は笑ってくださる。
「重いから、外してちょうだい」
女官長が銀の薔薇を外して鏡台に置き、陛下の髪を結い直しはじめた。手のひらに乗るほどの、地味な細工である。
膝を折ったままのクラリスに、わたしは手を貸して立たせる。立ち上がりざま、杖が絨毯に倒れた。
乾いた音に、部屋の全員がそちらを向く。侍女が駆け寄り、クラリスが真っ赤になって詫び、陛下が「いいのですよ」とおっしゃる。
わたしは、鏡台の上を片づけた。器を盆に移し、布をたたみ、箱の蓋を閉める。手の空いている者がやることだ。
「ありがとう。助かります」
女官長が、鏡越しに言う。
控えの間を出るとき、扉の内側を確かめた。ジョゼットがいつもそうしていたからである。廊下で、入れ替わりに今年からの係とすれ違う。
大広間に戻ったのは、8時55分。
「うまく、できていましたか」
「立派でした。陛下がお笑いになりました」
クラリスが、少し笑った。この子が笑うのを、初めて見る。
歩くたびに、右の裾が少しだけ遅れてついてくる。布の重さだと思うことにした。
8時58分、オクタヴィアが奥の扉へ歩いていく。
9時の鐘が鳴った。わたしは、動かない。
代わりに、人の輪が割れる。セルジュ殿下が、まっすぐこちらへ歩いてこられた。
「リディア嬢。一曲、お相手を願いたい」
半月前、わたしは手紙を書いていた。春の舞踏会の夜、9時から10時のあいだ、わたしと踊ってください。理由は聞かないでください。
返事は一行きり。――承知した。
「一曲でよいのか」
「二曲、お願いできますか。……わたし、踊りが下手です」
「知っている。足を踏まれる覚悟はしてきた」
この方は、証拠がなければ動かない。でも、約束は守る方である。
「そなたは今、四百人に見られている」
「存じております」
二曲目の途中で、控えの間のほうが騒がしくなった。曲が止まり、扉が閉められる。
銀の薔薇が、消えていた。
9時5分に、係が卓の上を確かめている。箱の蓋は閉まっていて、係はそれを見ただけで「ございました」と答えた。だから調べは、その時刻から後に控えの間の前を通った者に絞られる。客の身は、誰も改められない。四百人の貴族の袖をめくるわけにはいかない、という理由で。
最後に、侍従長が名を読んだ。
「オクタヴィア・ヴァレンシュタイン嬢。衣装部屋に、四半刻ほどお一人でおられたと。何をなさっていたのですか」
答えられるはずがない。来るはずの代役を待っていたのだから。
彼女が、こちらを見る。わたしは殿下の隣に立っていた。四百人の前で、王太子と二曲踊った地味な男爵令嬢が。
わたしは、頭を下げなかった。
◇
銀の薔薇は見つからない。出てきたのは、別のものである。
オクタヴィアが、自分で出した。
詮議の四日目、彼女はわたしを告発しようとして、こう言ったそうだ。アシュフォードという男爵令嬢が、メナールとゴダールとクラリスを当夜そこから外した。三人とも、わたくしが用意していた者だ、と。
ジョゼットの配置替えも、リゼットの仕事も、クラリスの断りも、それぞれ別の場所で起きた何でもない話だった。三つを並べて見せたのは、あの人自身である。
監察は、そこから逆に辿った。三人とも、公爵家につながっている。
「なぜ、三人も要るのですか」
一人で足りるはずだ。三人配するのは、来ないかもしれないと分かっていたから。つまり、何かが起きると知っていたから。
答えるには、この世界が物語だと言わなければならない。六日目に、彼女はそれを言った。
記録には、一行だけ書き足されたという。――被疑者、錯乱の兆しあり。
呼ばれたクラリスは、姉の頼みを断った理由を問われて、医師の指示だと答えた。ほかに理由はないか、と重ねて聞かれて、ございません、と。
16歳の娘が、王宮の詮議で嘘をついたのである。わたしのために。
わたしにも調べは入った。女官長への推薦も、仕立て屋への支払いも、クラリスの診断書も、すべて正規のもの。9時から10時まで、わたしは四百人の前で踊っていた。
どこにも、罪がない。一年半かけて、そういうものだけを積み上げてきたのだ。
詮議の終わり、衛士に挟まれた彼女と、王宮の廊下ですれ違った。
「……あなた、最初からこれを狙っていましたの?」
「いいえ。あなたが、わたしを最後の一人に選ぶことを」
オクタヴィアの目が、ゆっくり開かれていく。頭の回る人だから、三秒で分かったのだと思う。三人を外したのは、自分が四人目になるためだったこと。四人目に選ばれれば、当夜の9時、この人が必ず誰も来ない部屋で一人になること。
「……いつから」
「あなたが、同じやり方でなければ届かないと教えてくださった日からです。そのとおりにしました」
三歩歩いてから、彼女は振り返った。
「あの薔薇、どこへ行きましたの」
わたしは、頭を下げる。
判決は四月の終わりに出た。窃盗は証拠不十分。ただし、王妃陛下の控えの間に日時を定めて三名を配そうとした企ては、王家への謀計と認められる。当主は爵位返上のうえ蟄居。令嬢の処置は、家に任せる。
◇
公爵邸二階の客間は、思ったより明るかった。人が死ぬ場所には見えない。それが、いちばん怖いところである。
当主は、次期当主となるクラリスに立会いを命じた。一人では行けないとあの子が言ったから、わたしもいる。
テーブルの上に、銀の杯。
白い服のオクタヴィアは、自分で歩いて入ってきた。わたしを見つけて、少しだけ笑う。
「あら。いらしてたの。ご親切なこと」
検使が書状を読み上げた。家名に免じ、死を賜る。
「お父さま。一つだけ、申し上げたいことが」
窓のほうを向いたまま、当主は言う。
「家の名を汚さぬようにな」
オクタヴィアの顔から、表情が落ちた。
「……では、そちらに申し上げますわ。盗ったのは、あの女です。あの夜、クラリスの連れとして控えの間に入っておりましたもの」
「係が9時5分に卓を確かめております。箱はございました」
「蓋を開けましたの? 中は空でしたのよ!」
「アシュフォード嬢は、9時から10時まで殿下と踊っておられます。……ヴァレンシュタイン嬢。証拠のないお話は、記録にできません」
――この世界で、証拠のない話をなさる方が、どうなるかご存じ?
二年前の春、この人はわたしにそう言った。
彼女の唇が、震えはじめる。
「わたくしは知っていたのです。この世界がどうなるかを、全部。だから一度も――」
「お時間です。苦しみません」
医師の言葉に、オクタヴィアが一歩下がった。
「待ってくださいまし。わたくし、まだ18ですのよ。前の生では29まで生きて、店長に怒鳴られて、それで終わって、今度こそと思って……全部持って生まれてきましたもの。使わないなんて、もったいないじゃありませんの。誰だって――」
侍女二人が両腕を取る。彼女は暴れた。袖が裂け、靴が絨毯を転がり、侍女の一人が頬を打たれてよろける。
「離しなさい! わたくしは公爵令嬢よ!」
「押さえろ」
窓を向いたままの当主の声で、男の使用人が二人入ってきて、彼女を床に座らせた。
クラリスがわたしの袖を強く引く。目を閉じている。わたしは、閉じない。
医師が顎に手をかけ、首を振る彼女の鼻をつまむ。顔が赤くなり、紫がかり、足が絨毯を蹴る。息を吸うために開いた口に、杯が傾けられた。むせる音。半分が白い服にこぼれ、医師は残りを注いで顎を上げさせる。
喉が、一度、大きく動いた。
手が離されると、彼女は四つん這いになって指を喉に突っ込む。何度も、何度も。
「無駄です。回りの早い薬です」
「うそ。まだ、わたくし、まだ」
焦点の合わない目が、わたしを探す。右へ、左へ、また右へ。一年半前、処刑台の上でミレイユがしたのと同じように。
今度は、見つけた。
「――おつかれ、さま、です」
わたしは、答えなかった。
痙攣は、思ったより長く続く。苦しまないと医師は言ったけれど、嘘である。
終わったとき、窓から入る光の角度が、少し変わっていただけだった。
当主は、最後まで一度も振り向かない。
◇
三日後、わたしは西の墓地へ行った。
爵位を返上した家の娘は、貴族の区画に入れない。ミレイユの墓は平民の区画に近い端にあって、小さな石に名前と没年だけが彫ってある。
膝の上で、布の包みを開く。
銀の台に、真珠が三つ。
「終わりました。覚えていてくれと言われたので、覚えていました」
風が吹く。
「わたしが、盗りました」
陽に当てても、古い真珠は少しも光らない。
あの晩、杖を倒したのはわたしだ。立たせるときに、膝で。部屋じゅうがそちらを向いたあいだに卓を片づけ、飾りは裾の内側の袋へ入れて、箱は空のまま蓋を閉めた。
ジョゼットを外したのは、あの人なら蓋を開けて真珠を三つ数えるからである。今年からの係は、閉まった蓋を見て「ございました」と答えた。それだけの違い。
リゼットを外したのは、当日の王宮にあの人がいれば、裾の袋を思い出すかもしれないから。
クラリスを残したのは、あの子が姉のいる部屋に一人で入れなくなって、連れを欲しがるから。王妃陛下があの子をお呼びになったのも、年明けに女官長へ一言添えておいたからだ。
三人を外せば、四人目はわたしになる。四人目になれば、あの人は9時に、誰も来ない衣装部屋で一人になる。
「三人とも、助かりました。本当です。でも、助けたくて助けたわけではありません。あなたが思っているような人間ではないんです、わたしは」
クラリスは詮議で嘘をついた。嘘をついた人は、もう戻れない。あの子はわたしを守ったつもりで、わたしに縛られている。そうなると分かっていて、三月の中庭であれを言ったのだ。
声が、途中で変な形になる。
頬が濡れていた。処刑台の前で一滴も出なかったものが、今ごろになって出てくる。何に対して泣いているのか、自分でも分からない。
売れば、ドラクロワ家の王都の屋敷くらいは買い戻せるだろうか。考えて、やめた。誰も帰ってこないし、売れば足がつく。やめた理由がそのどちらなのか、順番はつけられない。
墓石の裏の土を、手で掘る。春の土は、少し下に凍った層が残っていて固い。爪が割れ、石の縁で右手を切った。血のついた土を、そのまま掘り続ける。
薔薇を布に包み直して入れ、土をかけ、両手で押さえた。
物語は、犯人を書いていない。毒のときもそうだ。書かれていないのに、実際にはあの人がやっていた。
書かれていない犯人というのは、そういうものらしい。物語を知っている誰かが、書かれていない場所に立っているだけだ。
あの人は、何年もかけて物語から逃げようとした。
わたしは、物語の中にいたまま、あの人を殺した。
立ち上がると、後ろで足音がする。
「アシュフォード嬢。王太子殿下が、お呼びです」
用件は、たぶん分かっている。公爵家の跡は、16歳の、足の悪いクラリスが継ぐ。後見が要る。誰が後ろに立つかで、この国の形が少し変わる。
あの子は、わたしを信じている。礼拝堂でも、中庭でも、寮の廊下でも、わたしが選んで渡した言葉を。
いつか、あの子がわたしの前で息を止める日が来るかもしれない。来ないようにする方法を、わたしは知らない。知っているのは、来たときにそれをどう使うか、ということだけだ。
――次は、そうしないでください。
ジュリアンの手紙の一行を思い出す。
土のついた手をポケットに入れると、指先がハンカチに触れた。曲がった刺繍の、四枚目。
そうしないつもりは、なかった。
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悪役令嬢も転生者でした~しかも前世より性格が悪いので、わたしが落とすことにいたします~が連載版になります そちらもよろしくお願いします




