『最近の米価格についての考察』
去年は「米が高すぎる」と騒がれていたのに、今年は「このままでは米農家がやっていけない」という。
では、去年あれだけ高く売られていた米のお金は、いったいどこへ行ったのでしょう。
そんな素朴な疑問から、農家・小売・消費者の三者が無理なく共存できる仕組みを考えてみました。
もしかすると問題は、米の値段そのものではなく、**「誰に市場原理を働かせるのか」**なのかもしれません。
最近の米価格についての考察
――農家・小売・消費者の三者を同時に守るために
今年、米の価格が下がり始め、「この価格では米作りを続けていけない」という農家の声が聞かれるようになった。
けれど、私はそこで一つの疑問を持った。
去年は、あれほど米が高かったではないか。
スーパーに行けば米の値段は大きく上がり、消費者は「高すぎる」と悲鳴を上げていた。それなのに、わずか一年ほど経っただけで、今度は農家から「この価格ではやっていけない」という声が上がる。
では、去年の高騰で生まれたお金は、いったいどこへ行ったのだろう。
農家が去年たくさん儲けて、その利益を全部使ってしまったのだろうか。
調べてみると、そんな単純な話ではなかった。
スーパーで売られている米の価格が上昇したからといって、その値上がり分がそのまま農家の利益になるわけではない。
米は農家から消費者の食卓に届くまでに、集荷、保管、精米、卸売、物流、小売と、いくつもの段階を通っていく。
実際、米価が高騰した時期には農家の販売条件も改善している。しかし、その一方で大きく利益を伸ばした米卸企業もあった。
つまり、消費者が支払った高い米代のすべてが、米を作った農家に渡ったわけではない。
ここに、私は現在の仕組みの問題があるように思う。
しかし私は、だからといって、
「卸業者が儲けすぎているから規制しよう」
「スーパーの利益率を政府が監視しよう」
とは思わない。
日本は資本主義社会なのだから、企業が利益を得ること自体は悪いことではない。
しかも、政府が農家、集荷業者、卸売業者、物流会社、小売店のそれぞれについて、「利益はここまで」「経費はここまで」と細かく調べ始めれば、とてつもなく複雑な制度になる。
そんな制度を作れば、膨大な事務作業が発生する。
私は、もっと簡単にできるのではないかと思う。
【農家だけを価格競争から切り離す】
私が考えた方法は、実に単純だ。
米農家だけを、完全な市場原理から切り離すのである。
農家が米を出荷するときの価格について、
「この価格なら、翌年も米を作り続けることができる」
という基準を決める。
単に赤字にならない価格ではない。
肥料代、農薬代、燃料代、電気代はもちろん、農家自身の労働に対する正当な報酬、そしてトラクターや田植え機、コンバインなどを将来買い替えるための費用まで含める。
農業は、今年だけ黒字ならよいという産業ではない。
今年利益が出ても、十年後にコンバインを買い替えるお金がなくなれば、その農家はいずれ米を作れなくなる。
だから必要なのは、「今年赤字にならない価格」ではなく、来年も、五年後も、十年後も生産を続けられる価格――再生産可能価格である。
例えば、それが玄米60キロ当たり2万円だとする。
原則として農家は、その基準価格で米を出荷できるようにする。
市場で米が余ったから、
「今年は1万5千円で我慢してください」
とはしない。
逆に不足したからといって、農家の段階から価格を何倍にも跳ね上げる必要もない。
農家は毎年、
「今年はいくらで売れるだろう」
と相場に怯えるのではなく、
「きちんと米を作れば、来年の生産を続けられる」
という状態になる。
私は、食料を作る人たちについては、それでよいと思う。
【市場原理をなくすのではない】
これは、資本主義を否定する話ではない。
むしろ私は、市場原理を働かせる場所を変えればよいと考えている。
農家から先には、集荷業者がいる。
卸売業者がいる。
精米業者がいる。
物流会社がいる。
そしてスーパーなどの小売業者がいる。
そこから先は普通の資本主義でよい。
安く効率的に運べる会社は利益を得ればよい。
上手に仕入れて販売できる会社も利益を得ればよい。
経営努力によってコストを削減した会社が他社より多く儲けても、私は何も問題だとは思わない。
小売価格についても、基本的には小売業者が決めればよい。
ただし当然、小売業者にも市場原理が働く。
米を高く売りすぎれば、消費者は購入量を減らしたり、別の商品を選んだり、安い店へ移ったりする。
だからといって、小売業者も際限なく値下げできるわけではない。
小売業者にも人件費がある。店舗の維持費がある。電気代も物流費も必要である。
赤字になるまで価格を下げ続ければ会社が潰れてしまう。
だから、小売価格は当然ある程度のところで落ち着く。
それでよいのである。
農家にまで価格競争をさせる必要はない。
市場原理を働かせるのは、農家から先でよいのではないか。
【儲かった年の利益は企業自身がプールすればいい】
ここで、もう一つ重要なことがある。
農家からの仕入価格が安定していれば、卸や小売業者は自分たちで将来の経営を考えるようになる。
とても儲かる年もあるだろう。
反対に、ほとんど利益が出ない年もあるだろう。
それなら、儲かった年に利益の一部を会社の中に残しておけばいい。
つまり、企業自身が利益をプールするのである。
今年たくさん儲かったからといって、全部使ってしまう必要はない。
来年は物流費が上がるかもしれない。
電気代が上がるかもしれない。
消費が落ち込むかもしれない。
そのときのために利益を内部留保しておく。
儲かった年の利益で、儲からない年を乗り越える。
これは特殊な考え方でも何でもない。
本来、企業とはそうやって長期的に経営するものではないだろうか。
ところが農家の販売価格まで市場原理にさらしてしまえば、川下の企業にはもう一つの調整方法が生まれる。
苦しくなったとき、仕入価格を下げればよいのである。
その結果、最も弱いところに価格変動の負担が押しつけられる。
それが農家であってはならないと私は思う。
農家には毎年米を作ってもらわなければならないからだ。
【価格変動そのものを金融市場へ渡してもいい】
さらに考えてみると、卸や小売業者が価格変動リスクをすべて自分たちだけで抱える必要もない。
資本主義には金融市場がある。
例えば、小売業者が将来の米の調達価格に関する「米価格買取券」のようなものを作り、投資家に販売する方法も考えられる。
考え方としては先物取引に近い。
将来の価格変動リスクを、リスクを引き受けてもよいと考える投資家に移転するのである。
もちろん、実際に制度化するなら既存の商品先物や金融商品取引法との整合性を考えなければならない。
しかし大切なのは制度の名前ではない。
価格変動のリスクを、誰に負わせるのが最も合理的なのか。
ということである。
農家のおじいちゃん、おばあちゃんに、
「来年の先物価格が……」
「ヘッジ比率が……」
などと考えてもらう必要はない。
農家は良い米を作ることに集中すればいい。
価格変動を予測し、それを利益に変えたりリスクを分散したりすることは、企業や金融市場の仕事である。
つまり、
農家は米を作る。
卸・小売は商売をする。
投資家は価格変動のリスクを取る。
それぞれが、それぞれ得意なことをすればよい。
【では、豊作で米が余ったらどうするのか】
もちろん、農家の価格を安定させれば一つ問題が出てくる。
豊作になって米が余ったときである。
通常の市場なら、供給が増えれば価格が下がる。
価格が下がれば生産者が減り、やがて供給量も減る。
しかし、それを米農家にそのまま適用すれば、農家が離農してしまう。
一度離農してしまえば、元に戻すのは簡単ではない。
田んぼは荒れる。
農業機械は手放される。
技術を持った人がいなくなる。
そして何より、農家は高齢化している。
価格が戻ったから、
「では来年からもう一度米を作ってください」
と言ったところで、簡単に戻ってきてもらえるものではない。
だから余った米については、国が一定量を買い取ればよい。
政府備蓄米にするのである。
備蓄量が十分なら、学校給食、災害備蓄、加工用、飼料、海外援助など、別の用途を考えることもできる。
逆に凶作になったときには、備蓄米を市場へ出す。
それでも足りなければ、そのとき初めて輸入を考える。
つまり政府が市場全体を管理する必要はない。
豊作のときには余剰を吸収し、凶作のときには不足を補う。
その程度でよい。
【守るべきなのは「農家」だけではなく「生産能力」である】
なぜ私は農家だけを特別扱いしてもよいと思うのか。
理由は簡単である。
米農家が失われるということは、一つの会社が倒産することとは意味が違うからだ。
スーパーが一社倒産しても、別のスーパーがその地域に出店することはできる。
卸売会社が一社なくなっても、他社がその仕事を引き継ぐこともできる。
しかし、何十年も米を作ってきた農家が離農し、田んぼが荒れ、農機がなくなり、技術まで失われたら、その生産能力を取り戻すには長い時間がかかる。
つまり国家が守るべきなのは、個々の農家そのものというより、
日本が毎年一定量の米を生産できる能力
なのである。
食料は、なくなってからお金を出せばすぐに手に入るものではない。
世界的な不作や戦争、輸出規制が起きれば、外国が売ってくれる保証もない。
その意味では、国内の米生産能力は道路や水道、電力網と同じように、国家を維持するための基盤の一つだと思う。
【米農家を潰してはいけない、もう一つの理由】
ここまで私は、米を安定して生産するために農家を守る必要があると書いてきた。
しかし、考えてみれば、米農家が守っているものは米だけではない。
田んぼのある景観がある。
水路がある。
水田を中心とした生態系がある。
雨が降れば、水田は水を一時的に受け止める。
地域によって程度は異なるものの、水田や農業用水は洪水の緩和、地下水の涵養、水循環の維持などにも関係している。
それらを誰が維持しているのか。
農家である。
私たちはスーパーで米を買うとき、米そのものに対して代金を支払っている。
しかし農家は、その米を作る過程で、商品価格には表れない多くのものを同時に維持している。
だから農家の価値を、
「60キロの米をいくらで作れるか」
だけで判断すること自体に無理があるのではないだろうか。
そして、もう一つ忘れてはならないのが国防である。
国防というと、戦闘機や艦艇、ミサイルを思い浮かべる人が多い。
しかし、本当に国家の安全保障を考えるのであれば、食料を無視することはできない。
どれほど優れた防衛装備を持っていても、国民が食べるものを長期間確保できない国家は強い国家とは言えない。
平時なら外国から買えばよい。
安い外国産米があるなら、それを輸入した方が経済合理性があるという議論もできる。
しかし、それは「外国が売ってくれる」という前提の上に成立している。
戦争が起きたらどうするのか。
海上交通が遮断されたらどうするのか。
輸出国が自国民への供給を優先して輸出を止めたらどうするのか。
世界的な異常気象で食料不足が発生したらどうするのか。
そのときになって、
「米が足りないので、来年から田んぼを復活させましょう」
と言っても遅い。
荒れた農地を元に戻し、農業機械をそろえ、用水路を整備し、そして何より米を作る技術を持った人を育てるには時間がかかる。
農業の生産能力は、工場のスイッチのように必要になった瞬間に入れ直せるものではない。
だから最低限、米農家を潰してはいけない。
これは農家だけを特別扱いしようという話ではない。
農家が維持しているものを考えればよい。
食料。
農地。
景観。
環境。
水資源。
地域社会。
そして国家の食料安全保障。
それらをまとめて維持しているのである。
そう考えると、農家に対する再生産可能価格の保証は、単なる「農家への救済策」ではなくなる。
私たちが農家に支払っているのは、米を作ってもらうためのお金だけではない。
日本が、必要なときに自分たちの食料を作ることのできる国であり続けるための費用でもある。
私は、そこだけは市場価格だけで決めてはいけないと思う。
安い外国産米が入ってきたから国内農家が採算割れし、離農する。
翌年さらに輸入を増やす。
そして十年後、気がついたときには国内で米を作れる人も田んぼも減っている。
それでは、短期的には安い米を買えても、国家全体では大切なものを失っている。
市場価格には値段が付く。
しかし、失ってからでは買い戻せないものには、そもそも市場価格だけでは測れない価値がある。
水田と、それを守る農家は、その一つではないだろうか。
【三つを同時に成立させたい】
私が考えているのは、農家だけを助ける制度ではない。
実現したいことは三つある。
第一に、農家が毎年安心して米を作り続けられること。
第二に、卸や小売業者が企業としてきちんと利益を上げられること。
第三に、消費者が極端な価格変動に振り回されず、安定した価格で米を買えること。
この三つを同時に成立させたいのである。
農家を守るために小売業者を犠牲にしてはいけない。
消費者を守るために農家を赤字にしてもいけない。
小売業者を儲けさせるために、農家や消費者だけに価格変動を押しつけるのも違う。
そこで役割を分ける。
農家には再生産可能価格を保証する。
卸や小売には利益も損失も含めて経営を任せる。
儲かったときには企業自身が利益を蓄え、苦しいときにはそれを使う。
必要なら先物などを利用して金融市場へリスクを分散する。
政府は余剰米を備蓄し、不作のときにはそれを放出する。
消費者価格は完全固定する必要はない。
物流費や電気代、人件費まで毎年同じではないのだから、多少上下するのは当然である。
しかし、去年は二千円台だった米が突然四千円、五千円になるような極端な変動は、備蓄政策などによって抑える。
つまり、
農家価格は安定させる。
企業利益は企業自身に任せる。
消費者価格は一定の範囲内で安定させる。
この三つである。
【農家を「価格調整弁」にしない】
私は、ここが一番大切なのではないかと思う。
米が高くなれば消費者が困る。
米が安くなれば農家が困る。
そして毎年、
「今年は米が高すぎる」
「今度は米が安すぎて農家がやっていけない」
という議論を繰り返す。
それは、そもそもの制度設計がおかしいのではないだろうか。
農家を市場の価格調整弁にしているからである。
もちろん、普通の商品なら市場原理でよい。
売れない商品を作る会社がなくなり、需要のある商品を作る会社が成長する。
それが資本主義である。
しかし、米は少し違う。
「今年は儲からないので作るのをやめます」
「外国から買えばいいでしょう」
だけでは済まない。
米は日本人の主食であり、国家の食料安全保障そのものだからである。
だったら、米農家だけは資本主義から少し切り離してしまえばいい。
全部を社会主義にする必要などない。
流通も小売も金融も、資本主義のままでいい。
競争したければ競争すればいい。
利益を上げたければ上げればいい。
ただし、米を作るという一番根元の部分だけは、価格競争から守る。
私はその方が、ずっと単純だと思う。
複雑な補助金をいくつも作り、毎年制度を変更し、農家に大量の申請書を書かせる必要もない。
国が決めるべきなのは、
「日本で米を持続的に生産するには、いくら必要なのか」
という基準である。
あとは民間に任せればいい。
資本主義を全部否定するのでもない。
市場に全部を任せるのでもない。
市場が得意なところは市場に任せ、市場に任せてはいけないところだけを切り離す。
食料を作る人を守り、
商売をする人には商売をしてもらい、
投資する人にはリスクを引き受けてもらい、
そして消費者には毎日のご飯を安心して買ってもらう。
去年あれほど米が高かったのに、今年になったら「農家がやっていけない」という。
私は、そのこと自体が何かおかしいと思う。
誰か一人を悪者にする必要はない。
農家が悪いわけでもない。
卸業者が存在することが悪いわけでもない。
小売業者が利益を出すことが悪いわけでもない。
消費者が安い米を求めることだって、もちろん悪くない。
問題なのは、それぞれが当然の行動をした結果、農業そのものが維持できなくなる仕組みなのではないだろうか。
だったら、人を責めるのではなく、仕組みを変えればいい。
農家は、来年も安心して田んぼに立てる。
企業は、自分の責任で利益を上げる。
消費者は、来年も無理のない値段で米を買える。
その三つを同時に成立させる。
そのためにまず、
「米を作る」という仕事だけを、激しい価格競争から切り離してみる。
そんな考え方があってもいいのではないだろうか。




