2 道中と思惑
「……なあにが『落としてこい』だ、くそ爺めが」
「ええ本当に。――私がその場に居たのなら、処罰も気にせず里長を殴り飛ばせたのですが。非常に悔やまれますね」
山吹の吐き出した悪態は咎められなかった。淡々とした声、しれっとした冷静な表情。なのにその口調にはふつふつ沸き上がる確かな怒りがある。本音をありのまま告げる自分の従者に、山吹は思わず自分の怒りを忘れて吹き出した。
「いいんだよ、芥子。ありがとう」
二人は今、大牛に牛車を引かせ、里と里を結ぶ「間道」を進んでいた。
この国の里と里は、隣接していない。つまり里同士は地続きで繋がってはいない。必ず里をくるりと囲むように「間道」と呼ばれる、絶対中立区域の道が引かれているのだ。どんな里も道にくるりと囲まれてまるで陸上の孤島のようになっており、里と里の明確な境界線が「道」として敷かれているのだ。この間道は、どの里の領土でもなければ、どの里の領土でもあると言える。間道の上で諍いを起こすことは、すべての里共通の律によって固く禁じられている。もし何かしらの争いが起きてしまえば、いざこざを起こした種族同士とはなるべく関係の浅い他里が仲裁に入り、公平に裁きを与えるという徹底ぶりである。
さて、里長の屋敷では最低限の礼儀を守り、長に従順していた山吹だが、本来は快活で気風のいい性格である。野畑を駆け回り土仕事に明け暮れたり、「自分のすべきことは自分で行う」という母からの言いつけを守り、身の回りのことを従者任せにすることは無い。本館で暮らすボンボンたちのように、着替えのたびに従者を呼びつけたりするようなこともなく、手が空いたら炊事洗濯も進んで手伝う女人であった。そんな山吹を、やはり里長派閥は陰でくすくす笑うのであったが、山吹からすればそのようなことは些末なことであり、むしろ恥ずべき行為だと蔑んだ目で見ていた。
山吹は腰まである癖一つない長い髪の毛を、大ぶりの紅椿の簪でひとまとめにし、裾を引きずるほど長い真っ赤な打掛もどきの着物を羽織っている。金色銀色で華やかに刺繍が施されたそれは、狐里に代々受け継がれる由緒正しき正装であった。だがこれが重いこと重いこと、そして動きにくいことこの上ない。いつもは袴姿で走り回り、着物の袖が作業の邪魔にならぬようたすき掛けをしている徹底ぶりなのだ。一日中動き回る故、通気性の良い布地を好む山吹とは抜群に相性が悪かった。更には無駄に白粉をこれでもかと叩かれ、山吹のすっとした切れ長の糸目に、絶妙なアクセントとなるように目尻に真っ赤な紅を引かれ、唇も血色よく見える様に口紅に彩られている。ずっしりとした着物に厚手の化粧。ただでさえ憂鬱な山吹の気分をぐんと下降させてくれている。山吹がこんなにも着飾られているにも関わらず、芥子はいつもの従者服と変わりない衣服を着用しているのも、益々山吹の不機嫌を煽った。
山吹が狼の里に向かうにあたり、供として連れてこれた従者はこの芥子一人だけであった。芥子は長の家に代々仕える従者一族の内の一である。肩元でばっさり切られた髪の毛は、山吹の髪の毛よりも落ち着いた、黄色に大地を混ぜ込んだような色味。丸渕眼鏡を掛けた釣り目の顔立ちからは一切隙を感じさせない。彼女は本来であれば本家の子に仕えるはずなのだが、長も述べていた通り現在直系子は男人のみ。従者は同性が仕えるのがしきたりとなっているため、外れくじを掴まされたごとく、彼女は山吹が本家を追い出された幼い頃から仕え続けている。
それを可哀そうに、と山吹は芥子に幼い頃に告げたことがあったのだが、芥子はその言葉をけだるげに首を横に振って否定したのだ。
『いいえ、面倒なのは好みません。直系子に仕えてかたっ苦しい思いするよりも、貴方様のお隣に居られる方が嬉しいですよ』
つんけんとした言い方だが、幼い芥子の精一杯の気遣いだと、同じく幼かった山吹は瞬時に察した。そんな芥子の態度は、本家の爪弾き者であった山吹の心をいくらか軽くした。それから芥子は、本家筋から疎まれ続けていた山吹の、一番の友であり心を許せる存在になった。
「でも、どうすりゃいいんだよ。落としてこいって言ったって」
「さあ……こればっかりは、狼族が何を望んでるかによりますね」
「くっそー。いますぐ逃げ出してえ」
がりがり、といつもの癖で後頭部を搔きむしりそうになった山吹だが、自分の爪が華々しく飾り爪が施されているのが目に入り、慌てて掌を膝の上に戻した。
そう、こんな縁談蹴飛ばしてしまえばいい。山吹が本当に拒絶したいのであれば「なんら従うつもりもない。お前らの言いなりになるつもりはない」と言い放し、荷物をまとめて里から出て行ってしまえばいい。
しかしそれはできないのだ。現に里には「前長派」、すなわち山吹の母を慕い、ひいては山吹こそが正統な後継者と仰ぐ者たちがいる。まず、山吹が里を出て行ってしまえば、前長派は姫たる山吹が不当に追い出されたと現長に反旗を翻すだろう。それだけは避けなければならない。無駄な争いで傷つく者が生まれてはいけない。
また、一週間で山吹が「嫁候補失格」の烙印を押された場合も問題がある。すごすごと里に帰ってしまえば、現長はこれ幸いと、拍車をかけて山吹の処遇を悪くすることが目に見えている。「里の利益にならぬ長の血族」という大義名分を振りかざすに違いないのだ。そうなればやっぱり山吹を慕う者たちの不満が募り、内乱が起こり、里が弱体化し……里は悲惨な目にあうだろう。
つまりは、だ。山吹は「旨い事狼の次期里長に取り入って嫁にしてもらう」か「嫁にならずとも今後とも狐と狼が良好な関係が築けるよう、橋渡しの役目を果たす」しかない。
詰んでいる。
あまりにも無茶苦茶だ。だが、山吹はそんなこと知らんと逃げ出すほど薄情ではなかった。山吹は母が愛し、慈しんだあの里と民を同じように愛している。そして慕ってくれている者たちに、少なからず恩は感じている。そんな里と民を捨てて自由を選ぶほど、山吹は卑怯者ではないのだ。
ごとごとと音を立てて、牛車はゆっくりと進む。狐の里から離れてどれほど経過しただろうか。はああ、と大きくため息を吐きながら、山吹は何か言いたげな芥子の目くばせに気づいて首を傾げた。
「なんだよ」
「山吹さまは此度の縁談、どのように考えていらっしゃいますか」
なるほど、と山吹は糸目を更に細めた。流石優秀な芥子。山吹と同じように、この縁談の「歪さ」に気づいていたらしい。
「……わざわざ、他里から嫁候補を吟味して、あいつらに何の得がある?」
「ええ、そうですね」
山吹はじっと己の爪を眺めた。赤色の下地に金と白で吉兆の象徴である花々で飾り立てられていて、一見すると美しいのだろう。だが、普段仕事には不向きな手となってしまった。水仕事でかさついた指先も、勲章の様で山吹は非常に好んでいたのだ。散々磨き上げられた、ハリボテの手を見つめ、辟易しながら肩をすくめる。
「あの爺はどうせ、この縁談を狼の酔狂だとでも思ってんだろうな。だがちげえだろ」
芥子は頷き、手元の資料を捲っていた。なるべく狼の里にたどり着く前に事前情報を仕入れるつもりなのだと言っていた。資料を指でなぞりながら、眼鏡のレンズ越しに厳しいまなざしを送る。
「そもそも、獣人族は同族や近しい種族で婚姻を結びます。平民であれば遠い他種族と婚姻を結ぶこともまれにありますが……その場合結ばれた者同士は、「他種族受容里」に受け入れてもらうほかないですね。ですが受容里は非常に数少ないです」
そう。だからこそ山吹の母は父と里で結ばれることは無く、今の山吹は現在疎んじられているのである。狐の里はほとんどの種族がそうであるように、受容里ではない、同種族で里を作り上げる里なのだ。
「そ。でも狼の里は、“受容里”。そうすると今回の縁談、一見すると可笑しなことには見えない……が、それはちげえ。今回の縁談相手は『次期里長』だろ? 『長』は違う。長が他種族を娶った前例なんてあるか? しかもあの御三家名門が、違う種族の血を受け入れようとしている? 天変地異か何かか? まずはそこに疑いの目を向けるべきだろ」
絶対に、この縁談には何かある。そう踏んでいる山吹は奥歯をぎりりと噛みしめた。
狐の里に残した仲間たち、そして意味ありげな縁談。問題と問題に板挟みにされ、なんでこう面倒ごとばかり押し付けられるかな、と山吹は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
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