1 狐の里
「――山吹、お前に縁談の話が来た」
一年を通して穏やかな気候に包まれ、金色稲穂が広い空の下重く首を垂れる、そんな光景が辺り一面に広がるここは“狐の里”。といってもこれは里の正式な名称ではなく、通称のようなものだ。しかし通称さえあれば事足りる。なぜならば”狐族の治める里”は、この世界にただ一つこの場所にしか存在せず、よって“狐の里”を名乗れる里はこの里しかありえない。
それは狐の里のみならず、この国に存在する獣人の里すべてに共通することであった。獣人と呼ばれる、似たり寄ったりな二足歩行の”ヒト”の姿に、耳や尻尾、鼻や手等に”獣”の特色が現れる種族。獣人は同族同種で里を守り、長きに渡り生活を営んできた。いわば、獣人にとっては治めている里ひとつが縄張りである。特色近しい種族同士であれば出入り自由の協定を結ぶ里もあるが、それは稀なこと。存在するほとんどの里には「他種族の他里への侵入厳禁の掟」が強く敷かれていた。
さて話は戻る。狐の里一番の大きく立派な館――つまりは狐の里の里長の屋敷にて、とある狐の女が朝一番に呼び出しを受け、馳せ参じていた。女の名は山吹。里を象徴するような、豊かに実った稲穂のような金髪と、その金色に温かみのある太陽の光を混ぜ込んだような、ぴんと天に伸ばされた狐耳。加えて大きくふんわり、且つ毛並みがつやつやと整った、狐の尻尾をもつ獣人である。
「縁談……ですか」
「そうだ。ようやくお前も家と里のために役に立つ時が来たな」
ははは、と低く笑う声の主が、どんな表情を浮かべているのか山吹からは分からない。何故ならば板の間に跪いた山吹と里長の間には、御簾が垂れ下がっているからである。厚みのある御簾越しの里長の姿は、辛うじて狐耳の生えたその影姿が見えるのみ。山吹は知っている。この御簾は向こう側からはしっかりと、こちらの姿が見えている作りとなっているのだ。つまり里長からは山吹の姿はしっかりと見えているのに、山吹からは顔色一つ伺えない。これが明確な身分の差なのだと山吹は自嘲した。里長の座る場所よりも一段下の板張りの上で座した山吹は、あからさまに嘲わらわれても、なにを言うでもなくきゅっと口を結んだままである。
そんな山吹の様子が、余裕綽綽だとでも見えたのだろうか。里長は苛立つように己が尻尾をとんとんと床に何回か叩きつけた。
「しかも相手はあの狼族だ。あの里は強力な兵力を持っている。里全体が兵隊のようなものだ。更にあそこは、里としての歴史が古い――この国の中でも由緒正しい、御三家とも呼ばれる格式高い名家」
言葉では掛け値なしに狼族を誉めてはいるものの、本心はそうではないのだろう。里長は手に持っている扇子を、ぱしりぱしりと無駄に大きな音を立て、開いては閉じたりを繰り返している。そんな苛々としている影姿を、山吹はただ黙って見つめるほかなかった。
「対して我が狐の里は比較的新興の里。商いを生業として里を裕福にしていった経緯もあり、成金だの金にがめついだの言われる始末。だがここであの名家との繋がりが生まれれば、外野の羽虫どもの煩い羽音も控え目になるだろう」
「お言葉ですが、長」
山吹は長々と語られる狐長の目論見に静かに耳を傾けていたが、ただ押し黙っていただけではない。自分が話を切り出せるタイミングを伺っていたのだ。一区切りついたと察した山吹は果敢に切り込んでいく。
「長自身、ご理解いただいているかと思われますが、私は傍流の身。格上の狼族との縁談ならば、長の直系子でなければ釣り合いが……」
「――黙れ」
ぴしゃり、と低音で制止され、再び山吹は口を閉じることとなった。
――山吹の出自は、極めて複雑である。
山吹の母は前里長であった。だが山吹が十を数える頃、流行り病で亡くなり、母の年の離れた兄である伯父が現在の里長に就任した。本来であれば十九である山吹は、伯父から里長の座を譲り受けても良い立場のはずである。
しかしそれには問題があった。山吹の父親が表向きは「不明」とされていることである。母は政略結婚を蹴飛ばし、どこぞの獣人と子を作り、山吹を産んだのだ。
しかし山吹父の出自が”不明”となっているのはあくまで表向きの説明であり、隠さなければならない理由があった。母が亡くなる直前、山吹は母にこっそりと教えてもらった。なんと山吹の父親は、狐とは長年敵対関係にある狸の里の平民であったというのだ。その父は、山吹が生まれる前に、とっくに亡くなってしまったらしい。
父の出自を、山吹の母の兄である伯父も知っていた。だからこそ山吹の母が亡くなるや否や、狸憎しの伯父、そしてその周囲の古株たちの行動は素早かった。山吹は直系を名乗ることを禁じられ、長の座を継ぐ権利もはく奪されたのだ。傍流に追いやられ、よっぽどのことが無ければ、幼少期を過ごした里長の館にも踏み入ることも禁じられてしまったのである。
里の中での山吹への態度は二極化していた。現里長である伯父との関係が薄い者たちは、特に気にせず山吹に接してくれた。どちらかと言えば山吹を哀れむ者、上層部に振り回される山吹を励ましてくれる者たちが多く、山吹と接しても嫌な顔ひとつしない者たちばかりだった。また、長年母に仕えてくれていた従者たちや、母派の商人たちは随分よくしてくれて、未だに山吹のことを「姫」と呼ぶ者もいるほどである。だが現在の里長の地位に近しいものや、里長からの後ろ盾を得たものたち、里長から支援を受けて商いを行う商人たちは山吹を疎んじていた。
そんな本来の生まれにしては極めて不遇な境遇で生き続けてきた山吹だったが、彼女自身は特に里での地位には興味は無かった。ただ細々と作物を耕したりして、このままゆっくりと過ごしていくものなのだと思っていた。そんな中、突如訪れた他里との縁談である。
「そんなことは分かっておる。だがあちらの指定だ。――探しているのは、次期里長の婚約者だ」
「次期里長……」
外の里へ出たことのない山吹だが、書物や商人たちから聞く話で、なんとなく外の情勢がどうなっているかは理解している。となれば、なぜ山吹を毛嫌いしている長がこんなことを言い出したのか、山吹には思い当たる節があった。たしか狼の里の長の長子の性別は。
「あちらの里長候補は男。故にお前に命じているのだ。我が子には運悪く、男子しかおらん」
「はあ……」
曲がりなりにも前里長の長子。血を貴ぶのであれば価値は十分と判断が下されたのだろう。都合のいいことだ、と山吹は口の端で笑った。この九年、散々な扱いをしておいて、政治の駒として使えるのであれば貴重な血筋であると主張するのだ。それもまあ、強かさだと言えばそうかもしれない。いや、だがこんな血も涙もない長なんて、くそくらえだと山吹は心の中で罵倒した。
そんな山吹の心中などお構いなしに、目の前の狐の里長は長く伸ばした髭をゆったりと摩りながら、もったいぶるように山吹に難題を突き付けてきた。
「だが、これは単なる縁談ではない。――なぜならば、狼の里は他里にも縁談を同時に申し込んでいる」
「……側室も含めて吟味しているということですか。長。しかし狼の里は一夫多妻制ではなかったはず。あそこはただ一人きりの番となる者と、一生を添い遂げるのだと風の噂で聞きました」
山吹の疑問に、里長は嘲笑うようにはっ、と乾いた笑い声をあげた。
「さすがのお前にも最低限の知識はあったか。その通りだ。あやつらは傲慢極まりない、憎たらしい方法を取っている」
さぞ、狼の一族の地位に物を言わすやり口が気に入らないのだろう。里長はぴしゃり、と扇子で己の膝を打っていた。そこまで憎らしい気持ちを抱いているのであれば、例え今回の縁談が上手くいき、親戚筋になったとて、上手く繋がりを保てるのだろうか。山吹は疑問を抱いたが「極めて”狐らしい”この爺のことだ。外面を取り繕い、その場その場で口車に乗せるつもりなのだろう」と内心独り言ちた。
「一週間だ。試しに一週間、他里から候補を呼び寄せては、里長の嫁に相応しいか見極めているのだ。既に、兎のや、馬のとこ、蛇の奴ら。その他十を超える他里の年頃の娘子が狼の里に招かれたらしいが、きっちり一週間で追い返されたと。えり好みするやり口は気に入らんが、他里の奴らが失格の烙印を押されたのは愉快愉快」
かっかっか、と他人の不幸を愉快そうに笑う里長に反吐を吐きそうになる。だが山吹は、この後何を言われるか、もうとっくに気づいている。だからこそ、着物の裾をぎゅっと握りしめ、細い眼で御簾の後ろにのうのうと座る、下劣な老人を睨みつけた。
そんな山吹の様子を知ってか知らずか、里長は閉じた扇子を御簾ごしに山吹に真っ直ぐ突きつけた。これは絶対命である。逆らうこと、口答えは許されないと態度が物語っている。
「わかるな、山吹。お前が失敗したら次の里に婚姻の権利が渡ってしまう。それだけは許されん。縁を確実に確保するのだ。そのために――」
ああいやだ。山吹はぎゅっと瞳を瞑った。
「どんな手を使っても良い。狼族の次期里長を、一週間で落としてこい」
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