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惡ガキノ蕾(い)   作者: 薫墨意月
1/1

~火事と喧嘩は江戸の華 篇 (い)の2~

     ~H31.2.7(木) だんごとの思い出~

 大急ぎで店の掃除を済ませて、やっとこさ開店の準備が終わったのが7時3分前。厨房の中の掃除はきむ爺にも手伝って貰って、ギリセ-フ。

 ──カラ・コロ・カラン

 そんじゃあ始める前に一服…と思ってたのに…。な-んてあたしの気持ちを無視して、近頃口の方は勝手に働いてくれる。「いらっしゃいませ-」

 引き戸を引いたのは見知った…と言うよりは、既に見飽きた顔の一樹と力也だった。あれっ…でもそれにしちゃあバイクの音が耳に触れた覚えが無い事を不思議に思って、「バイクどうしたの?」と、聞いてみる。

「パンク。現場に置いてきた」

 砕石の中に入ってた番線踏んじまったみたいでよ…と続けて、悔しそうに唇を尖らす一樹。

「…つうって事で、明日も頼むよ力也ちゃん」

「…仕方無いだろうな」

「明日も一緒なんだぁ?」

「おうよ。…力也だけじやねえけどな。明日は太一も一緒でよ。今日もたぶん後から来るんじゃねえか」

「あ-そう」

 カラ・コロ・カラン──

 本日の二組目は、お見受けする処、二十代前半の会社員。職場の同僚って感じで仲の良さそうな四人組だ。座敷に通して注文を聞いていると、一樹がカウンタ-の中に回るのが見えた。──助かります。お兄様~ん。

 ビ-ルを抜いて勝手に飲【や】り始めてる一樹達に突きだしを出そうする手を、きむ爺が止める。──そんじゃお委せします、という事で、あたしは座敷で頼まれている"取り敢えずビ-ル"を2本運ぶ事にした。一樹と力也の前につけダレを並べるきむ爺が、「奥にも持っていってやんな」と、同じ物を四つお盆に載せてくれる。珍しっ。なんの魚だか知んないけど、突きだしにお刺身なんて出した事無いのに。

 そのお刺身を口にして、目を丸くする一樹と力也。

「うっ…まっ!」「何だこれっ…ヤバいな!」

 座敷からも「美味しい!」「旨い!」と声が返った。

「きむ爺。こんなのお通しで出して貰っていいの?」と言う力也に、気に入らなきゃ引っ込めようか、と笑って於【お】いて、

「うちの伜【せがれ】送って来て貰って、明日も世話になるって言うんじゃあ、こん位何でもねえよ」と、流した庖丁の水気を拭う。いやぁ、様になっておりますな。

 力也の横でその台詞を耳にした一樹が、刺身を口にした時よりも満足気な表情を浮かべる。パンクの件は、お刺身ときむ爺の言葉でもう頭から消えたみたいだ。伊達【だて】に歳は喰っちゃいないねぇ、きむ爺。

 段々と一樹の呂律【ろれつ】が回らなくなってきて、八時を回った時計の針が"へ"の字になった頃、予告通りに太一が入社したばかりだという後輩を連れてやって来た。

 カラ・コロ・カラン──

「あ」

 太一の肩越しに顔を半分覗かせて、「お疲れっす-」と挨拶した男の、次に口から出た単語は五十音の一番最初の一語。国語辞典でも多分そう。それを聞いて、その男を目にしたあたしの口から出たのも同じく、

「あ」

 あたしの視線の先、口を開けたまんまのマヌケ顔で突っ立っているその男。

 …四年、いや五年かな?久し振りに見た"だんご"は、背が伸びているものの、その顔には充分に小学生だった頃の面影を残していた。"竹田慎吾【たけだしんご】"アダ名は"だんご"。お父さんの仕事だとか何だとかで、四年生の時に引っ越して行った元クラスメイト。あの頃はまだ、チビで躰も細かったのに…、大きくなったんだねえ。ちょっとびっくり。

「なんだよなんだよなんなんだよ、…ひょっとしてお前ら知り合い?……ああそうか、そう言えばお前、小学校の時はこっちに住んでたとか言ってたもんなあ」

 太一に振られてだんごが話し始めたのは、あたしとは小学校の一年生から転校する四年生の時まで同じクラスだった事、それから──

 話の向かって行く先に漂う不吉な気配を逸【いち】早く感じて背筋が寒くなったあたしは、お座敷に器を下げに行くという、あたしにしか出来ない大仕事を見付けて、カウンタ-をそっと離れた。

 ──百二十秒後、カウンタ-から「ドオォッ」といった笑い声、というよりは喚声が揚がる。…あの野郎…喋りやがったな。イラッとしたのが顔に出たのか、目の前に座っていた女性のお客さんが慌ててテ-ブルの上に置かれた空いてる器を片付け始め、丁寧に重ねてわざゝお盆に載せてくれた。…いかん、いかん。無理くり笑顔を作り、頭を下げて座敷を辞する。

 カウンタ-に戻って来たあたしを見て、更に爆笑する一樹、太一、力也の三バカトリオ。

 あたしは下げて来た器をシンクに突っ込んで、だんごを睨んだ。睨まれただんごは、いかにも壁に並んだメニュ-の書かれた短冊を目で追う風にあたしから視線を外す。

 ──って、おいおい。そっちの壁には何にも貼ってないけど、どういう事?

 余程その白い壁が気に入ったのか、だんごはそれからきっちり五分間、百八十度首を後ろに回したまま壁を眺めて動かなかった。


 だんごが転校して行ったのは、小学校四年生の終わり。転校するだんごの為に開かれたお別れ会で"それ"は起こった。あたし的には出来る事なら消し去りたい黒歴史の一幕。誰が決めたんだかお別れ会の最後を飾るプログラムはフォ-クダンス。クラス全員が輪になり、男の子と女の子のペアが曲に合わせ踊りながら相手が順番に替わって行くあれ。手を繋いだ思春期前の男女が、意識し過ぎて顔から一切の表情を消し、感情を持たぬ人形と化して踊るあれ。

 ──無駄に陽気なリズムで前奏が始まる。あたしの隣にはだんご。あたしが右手を自分の肩越しに後ろに回すと、何を思ったのか、それとも気がふれたのか、同じく右手で掴むべきあたしの手を、だんごは左手で掴んだ。当然あたしの左手は空いてる右手で掴むもんだから、あたしは両方の手を後ろに回す事になる。結果、他のペアが横並びの中、あたしとだんごだけが前と後ろに整列する形態を取った。だんごは両手をクロスさせた状態でね。其処で一度手を離して仕切り直せば良かったものの、何故か頑【かたく】なにあたし達はリセットを拒否。無慈悲に音楽は進んで行って、女の子達は次々とその場でタ-ンを決めていく。あたしも強引に回転しようとして、だんごの手を頭越しに引き寄せる。この当時は今と違ってあたしの方が背が高かったから、だんごは殆ど爪先立ちの態勢で腕をしならせる事態となり、顔は真っ赤。痛みに耐えきれなくなっただんごが左手を引く。今度は引っ張られた自分の右腕で、あたしの首が締まる。真面【まとも】に呼吸する事が出来ずに意識が薄れて来て、よろめくあたしはバランスを崩した。その時、倒れないようにと踏み変えた足がタイミング良く…、いや悪く、だんごの足を引っ掛けて…。──上半身をコブラツイストみたいにホ-ルドして、後ろ向きに倒れて行くあたしとだんご。その後、一旦意識が途切れて、走馬灯のように途切れ途切れながら覚えているのは、隣同士で寝かされ運ばれて行く救急車の車内の様子と、笑いながら治療してくれている若先生の髭面【ひげづら】。──その悪夢のようなお別れ会から二日後、クラスのみんなの前で別れの挨拶をするだんご。泣いてんのが首から提げたギプスの所為【せい】で、別れが悲しいのか腕が痛いのか分かんなくなっちゃって、先生に心配されていただんご。それを見ている同じく首からギプスを提げたあたし。でも、それもこれも、今になって思えば全てが懐かしくて楽しかった思い出…。

 ──…んな訳ね-し。恥ずかしい以外の感情湧いて来ね-し。

 無意識の内に力が入って、握り締めていたスポンジから洗剤が滴り落ちる。シンクに浸してあった食器を手に取ると、「お会計して下さ-い」と座敷から声が掛かった。帰り際、きむ爺に「ご馳走さま」と声掛けて四人が出て行く。「ありがとうございました。又お待ちしてま―す」と返して、あたしは苦い思い出を洗い流すように、皿を洗う手に力を込めた。

 ──カラ・コロ・カラン

 入れ替わりに、年配の二人連れが暖簾を潜【くぐ】る。座敷の一番奥に席を取ったのは、きむ爺とさほど年の変わらなそうな御夫婦だった。旦那さんの草履を腰を屈【かが】めて揃えるおばあさんの姿に癒されたのか、少しの間苛立ちが消える。

 めでたしめでたし…とはなりませんがねぇ…。



            ~ 告白 ~

 さっきまで四人連れが座っていたテ-ブルを片付けて戻って来ると、丁度トイレから出てきただんごと鉢合わせた。目が合って、今日初めての「久し振り」とお絞【しぼ】りを同時に渡す。指先が触れたほんの一瞬、微妙な空気が流れた気がしたのはあたしの思い過ごしだろうか。

 カウンタ-に戻って、冷えたお絞りを首の後ろに載せただんごを更に冷やかすように太一が言葉を浴びせる。

「でもお前、たかがフォ-クダンスでそんなにテンパるなんて、もしかして…はなみの事…」

 (えっ!)太一が口にしたその言葉を、あたしの顔の両脇、顎【がく】関節の数センチ上に設置された、通称"耳"と呼ばれる感覚器官が一言半句洩らす事無く捕捉する。

「なに!マジか!?あ、はなみ卵焼きちょうだい」

 すっかりだんごと打ち解けた力也が調子を合わせる。

「ああっ!お前、赤くなってんじゃねえよ。おいおい、どうすんだはなみ」

 太一からの突然の振りに、「えふっ、うやんっ…」ってか、戸惑い過ぎて正常な母国語が出てこない。正直、結構格好良くなってんのも認めるし、背もあたしより高くなっちゃってるけど…いや、だも…違った、でも、そうは言っても、会ったのだって五年振りだし…。等【など】と、取り留めの無い考えが頭の中で渦巻いて、ひとつも明確な形を成さない。ど-しちゃったんだろ、あたし。

「俺…」と、それまで照れたように俯【うつむ】いていただんごが、徐【おもむろ】に顔を上げて話し始める。(なに…なに、なに、なに!?)

「俺…転校する時迷ってたんたけど、結局勇気が無くて言えなくて…」

 太一と力也が唐突に始まっただんごの真剣な話しぶりに、グラスを運ぶ手を止めた。一樹はいつもの如く既にどろ酔いで撃沈していて、今の処浮かび上がって来る気配は無い。

「今回の親の離婚で、母親の実家があるこの街に戻って来る事になって…。親が離婚すんのはやっぱ悲しかったけど…だけど俺、この街に戻って来る事になったって事だけはすっげ-嬉しかったんだ。嬉しくってほんと…越して来る日まで、色々考えたら眠れなくなる夜とかもあって…」

 …ちょ、ちょっと待ってよ。そりゃあたしだって久し振りに会って嬉しく無い訳じゃないけど、なんでだろ…いやだ恥ずかしい。

 太一と力也が(良かったな)と、労【いたわ】るような目をあたしに向けてくる。あんた達にまで心配掛ける程、あたしゃモテないと思われてたんだね、そいつは悪かったな。

 ハッ、気が付きゃきむ爺も煙管【キセル】吹かしながら、時々手拭いで目頭押さえたりして…。みんなごめんね。心配させて。…だけど小学校から五年間もずっと想って貰ってたんだって考えたら、なんだかあたしも…やばい、泣いてしまいそうだ。

 ──前触れ無く、だんごが勢いよく立ち上がった。

「フォークダンスの時もドキドキしてきて口の中はカラッカラになるし、もう何が何だか分かんなくなっちゃちゃちゃ…って…、あの頃からずっと…ずっと好きだったんだ。…だ、だからはなみ!」

 少し潤んだだんごの瞳が、あたしを見詰めている。…この感じ…キタ-ッ!人生で二度目の告白、キタ-ッ!どうせなら、もうちよっと気合い入れて化粧しときゃ良かった-っ!…よし。慌てない、慌てない。大丈夫、いいよ。…受け止める、どうぞ。

「だからはなみ、凜の連絡先教えてくれ!頼む!」

 ブツンッ───────────────────────

───────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────…フグッ…アレ……ナンダ……コレ。……マテ、…ダイジョウブ。…イキヲスッテ…ハイテ…。…アレッ…ハイテスッテダッタッケ…アレッ──

「──い。おい、はなみ」

「へ??」

「大丈夫…か?」

 朧気【おぼろげ】な視界の中で、太一と力也があたしの顔を下から覗き込んでいた。二人の阿保面【あほづら】を見て我に還ったあたしは、なんとか正気を取り戻す。そこから、普通に生きていたらまず使う事の無い量の気力を振り絞って、なんとか口を開いた。

「…大丈夫かって…何が?大丈夫に決まってんでしょ…」

「やりい-っ!!ありがとうはなみ!俺の電話番号教えるから、後でメ-ルで送っといてくれよ」

 能天気に燥【はしゃ】ぐだんごの声が不思議な程遠くに聞こえるのは何故だろう。…そしてこれは…これはなんなのだろう?沸き起こるこの気持ちは。もしかしたら、人はこれを殺意と呼ぶのだろうか。いつの間にか生玉子を握り潰してぐちゃぐちゃになってしまった手を洗いながら、あたしは五年前の記憶を引っ張り出していた。

 ……小学校四年生…。──そうだ。凜の名字は"佐々木"。あの頃は、あたしもまだ"桜木"だったから、名前の順では凜のひとつ前。って事は、だんごはあたしの次に回って来る筈だった、凜を想ってドキドキしてたって訳だ。…あ-そうかい…。そういう事ね…。なんだ、なんだこの振られた訳でも無いのに、あたしを襲う未曾有【みぞう】の惨めな気持ちは!…本当に大丈夫なんだろうか?あたし。

 自分への問い掛けに、奥歯を噛み締めながら頷いて顔を上げると、目が合った太一と力也が、慌ててテ-ブルの上を片付け始める。きむ爺はというと、そろそろ店を閉めようかというこの時間になって、注文にも無い大量のキャベツの千切り作っちゃってるし。はぁ…、何奴【どいつ】も此何【こいつ】も…。

 卵焼きを頼まれていたのを思い出して、ボウルに玉子を割り入れる。中に入れるのは砂糖と溜め息。後はひと摘まみの塩と出汁【だし】の替わりの悔し涙。

「い…今思い出したんだけど、そう言えばだんごの母ちゃんの実家って、火事になった家の近くなんだよな、…なっ!」

 何かに取り憑かれたみたいにテ-ブルを拭いていた太一が、無理くり話題を変えてくる。

「はい?…あ-、そうっすね。俺が先月越して来た時はまだ消火した時のままで、燃え残った木組みもまんま残ってましたよ。先週位から、解体し始めてるみたいっすけどね」

 カウンタ-に卵焼きを出してから、きむ爺が支度した鍋の材料を座敷のご夫婦運ぶ。戻って来た時にはもう、カウンタ-の話題は火事になった家の周りで最近問題になっているという、落書きの話しに移っていた。

「そんなひでえの?」と、だんごの話に合いの手を入れて、太一が卵焼きを口に放り込む。

「うちはまだやられて無いっすけど、表札真っ赤っかに塗り潰されたりとか、車にスプレ-ですんげ-綺麗なグラデ-ションのうんこ描かれたりとか。…あ、食べてるとこすんません。…でも一番酷かったのは、三軒隣に居た、でかくて真っ白な紀州犬なんですけど、一晩明けたら豹柄に変わっちゃって、それ見たその家の婆ちゃんが泡吹いて救急車で運ばれちゃって…。ま、とにかく、ガキのイタズラにしちゃ悪質っすよ」答えただんごも卵焼きに箸を伸ばす。

「なんだか…、俺達の住んでる町でって考えたらムカつく話だよな」そう言って、卵焼きの皿に手を付けようとした力也の、「ふざけんな!俺まだひとつも食べちゃいないんだぞ!」

 みんながつい五分前迄の一連の記憶を失って、何事も無かったみたいに盛り上がる中、あたしも澄ました顔で洗い物を始める。鼻唄の替わりに口ずさむのは、「祓【はら】え給【たま】い浄め給え、祓え給い浄め給い、祓え給い浄め給え…」

 ──一向に起きる気配を見せない一樹に見切りを付けて、太一が帰って行ったのが十一時半。他にお客さんが居なくなってしまって気を遣わせたのか、間も無くお年寄りの御夫婦も席を立った。帰り際、きむ爺と刺身の肝ダレがどうだとかこうだとか楽しそうに話す顔を見て、また来てくれたらいいのに…なんて思ったりしながら、寄り添い歩く後ろ姿を見送った。近寄り過ぎず、かと言って離れるでも無い二人のその距離感に又少し癒され、暖簾を仕舞う。

 こうして、災厄に見舞われた、胃もたれする程ボリュ-ム満点の1日が終わった。…はぁ-あ、と。


 ──閉店後。

 十六歳のピッチピチお肌でさえも、ひと足毎【ごと】に老け込んでいきそうな程、ぱっさぱさに乾燥した外気の中、いつもの遊歩道をきむ爺と歩く。サンダルの下で潰された干涸びた土塊【つちくれ】達は、その姿を砂塵に変えて川風に乗ると、新しい住処【すみか】へと運ばれて行った。

 立春を過ぎた東京の空はもう十日も雨を落とさず、深く息を吸うと、胸に入り込んだ夜気が、肺の隅々までも渇かしてしまう。小さく咳き込んで、束の間あたしは足を止めた。

「ねえ、きむ爺。そのキャベツの千切りどうすんの?」

「…ああ、コレかい…こいつは…ほら…、あの…今日、じゃねえや…明日、明日の朝、とんかつと一緒に…。ほら、あれだ…昔からキャベツは朝多目に摂った方がいいんだって言うからねえ…」

 とんかつ?そのキャベツの量に合わせたら、朝からとんかつ五人前以上はいっとかないと釣り合い取れなさそうですけど、へ-そうですか。キャベツは朝摂った方がいい?昔から?へ-。

 キャベツの袋を提げたきむ爺に八つ当たりしている内に、あの夜、二人組とぶつかった場所が近付いて来た。もう一度立ち止まったあたしは、堤防の上から火事になった家の方角に目を向ける。

「彼処【あそこ】んとこの家の周りでも、最近になって落書きがひでえんだってよ」

 隣に並んだきむ爺が、白い息と一緒に吐き出す冷ややかな言葉。その言葉の持つ棘【とげ】が喉に引っ掛かったみたいに顔を歪ませながら──

「さっきの話じゃあ、だんご君のとこは二番目に火事んなった家の近くらしいけど、その辺だけじゃねえらしいや。一軒目から四軒目まで、火事んなったとこの周りは何処【どこ】も1月辺りから落書きされて困ってんだってえ、こないだ源ちゃんが回って来た時話して行ったよ。そりゃあ、ひでえもんだってねえ」

 源ちゃんっていうのは、この辺りを回ってる夜鳴きラ-メン屋のお爺ちゃん。年はきむ爺とそう変わんない筈だ。

「ふぅ-ん…」

 あたしは殊更【ことさら】感情の色が言葉に付かない様に気を付けて相槌を打つ。考えてもみない内から、上っ面だけで同情してる素振りは見せたくなかったんだ。

 もし自分達の住んでる家が、スプレ-やペンキで落書きされたら…。当たり前に怒るだろうけど、その気持ちをぶつける相手がそこに居ないとしたら…、行き場の無い怒りや、大事な物を一方的に汚された悲しみとか悔しさはどうすればいいんだろう。言うまでも無い事だけど、あたしの頭じゃ、答えなんて直ぐには出て来やしない。

「ペンキとかスプレ-ってえのは、子供の落書きにしちゃあちょいとなあ…」

 火事になった辺りに向けて、目を細めるきむ爺の横顔。年寄りのこういう顔って、言葉より想いの方が直【じか】に伝わって来て、考えさせられちゃうんだよね。この時も、被害に遭った人達の気持ちを考えだしたら、胸の中に芽生えた感情を言葉にするのは虚しくて、あたしに出来る事は黙る事だけだった。……きむ爺もそれ以上は話そうとしない。

 その夜は、家に帰るとお風呂に入ってすぐに寝た。だんごの事があったからかな、その夜見た夢の事は話したくない。



          ~ 凜【りん】 ~

 魘【うな】された所為【せい】か寝不足気味の次の日の午後。ぽかゝ陽気とは行かない迄も、耳を澄ませて呼吸も止めれば、春の足音だって聞こえて来そうな青空の下、二階に上がる外階段の途中で、スマホが奏でる着信音。液晶には凛々しい剣道着姿のトプ画──凜からだった。

「もし-」

「もし。メ-ル見たけど、だんごって小学校の時の?」

「そう。昨日店に来てて、凜の連絡先教えてくれって言うから、教えてもいいのか一応聞いてからの方がいいと思ってメ-ルしたんだけど」

「へ-懐かしいね。戻って来たんだ?」

「うん。なんか今は、太一のとこで働いてるんだってさ」

「あ-そうなんだ。分かった、教えてもらって全然大丈夫。わざわざありがとう」

「ううん。じゃあ教えとくね。そんだけ-」

「どんだけ-。じゃあね-」

 細かい話はしない内に、早めに切り上げた。告白なんて誰かを通すより、本人から直接聴いた方が絶対いいもんね。あたしって出来る女、はなみ十六歳。早速だんごにメ-ルを送って洗濯物を取り込むと、出来る女はそそくさと店の掃除に取り掛かるのであった。

 おんぼろ時計が一度鐘を鳴らした午後五時と六時の真ん中、凜からのメ-ルでスマホがブルッた。

(今、大丈夫?♥️)

 なんでハ-ト?(笑)人差し指で"通話ボタン"をタップ。

「もし」

「ごめんねはなみ。忙しかった?」

「バリバリ。…冗談。も-そろ支度も終わるとこだったから全然大丈夫。どうかした?」

「今、だんごから電話があったんだけどね…」

 …あいつ…、仕事終わって速攻って感じっすか…。

「うん、そんで?」

「話したのも久し振りなのに、『お食事でもいかがですか?』だって」

 は?あいつ告んなかったんだ。直接会ってから言う積【つも】りなのか?それにしても"お食事"って…。

「で、なんて返事したの?」

「11日の建国記念日にって誘われたんだけどね、その日は剣道の大会があるからって断ったら、じゃあ次の日曜日にって言われて…」

「うん。そんで?」

「練習の後でもいいならって約束したんだけど…」

 阿呆みたいに喜んでるだんごの姿が目に浮かぶ。ま、お食事の後どうなるかは、分かんないけどね。

「へ-、いいんじゃない」

「あ、それとはなみには、その大会の有る日にね、うちのお母さんが久し振りに一緒に食事でもどうって言ってるから、予定空いてるか聞こうと思って」

「あ-…」

 祝日の営業どうすんのかは、その時ゝで決めりゃあいいんじゃねえかってきむ爺言ってたけど、確か建国記念日は随分前から休みにするって言ってた気がする。これといった用事も無いし、久し振りに凜の応援しに行くのも…うん、悪くない。

「なんかね、試合会場の近くにバイキング形式で食事出来るホテルがあって、お母さんが若先生からそのホテルの食事券貰ったんだって」

「分かった。どうせだったら試合も見たいから、場所と時間送っといて」

「オッケ-。お母さんにも伝えとくね。二人で行ってもねって昨日の晩も話してたから、喜ぶよ。ありがと、じゃね-」

「こっちこそありがと。じゃね-」

 電話を切った後直ぐに届いたメ-ルには、"お母さんが貰って来た食事券は5名様まで大丈夫だから、もし良かったら双葉先輩も"と書いてあった。あ、メ-ルの通りに書くなら(双葉先輩も♥️♥️♥️)……はいはいはい。



     ~H31.2.11 建国記念日 剣道大会~

 そうして迎えた二月十一日の建国記念日。旗日。

 日本全国津々浦々まで、皆々様、おめでとうございます。只今午前8時40分。あたしと双葉、優の三人は、本日剣道の大会が行われる"東京武道館"の駐車場に居た。試合が始まるのは九時からとなっていて、多分だけど、会場の中は未【ま】だ開会式の途中の筈だ。

 凜からの電話の後、双葉を誘ったらあっさりOK。丁度というか毎度遊びに来ていた優が、「あたしもバイキング行きた-い」と仰【おっしゃ】って此方【こちら】も即決定。今日の運びと相成りました、って訳。

「もうそろ中入ろうよ」

 駐車場の脇に併設された簡易喫煙所。煙の中、当てずっぽうに外から声を掛けると、双葉と優が連れ立って出て来る。二人を見てザワつき始める何人かの若い男達。そうだろゝ。うちの姉共は可愛いだろ。男達のざわめきを耳に届かせてはいるのだろうに、1ミリの関心も示さない二人の後に追【つ】いて、喫煙所を後にした。

 会場に入ると、中には四角い白線で囲まれた試合場が二つ並んでいた。その二つの試合場を眼下に置くあたし達の居る二階席は、ほぼ満席の賑わいを見せている。今年から始まった大会という割には、かなりの観客数とそれらが作り出す熱気で、席に着いて五分も経つ頃には、家から着てきたダウンはもう膝の上に在った。

 凜の説明だと、この大会は今日と三月三十一日の二日間に渡って行われ、中学生、高校生の部両方共、今月中にはベスト4が出揃うとの事だった。そして三月末の開催日には準決勝と決勝戦が行われて、その日の午後には表彰式といった流れになるらしい。

 八時五十分。試合場の脇に設けてある大会役員席と区切られた一角に、審判が持つ紅白の旗を手にしたおじさん達が数人集まって来る。その辺りに並べられたテ-ブルも、1人又1人と背広姿のおじさん達が席を埋めて行く。──「ん!?」

 その時、テ-ブルに並ぶおじさん達の中に、見覚えのある顔を見付けた気がして、あたしは思わず目を擦【こす】った。「あれっ?」、「いやっ」、「なんで?」擦り過ぎて視界が段々ぼやけてくる。…けど見間違いじゃない。大会役員席と銘打たれたテ-ブルに鎮座されていたのは、幻覚でもない限り確かにあの征十郎だった。「うおぉぉぉうっ!!」秒で"唐木征十郎"の五文字をスマホに打ち込む。4Gの速度で届いた画面には、"政治結社大日本皇神會会長"、"株式会社JSC会長"、"青少年非行防止協会会長"、"志誠舘館長"etc…と、怪しくも立派な肩書きが並ぶ中、…在りました"全日本剣道連盟役員"。という事は、最早疑い様も無く、今この時、あそこに座っていらっしゃるのは唐木征十郎御本人に違い無かった。

 ──なんなの政治結社って…やばい世界の匂いがぷんゝなんだけど。怖っ、やだゝ。…けど、今一度冷静になって考えてみれば、あの時診療所で身の危険を察知したあたしの勘は正しかったのだ。…いや、それより征十郎はあたしの顔を覚えているだろうか…。

 征十郎の存在に怯えながらも、遠目に観察を続けるあたし。

 それから、どれ位の時間が経ったろう。

「あれ凜じゃね?」

 唐突に聞こえた優の声で試合場に目を向けると、待機場所に凜が姿を見せていた。反射的に声が出る。

「凜-っ!頑張って-!」

 あたしの声援に気付いた凜が、笑顔で片手を上げる。「あっ…」。凜の指差す先、向かい側の二階席で手を振る律っちゃんと目が合って手を振り返す。「声でかっ」とか言いつつ優も、あたしに負けない位の大声で叫んだ。「凜KOしちゃえ-!」だって、ウケる。面を付けようとしていた凜が、あたし達に向かって両手で丸を作る。「?」なんだ、なんで丸?凜の視線を辿って横に顔を振ると、優の隣で立ち上がった双葉が親指を下に向けて笑っていた。"やっちまえ"

 それ程時を置かずに凜の出番は来た。白線の外で一度立ち止まり、小さく礼をする。白が凜。中央近くまで歩を進め向かい合うと、蹲【しゃが】んで又礼。──試合開始。

 互いの竹刀が「パパンッ」と小気味良く触れ合う。「ドンッ!」と踏み込む音がここ迄聞こえて来て、「メッ胴-っ!」。え?…えっ?一斉に旗が上がって白三本。鬼っ早【ぱや】、凜ヤバい!双葉の前で張り切ってるとは言え、早過ぎるでしょ。てゆうか、ほぼ一撃じゃん。竹刀と竹刀が触れたと思ったら、いきなり「胴-っ!」とか叫んで、あっという間に相手の横を抜けて行った。素人のあたしが見ても、文句無しの一本。…だったと思う。──二本目。今度は端【はな】から敵も攻め込んで来る。中央で相手とくっつく凜。あれじゃ近過ぎて叩けないと心配するあたしを余所に、二人が離れて…と、あっ「メェ-ンッ!」。離れ際、凜が相手の面を打った様にも見えたけど…て言うのも、ちゃんと見てた筈なのに、それでも良く分かんない位、凜の竹刀の動きが速かった。すげ-な人間って。又白が三本上がった。一礼して凜が退場する。終わってみれば、二本で2分掛かったか掛からないかだった。…って──あれ?なんか痛い。なんだ?痛みの源泉を探して視線を運ぶと、行き着いたのはあたしの太腿【ふともも】。乙女の柔肌に優のネイルが喰い込んでいた。薬指のネイルが建国記念日を意識したのか、旭日旗だった所為で、赤色を出血したのと勘違いして大いにビビるあたし。「ちょっと優、痛い」、あっ、と気付いてその手から力が抜ける。旭日旗って…。「フォ-ッすっげ-、凜超-ヤバい!」出し抜けに揚げた優の大声で、周りの視線があたし達に集中する。初めて見た剣道の試合に、優のボルテ-ジは最高潮。ボリュ-ムの調整はぶっ壊れてMAXから動かない。「今の見た?ねぇ見た?」と、頻【しき】りに双葉に話し掛けているその声にも、周りを気にしている様子は全く無い。あたしも久し振りに見たけど、さすがは凜。危なげ無い。三年生が引退して二年生までの大会とは言え、やっぱすんげえ。向かいの席で、優に負けないテンションで騒ぐ律っちゃんの姿が見える。名前入りの団扇【うちわ】ってコンサ-トかっ!優の相手してる双葉もなんだか嬉しそうだし、…来て良かった。続く二試合目も一試合目と変わらず、凜が先に二本取っての快勝。昼休みに入った処で律っちゃんが「ご飯どうする?」と、聞きに来た。この後のバイキングもある事だし、朝御飯も遅かったからと言ってあたしと双葉が断ると、バイキングに向けて気合いを入れてると勘違いした優が、「あたしもお昼は結構です。バイキングで凜に恥ずかしく無い試合がしたいんで」と真顔で言って、律っちゃんを笑わせた。午後の部が始まって一時間が過ぎた処で、凜の今日最後の試合となった。三月に行われる準決勝への出場権が懸かったこの勝負。対する相手は1学年上で、凜が載っていたスポ-ツ誌にも取り上げられていた、朝日学園の現主将。彼女は確か、この大会の優勝候補にも挙げられていたっけ。この日に狙いを絞ったのか、学校から来ている応援団の数も、凜の学校の生徒と比べると倍はいそうな感じ。「凜-っ!頑張って-っ!」あたし達の出す精一杯の大声も、凜の元へと届く前に、相手側から向かって来た大歓声に軽々と蹴散らされて消えてしまう。客席からの歓声と互いの部員からの激励の声が飛び交う中、試合場の中央に向かってゆっくりと進む凜。──礼。本日最後の大一番が始まった…。午前中の二試合とは打って変わって、開始直後から激しく打ち合う二人。人間の持つ運動性能の素晴らしさに感動して、あたしと優は暫しの間声を無くす。目紛【まぐ】るしく攻守が入れ替わって、二人の動きを目で追うだけでやっと。お互いが一歩も退かない中、「胴-っ!」と、長く甲高い声が響く。──白旗が三本揃って、凜が一本先取した。ちょっと焦ったけど、前の二試合と同じくこの試合も圧勝だと緊張を解【ほぐ】すあたし。二本目が始まる。又も激しい打ち合いの中一本目とは違って、少しずつだけど凜の方が後ろに退がって行く。打ち込まれて、時折左右にふらつく様子も見せる。1学年分のスタミナの差が出てきたのか、見た事の無い凜の窮地に息を詰める。「胴-っ!」──赤、赤、赤!まるで一本目を鏡に映したように相手が取った。今日一日を通して、凜が取られた初めての一本。信じられないと言った様子で静まり返る凜の応援席。律っちゃんが今にも泣き出しそうな顔をして、凜を見守っている。反対に俄然勢いを増す相手側の応援席。元々の人数の差もあって、今となっては相手の名を呼ぶ声だけが会場中を埋めていた。面を付けている所為で表情は見えないけど、肩の動きが相手より大きい凜は相当苦しそうに見える。凜、頑張れ。「凜-っ!」隣で双葉が立ち上がった。凜の面が動いて…双葉を見てる。「まだ終わってない!」双葉の想いを受け止めて凜が頷く。面の内側で唇を引き結んだ凜の顔が見えた気がした。いつからそうしていたのか、気が付くとあたしも優も立ち上がっていた。──試合再開。又も激しい打ち合い。「面-っ!」「胴-っ!」、掛け声の合間に幾度か旗が上がるものの、"一本"の声は聞こえない。心なし上がる旗に赤が多い気がする。相手の鋭い攻めに、目に見えて凜が押され始めた。足を縺【もつ】れさせた処に相手の躰が打つかって、凜が床の上を無様に転がる。それでも…、少しでも休むのを拒むように跳ね起きると、直ぐに相手に向かっていく凜。立ち上がって戦う事が自分の使命だと微塵も疑っていないその姿に、目の奥が熱を持つ。距離を詰めた二人がひとつになって固まる。お互いに少ない動きの中で、力の限り押し合っているのが伝わって来る。二人の息遣いまで聞こえて来そう。それが錯覚だと分かっていても、息を詰め足掻【あが】く二人と呼吸が重なって、此方【こっち】まで息苦しくなってくる。固く握り締めた手の感覚が段々と鈍くなって来た頃、視線の先で蠢【うごめ】くひとつの固まりが二つに分かれた。これって…その瞬間、試合会場の中から一切の音が消えた。『凜-っ!』三人の声がひとつになって溶けて行く。「めえぇ-んっ!」…静寂が包み込むように時間の流れを止めた。──白、白、…白、一本。『ウオォォォ-ッ!!!』何時【いつ】の間にか隣の試合は終わっていて、この試合に注目していた会場全体から、一斉に沸き上がる大音量の歓声。すごい!すごいよ凜。あたし達三人も鈍くなった手の感覚が無くなってしまう程、力一杯拍手して言葉にならない歓声を揚げる。ぼやけた双葉と優の顔を見て、あたしは泣いてる自分に気が付いた。



~In the dark hotel~

学校や剣道部のみんなと別れた後、ホテルへと向かう道。律っちゃんの後ろを歩く双葉の横で、優のポニ-テ-ルが右に左にと揺れている。竹刀と道着袋を肩に担いだ凛とあたしは一番後ろ。隣を歩く凜からは、試合場でのあの張り詰めた感じは跡形も無く消え去って、戯【おど】けた調子で「おなか減り過ぎて眠くなってきた」と、これが雪山の行軍中なら命の危険に関わるような症状を訴えて来る。

 小さく見えていたホテルが、やっと目の前にその全体像を見せて来た処で、信号が焦らすように赤く変わった。

「ねえ凜」

「ん?」

「凜って試合してる時、どんな事考えてんの?」

「え-」と、遠い目をする凜。

「ん-、考えてるって言うか、なんかこう…試合してる時は、勝手に相手と会話してるようなつもりでいるからなァ…」

「会話?」

「うん。面打つよ。小手打つよ、とか-。ここは攻められたら困る、と見せかけて一度引いて胴打ち。おっ、そう来た、みたいなね。あんな短い時間にって思うかも知れないけど…」

 そこで一旦言葉を切ると、頭の中にその続きを探しているのか、束の間瞼を閉じる。

「なんて言うのかな…。竹刀を持って相手と向かい合ってる一分間と、こうして街の中に居る一分間は、全然違う時間の流れなんだ」

 "流れなんだ"って言われても、これっぽっちも共感できないんすけど。

「でも、なんで?」と、凜の問い。

「う-ん…。剣道してる時って、楽しいのかなって思ってさ。あたしは痛いのとか嫌だし、人と争ったりすんのも苦手だし、あの場所に立つ事なんて、多分一生無いと思うから」

「争う?…争うって言うか、勝ったり負けたりっていうのは、さっきの会話の流れみたいな物で、…あ、私の場合は、だけど。…だから、今日の試合だって相手が勝ってても全然おかしく無かったし、私が勝ったのなんて、たまたま。そんな感じだから、私の場合、争ってるって感覚とはちょっと違うと思う。…それに、勝ち負けだけの為にあそこに立つ訳でも無いし…」

 目の前に拡がっている街の風景とは違う空間を見るように、凜の目線が少しだけ上がる。

「でも、楽しいよ。負けたら負けたで悔しい思いはするけど、でも勝てなくたって次の日も、私は竹刀を振ると思うから」

「ふぅ-ん」

 凜の答えを聞きながら、本当に凜の気持ちが知りたかったのか、自分に問い掛けてみた。上手く言えなかっただけで、そういうのとはちょっと違う気もする。…単純に羨ましかったんだ、きっと。試合場に立つ凜が、普段、あたしの見ている凜の何倍も眩しく見えて、その理由が知りたくなったのかもしれない。何にも無いあたしが寂しく思えたから…、なんちってね。

「ん?」

 あたしを映す凜の真っ直ぐな瞳。

「生意気言ってんじゃね-ぞ!」

 少し強めに凜の背中を叩く。そこで信号もその色を変えた。

「ひどっ、はなみが聞いたんでしょ!」

 早足で後ろを追【つい】てくる凜。

 正直、凜の話はピンと来なかったけど、あたし自身も不思議に思っていた、試合が終わった時のあの涙の理由はわかった。

そんな気持ちで竹刀を振る凜だからこそ、あの場所であんなに輝く事が出来るんだろう。だから剣道どころか、竹刀を持った事さえ無いあたしにだって、一瞬でもあんな感動をくれたんだ。追い付いて来た凜に顔を見られるのが嫌で、あたしは少し足を速めた。

 ──ホテルのバイキングは思っていた以上に豪勢で、「いい試合をします」と言った優を筆頭に、皆が素晴らしい戦いを繰り広げた。中でも、特に品揃えが豊富だったスイ-ツ陣との後半戦。制限時間まで残り十五分を切ったこの戦いの山場には、律っちゃんを除く四人のうら若き乙女が、ほぼ手掴みで猛烈なラストスパ-トを見せたのだった。

 満足しきった表情を浮かべて、戦場【いくさば】を後にする五人の女兵士達。

 一階のロビーに降りると、一休みしてから帰ろうと言う律っちゃんの後に付いて、皆で喫茶スペースへと向かう。祭日ということも手伝って、ロビ-はなかゝの混み具合だ。都会のド真ん中からは、暴投気味に外れた下町のホテル。とは言え、そこは腐っても東京都内。それなりに毛足のある絨毯に、老若男女、人種を問わずと言った多種多様な人達が、皆一様にその足先を沈ませていた。平成生まれのあたしでも、つくゞグロ-バルな世の中への移り変わりを肌で感じる今日この頃。三ヶ月後には、文字通り時代が変わる平成の終末。ロビ-に薄く流れるクラッシックは、時代も人種も国境も越えて生き永らえているモ-ツァルトの"アイネ・クライネ・ナハトムジ-ク"だった。

 少し奥まった場所に空いているテ-ブルを見付けて、みんなに声を掛ける。あたしの指差した先へと向かう双葉と優。あたしは凛と二人、カウンタ-で注文を続ける律っちゃんにテ-ブルの場所を伝えてから双葉達の元へと向かう。躰より先に視線の方が双葉達に追い付いた。

 観葉植物の陰になっていて相手の姿は見えないけど、優の隣で双葉が誰か他の人と話をしている。しかも笑顔で。…もしかして、まさかのナンパか!?テ-ブルと人の間を縫うようにして進むあたしと凜。言い知れぬ感情に背中を押されて、自然と早足になる。近付いて行くにつれ、観葉植物に隠れていた人物が、その姿を徐々に現して来た。

 ……………。──痛っ。急停止から回れ右した途端、すぐ後ろを付いて来ていた凜に打つかる。

「いったいっ!何、はなみ!いきなり止まって!」

「しっ!!静かに!」

「えっ?」

 あたしに武道の心得が無くて本当に良かった。何故なら、もし有ったならば、有無を言わさず凜に当て身でも喰らわせていた筈だから。

「はなみ!凜!こっちだよ、こっち!」

 気付かれた-っ!!背後から肩を叩く能天気な優の声。ちっ、頭の中でその顎にエルボ-噛ましてから、深い溜め息と共にゆっくりと振り向いた。双葉の隣に立っていたのは、二度と会わなければいいのにと願っていた、まさかの征十郎とその仲間達御一行。スキンヘッドとパンチパーマの助さん角さんも勿論健在だった。近くのテ-ブルには、会場の役員席に居たス-ツ姿のおじ様達が数人、席を同じくしている。

「凜!」と、思っていたより若く弾みのあるスキンヘッドの声。

「和男先生!辰雄先生!」

 先生って…?てか凜も知り合いって何故に…???

 ──凜の説明を受けて分かったのは、まず助さん角さ…じゃ無くて、スキンヘッドが瀧澤和男、パンチバーマが岩田辰雄と言って、二人はなんと元警察官だと言う事。しかも双葉と凜を少年剣道クラブで指導してくれていた先生だと言う話だった。征十郎はその二人が所属していた道場の館長で、その道場には双葉も凜も度々顔を出していたんだって。驚かせられるばかりのそんな話の中でも一番意外だったのは、双葉と話す征十郎が終始、診療所でお目に掛かった時とは別人のような笑顔で接していた事。もしかしたら…、僅【わず】かな、本当に僅かな確率ではあるけれど、征十郎ってほんとは造り物でも、魔界からの使者でも無いのかも知れない。呆気に取られているあたしの視線の先で、診療所での出来事を知らない双葉が、突然、悪意の無い拷問、即【すなわ】ち、今あたしが最も避けたいメンバ-紹介をし始めた。

「あたしの友達の優と、向こうで凛と一緒に居るのが妹のはなみ」

「こんちは」って、優が軽く頭を下げる。流れから、征十郎の視線がゆっくりと優からあたしへと向かって来る。触れたらきっと、火傷じゃ済まないレ-ザ-ビ-ム張りの危険な眼差し。あわ…あわわ…ヤバッ、あたしの顔覚えてるかな?いや、そもゝあんな事されたら忘れる筈が無いか。…なんて言ってる場合じゃ無いし、時間も無い。──本格的にやばい。どうする?どうしたらいい?うう…ううう…うぁうぉぅ-!!

「あん?はなみ、何やってんの?挨拶位しなよ」

「あぅぅ、こんしゃちあ。…はずえあして…」

「なにそれ…なんでそんなしゃくれてんの?普通にしなよ」

「うふぇっ?いあ、ふふうだしぇ」

「──は、な、み」

 あたしの名を口にした双葉の顔から表情が消えて行く。──こっちもやばい。百パ-イラッと来てる。どうしよう?でも、あたしの顔をもし征十郎が覚えてたら、それこそどうされちゃうのあたし?かと言って、これ以上双葉を怒らせる訳にもいかないし…。こういうの何て言うんだっけ?確か…顔面が虎、肛門が狼とか何とか…いや、でもこの場合、肛門より黄門の方がって、おい!どっちにしろやばい!ううぅ…消えろ!こうなったら、今すぐ消えて無くなるんだあたし!

「あら、唐木さん」

 そんなあたしの焦れた胸の内を知ってか知らずか、抜群に気の抜けた声の主は、注文を終えて戻って来た律っちゃんだった。

「はなみ、覚えてる?前にうちの診療所で一緒になったでしょ。ほら何時だったか、あんたがマッサ-ジの途中で勝手に帰っちゃった時」

 ──終わっ…た…。目に映る全ての物から色素が抜け堕ちて、視界が白く染まって逝【ゆ】く。

 律っちゃん。あんたのお陰で全てが水の泡だよ。もう誤魔化せないと観念したあたしは、征十郎に向かって素顔を晒す事にした。和夫と辰雄に挨拶する律っちゃんの声が耳を通り過ぎて行く。だけど、あたしの心配を他所に征十郎は、「はい、こんにちは」と、表情を動かさずに言っただけで、直ぐに双葉との会話に戻って行った。拍子抜けはしたものの、この時ばかりは特徴の無い顔に産んでくれた両親に、あたしが深く感謝したのは言うまでも無いだろう。

 帰り道での律っちゃんの話では、あの日、征十郎の右腕は肉離れを起こして、あの後もう一度診察を受け直したという事だった。その所為【せい】で、受付にもう一度戻って来たパンチバーマに変貌を遂げた辰雄先生に、律っちゃんも其処で初めて気が付いたという訳。しかもその時征十郎は、自分で低周波治療器の調節を間違えたんだと説明していたらしい。

 家に帰ってから双葉から聞いた話は、更にあたしを驚かせる。双葉の彫り物の師匠、の師匠。"初代"って言うらしいんだけど、今はもう亡くなっちゃった、その"初代"が彫った刺青の突き直しとか言うのに双葉の師匠の処にも征十郎が顔を見せる事が度々あって、住み込みをしていた頃も何度も顔を会わせていたんだって。確かに色々とおっかない噂も有るらしいけど、双葉の話も親身になって聞いてくれて、なんだかんだと良くしてくれるって言うし、"征十郎"って呼んでる双葉の顔見てたら、怖さも、人間ではないかも知れないという疑いもちょっとだけ薄れた。

 元警察官の和男と辰雄も、今では征十郎が会長を努める"J・S・C ジャパン・セキュリティ-・カンパニ-"とか言う会社の重役だって言うし、確かに警察を辞めてまで付いて行こうって相手に厭な奴は選ばないだろうしね。

 世界が狭いのか双葉の顔が広いのか。と言う訳で、この日からあたしのそれ程多くない知人の中で、向こうから声を掛けられない限り、街中【まちなか】で見掛けたとしても無視【シカト】を決め込む上からナンバ-スリ-が決定したのであった。当分は入れ換えも変更も無いと言い切れそうなラインナップだ。

 ア-メンハレルヤ、我に幸あれ。

 


       ~H31.3月某日 だんごと凜~

 朝の冷え込みを忘れる位に、お昼ご飯を済ませた後は眠気を誘う程の陽気となった、そんな夢見月のとある一日。

 バイキングのち征十郎、晴れのち嵐。胃にはかなり負担を掛けたあの建国記念日からカレンダ-をもう一枚分軽くした昨日まで、みゆは二回程双葉に背中の傷を増やして貰いに来たけど、"痛い"という声も、塚本達の話も、その口から洩れ出る事は無かった。塚本達を前にしない事には、話を前に進めようも無いので、四人で話し合ったあの日から、あたし達の計画は動きを止めたままだった。

  ──あ、忘れてた。だんごと凜の噺。日曜日"お食事"に行った後の展開だけどね。あたしの方から聞くのもなんか違うかなと思って悶々としてたら、その日の夜に凜の方から連絡があったんだ。

「ラ-メン屋さんから出たら、いきなり告られてびっくりしちゃった」

 ラ-メン屋…。人生で一度しか告られた事が無いあたしが言うのもなんだけと、ラ-メン屋って…、う-ん、どうなんでしょう?"お食事"、う-ん…。

「へぇ-。…で、なんて返事したの?」

「今んとこ剣道に集中したいから、そういうお付き合いとかしてる時間は無いって断った」

 可哀想に。相手が剣道じゃ、張り合い様も無いしねぇ。…まあ、しょうがないか。

「そうか-。んで、だんごはそのまま帰ったの?」

「それがね、『じゃあ、友達から始めてくれ』って言われて…」

「うん。そんで?」

「勿論、いいよって。だってあたし達小学校の時、四年間同じクラスだったんだよ、とっくに友達じゃない?」

「あ-…」

 ──そうだった。あたしと凛とだんごは、確かに小学校の一年生から四年生まで同じクラス。…と言う事は、あいつは小学校の四年間と引っ越してからの五年間、九年掛けて"お・と・も・だ・ち"の再確認をしたって訳だ。なんだか泣けてくる男って…。

 でもその夜、だんごからあたしに届いたメ-ルは、予想に反して正月がもう一遍来たみたいなめでたさで溢れていた。(ありがとう。はなみのおかげで俺と凜の関係もやつといつぽ文出す事ができた♥️)

 ──どうよこれ。

 下手すりゃ"一歩踏み"出した場所で、永遠に足踏みする事になるとも知らず。

 ──以上、今年一番の寒暖差に震えた噺【はなし】。



       ~H31.3.20 みゆからの連絡~

 春将軍がやっとの事で冬将軍を討ち果たしたのを期に、マスク人口が増え続ける一方の、三月も半ばを過ぎた二十日。今日は水曜日で店休日。

 柔軟剤の香りに包まれて、洗濯物を飾り付けたベランダから駐車場の隅に立つ櫻の木を眺めていると、エプロンのポケットの中で震えるスマホがメ-ルの着信を報せてくれる。

 "ワルガキ"とタグ付けされた一斉送信で、共有しているのはあたしの他に、双葉と優、それに差出人のみゆ。

 (今日、塚本達~飲みに来るって~)

 メ-ルまで話す時と一緒で語尾伸ばすんだ~。今日は早くから出掛けて行った双葉も、出先でこのメ-ルを目にしている筈だった。覚悟を決めて打ち込んだ返信は三文字、(はいよ)。

 ──遂に来た。画面を閉じて、櫻の木に目を戻す。未だ眠ったままの蕾を抱いた枝が、音も無く揺れていた。…行ってきますだおかだ。

 ブルブルと武者震いの止まらないスマホを指で撫でる。──新着メ-ルが三件。

 (りょ)双葉(やろう)、みゆ(おけ~)

 あの日、「そうなりゃさ…」と話し始めた双葉の計画は、大体だけどこんな感じ──

 みゆの処へ塚本達から飲みに来ると連絡があったら…って、今日の事なんだけど、あたしと優は予【あらかじ】め店に出ていて、働いている他のお姉さん方と塚本のテ-ブルにキャストして付く。そんでもって、まずは塚本があたしの顔を覚えているかどうかを確かめる。これは当然、あたしにしか出来ない、あたしの役目ね。それと同時に優が指輪野郎に、「その指輪って、動画に映ってるこれと一緒だよね?」とかなんとか上手い事言って、例の鮮明にして拡大した指輪の画像を、画面の大きいタブレットを使って見せる。その反応を見て、相手の様子から疑う余地無しとなった処で、詳しい話をしたいからと塚本達全員を公園に呼び出す。そこで今度は公園で待ち構えていた双葉が、放火の件を認めさせてから、放火と…もし今も続く落書きもそいつらの犯行だとしたら、両方共、もう二度としないって事を約束させる。塚本達に約束をさせて、それを守らせる具体的な方法までは双葉は話さなかったけど、いざとなれば大通りを挟んで警察署も在るし、双葉の事だから、そこら辺はあたしが心配しなくても準備万端ぬかりは無いんだろうけど。まあ、公園に来た時点でもう放火の件は認めたのと同じだから、双葉の言う事に逆らうような真似はしないと思うんだ。

 それに、公園に来た後であの画像を持ったあたしが警察に駆け込んで、塚本達が公園に来る事になった過程を証言したら、放火を止【や】める止めない関係無しに試合終了【ゲ-ムセット】だしね。

 みゆの店の開店は午後八時。塚本達が来るのはいつも九時頃らしいけど、万が一を考えたら開店前には店に入っていたい処。──スマホの中の数字が14:09から14:10に形態を変える。家を出るのが七時として、後五時間弱。当たり前だけど、どんな時でも時計の針は人の気持ちに関係無く時を刻む。早く進んで欲しいのか、ゆっくり進んで欲しいのか、自分の気持ちだって何方【どっち】なのか良く分かんないんだけど…。時間と、形の定まらない気持ちを持て余したあたしは、店の掃除を始める事にした。

 年末に大掃除をしたとは言え、三ヶ月分きっちり溜まった換気扇の油汚れと、冷蔵庫の裏の埃。入り口の引き戸を開け放って、ひとり、地味な戦いを黙々と続ける。煤【すす】で変色した鍋をシンクに貯めたお湯に浸していると、頭の中で動画で見た場面が再生される。──割られた窓ガラス。段々と大きさを増していく炎。其処にきむ爺の皺【しわ】の刻まれた横顔が割り込んで来る。

 鍋底を擦【こす】る手に自然と力が入る。お陰で思ったよりも時間が掛からず終わってしまい、蜂蜜たっぷりのホットミルクで一服していると、耳に馴染んだバイクの音が近付いて来て、カップの中の湖面が揺れた。

 ボ-ンボ-ン…。草臥れたオンボロ時計が、かったるそうながら手抜きはせずに、きちんと五回鐘を打つ。…もうそんな時間かぁ。

「ただいまっつおか修三」

「お帰り。早かったね」

「ああ。今日で遣【や】り仕舞いの現場だったからな。張り切っちまったのはいいけど、猛烈に腹減ったわ」

「なんか作ったげるから、お風呂入って来ちゃえば」

「ほんとかよ!サンキュ」

 開けてあった入り口から顔だけ出してた一樹が、店には入らず階段を上がって行く。あたしは鍋に火を掛けると、手を洗いながら頭の中に夕飯の材料を並べ始めた。

 余程お腹が減っていたのか、二十分もしない内に戻って来た一樹が、タオルで頭を掻き回しながらカウンタ-の中に入って来る。

「後五分位で出来るから」

「あいよ」言って、冷蔵庫から取り出した缶ビールに立ったまま口を付ける。「なんだか旨そうな匂いさせちゃってんじゃねえの」

 最初の一本を一息で空けて、ニコニコしながら新しい缶ビールを手に、一樹がカウンタ-の表に回る。

「双葉は?」

「用事でもあったんじゃない。朝から出掛けてる」

「へ-。あ、はなみも飲むか?」

「いらない。あたしご飯食べたら出掛けるから」

「ああ、そうか」

 口を動かしながらカウンタ-に丼【どんぶり】とさらし玉葱を盛った皿、とん汁を二人分並べる。

「おいおい。なんなんだよこの丼。めちゃめちゃ旨そうじゃねえか、こんにゃろ」

「牛肉丼。ご飯がガ-リックライスになってんの。本で見付けて美味しそうだったから作っ──」「戴【いただ】きます!」

 最後まで聞かずに箸を付けた一樹の勢いは凄まじく、ジッと見てたらおなか一杯になっちゃいそうで、あたしも急いで箸を遣い始めた。

「うっ…まっ!!」

 思わず口走った感じのその声は、何時もよりかなり大きめ。めちゃめちゃ一樹の声の大きさは、それイコ-ル旨さの度合いだ。内心ガッツポ-ズのあたしは、鼻の穴が膨らんでくるのを押さえられない。主婦の喜びってこういうのかしら。

 ものの五分も経たずに平らげて、横で一樹が立ち上がった。

「ご馳走さま!」

「あ…あいよ」

 シンクに浸した食器の中から皿を手に取る一樹。あたしの方を見ようとはせず、洗っている皿に視線を落としたまま──

「どこ行くんだ?」

「えっ…」なんだかト-ンが微妙に普段と違う気がする。いや、そう感じるのは今日の事を一樹に秘密にしているあたしが抱く、後ろめたさの仕業【しわざ】だろうか。「出掛けんだろ」「あ-…、ちょっと優とかと…大した用事じゃないんだけどね」「…ふうん」

 ……びっくりしたぁ。頭の出来じゃ、あたしとどっこいの筈の一樹が…。動物的な野生の勘みたいなもんだろうか。或【ある】いは、二年長く生きている兄の強みか。たま-にだけど、胸の中を見透かされている気がする事があるんだよね。ほんと、た…ま-にではあるんだけど。

 器を洗い終わった一樹が、首に掛けたタオルで手を拭【ぬぐ】いながら裏口のドアの前で1度立ち止まる。

「気を付けろよ」

        「…え」

「出掛けんだろ」

        「…あ-、大丈夫。…ありがと」

 普段と変わらない一樹の足音が階段を上がって行く。ドアの方を向いたままで話していた一樹がどんな顔をしていたのか気になったけど、上手く思い浮かべる事は出来なかった。

 口の中に、玉葱の仄【ほの】かな甘味とほろ苦さが残った、誰そ彼【たそが】れ時。



       ~H31.3.20 魔法の絨毯にて~ 

 ──午後7時45分。

 みゆママに選んで貰ったドレスに身を包んだあたしと優は、店で働く女の人達の前で、口紅よりも赤い顔して自己紹介の真っ最中だった。転校生とはこんな気分なのだろうか。

 挨拶も済んで、頻【しき】りにミニスカ-トの裾を気にする優の横で手持ち無沙汰にしていると、みゆママと眼が合って、その眼で呼ばれた。

「大丈夫?はなみ」

「大丈夫。ごめんね、無理言っちゃって」

「何言ってんの、そんな事は気にしなくていいんだよ。でも、本当に大丈夫なのかい?何かあったらあたし、きむ爺と一樹に会わせる顔が無いんだからね」

「いや、そんな事…、我が儘【まま】言ってんのはあたし達の方だし」

「無理はすんじゃないよ、いいね」

「うん。ありがとう」

 ウインクで答えたみゆママが、「さあ、今日も稼ぐわよ」と威勢のいい声を揚げる。するとその声に応えるように、店の彼方此方【あちらこちら】から音【E.D.M】が響き出した。

 8時の開店とほぼ同時にお客さんが入って来る。10分と空けずに又一組。あたしと優、アマチュア二人を残して、みゆを含めた6人は、それぞれが勝手にテキパキと捌【は】けていく。そこからの1時間、あたしと優は氷を運んだり、おしぼりを持っていったりと、只管【ひたすら】雑用全般を引き受けて、なんとか間を持たせたのだった。

 9時を15分程過ぎた頃、入口に数人の男達が姿を見せた。 その内のひとり、みゆママが席を立って相手をしている男の腰には、あのウォレットチェ-ン。その場を離れたみゆママが、他のお客さんの相手をしているみゆの耳許【みみもと】に顔を近付けて、二言三言囁いた。頷いたみゆが、一番奥のボックス席に塚本達を案内していく。

 グラスを洗う手を止めて、優があたしに顔を向ける。あたしも目を合わせて軽く頷いた。──出番だ。蹲【しゃが】んで化粧を直し始めた優を置いて、あたしはトイレに足を向ける。化粧台の前で鏡に映った自分を相手に、二度、三度と深呼吸していると、ドアの外でみゆママの声がした。

「はなみ。どう?行ける?」

「大丈夫」答えて、ドアを開く。「行ってくる」

 みゆママが、黙ったまま片方の眉を上げて答えを返した。

 あたしがテ-ブルに着くと、既に塚本と指輪野郎の間に座った優が、寛いだ様子で煙草を吹かしていた。いざとなれば流石に双葉の親友【ツレ】である。胆が座ってらっしゃいます。男達は皆一様に、身に付けている物はそれなりにお金が掛かっていそうだけど、どこかチグハグな感じのする似たよな雰囲気の六人だった。

 塚本を優と挟むように座る。──さて、先【ま】ずは何から話そう。

 ……あれ、え-と…。何か話さなきゃと思う気持ちと裏腹に、何に対する緊張感なのか、上手いこと言葉が出て来ない。どうしたんだろ、あたし。焦るな、落ち着いて、などと自分に言い聞かせてはみるものの、会話の切っ掛けさえも掴めないまま、只時間だけが過ぎて行く。

 ……どうしよ…どうする?

 塚本の向こう側では、優がもう指輪野郎にタブレットの画面を向けていた。

「なにじん?」

 ──「?」掛けられた言葉の意味が分からなくて、無言で隣に座る塚本の顔を見詰め返す。

「なにじん…って、あ-これも通じねえのか」

 ……、……、……「あ」──理解した。

 そりゃそ-だ。席に着いて約10分、一言も話さずにチャイナドレスを着て座ってる女が隣に居たら、誰でも聞いてみたくなる。其処で出たのが「なにじん?」。

「日本人です」

 店の中が薄暗くて助かった。明るかったら恥ずかし過ぎて顔上げてらんなかったわ。

「なんだよ、日本人かよ。だったら早くなんか喋れよ。超-気まずかったつ-の」

 塚本はそう言って笑いながら、今度は足の先から視線を上げて来て、あたしの顔を覗き込んだ。

 するとそのまま、これと言って表情を変えずグラスに手を伸ばす。

 ──あれっ?気が付かないのかな?

 口から離したグラスを、多分作れって事なんだろうけど、黙ってあたしの方に押し出してくる塚本。お前もなんか喋れっつ-の。

 でも、何であたしに気が付かないんだろう?まさかの別人?ウォレットチェ-ンも、もしかしたらあたしの見間違い?

 受け取ったグラスに氷を入れながら、忙【せわ】しなく考えを巡らす。

 ──ここで本日二回目の「あ」。作った飲み物を塚本に押し付けるように渡してから、「ちょっと失礼します」と断って、あたしは席を立った。

 早足でトイレに向かう。ドアを閉めると、鏡の中から此方【こっち】を睨むブサイクに口には出さず毒づいた。バカ!バカ!バカ!顔を見せて反応を見ようってのに、こんな厚化粧してたら意味無いじゃん。只でさえ化粧する度、どちら様ですか?ってからかわれてんのに…。バカ、本当にバカなのかお前。雑に化粧を落として顔を洗うと、うちの店に出る時と同じ様に眉だけ描いて、テ-ブルに戻った。これであの日、堤防で打つかった時のあたしになった筈。

 塚本が煙草を咥えるタイミングでライタ-に火を点ける。「サンキュ-」と煙草の先をライタ-に近付けながら、序【つい】でにと言った感じで、横目であたしを盗み見る。

「…!」やばっ、笑いそう。だってコントみたいな二度見。噴き出しそうになるのを必死で堪えて、顔を固めるあたし。その顔のまま聞いてみた。

「どうかしました?」

「いや…別に…」と答えてから、遠くを見るように塚本が目を細める。見た事あるような気はするけど、何処【どこ】で見たのかまでは思い出せないって、そんな感じか?よし、んじゃ次は…と考えてたら、突然、優の横で喚声が揚がった。

「ふざけんなっ!なんだよこれ!」

 大声の出処【でどころ】は勿論指輪野郎。血走った目が、優の持つタブレットの画面に釘付けになっている。──ビンゴ!

 反対側からタブレットを覗き込んだ塚本が、口と両目を一杯に開いて動きを止めた。

 数秒置いて、電気で痺れたみたいにビクッと体を震わせると、今度はスロ-モ-ションみたいにゆっくりとした動作で振り返って、まじゝとあたしを見詰めてくる。その顔にはもう、答えが出ていた。──こっちもビンゴ。

 後はもう、塚本に話があるから公園で待っていると伝えれば、あたしの店での役目は終わりだ。顔を向けた優にひとつ頷くと、席を立った塚本の後に続いて、トイレへと向かう。ドアの前、あたしはおしぼり片手に出てくる塚本を待った。──ドアを開けた塚本が、お化けでも見たよな顔して奇妙な声を揚げる。ほぼ素っぴんだしねって…おい!ちょっと驚き過ぎだろ。内心の憤りを押さえて、あたしは予【あらかじ】め用意しておいた台詞を口にした。

「あたしの事覚えてる?…もし覚えてたらちょっと話があるから、この後菖蒲沼【しょうぶぬま】公園に来て欲しいんだけど」

「あん、…な、なに言ってんだ…お、お前の事なんて知らね-よ!」

 うわっ、ムカつく。双葉には公園で待ってるって事だけ話せって言われたけど、この期に及んでまだ惚【とぼ】けるって…。男らしく無いにも程があるし、野暮ったいたらありゃしない。

 なんか無性に腹立ってきた──

「あたしは覚えてる!四件目の火事があった晩、堤防の上で打つかった事。そのウォレットチェ-ン、あの時も付けてたでしょ。一緒に居たもうひとりの顔だって、あたしちゃんと覚えてるんだから!」

 な-んて、本当はもうひとりの顔はよく見えなかった。はったり八分…でもなんか、我慢出来なかったんだ。

 あたしの言葉を受けて顔を歪めた塚本が、おなかでも痛くしたみたいに躰を曲げる。暫く俯いたままで口も利かない。自分が放った言葉の与えたダメ-ジを計り兼ねて、あたしも次に繋げる言葉を選べないでいる。

「……った」

     えっ?何? 

「分かった。…公園には行く。だけど…もう少しだけ待ってくれ。遅れて来る仲間が居て、もう一時間位したら来ると思うから…。それからでもいいだろ?」

 双葉にはメ-ルするとして、最初は店が終わるまで待つ事も覚悟してたんだから、一時間位なら無い筈だと、あたしは勝手に見当を付けた。

「分かった。じゃあ、あたし達もここで待つ」

 テ-ブルに戻った塚本はすっかり落ち着きを無くして、忙しくスマホを擦り始めた。何度も擦ってる内に、スマホの中からこのピンチを救ってくれる魔神でも出てくんなら、是非あたしにもその機種教えて欲しい処だけど。…ま、こんだけ焦ってりゃ、公園に行かなくても、俺が犯人ですって認めてるようなもんだけどね。

 優の横で指輪野郎も、どんな酒飲んだんだよって位、真っ白な顔してるし。削除した筈の動画を、こんなとこでハイビジョン顔負けの映像で見せられたのがよっぽど応えたみたい。テ-ブルでは、当然それ以上会話が弾む訳も無く、他のテ-ブルのおじ様達が唄うカラオケを静か-に聴きながら、待つ事40分。一旦席を立って、店の隅っこで電話に出た塚本がそのまま店を出て行った。まさか逃げ出すような事は無いだろうと思いながらも、一応あたしも裏口から出て後を追う。表に出ると、スマホを耳に当てて此方【こちら】に背を向けた塚本が、駐車場の角に立っているのが見えた。ホッとEカップの胸を撫で下ろすあたし。若干の誇張。

 塚本の腰の辺りで、あの日と同じシルバ-のウォレットチェ-ンが、外灯の光を鈍く跳ね返していた。チェ-ンに並ぶ銀の粒のひとつゝが、髑髏の顔だと見分けられる程度まで近付いた時、いきなり後から強い力で抱き止められた。──「うあっ…」顔に何かハンカチのような物が触れて息苦しさを感じた直後、ブレ-カ-が跳んだみたいに光と音とあたしが消えた。



        ~H31.3.21 産廃処理場~  

「──い…おい!起きろっ!…おい!」

      (…あん?あっ…頭痛い…あれ?…何処だ…ここ…)

「おい!いい加減起きろよ!」

      (…つ-か…うるさっ……誰?…)

 ぼやけていた視界が、徐々にはっきりしてくる。

 天井からぶら下がった裸電球が弱々しく照らしているこの場所は…、プレハブの中…かな?工事現場とかでよく見掛ける事務所みたいな、あの建物の中…みたいな感じ。此処彼処【そこかしこ】から入り込むすきま風の所為【せい】で、寒々とした室内の空気にブルッと躰が震える。壁際に並んだ名札の無いロッカ-達が、無表情にあたしを見下ろしていた。座り直そうとして、手と足が縛られている事に気が付く。しかも後ろ手。──なんじゃこりゃ!。頭の芯に残る倦怠感を首を振って追いやると、懸命にリセット前の記憶を呼び起こしてみる。

 (……一樹と一緒にご飯食べてから、みゆの店に行って……それからタブレットを手にした優の顔、…そんでトイレの前で塚本と喋って……そうだ!あたし裏口から店の外に出た塚本を追いかけて行って…)

「──おい…おいって、起きてんだろ!」

 横になってるあたしの頭の先で、聞き覚えのある声がする。寝返りを打つ要領で躰の向きを変えると、声のした方に顔を向けた。

「ああ…」とあたし。

 予想通り、目の前には鼻血か耳血か、はたまた口血なのか分からないけど、とにかく派手な赤色で顔中をペイントした塚本が居た。あたしと同じで、後ろ手に縛られた上、足は何重にもガムテ-プでぐるゝ巻きにされている。

「何やっ…てんの?」

「はあ?何やってんのじゃね-よ。元はと言えばお前のせいだから」

「…どういう事?」

「お前らがあの動画見付けて来てあんな風に加工したり、俺達の顔覚えてたりするからだろ!」

 あ-。……言われてそれも思い出したわ。

 あたし、あの時店で頭に来て、打つかった二人の顔覚えてるなんてハッタリ噛ましちゃったんだった。双葉の計画だと、顔を覚えてるっていう嘘は、公園に来た塚本達が往生際悪くしらを切った時の最終手段にって言われてたんだけど、惚【とぼ】けてる塚本見てたらあたし、なんかこう…抑【おさ】えらんなくなっちゃって…いや、でも、それにしたって、何だってこんなとこで、こんな事に…?

 ──「ガラララッ!」

 いきなりサッシの引き戸が乱暴に開けられた。

「横川さん!」

 隣で塚本が躰を起こす。

 入って来たのは、如何【いか】にもちんぴらにしか見えない趣の三人だった。先頭に立つ、恐【おそ】らく横川という背の高い男の後ろに付き従う、金髪とグラサンの二人。真面目なサラリ-マンには見えないけど、征十郎のとこの辰雄とか和男みたいな迫力は感じられない。なんだか中途半端な面々。あ、迫力って言っても、彼方【あっち】は元警察官らしいんだけどね。

「このばか野郎!知らねえ奴の前で人の名前軽々しく呼んでんじゃねえよ!」

 ヒステリックな怒声を揚げて、横川と呼ばれた男が塚本の躰に爪先を喰い込ませる。「こらっ!おらっ!」──二発、三発。息を切らしながら塚本からあたしに向き直った横川、その口から這い出る今度は一転して気持ちの悪い猫撫で声。

「ふう-っ、お嬢ちゃんお久し振り」

 情緒不安定か!…"お久し振り"?何処で会った?…思い出せない。なら下手な事は言わない方がいいと踏んで、あたしは唇を噛んだ。

「お嬢ちゃんに顔覚えられてたとはね。失敗しちゃったよ。隆一のばかも何の冗談だか知らねえけど、勝手にあんな動画ばら蒔【ま】きやがって…。ったく、ちっとも笑えやしねえ」

 あぁそう。此奴【こいつ】があの時塚本と一緒に居たもうひとりだったんだ。話からすると、隆一っていうのは指輪野郎の事だ、多分。

「まあ…いいや。そんでお嬢ちゃん、俺達の事他に誰に喋ったんだ?ああ、そういやあん時、じじいがひとり居たな…。そこら辺おじさんに詳しく教えてくれるかな?お嬢-ちゃん」

 見下ろしていた横川が、あたしの前に蹲【しゃが】み込む。アップで見た横川は肌の質感といい、目鼻立ちといい、蜥蜴【とかげ】を連想させるガッツリの爬虫類系だった。

「痛い目に遭いたい訳じゃねえだろ。それともMなのかな」

 あたしの顔を覗き込む、ヘラヘラ笑っている顔を見て決めた。あたし、此奴【こいつ】には何も喋んない。喋りたくない。

「うわ-、そんなおっかない顔して睨むなよ。おじさんの方がおっかなくて震えて来ちゃうよ」──「ギャハハハッ」他の二人が無理矢理笑い声を揚げる。

 (これっぽっちも面白くないんだけど)

「どうします?ちょっと痛めつけてやりますか?」

 金髪で体格のいい、子分Aからのあまり有り難くない提案。

「ほら、お嬢。この二人は俺と違って気が短いからさあ、早いとこ喋っちまった方がいいぞ」

 …やだっ、怖い。正直、ケンカとかした事無いから、殴られた事も無いし、痛いのは嫌い。

「おらっ!」──「ガタンッ」

 横川が突然出した大声。その声にびっくりして動かしたあたしの足がロッカーに打つかった。「ぎゃはははははっ!!」と、三人がさっきより一段大きな笑い声を揚げる。手を叩いて燥【はしゃ】ぐ子分達。

「はっ、可愛いね-。驚いちゃったんだ。可哀想に」

 目の奥に熱を持った物が膨れ上がる気配が在る。やだ、零【こぼ】したくない。此奴【こいつ】らの前じゃ…。

「なに睨んでんだよ」

 肩を掴まれて、ロッカーを背に座らせられる。目の前には横川の顔。飲んでるのか、吐く息に酒の匂いが混じっていた。

「バンッ!」

 ──突然、点滅したように視界が瞬いて、左耳でキ-ンと耳鳴りがする。唇の端から血の味が拡がって、あたしは漸【ようや】く叩かれた事に気が付いた。

「ケッ、生意気なガキだ!お前が答えたって答えなくたって、関係ねえんだよ、ば-か」薄ら笑いを浮かべ、芝居掛かった大袈裟な手付きでポケットから"何か"を取り出す横川。「ほら、これな-んだ?」

 ──あたしのスマホ!

「はっ!その顔!いいねお前。この電話見られたら困りますってな!」

『ひゃっはっはっはっ-!』

 今度は三人が三人共、ほんと楽しそうに笑ってる。悔しい。落ちた水滴で床に染みがひとつ出来た。

「うわっ泣いちゃったよ。ゴ・メ・ン・ネ、泣かないで-。俺まで悲しくなっちゃう」

 横川の台詞で笑い声が又大きくなる。

 一頻【ひとしき】り笑って気が済んだのか、嫌悪、恥辱、無力感、ありとあらゆるマイナスの感情と耳障りな笑い声の余韻を残して、三人がプレハブ小屋を出て行った。

 悔しくて、涙が止まらなくなりそうで…それが又悔しくて、そこからの一分間は涙を堪える為だけに全力を使った。

「…大丈夫か?」背中にこわごわと言った感じで、塚本の声が当たる。

「はあ?」

「大丈夫かって聞いてんだよ」

 何て答えようか迷ったけど、面倒臭くてシカトする事にした。

「…悪かったな」

 それでもしぶとく答えないでいると、ぼそゞとまるで独り言みたいに、ロッカ-に寄り掛かった塚本が勝手に喋り出した。気分的には人の話に耳を傾ける様な状態じゃ無かったけど、話さない事は出来ても、後ろ手に縛られて耳を塞ぐ事も出来ないあたしは、塚本の声を耳に受けるしかなかった。

「店でお前から話があった後で俺、横川さんに電話したんだ。そしたら、今から行くから待ってろって言われて、…こんな事になるなんて思わなくて俺…俺…」

「ピピッ」と、時計の電子音が相槌を打つ。

「お前が気失ってる間にボコられて、そん時言われたんだ。お前と隆一はもう要らないって…」

「何時?」

「え?」

「あんた時計してんでしょ。あたしに見えるように躰動かして」

「…ああ」

 塚本が躰を捻【ひね】る。血塗【ちまみ】れで傷だらけの持ち主には不似合いの頑丈そうな黒いベルトの腕時計。AM3:28。

「三時半…」小さく口にしてみるあたし。

 四、五時間は時刻が跳んでいた。日付も変わって、二十四節気の春分。

「お前は連れて来られた時見てないけど、ここは山の中の産廃処理場だ。朝になったら、重機を動かしたって気にする奴なんて居やしないし…。そしたらきっと、俺達埋められておしまいだよ…」

 話してる塚本の声は、最後の方で小さくなって頼り無く消えた。

 (埋められる?)

 …現実味が無さすぎて実感が湧いてこない。怖いって気持ちは、勿論たんまり有るのだけれど、又殴られるかも知れない怖さの方が近くに在って、埋められるっていう怖さが居る場所はあまりに遠く、目を凝らさないと見えて来ない。

 これ以上考えても、自力じゃ今の状態から抜け出せそうも無いし、これからどうなるのかなんて事は、もう考えるのを止めた。

「なんで放火なんかしたの?」

「あン?…ああ、最初は…ネットで見付けたバイトの募集だよ。三時間で六万のな。隆一が見付けて来て…あ、隆一つうのは、動画に出てた奴な。薬指に指輪してる…。そんで、仲間も誘ってみんなで行ったら、それがオレオレ詐欺の受け子の募集で、金を取りに行ったり、銀行で金を下ろしたりする仕事だった…つう訳」

 埋められると決めて掛かっている所為か、内情を話す塚本の口は滑らかだった。

 …三時間で六万円。思わずあたしだったらどうするかな、なんて一瞬考えちゃう。…でも、それと放火って…。

「その内横川さんが俺と隆一に、もっと割りのいいバイトが有るからやらないかって話を持って来てな…。俺らも最初は、さすがに放火なんてって思ったけど。調べてあるから家には絶対に人が居なくて、燃えた家だって、保険で元に戻るって言うし、ひとり一回二十万って言われたら…もう断れなくなっちゃって…」

「横川がリ-ダ-なの?」

「いや、横川さんの上にも誰か居るんじゃね-かな…。それについちゃ話した事も無いし、会った訳でも無いから確かな事は言えないけど…。たまにペコペコしながら電話してるの見た事あるし」

 あたしに時計を見せた体勢のまま、窓の方に顔を向けて話す塚本の表情は窺う事が出来ない。けれど淡々と話すその口振りにはもう、さっき迄の怯えた色は消えていて、自分自身の莫迦【ばか】さ加減を笑うような、そんな空っぽの明るさが感じられた。

「でも…なんであんな動画UP【アップ】したの?」

「ハンッ!あれは隆一がひとりで勝手にやったんだ。あいつは仲間内でも、盗みとか喧嘩になるとからっきし根性無くて、いつもみんなに馬鹿にされてたから、多分自慢したかったんだろうな。俺もやる時はやるんだぜ、みたいな。四件目の時、俺に動画を撮って来てくれって頼んで来たのも、みんなに見せるだけだと思ったから横川さんにも内緒で引き受けたのに…。なんか様子がおかしくて問い詰めたら案の定って感じで…。速攻削除させたから、昨日迄は横川さんにもバレてなかったんだけど…。ま、これで隆一もただじゃ済まないだろうな。でも、まさかこんな近くに、あんなとこに気が付く奴が居るなんてなぁ…。ついてね-よ、ほんと」

 大体の話はあたしにも分かった。横川って奴がなんの為にそんな事させてんのかは全然分かんないけど、塚本達がなんであんな事をしたのかは分かった。…結局はお金の為。…でも、だからって…やっていい事と悪い事は在る。──と思う。

「幾らお金の為だからって…」

「うざっ!キャバ嬢が偉そうに説教かよ!高校も出てね-し、頭も腕も無い俺達が、まとまった金稼ごうと思ったら、犯罪だろうがなんだろうがやるしかね-だろ。俺の家だって隆一のとこだって、母ちゃんしか居なくて貧乏暇無し、小遣いなんてもらえね-しな!それでも遊んでれば金は掛かるし、出歩いてれば仲間の前じゃ恥ずかしい格好はできねえだろ。だから…だからやったんだよ、文句あるか!」

 言葉が…、言葉が何も出て来なかった。塚本の言ってる事が直面【まとも】だとは思えないけど、頭も良くなくて何の技術も無い。…どっかで聞いたよな話。きむ爺と一樹と双葉に支えられて、やっと働く事が出来ているあたし。そんなあたしが塚本に向かって、生き方に関わる何かを偉そうに言う事なんて…確かに出来ない。

「もしかして、今増えてる落書きも…」

「あ-そうだよ。放火よりは金もだいぶ安いけどな」

 格好のいい事言って、放火なんて止めて貰うようにするなんて、あたし何様の積もりで居たんだろう。一樹や双葉と違って何も持ってないあたしと、隣で卑屈になって、悪い事は全部世の中と親の所為にしている塚本が、一枚の服の表と裏みたいに感じられて、それ以上話す言葉を、その時のあたしはもう何も持っていなかった。

 苛立ちを打つけるように言い放った塚本も、そんな自分を恥じているのか押し黙っている。ちっぽけで薄っぺらな自分を思い知らされた、そんな二人を置き去りにして、時間はひとりきりで進んで行った。

 腕時計の中で数字が7:00を通り越して、窓に掛けられた安物のカーテンが朝の陽射しを押さえ切れなくなった頃、鍵が外される音がして、又あの三人が姿を見せた。

「いい子にしてましたか-。クックック…」

 何が面白いんだか、横川が自分の台詞に気味の悪い笑い声を漏らす。

 金髪とグラサンを頭に載せた子分AとBが、あたしと塚本の脇に回って、足に巻かれたガムテ-プを剥がしに掛かった。

「動くなよ。動くと切れちゃうぞ-」

 カッターの刃が足の間を通って、ガムテ-プを割って行く。パンツが見えたと言っては下卑た笑い声を揚げる男達。後ろに回った子分…あたしの方に金髪、塚本の方はグラサンに、あたし達二人は乱暴に立たされた。

 連れ出されたプレハブの外には、如何にも山の中と言った景観が拡がっていた。目の届く範囲には民家どころか、人工的な建物はひとつも見えない。久し振りに目にするダイナミックな自然界。姿の見えない鳩の鳴き声が山間【やまあい】に低く響いていて、こんな状況じゃなきゃほんわかした気分に浸っちゃう位、長閑【のどか】なシチュエ-ションだった。

「もう少ししたら残土を載せたダンプが来る。そうしたらその残土と一緒に…。ぎゃはははははっ!!」笑い声に紛れて金髪の右手があたしの胸を掴む。──「ぐぅう…」靴の爪先をヒ-ルで思い切り踏んでやった。途端に突き飛ばされて、自由の利かない縛られたあたしは、受け身も取れずだらしなく地面に倒れる。「このガキ…」おでこに血管を浮き上がらせて近付いてきた金髪に、横川に殴られた左の頬をもう一度叩かれた。横川の平手打ちよりも強い衝撃に、顔の左側が感覚を無くす。

「やめろよ!」

 グラサンの腕を振り解【ほど】こうとした塚本が、腹と顔を続け様に殴りつけられて膝を崩す。尚もあたしに近付く金髪の足を止めたのは、唸るような大型車の排気音だった。坂の下から響く重低音に空気が震える。ジャムった複数の排気音とエンジン音が登って来る車が一台ではない事を報せていた。その音が耳を蓋【おお】っても、百メ-トル程の距離にダンプが見えた時も、不思議と恐怖心らしき物があたしの躰に入り込んで来る気配は無く、あたしはその場に倒れたまま、車の振動に揺れる道端に咲いた菜の花を、ぼんやりと瞳に反射【うつ】していただけだった。

 あたし達の居る場所まで20メ-トル程に近付いたダンプがスピ-ドを緩めた時、大型車の凶暴な唸り声に隠れてそれまで聞こえなかったバイクの排気音が耳に届いた。

 立ち上がってダンプの後方に眼を遣ると、黒いダンプの後ろから、深紅のビッグスク-タ-に跨がった一樹が飛び出して来るのが見えた。その後ろには、みゆママの白いワゴンも。5メ-トルと離れていない場所にバイクを乗り捨てて、あたしに向かって一直線に走って来る一樹。あたしの腕を掴んでいる金髪の手に力が入る。一樹の名前を呼ぼうとした瞬間、眼の前でその躰が跳ね上がった──

 あたしの頭よりも高いドロップキック。左腕を掴んでいた手が離れて、金髪が山の斜面を転がり落ちていく。

「てめえっ!動くんじゃねえ!」

 後ろから首を抱え、塚本の顔に出刃包丁の切っ先を向けたグラサンが、一樹に向かって吠えたてる。「ねぇ」みゆママの車から降りて来た双葉が、何時の間にか塚本を抱えたグラサンの後ろに立っていた。左手にはあのお気に入りの木刀。「それ以上近寄るんじゃねえ!」喚くグラサン。一樹から双葉に向き直って出刃包丁の先を小刻みに揺らす。

 二人に挟まれる格好になったグラサンにはもう、さっきまでの余裕は無い。あたしの方からは、一樹とグラサンの背中越しに双葉の顔が見えていた。ちょっと眼を合わすのはお断りしたい久し振りのガチギレ。感情の消えた顔には血の気が無く、真っ白な能面みたい。あたしと一樹は知っている。この状態の双葉には、声を掛ける事さえタブ-だという事を。

 その双葉が無造作に塚本とグラサンに近付いて行く。

「来るんじゃねえって言ってんだろ!」塚本を突き飛ばして包丁を振り翳【かざ】したグラサンが、双葉に向かって一歩踏み出した──

 出刃包丁の先が双葉に触れるより速く、左手に握られた木刀が振られて、弾かれたグラサンの腕から包丁が跳んだ。と同時に、首の付け根辺りを押さえて、前のめりに倒れていくグラサン。

「てめえらいい加減にしろこの野郎!」

 声のした方を振り返ると、一連の騒ぎの中みゆママの車に近付いて行った横川が、ドア越しに拳銃を向けて叫んでいた。みゆ達に向かい、(降りろ)と首を振って示す。本物を見た事は無いけど、この場面で偽物って事は無さそうに思える。同じ考えからか、双葉と一樹も動きを止めた。

「畜生…どいつもこいつもふざけやがって…おい!お前!こっち来い。カモンだ!カムヒア、オ-ケ-?」

 優と顔を見合わすみゆ。英語で話してるとこみると、100パ-セント御指名はみゆだろう。その顔にうっすらと笑みを浮かべて溜め息を吐きながら、横川に向かってみゆが歩き出す。暴れ出しそうなみゆママの動きに逸早く気付いた優が、その躰を必死で抱き止めた。

「大人しくしてねえと、この女の穴の数増やしちまうぞ」

 横川の脅しに、握り締めた拳を解【ほど】くしかないみゆママ。何時もの毅然とした面持ちは失われて、そこに在るのは子供の身を案じる母親の顔だけ。

 あたし達の胸の中に在る苛立ちと悔しさ、みゆを心配する気持ち。其の何倍も大きな物に押し潰されそうなみゆママの悲痛な顔つきが今、あたしの心を締め付けて痛い。みゆママの隣でその背中を優しく摩【さす】る優にも勿論それは伝わっていて、泣き出しそうに顔を歪めている。

「ぎゃはははははは-っ!!」

 そんなあたし達の様子を見て揚げた横川の笑い声には狂気の色が濃く滲んでいた。辺りに不快な笑い声が降る中、避ける傘も持たず立ち尽くすあたし達。そうこうしている間に、泥だらけで斜面から生還して来た金髪が、双葉の手から木刀を取り上げた。

「おい!車持って来い!」

 みゆの後ろに回った横川が命令する。どんな時でも飼い主の言葉は絶対なのか、一樹を睨み付けながら唾を吐き捨てると、金髪は建物の裏手へと走って行った。

「よ-し。お前ら全員そのまんまだ。動くんじゃねえぞ」

 横川はそう言ってみゆの腕を引っ張ると、まだ倒れているグラサンの背中を蹴りつけ甲高い声で喚く。

「いつまで寝てんだばか野郎!とっとと起きろ!」

 のろゝとした動きながら、グラサンが頭を振りゾンビみたいな動きで起き上がって来る。止【とど】めを刺しときゃ良かったのにと悔やんでいる処へ、再び近付いて来る車のエンジン音。途中からその音が二つに分かれた気がして耳を澄ます。──聞き間違いじゃなかった。確かに金髪が向かったのとは違う方向から、この場所にもう一台向かって来る車が在る。

「──あ」

 乗っている人間の憤りを体現するかの様に、土煙を上げて疾駆するその車のボンネットの先には、見覚えのある銀色の猫が朝陽を浴びてキラキラと輝いていた。横川の手前で急停止したその車に乗っていたのは、なんと征十郎様御一行。助手席から降りて来た辰雄が後部座席のドアを開くと、中から着物姿の征十郎が降り立つ。横川も含めたあたし達だけでなく、山に棲む獣や鳥達までもが息を呑む迫力。その佇【たたず】まいに、一時の静寂が辺りを支配していく。

「遅いよ…」

 小さく呟いた双葉の声が、風に運ばれてあたしの耳に届く。後ろで、戻って来た金髪の車が停まった。

「な…なんだてめえら!」

 子分の手前だからなのか、精一杯の虚勢を張って横川が吠える。車から降りては来たものの、事の次第を掴めず、ただ周囲を見回す事でしかその場所に留まる意味を見付けられない金髪。居合わせた征十郎を除く全員が、事の成り行きを見守る側に回る中、低く、それでいて良く通る征十郎の声が、この活劇を次の場面へと動かし始めた。

「若いの、もう終わりだ。子供相手にこれ以上見苦しい真似はやめるんだな」

 辰雄と和男がゆっくりと、征十郎の左右から歩を進めて行く。二人が見据える先に立つのは横川。

「くっ…来るんじゃねえ!ど…どこの誰だか知らねえけどな、お…俺の後ろには、か、関東俠心會の池…」「池上はこの件から手を引くそうだ」

 横川がとっておきの口上を言い終わらない内に、それ以上聞いているのも堪えられないと言った征十郎の言葉が、その口の動きを押さえる。

「この場所を教えてくれたのも池上本人だ。あいつの話だと、お前さんと関東俠心會には、今までもこれからも一切の関わりが無いそうだ」

「……そんなわけねえ…」

 みゆの腕を離した横川が左手で携帯を操り始める。

「もしもし俺です、横川です!──そん…そんな…ちょっ、ちょっと待って下さ──」

 静止画のように固まった横川の口から吐息みたいな声が漏れる。

「……何で…」

 携帯を耳から外した横川は、もう周りを見てはいなかった。右手に握った拳銃をだらしなく地面に向けて垂らし、左手には携帯を握ったまま、何処を見てるのか分からない視線を宙にさ迷わせている。

 みゆママの胸にみゆが飛び込んで行く。抱き合った二人に、更に優が抱き付いた。

「大丈夫?」振り返った双葉の視線があたしの足元から上がって来て、左の頬で止まる。目の前で双葉の黒目が一段、色の深さを変えた。あたしの頬から外された視線は、怒りの対象を探して金髪で止まる。髪の毛程の躊躇【ためら】いも見せずに近付いて行ってその手から乱暴に木刀を奪うと、動きを止めずそのまま横に薙【な】ぐ。金髪が倒れるのを待たずに振り向くと、今度は横川に向かって歩き出す。止まらない。近付いてくる双葉の足音に、夢から醒めたのか、横川の頭が動いた。

「なん…なんなんだお前。もういいから帰れ!」

 あたしから見える双葉の後ろ姿に、その言葉が与える影響は無い。急ぐでも無く、横川に向かって歩いて行く双葉の歩調は変わらなかった。

「気に入らねえ…なんだよその眼はよ…俺はてめえみたいなガキ見てるとむかむかしてくんだ、この野郎!」

 興奮した横川が、唾を飛ばしながら拳銃を持った腕を持ち上げる。

 ──1発の銃声が爆【は】ぜて、その音の余韻が消える前には全てが終わっていた。

 肉を打つ音が数回して、拳銃を落とした横川が両手で喉元を押さえる。その後ろで、双葉が木刀を振った──様に見えて、あたしの前で土下座するみたいに膝をついた横川が、地面に顔を埋めた。

 朝陽を受けて立つ菜の花。その脇には動かない横川の頭。

「帰ろう」

 銃声で重く濁っていた耳を、双葉の声が洗い流してくれる。其処にはもう、いつもの笑顔を咲かせた双葉が居た。

 恥ずかしいけど、あたしその顔見て頭にぽんと触れられたら、もう腰が抜けちゃって…。みゆママに送って来て貰ったんだけど、車に乗って直ぐに眠っちゃったし、家に着くまでの事は殆ど何も覚えていないんだ。

 だから此【これ】は、後からみゆと優に聞いた話なんだけど── 

 あたしが連れて行かれた場所は栃木の山の中。あの夜、突然居なくなったあたしを探す為、直ぐに携帯に連絡を取ったらしいんだけど、その時にはもう電源が切られていたんだって。当然、店に居た塚本の仲間達にも心当たりを聞いたけど、塚本の携帯も電源オフで、此方【こっち】も手懸かり無し。あたしの携帯の電源が再度入れられたのは、夜中の3時を過ぎてからで、それ迄、5分に一度のペ-スで電話を掛け続けてくれた優の努力が報われたのは、なんと60回過ぎの発信だったそうだ。直ぐに切られたらしいから横川達の内の誰かだとは思うんだけど、スマホの中身を調べようとでもして電源を入れてたんだろうね。そこからは、双葉があたしの名前で携帯会社に電話を紛失した時の要領で連絡。GPSの最後の発信場所が栃木の山の中だと判って…。

 後は双葉が公園での話し合いの為、切り札として前以【まえもっ】て話を通してあった征十郎に相談すると、"火事"・"放火"・"その後の落書き"・"栃木の山中"のキ-ワ-ドから、関東なんとかかいの池なんとかって人に連絡。其処から先は知っての通り…。

 それと此方【こっち】は、双葉に教えて貰ったおまけ。

 そもゝ今回の放火事件が始まる切っ掛けは、あたし達が住んでるこの街の千代田線の始発、北綾瀬駅から先をもう一駅伸ばす計画が根っこに在って、それを東京都が何年か先に発表するという情報を、関東なんとかのなんとかが手に入れたのが全ての原因。もう一駅作る為には、今の北綾瀬駅からその先の車両基地に向かって走る線路を次の駅に向かって幾らか延ばすか曲げるかなんかするんだろうけど、その為には今回火事に…、って言うか、放火に遭った家とその周りは、区画整理の対象になるんだって。

 そこで、其の計画を一足お先に仕入れたなんちゃらは、今の内にその周辺の土地を少しでも多く手に入れて、一儲けしようと企んだ…って訳。次にやった事と言えば、彼処【あそこ】ら辺の人達が自分達の方から土地を手放すように仕向ける為、横川を遣う事。自分の所の組員じゃなくてね。任された横川は、落書きの他にも色々嫌がらせの方法を考えていたみたいだし、実際やってもいたらしいんだけど、放火は言わば最終的な脅しみたいなもんで、落書きとかされてる内に土地を手放さないと、燃やされちゃうぞって事なんだって。落書きって言ったって、後ろに放火が見えたら超-っおっかないしね。それと、これは征十郎が言ってたらしいんだけど、あたし達が事を起こさなくても、横川達はその内早い段階で切り捨てられただろうって。て言うのも、人が住んでる家を放火するって重罪で、捕まれば最低でも五年位は出て来られないんだって。横川との繋がりは、この件に暴力団が加担していたと疑われる元だし、自分の若い衆を使わなかったのも、最初からやばくなったらその時点で…ってね。そうなれば当然塚本達だって、それ以上に酷い形で使い捨てにされただろうって事はあたしでも分かる。蜥蜴【とかげ】のしっぽ切りの、"ぽ"って事なんでしょ、結局。

 あたしは此【これ】を、昨日までの二日間を掛けて説明して貰ったんだけど、同じ話を双葉はあの日、栃木から戻ってくる車の中で塚本にも話をしたらしいんだ。でも、その話を聞いてる時も、話が終わってみゆの店で待つ仲間の処に向かう間も、塚本は一言も喋んなかったんだって…。

 ──その一件から二日が経った二十三日。頭の上には黒の絵の具をけちったみたいな、まだ若い空。東京も明日、明後日には櫻も開花か?と騒がれる陽気の中、七時を待って看板に灯りを入れる。

「きむ爺-。今日、晩御飯ここで食べてくから、何か作って-」

 六時頃に顔を出した優が、そのまんま口開けのお客さんになった。

「何かってえ、魚かい?肉がいいのかい?なんなら両方…」「何でもいいから、美味しいの。1000円以内でお願いしまっしゅ」

「あいよ。んじゃあ、ちょいと待ってな」

 カラ・コロ・カラン──

「いらっしゃいませ-」

 今日初めて暖簾を潜【くぐ】ったお客さんは、一度来た事の有る、おじいさんとおばあさんの御夫婦だった。

「何処に座ったらいいですかねぇ」にこゝしながら訊ねられて、あたしも釣られて笑顔と一緒に、「お好きな処へどうぞ」と返す。

 座敷に三つ有るテ-ブルの一番手前に座った二人。

腰が落ち着くのを待って注文を取りに行こうとしていた処へ、「先にビ-ルを下さい」と、柔らかな声が届いた。



        ~ H31.3.23 塚本と隆一 ~

 九時を回ってカウンタ-に並んだ顔触れは、入り口からだんご、力也、太一、一樹、優、双葉の六人。毎度お馴染みの気のおけない面子【めんつ】が揃っていた。

 一樹の横では優が、グラスを拭いたり灰皿を替えたりと、店が違えばキャバ嬢顔負けのサ-ビスで甲斐甲斐【かいがい】しく世話を焼いている。やってる本人は嬉しそうだし、双葉も放置してるから、これにはあたしもノ-タッチ。ま、春だしね。

 その隣、太一と力也の今晩の肴はだんご。先【さっき】から凜を餌に二人掛かりでああだこうだと茶化しては、からかい騒いでいる。いじられてる方のだんごは、見てる此方【こっち】が恥ずかしくなる位デレデレしちゃって、凜から直で話を聞いてるあたしとしては、ちょっと胸が苦しくなる程のにやけっぷり。ま、本人が幸せならそれでいいか。という事で、此方も触れない。返すゞ浮き世の春だしね。

 ──カラ・コロ・カラン

「いらっしゃい…」

 引き戸を開けたのは…塚本!?…と、確か…隆一とか言う二人連れ。突っ立ったまま、なかゝ店の中に入って来ない二人に違和感を感じたカウンタ-で、頭が六つ振り返る。並んだ顔の中に一樹を見付けて、塚本が視線を止めたのが分かった。

 優に目配せして、双葉が席を立つ。太一と力也も殆ど同時に席を立って、待ち受け画面の中の凜に夢中なだんごの頭を太一が叩【はた】いた。

 一樹以外の四人と、不満気な優が、グラスを片手に座敷の奥に席を移す。

「どうぞ」とあたしは、カウンタ-の上を手早く片付けて、一樹の横に二つ席を作った。

「何飲みますか」

 少し間を置いて、塚本が口にしたのは、「日本酒二つ」

「お一人様で二つですか?」と、嫌みのひとつでも言ってやった方が良かったんだろうけど、ちょっと意地悪をしたくなって、あたしは口を噤【つぐ】んだ。

 枡【ます】の中にコップを据えて、注いだ酒が溢れて枡を満たす手前で止める。端【はな】からお勘定なんて貰う気も無いし、燗【かん】か冷やかも聞かなかった。

 塚本がコップの中身をひと息で空にする。隆一はなんとか半分ってとこ。二人共、こんだけ不味そうに酒飲む人、店始めてから見た事無いって飲みっぷり。

 酒が廻るのを待たずに、下を向いた塚本が話し始めた。「あ-ゴホッ…お…俺達明日、警察に行く事にした」

 聞こえてはいるんだろうけど、隣に座る一樹は相槌を打つ訳でも無く、無表情に煙草を咥える。拍子を合わせたきむ爺が煙管【キセル】に火を入れた。ゆっくりと顔を上げた塚本の眼が、あたしの顔で止まる。

「お前の事は巻き込んで悪いと思ってる。ごめん」

 "ごめん"の処で、隆一も一緒になって頭を下げる。何て答えたらいいのか分からないあたしは、塚本と隆一に向けてひとりゝ眼を会わせると、ただ黙って頷いた。

 塚本は少し長目に息を吐くと、枡に残った酒を噛み付くように呷【あお】って枡を置いた。裏返しに置かれた枡を見て、一樹が煙草に火を点ける。

 一度目を瞑った塚本の肩が大きく持ち上がって、「一樹!俺はな、昔っからお前の事が大嫌っいなんだよ!ぶっ飛ばしてやっから、表に出ろ!」と、一樹の方に向き直り叫ぶ。突拍子もなく大きな声だった。でも、これにも当の一樹はピクリとも動かない。あ…、ちょっとだけ笑ったような気もしたんだけど、これはあたしの見間違いかも知れない。

 少しだけ間を置いてダボシャツの釦【ぼたん】をひとつ外し、灰皿に煙草を押し付けると、天井を見上げて大きく煙を吐き出す。それから──

「おもしれえ。表出ろ」

 席を立った一樹に続いて、塚本と隆一が店を出て行く。座敷から成り行きを見守っていた太一達も、みんなしてグラスを片手に後を追って出て行った。あたしもきむ爺に声掛けてカウンタ-を出る。店の外に出ると、お月様の下にはどれ位前からそうしていたのか、みゆの店に来ていた塚本の仲間が勢揃いしていた。

 皆が見守る中、駐車場の真ん中に二メ-トル程の距離を置いて、一樹と塚本が立っている。いつの間に席を立ったのか、太一達の横にはビ-ル持参のお年寄り夫婦の姿も在った。

 外灯の明かりが月と協力して、一樹と塚本の足元から影を伸ばしている。大きく息を吸い込んで、塚本の影が動き出した。「うぉぉらぁ!」唸り声を揚げて向かって行った塚本が右の拳を振り上げる。一樹は腰を屈めて塚本のパンチをかわすと、一歩踏み込むと同時にその躰を抱き抱【かか】え、持ち上げた。地面を離れ逆さまになった塚本の躰が、束の間動きを止める。一切の躊躇無く地面に叩きつける、一樹のボディスラム。子供の頃からパパと一緒に見てた?いや見せられてたプロレス番組のお陰で、あたしにも技の名前は分かる。だから駐車場は土と砂利が半分ゝで、リングとは違うというのも当然分かる。その証拠に地面に全体重を勢いそのまま打ち付けた塚本は、辛うじて動いちゃいるだけで立ち上がれない。…ううん。立ち上がる処か、骨が折れるか気を失っていても不思議は無いんだろうな、きっと。痛みにもがく塚本に背を向けて、一樹が店の入り口に向かって戻って行く。呆然として、声も無く立ち尽くす塚本の仲間達。その横を抜けて行く時も、一樹はそいつらと目を合わせようともしなかった。

「…どこ行くんだよ…」よろけて震えながら立ち上がり、それでも一樹の背中に罅割【ひびわ】れた声を投げ付ける塚本。足の運びを止めた一樹が振り返った。なんとか立ち上がったものの、未だ足元の覚束ない塚本に向かって「フッ」と短く息を吐いて走り出す。──跳んだ。…渾身のドロップキック。空中で地面と平行になった一樹の両足が、塚本の肩口を蹴り付けて突き放す。転がりながら躰を弾ませて、三メ-トル以上も吹っ飛んだ塚本は、駐車場の隅に立つ櫻の幹に、頭と背中を派手に打ち付けた。固く鈍い音が、あたし達の居る場所まで届く。見ていられなくなって、思わず顔を背けてしまう。鼻先に流れて来た煙の薫りで、何時の間にか隣に立っているきむ爺に気が付いた。なんでだろう?心なしその横顔は機嫌が良さそうだった。「おぅ、気の早えのがいやがんな」きむ爺の視線に誘われて見上げた先、逸【はや】って少しだけ開いた数輪の櫻が、塚本がぶつかった衝撃に揺れている。「塚本!」隆一の声が静まり返った町内に響く。『塚本!立てよ!立ってくれよ!塚本!』仲間達が泣きそうな声を揚げる。その声が届いたのか、届いたのは別の物なのか、土に塗【まみ】れた塚本の頭が微かに動いた。櫻の幹に躰を預け立ち上がろうとしているのか、膝をたてようとしている。その時、あたしが居る場所から見えた塚本の顔が、…笑った。…一瞬だけど、確かに笑ったんだ。動きを止めてその様子を見ていた一樹が、塚本に向かってゆっくりと歩き始める。一樹が近付くよりもほんの少しだけ早く立ち上がった塚本が、ふらつきながらも、下から右の拳を突き上げた。「ゴッ」と短く、骨と骨が打つかりあう音がして、一樹の頭が後ろに弾ける。「うおおぉ-っ!」塚本の仲間と、何故か太一達からも大きな歓声が揚がる。双葉まで。両手を上げて興奮するお年寄り夫婦。──次の瞬間。殴られた一樹の方が踏み止まって、殴った勢いで体勢の崩れている塚本の後頭部に向け、投げ出すように大きく右腕を振った。「パアッ-ンッ」と破裂音にも似た音が周囲に響く。首が伸びたみたいに見える程の、手加減無しのラリアット。でんぐり返しをするみたいに、頭から一回転して大の字になる塚本。手足の動きからは、意思の力が感じられない。全員が息をするのも忘れた数秒の間、其処には砂埃だけが蠢く、或る種、幻想的な世界が在った。今度はもう、立ち上がれと声を掛ける者は居ない。不似合いなほど清々しい静けさの中、太一がぽつりと「死んだんじゃねえだろうな」なんて、縁起でも無い事を言い出した。慌てて駆け寄る隆一達。

 塚本の周りに出来た輪から離れて、一樹が煙草に火を点ける。遠く離れた場所から一部始終を見ていた欠けた月は、分け隔て無く、この場に居る全員を均等に照らしていた。一樹の煙草が一本灰になる頃、隆一の肩を借りて塚本がゆっくりと立ち上がった。仲間達に支えられながらも、自分の足で歩き始める。誰も口を開かない。月も櫻も黙したまま、ただそこに在った。そのまま駐車場を出て行こうとする塚本。通りに出る寸前で、軽い調子で投げた一樹の言葉を受けて、その背中が止まる。

「また遊びに来いよ」

 半分だけ振り向いた塚本の横顔がくしゃっと崩れた。

「ゆっくり咲きゃあいい」

 隣で聞こえたきむ爺の呟きを、煙が暈【ぼか】して夜に溶かしていく。

 見上げれば、黒には短い薄墨の天幕に、針で刺した程の小さな星達。月の光を彩るにはまだ頼り無い莟【つぼみ】達が、咲いて誇れる日を待っていた。

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